『伊豆の踊子』(いずのおどりこ)は、川端康成の短編小説。川端の初期の代表作で、伊豆を旅した19歳の時の実体験を元にしている。孤独や憂鬱な気分から逃れるため伊豆へ一人旅に出た青年が、修善寺、湯ヶ島、天城峠を越え湯ヶ野、下田に向かう旅芸人一座と道連れとなり、踊子の少女に淡い恋心を抱く旅情と哀歓の物語。孤児根性に歪んでいた青年の自我の悩みや感傷が、素朴で清純無垢な踊子の心によって解きほぐされていく過程と、彼女との悲しい別れまでが描かれている。日本人に親しまれている名作でもあり、今までに6回映画化され、ヒロインである踊子・薫は田中絹代から吉永小百合、山口百恵まで当時のアイドル的な女優が演じている。1926年(大正15年)、雑誌『文藝時代』1月号(第3巻第1号)に「伊豆の踊子」、2月号(第3巻第2号)に「続伊豆の踊子」として分載された。単行本は翌年1927年(昭和2年)3月20日に金星堂より刊行された。なお、刊行に際しての校正作業は梶井基次郎がおこなった。翻訳版はエドワード・サイデンステッカー訳(英題:The Izu Dancer)、Eiichi Hayashi、J. Martin Holman訳(英題:The Dancing Girl of Izu)をはじめ、ドイツ(独題:Die kleine Tänzerin von Izu、Die Tänzerin von Izu)、中国(中題:伊豆的舞女、伊豆的舞孃)、ポルトガル(葡題:A pequena dançarina de Izu)、イタリア(伊題:La danzatrice di Izu)、韓国(韓題:伊豆의舞妓)、スペイン(西題:La danzarina de Izu)、オランダ(蘭題:De danseres uit Izu)、ロシア(露題:Танцовщина из Иззу)、フランス(仏題:La danseuse d'Izu)など世界各国で行われている。20歳の一高生の「私」は、自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れず、1人伊豆への旅に出る。「私」は、湯ヶ島の道中で出会った旅芸人一座の1人の踊子に惹かれ、天城峠のトンネルを抜けた後、彼らと一緒に下田まで旅することになった。一行を率いているのは踊子の兄で、大島から来た彼らは家族で旅芸人をしていた。天城峠の茶屋の老婆から聞いていた旅芸人を見下げた話から、夜、湯ヶ野の宿で踊子が男客に汚されるのかと「私」は心配して眠れなかったが、翌朝、朝湯につかっている「私」に向って、川向うの湯殿から無邪気な裸身を見せて大きく手をふる踊子の幼い姿に、「私」の悩みはいっぺんに吹き飛び、「子供なんだ」と自然に喜びで笑いがこぼれた。「私」は、旅芸人一行と素性の違いを気にすることなく生身の人間同士の交流をし、人の温かさを肌で感じた。そして、踊子が「私」に寄せる無垢で純情な心からも、「私」は悩んでいた孤児根性から抜け出せると感じた。下田へ着き、「私」は踊子とその兄嫁らを活動(映画)に連れて行こうとするが、踊子だけしか都合がつかなくなると、母親(兄嫁の母)は踊子の懇願をふりきり、活動行きを反対した。次の日に東京へ帰らなければならない「私」は、夜1人だけで活動に行った。暗い町で遠くから微かに踊子の叩く太鼓の音が聞えてくるようで、わけもなく涙がぽたぽた落ちた。別れの旅立ちの日、昨晩遅く寝た女たちを置いて、踊子の兄だけが「私」を下田港の乗船場まで送りに来た。乗船場へ近づくと、海際に踊子がうずくまって「私」を待っていた。2人だけになった間、踊子はただ「私」の言葉にうなずくばかりで一言もなかった。「私」が船に乗り込もうと振り返った時、踊子はさよならを言おうとしたようだが、もう一度うなずいて見せただけだった。船がずっと遠ざかってから、踊子が艀で白いものを振り始めた。伊豆半島の南端が後方に消えてゆくまで、一心に沖の大島を眺めていた「私」は、船室の横にいた少年の親切を自然に受け入れ、泣いているのを見られても平気だった。「私」の頭は「澄んだ水」のようになり、流れるままの涙がぽろぽろと零れて、後には「何も残らないような甘い快さ」だった。年齢は数え年川端康成が伊豆に旅したのは、一高入学の翌年1918年(大正7年)の秋で、寮の誰にも告げずに出発した約8日(10月30日から11月7日)の初めての一人旅であった。川端はそこで、岡田文太夫(松沢要)こと、時田かほる(踊子の兄の本名)率いる旅芸人一行と道連れになり、幼い踊子・加藤たみ(松沢たみという説もある)と出会い、下田港からの帰京の賀茂丸では、蔵前高工(現・東京工大)の受験生・後藤孟と乗り合わせた。踊子の兄とは旅の後も文通があり、「横須賀の甲州屋方 時田かほる」差出人の川端宛て(一高の寄宿舎・南寮4番宛て)の年賀状(大正7年12月31日消印)が現存している。なお、踊子・たみのことは、旅の翌年に書かれた川端の処女作『ちよ』(1919年)の中にも部分的に描かれている。川端は、旅から約7年経た後に『伊豆の踊子』を書いた。川端は自作について、〈「伊豆の踊子」はすべて書いた通りであつた。事実そのままで虚構はない。あるとすれば省略だけである〉とし、〈私の旅の小説の幼い出発点である〉と述べている。また、旅に出た動機については以下のように語っている。川端は、幼少期に身内をほとんど失っており、1歳7か月で父親、2歳7か月で母親、7歳で祖母、10歳で姉、15歳で祖父が死去し孤児となるという生い立ちがあったため、作中に〈孤児根性〉という言葉が出てくる。また当時、旅芸人は河原乞食と蔑まれ、作中にも示されているように物乞いのような身分の賤しいものとみなされていた。しかし、そういった一般的な見方を離れた〈好意と信頼〉が彼らと川端の間に生れた。伊豆の旅から4年後の1922年(大正11年)の夏も湯ヶ島に滞在した川端は、踊子たちとの体験や、大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)の寄宿舎での下級生・小笠原義人との同性愛体験を『湯ヶ島での思ひ出』という素稿にまとめた。これは前年の1921年(大正10年)に、伊藤初代(本郷区本郷元町のカフェ・エランの元女給)との婚約破談事件で傷ついた川端が、以前自分に無垢な好意や愛情を寄せてくれた懐かしい踊子・加藤たみや小笠原義人を思い出し、初代から受けた失恋の苦しみを癒すためであった。この原稿用紙107枚の『湯ヶ島での思ひ出』が元となり、『伊豆の踊子』(1926年)、『少年』(1948年-1949年)へ発展していった。ちなみに、川端はカフェ・エランに通い始めた頃、店で眩暈を起して奥の部屋で寝かせてもらい、ちょうどその時に伊藤初代が銭湯から戻り隣室で着替えをする後ろ姿を見て、〈こんなに子供だつたのか〉と、その思いがけない幼い裸身に驚くが、その瞬間、約1年前に湯ヶ野温泉で見た踊子・加藤たみの〈少女の裸身〉を〈子供なんだ〉と思ったことを想起している(詳細は伊藤初代#一高生・川端康成との出会いを参照)。川端は最初の伊豆の旅以来、田方郡上狩野村湯ヶ島1656番地(現・伊豆市湯ヶ島1656-1)にある「湯本館」に1927年(昭和2年)までの約10年間毎年のように滞在するようになるが、1924年(大正13年)に大学を卒業してからの3、4年は、滞在期間が半年あるいは1年以上に長引くこともあった。単行本刊行の際の作業をしている頃、湯ヶ島へ転地療養に来た梶井基次郎に旅館「湯川屋」を紹介し、校正をやってもらったが、それを契機に梶井やその同人の淀野隆三らと親しく交流するようになった。『伊豆の踊子』は川端康成の初期を代表する名作というだけでなく、川端作品の中でも最も人気が高く、その評論も膨大な数に上る。それらの論評は、様々なニュアンスの差異を持ちながら川端の孤児の生い立ちと青春体験の視点、伊藤初代との婚約破談事件との絡みから論考するものや、主人公の語りの構造の分析から作品世界を論じるものなど多岐にわたっているが、川端という作家を語る際の、この作品の持つ重みや大きさへの認識はみな共通している。竹西寛子は、『伊豆の踊子』は川端作品の中では比較的爽やかなもので、そこでは「自力を超えるものとの格闘に真摯な若者だけが経験する人生初期のこの世との和解」がかなめになっているとし、この作品が「青春の文学」と言われる理由を、「この和解の切実さ」にあると解説している。そして別れの場面の〈私〉の涙は「感傷」ではなくて、それまであった「過剰な自意識」が吹き払われた表われであり、それゆえに〈私〉が、少年の親切を自然に受け入れ、融け合って感じるような経験を、読者もまた共有できうると考察している。奥野健男は、川端が幼くして肉親を次々と亡くし、死者に親しみ、両親の温かい庇護のなかった淋しい孤児の生い立ちがその作風に影響を及ぼしていることを鑑みながら、川端の心にある、「この世の中で虐げられ、差別され、卑しめられている人々、特にそういう少女へのいとおしみというか、殆んど同一化するような感情」が、文学の大きなモチーフになっているとし、そういった川端の要素が顕著な『伊豆の踊子』を、「温泉町のひなびた風土と、日本人の誰でもが心の底に抱いている(そこが日本人の不思議さであるのだが)世間からさげすまれている芸人、その中の美少女への殆んど判官びいきとも言える憧憬と同一化という魂の琴線に触れた名作」と高評している。そして芸人が徳川時代に「河原者」と蔑まれた反面、白拍子を愛でた後白河法皇が『梁塵秘抄』を編纂したように、古くから芸人と上流貴族とは「不思議な交歓」があり、能、狂言、歌舞伎などが上流階級にとりいられてきた芸能史を奥野は解説しつつ、『伊豆の踊子』は、そういった「芸人に対する特別のひいき、さらには憧憬という日本人の古来からの心情」が生かされ、その「秘密の心情」は「日本の美の隠れた源泉」であると論じている。北野昭彦は、この奥野の論を、数ある『伊豆の踊子』論の中でも日本の芸能史、「旅芸人フォークロア」をよく踏まえているものとして敷衍し、漂流者の芸人と定住者との関係性、マレビトである漂泊芸人の来訪が「神あるいは乞食」の訪れとして定住民にとらえられ、芸能を演ずる彼らの姿に「神の面影」を認めながらも「乞食」と呼ぶこともためらわない両者の関係性に発展させた論究を展開しながら、「異界」への入り口の象徴である〈峠〉や〈橋〉で旅芸人一行(遍歴民)と再会した〈私〉がトンネルを抜け、彼らと同行することで「遍歴的人生の疑似体験」をするが、芸と旅が日常である彼らと、それが非日常である〈私〉とは「別の時空を生きながら道連れになっている」と解説している。また北野は、この物語が進行するにつれ、主人公が「娘芸人のペルソナを外した少女の〈美〉」自体を語ることが主となり、小説のタイトル通り、踊子像そのものを語る展開になることに触れ、踊子の〈私〉に対するはにかみや羞らい、天真爛漫な幼さ、花のような笑顔、〈私〉の袴の裾を払ってくれたり下駄を直してくれたりする甲斐甲斐しさなどを挙げながら、踊子の何気ない言葉で、〈私〉が「本来の自己を回復していたこと」に気づくと解説し、「〈私〉の踊子像」がその都度「多面的に変容する」ことの意味をユングの『コレー像の心理学的位相について』を引きつつ説明している。三島由紀夫は、川端の全作品に通じる重要なテーマである「処女の主題」の端緒があらわれている『伊豆の踊子』において、〈私〉が観察する踊子の様々な描写の「静的な、また動的なデッサンによつて的確に組み立てられた処女の内面」が「一切読者の想像に委ねられてゐる」性質を指摘し、この特性のため、川端は同時代の他作家が陥ったような「浅はかな似非近代的心理主義の感染」を免かれていると考察しつつ、「処女の内面は、本来表現の対象たりうるものではない」として、以下のようにその「処女の主題」を解説している。勝又浩は、物語の導入部の天城峠の茶屋で〈到底生物とは思へない山の怪奇〉のような醜い老人の姿が描かれる意味を、『雪国』で主人公が〈トンネル〉を抜けて駒子に会うように、『伊豆の踊子』でも踊子に会うために越えなければならなかった「試練」であり、「異界」への入り口である天城峠の〈暗いトンネル〉を抜けることは「タイムマシンとしての儀式」を暗示させるとして、こういった川端文学の幻想的な一面が泉鏡花や永井荷風とも異なる点を説明して、幻想世界を伝える「媒介者」(主人公)が、鏡花の場合は物語世界同様「稗史的なまま」で、荷風は「近代の住人」であり「知識人、全能的存在」だが、川端の場合は川端自身が「異界」の人物であり「幽霊のような人物」「まれびと」だとしている。そして勝又は、この小説が表面的には「孤児意識脱却の物語」であるにもかかわらず、最後にまた老人が登場し、3人の孤児を道連れにすることを村人から合掌で懇願される箇所に、川端の「孤児の宿命」が垣間見えるとし、「〈孤児根性〉、〈息苦しい〉孤児意識からは解放されたかもしれないが、孤児としての宿命そのものは決して彼を解き放ちはしなかったはず」だと解説している。また、三島由紀夫が川端を「永遠の旅人」と称したことや、川端の処女作から諸作に至るまで見られる心霊的な要素を鑑みながら、こうした「この世に定住の地を持たない」川端が、トンネルを越え「まれびととなって人界を訪れ」て、「踊子の純情」をより輝かせられる特異性を考察している。橋本治は恋愛的な観点から『伊豆の踊子』を捉え、主人公の青年が最後に泣き続ける意味について、「いやしい旅芸人」と「エリートの卵」という「身分の差」の垣根さえも越え、冷静に相手をじっと観察する余裕もなくなって「ただその人にひれ伏すしかなくなってしまう、恋という感情」を主人公が内心認めたくなく、冷静に別れたつもりが、遠ざかる船に向ってはしけから一心に白いハンカチを振る踊子の正直な姿を見て、「プライドの高い〈私〉は、ついに恋という感情を認めた」と解説している。そして橋本は、主人公が「ただ彼女といられて幸福だった」という真実の感情を認め、自分と同じエリートコースの少年を「踊子とつながる人間でもあるかのように」思い、その好意に包まれ終わる結末は、「恋という垣根を目の前にして、そして越えられるはずの垣根に足を取られ、自分というものを改めて見詰めなければどうにもならないのだという、苦い事実」を突きつけられ、その「青春の自意識のつらさ」を描いているため『伊豆の踊子』は「永遠の作品」となっていると評している。川嶋至(細川皓)は、『伊豆の踊子』の底流に、みち子(伊藤初代の仮名)の「面影」があるとして、初代から婚約解消された川端の動転を綴った私小説『非常』との関連性を看取し、川端が初代の元へ向かう汽車の中で別れの手紙を一心に読み返している時に落とした財布やマントを拾ってくれ、〈寝ずの番〉までしてくれた〈学生〉(高校の受験生)の好意に甘えて身を委ねる場面と、下田港で踊子と別れた帰りの汽船で、〈親切〉な〈少年〉のマントに包まれて素直に泣く共通項を指摘しながら、「一見素朴な青春の淡い思い出」を描いた『伊豆の踊子』は、「実生活における失恋という貴重な体験を代償として生まれた作品」だとして、踊子は、「古風な髪を結い、旅芸人に身をやつした、みち子に他ならなかった」と考察している。ちなみに、川端本人はこの川嶋至の論考に関し、〈まつたく作者の意識にはなかつた〉として、草稿『湯ヶ島での思ひ出』を書いた時には伊藤初代のことが〈強く心にあつた〉が、『伊豆の踊子』を書いた時に初代は〈浮んで来なかつた〉としている。そして『非常』での汽車の場面との類似を指摘されたことについては、以下のように語っている。林武は、川端が伊豆で踊子に会った頃には、中学時代の後輩で同性愛的愛情を持っていた小笠原義人と文通が続いていたことと、草稿『湯ヶ島での思ひ出』での踊子の記述が、清野少年(小笠原義人)の「序曲」的なものになっていることから、『伊豆の踊子』での「踊子」像には小笠原少年の心象が「陰画」的に投影されているとしている。主人公と踊子が乗船場で別れる場面に以下のような一文があるが、主語が省かれているため、〈さよなら〉を言おうとして止めて、ただ〈うなづいた〉のが主人公と踊子のどちらであるのか、川端の元へ読者からの質問が多数寄せられたという問題点があった。これについて川端は、主語は〈踊子〉であるとし、以下のように答えている。そして川端は、問題の箇所をよく読み返してみると読者に誤解を与えたのも、主語を省いたため惑わせることになったかもしれないとしながらも、以下のように説明している。なお、英訳ではこの部分の主語が、“I”(私)と誤訳されてしまっている。そして川端はあえて新版でも、この主語を補足しなかった理由については、その部分が気をつけて読むと、〈不用意な粗悪な文章〉で、〈主格を補ふだけではすまなくて、そこを書き直さねばならぬ〉と思えたことと、『伊豆の踊子』が〈私〉の視点で書かれた物語であることの説明として以下のように語っている。高本條治は、この踊子の主格問題に関する川端の、〈全体をやぶる表現〉という言及について、〈私〉が見た風に書くという「語りの視点」を全篇通して一貫させるべきだったというのが川端の「反省的自覚」だったとし、この小説を軽く読み流すのではなく、〈私〉に同化し感情移入しながら「解釈処理」を続けた読者にとっては、物語の終盤でいきなり、たった一箇所だけ、「語彙統語構造に表れた結束性の手がかりに従う限りにおいて、〈私〉以外の人物と同化した視点で語られたと解釈できる部分」が混入しているのは戸惑いであり、その「語りの視点」の不整合性に気づく認知能力を持つ読者にとって、「川端が犯した不用意な視点転換」は、重大な解釈問題として顕在化されると論じている。三川智央はこれに比して、やや違った論点からこの視点転換問題をみて、通常の語り手としての〈私〉の次元でならば、問題個所は、「(踊子が)何かを言おうとしたようだが、……」あるいは「別れのことばを言おうとしたようだが……」という風に推測的な文言になるはずだとし、川端がほとんど無意識的に〈(踊子は)さよならを言はうとした〉と断定表現したのは、主人公の〈私〉が一種の「狂気」の状態にあり、「踊子との間に暴力的ともいえる一方的なコミュニケーションを夢想しているにほかならない」と解説しながら、このことは同時に、物語世界内の〈私〉と、「語り手である〈私〉の自己同一性の崩壊=〈私〉そのものの崩壊」をも意味していると論考している。そして三川は、この場面では、踊子との「離別」と共に、「まるでそれを阻止するかのように〈私〉と踊子の「心理的な一体化」が示されるとし、それはあくまで「現実世界の解釈コードでは認識不能な『事実』」で、「〈私〉の踊子に対する一方的な一体化の夢想」は「〈私〉の意識の肥大化と『他者』である踊子の抹殺」が前提となっているが、読者側はその〈私〉の「暴力性」を「解釈コードの組み替え」により、「抒情的空間」といったものとして「物語空間を辛うじて受け入れることになる」と考察しつつ、通常の意味での「語り手」という存在を打ち消してしまう作品自体の不安定な構造を支えている力を、「互いに異なる志向性を帯びた複数の《語り》の葛藤によって生じるダイナミズム=《語り》の力」と呼び、以下のように諭をまとめている。踊子たちが通った道は、「踊子コース」として散策できるようになっており、静岡県賀茂郡河津町の河津駅から修善寺駅行バスで国道414号(下田街道)の水生地下バス停で降り、本谷川(狩野川)沿いに杉やブナが繁る林の旧街道をしばらく歩くと踊子橋を過ぎたあたりのわさび沢の側に文学碑がある。この文学碑には、川端の毛筆書きによる〈道がつづら折りになつて、いよいよ天城峠に近づいたと思ふ頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい速さで麓から私を追つて来た。…〉という作品の冒頭部分が刻まれており、左側の碑面に川端の銅版製のレリーフも設置されている。この文学碑は、1981年(昭和56年)5月1日に建てられ除幕式が行われた。そこから天城トンネルを抜け河津川沿いの道を下っていくとある湯ヶ野温泉の旅館「福田屋」の隣にも文学碑がある。こちらの文学碑は、川端存命中の1965年(昭和40年)11月12日に建立された。碑には川端の直筆で、〈湯ヶ野までは河津川の渓谷に沿うて三里余りの下里だつた。峠を越えてからは、山や空の色までが南国らしく感じられた。…〉の一節が刻まれており、旅館の入口にはブロンズの踊子像もある。川端は、この「福田屋」側の文学碑の除幕式で、作中に登場する受験生〈少年〉のモデルだった後藤孟(再会当時65歳)と47年ぶりに再会した。後藤孟は「賀茂丸」で川端と会った当時のことを以下のように述懐している初景滝そばには「踊り子と私」というブロンズ像もあり、道の駅天城越えには文学博物館(昭和の森会館)がある。1981年(昭和56年)10月1日より、国鉄(1987年4月1日以降JR東日本)伊豆急線・伊豆箱根鉄道線直通特急列車の名称に、「踊り子」号の名称が充てられた。また、東海自動車(1999年4月1日以降は中伊豆東海バス)のボンネットバスの愛称には、「伊豆の踊子号」が充てられるなど、「踊子」は伊豆の地で愛称化されている。映画においては、一部の版で、おきみなどの原作にない登場人物が設定されるなど、原作との違いがある。
出典:wikipedia
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