玉ノ海 梅吉(たまのうみ うめきち、1912年11月30日 - 1988年10月23日)は、長崎県東彼杵郡(現:長崎県大村市)出身の元大相撲力士。本名は蔭平 梅吉(かげひら うめきち)。1912年11月30日に長崎県東彼杵郡(現:長崎県大村市)で生まれる。当初から近眼だったために家業である真珠の養殖作業を継ぐことが出来ず、既に立派な体格をしていたことから宮相撲で活躍し、力士を志すようになる。1930年に同郷の肥州山栄を頼って上京したものの、既に巡業へ出発した後だったために入門は叶わなかったが、偶然そばを通りかかった玉錦三右エ門から見出され、二所ノ関部屋へ入門した。四股名は故郷・長崎県の名産である真珠をイメージして「海ノ玉」または「玉ノ海」で迷ったが、後者を選択したと後年になって語った。筋肉質の体格で足腰が強く右腕の怪力も有名で、腕を伸ばしたまま大人を提げたり、宴席では右の拳に小柄な芸者を載せて持ち上げたほどだったという。右で前褌を取ってから左で相手の右手首を掴んだ上で立ち腰で出ようと試み、土俵際で残されたなら右から捻る力任せかつ強引な取り口で、1935年1月場所で新入幕を果たした。玉ノ海の取り口は大関級と言われながら1937年5月場所で小結、1938年1月場所では関脇へ昇進したが、最大の武器である右腕を負傷したことで取組を棄権、これによって負け越しとなり、平幕へ陥落した。それでも同年5月場所は武藏山武・男女ノ川登三を敗って金星を奪うなど右腕の怪力ぶりは順調に回復し、再び三役昇進を果たそうと日々稽古を行っていた。ところが、同年12月4日に年寄・二所ノ関を二枚鑑札で襲名していた玉錦三右エ門が急性盲腸炎で現役死亡したため、急遽、年寄・二所ノ関を二枚鑑札で継承した。これ以降、玉ノ海は現役力士と親方業の兼務に多忙を極めることとなるが、1939年1月場所9日目には、同場所4日目に連勝が69で止まったばかりの双葉山定次に勝利し、玉錦三右エ門の霊前に報告したことが話題となった。1941年1月場所は前頭6枚目で11勝4敗、同年5月場所は小結に昇進して13勝2敗(史上初となる小結力士の13勝)、1942年1月場所では関脇に返り咲いて10勝5敗の好成績を収めたことで大関への昇進が目前だったが、親方業との兼務による疲労から感冒に感染してしまい、昇進は果たせなかった。以前から「実力は大関」と周囲から認められていたが、玉錦の急逝によって部屋を引き継がなければならない立場だったことで多忙を極め、その不運で昇進できなかったことから「玉錦が生きていれば(玉錦の稽古によって)間違いなく(大関に)なっていた」と言われていた。1945年11月場所を最後に現役を引退し、親方専任として後進の指導に当たったが、第二次世界大戦が激化していた1943年後半から当時の部屋経営の生命線となる一門別巡業がままならず、100人近くの弟子を抱える二所ノ関部屋は食糧事情の悪化に苦しんでいた。そんな時、当時の兵庫県知事が「午前中は勤労奉仕、午後は慰問相撲を行えば衣食住の面倒を見る」と持ちかけたため玉ノ海は兵庫県尼崎市を部屋の本拠地にする決心をした。部屋を旅館としても運営する、力士達に副業を提案するなど経営に尽力していた。幕内まで昇進した者には内弟子を採用して分家独立することを奨励するなど育成面でも画期的な方針を打ち出した。兵庫県西宮市で二所ノ関部屋単独の勤労奉仕を行っていたところ、捕虜を微用したとして戦後直後に戦犯容疑で逮捕された。すぐに釈放されたものの、玉ノ海としてはどういう理由で戦犯容疑にかけられたのかがよくわからず、騒動に際して日本相撲協会から説明を求められても何も答えられなかった。この時の協会の対応に冷遇を感じたため、部屋を佐賀ノ花勝巳に譲って1951年に廃業した。廃業後は戦争によって部屋を再建するまでの間に、兵庫県武庫川で妻が経営する洋裁学校の校長を務めていたが、日本放送協会の大相撲解説者に転身することが決定、解説者としての名は「玉の海梅吉」とした。玉ノ海は解説者の仕事が決まった時、一度相撲の社会から離れて戻りにくく、性格的にも解説者に向かないと感じていた。だが、久しぶりに国技館に入ろうとすると双葉山と出会うなり右四つがっぷりになり、この無言の歓迎に支えられて再び相撲界と接することにした。現役時代に四股名が掲載された番付では、梅の字は木と毎を横ではなく縦に並べて書かれていたが、解説者としての名では通常の「梅」を用いた。独特の塩辛い声で各力士へ批評を繰り広げるが、その一方でユーモアあふれるコメントはお茶の間の相撲ファンに親しまれた。解説者として様々な批評と名台詞で人気を博したが、70歳を迎えた際に「相撲を忘れてのんびり暮らしたい」として、1982年11月場所を最後に解説者を勇退した。同年大晦日に行われた第33回NHK紅白歌合戦では審査員を務めるなど、解説者を勇退後もテレビで健在ぶりを見せていた。その後は兵庫県尼崎市で悠々自適の日々を過ごしていたが、1988年10月23日に死去、。この日は奇しくも、玉ノ海が晩年を過ごした兵庫県で生まれた朝潮太郎も没している。 報知新聞(現・スポーツ報知)『切り捨てご免』 本人の記述
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。