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敷香町

敷香町(しすかちょう)は、日本の領有下において樺太に存在した町。当該地域の領有権に関する詳細は樺太の項目を、現状に関してはサハリン州の項目を参照の事。現在、この地域にはロシア連邦がサハリン州ポロナイスク市を設置している。ただし、敷香町とポロナイスク市の領域は一致しない。現状については、「ポロナイスク」の項目を参照。南樺太北部の中心都市の一つ。支庁所在地であった。敷香の読み方については、しすか、しきかなど様々な説がある。近年までNHKラジオ第2放送の気象通報ではしすかと呼ばれていた。内務省の告示ではしくかとされている。「敷香」の語源は、一説に樺太アイヌ語で「シシ・トゥカリ(sis-tukari)」(山の手前、北海道アイヌ語では「シリ・トゥカリ(sir-tukari)」)であると言う。日本の領有下においては、国境に面する事から軍事上重要な地域とみなされており、第二次世界大戦の前後には上敷香を中心とする町内各地に陸軍部隊が駐屯していた。また、上敷香には海軍の飛行場も存在していた。第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月には、南樺太へソビエト連邦軍が侵攻し、日本陸軍部隊との間で激しい戦いが行われ、敷香町も戦渦に巻き込まれた(樺太の戦い)。敷香には日本軍の第88師団の戦闘指揮所が置かれ、参謀の一部が進出してきて戦闘と避難の指示にあたった。古屯など北部の国境付近で激しい戦闘が続くなか、上敷香は8月17日に緊急疎開命令が出され、全住民は日本軍のトラックによって輸送されて、市街地には火が放たれた。その後、ソ連軍機20機による空襲も続き、2500戸の上敷香市街は全焼した。敷香からも8月13日以降に鉄道と日本軍のトラックによる避難が始まっていたが、各地から流入する避難民も多く、町内は混み合った。国境地帯で抵抗していた日本軍が停戦命令で武装解除されたことから、20日には敷香にも総引揚が発令され、残った民間人は助役らに率いられて徒歩で知取町方面へ避難を開始した。日本軍は内路川や知取川の橋などを破壊してソ連軍を阻止する計画であったが、避難民にも害が及ぶために破壊も戦闘も断念している。敷香市街は日本軍自身によって焼き払われ、大部分が焼失したとされるが、この火災は住民が避難する際の混乱による失火が原因であるとする引き揚げ者の証言もある。樺太の戦いによる敷香住民の死者は、厚生省資料によると約70人とされている。敷香支庁管内の最北に位置する町村の一つであり、また当時は日本最北の町であった。町の北端は当時の国境(北緯50度線)である。樺太の中心都市・豊原市からは鉄道で7時間近くかかった。町内には多来加地方を中心にウィルタやニヴフ等の先住民族が多く居住しており、オタス(オタスの杜)には樺太で唯一の先住民族のための学校が設置されていた。幌内低地にはツンドラ地帯が広がり、幌内川が流れる。幌内川は、その源流を北緯50度以北の北樺太に発し多来加湾に注ぐ大河で、その全長は320km。当時は日本唯一の国際河川とも呼ばれていた。幌内川河口の東には、幌内低地東部の大部分を占める多来加湖が広がっている。面積180km²で、当時は国内第三位の広さを持つ湖沼であった。以下の学校一覧は1945年(昭和20年)4月1日現在のもの。

出典:wikipedia

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