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鈴木貫太郎

鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日(慶応3年12月24日) - 1948年(昭和23年)4月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級・栄典は海軍大将従一位勲一等功三級男爵。海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長(第8代)などの顕職を歴任した。予備役編入後に侍従長に就任、さらに枢密顧問官も兼任した。二・二六事件において襲撃されるが一命を取り留めた。枢密院副議長(第14代)、枢密院議長(第20・22代)を務めたあと、小磯國昭の後任として内閣総理大臣(第42代)に就任した。一時、外務大臣(第70代)、大東亜大臣(第3代)も兼任している。大日本帝国陸軍の反対を押し切って太平洋戦争を終戦に導いた。1868年(慶応3年)、和泉国大鳥郡伏尾新田(現在の大阪府堺市中区伏尾・関宿藩久世広周の飛び地)に関宿藩士で代官の鈴木由哲と妻のきよの長男として生まれる。1871年(明治4年)に本籍地である千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)に居を移す。1877年(明治10年)、群馬県前橋市に転居し、厩橋学校、前橋中学、攻玉社を経て、1884年(明治17年)に海軍兵学校に入学(14期)。日清戦争に従軍。1898年(明治31年)、海軍大学校を卒業。鈴木は生涯に2度の暗殺未遂を経験している(二・二六事件、終戦時の宮城事件)が、幼い頃から何度も死にそうな目にあった。3歳のとき暴走してきた馬に蹴られかけたり、魚釣りをしていて川に落ちたり、海軍に入ってからは夜の航海中に海に落ちたりしたが、その度に奇跡的に助かった。1888年(明治21年)に、旧会津藩士・大沼親誠の娘・とよと結婚した。とよの姉は出羽重遠夫人である。当時の海軍では旧薩摩藩出身者が優遇され、鈴木のような旧幕府系の者は進級が遅かった。ドイツ駐在中の1903年(明治36年)、鈴木が海軍の露骨な差別にうんざりして辞めようとしたとき、「日露関係が緊迫してきた、今こそ国家のためにご奉公せよ」という手紙が父親から届いた。鈴木はその手紙で辞職を思いとどまる。同年末に日本海軍は対ロシア戦のため、アルゼンチンの発注でイタリアにおいて建造され竣工間近であった装甲巡洋艦「リバタビア」を急遽購入、「春日」と命名し鈴木を回航委員長に命じた。「春日」とその僚艦「日進」が日本に近付いた1904年(明治37年)2月、日本が仕掛ける形で日露戦争が始まった。日本に到着した鈴木はそのまま「春日」の副長に任命され、黄海海戦にも参加している。その後第五駆逐隊司令を経て、翌1905年(明治38年)1月に第四駆逐隊司令に転じ、持論だった高速近距離射法を実現するために猛訓練を行い、部下から鬼の貫太郎、鬼の艇長、鬼貫と呼ばれたが、自らの駆逐隊で敵旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」、戦艦「ナヴァリン」、「シソイ・ヴェリキィー」に魚雷を命中させるなどの大戦果を挙げ、日本海海戦の大勝利に貢献した。日露戦争後の海軍大学校教官時代には駆逐艦、水雷艇射法について誤差猶予論、また軍艦射法について射界論を説き、海軍水雷術の発展に理論的にも貢献している。この武勲により、功三級金鵄勲章を受章する。1914年(大正3年)、海軍次官となり、シーメンス事件の事後処理を行う。1923年(大正12年)、海軍大将となり、1924年(大正13年)に連合艦隊司令長官に、翌年海軍軍令部長に就任。1929年(昭和4年)に昭和天皇と皇太后・節子(貞明皇后)の希望で、予備役となり侍従長に就任した。鈴木自身は宮中の仕事には適していないと考えていた。鈴木が侍従長という大役を引き受けたのは、それまで在職していた海軍の最高位である軍令部長よりも侍従長が宮中席次にすると30位くらいランクが下だったが、格下になるのが嫌で天皇に仕える名誉ある職を断った、と人々に思われたくなかったからといわれる。宮中では経験豊富な侍従に大半を委ねつつ、いざという時の差配や昭和天皇の話し相手に徹し、「大侍従長」と呼ばれた。また、1930年(昭和5年)に、海軍軍令部長・加藤寛治がロンドン軍縮条約に対する政府の回訓案に反対し、単独帷幄上奏をしようとした際には、後輩の加藤を説き伏せ思い留まらせている。本来、帷幄上奏を取り次ぐのは侍従武官長であり、当の奈良武次が「侍従長の此処置は大に不穏当なりと信ず」と日記に記しているように、鈴木の行動は越権行為のおそれがあった。昭和天皇の信任が厚かった一方で、国家主義者・青年将校たちからは牧野伸顕と並ぶ「君側の奸」と見なされ、このあと命を狙われることになった。1936年(昭和11年)2月26日に二・二六事件が発生した。事件前夜に鈴木はたか夫人と共に駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの招きで夕食会に出席した後、11時過ぎに麹町三番町の侍従長官邸に帰宅した。午前5時頃に安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊が官邸を襲撃した。はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じた。鈴木は三発を左脚付根、左胸、左頭部に被弾し倒れ伏した。血の海になった八畳間に現れた安藤に対し、下士官の一人が「中隊長殿、とどめを」と促した。安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた妻のたかが「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った。安藤はうなずいて軍刀を収めると、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」と号令した。そしてたかの前に進み、「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、女中にも自分は後に自決をする意を述べた後、兵士を引き連れて官邸を引き上げた。反乱部隊が去った後、鈴木は自分で起き上がり「もう賊は逃げたかい」と尋ねた。たかは止血の処置をとってから宮内大臣の湯浅倉平に電話をかけ、湯浅は医師の手配をしてから駆けつけた。鈴木の意識はまだはっきりしており、湯浅に「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上に申し上げてください」と言った。声を出すたびに傷口から血が溢れ出ていた。鈴木は大量に出血しており、駆けつけた医師がその血で転んだという風説を生んだ。近所に住んでいた日本医科大学学長・塩田広重とたかが血まみれの鈴木を円タクに押し込み日医大飯田町病院に運んだが、出血多量で意識を喪失、心臓も停止した。直ちに甦生術が施され、枕元ではたかが必死の思いで呼びかけたところ、奇跡的に息を吹き返した。頭と心臓、及び肩と股に拳銃弾を浴び瀕死の重症だったが、胸部の弾丸が心臓をわずかに外れたことと頭部に入った弾丸が貫通して耳の後ろから出たことが幸いした。安藤輝三は以前に一般人と共に鈴木を訪ね時局について話を聞いており面識があった。安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人は西郷隆盛のような人だ。懐の深い大人物だ」と言い、後に座右の銘にするからと書を鈴木に希望し、鈴木もそれに応えて書を安藤に送っている。安藤が処刑された後に、鈴木は記者に「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べた。決起に及び腰であった安藤に対して磯部浅一は死ぬまで鈴木を憎み続け、獄中で残した日記で他の「君側の奸」たちとともに繰り返し罵倒している。1937年(昭和12年)1月、鈴木の生地に鎮座する多治速比売神社に二・二六事件での負傷からの本復祝としてたか夫人と参拝し「重症を負った時、多治速比売命が、枕元にお立ちになって命を救われました。そのお礼にお参りに来ました。」と語ったと、当時の宮司夫人等により伝えられている。1945年(昭和20年)4月、枢密院議長に就任していた鈴木は、戦況悪化の責任をとり辞職した小磯國昭の後継を決める重臣会議に出席した。構成メンバーは6名の総理経験者と内大臣の木戸幸一、そして枢密院議長の鈴木であった。若槻禮次郎、近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎らは首相に鈴木を推したが、鈴木は驚いて「とんでもない話だ。お断りする」と答えた。しかし既に重臣の間では昭和天皇の信任が厚い鈴木の首相推薦について根回しが行われていた。東條英機は、陸軍が本土防衛の主体であるとの理由で元帥陸軍大将の畑俊六を推薦し、「陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがある」と高圧的な態度で言った。これに対して岡田啓介が「陛下のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか。陸軍がそんなことでは戦いがうまくいくはずがないではないか」と東條を窘め、東條は反論できずに黙ってしまった。こうして重臣会議では鈴木を後継首班にすることが決定された。重臣会議の結論を聞いて天皇は鈴木を呼び、組閣の大命を下した。この時の遣り取りについては、侍立した侍従長の藤田尚徳の証言がある。「軍人は政治に関与せざるべし」という信念があったことなどからあくまで辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して、「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もうほかに人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と天皇は述べた。鈴木は自分には政治的手腕はないと思っていたが、天皇に「頼む」とまで言われそれ以上固辞しなかった。皇太后は天皇よりも30歳以上年上の鈴木に対し、「どうか陛下の親代わりになって」と語った。鈴木は非国会議員、江戸時代生まれという二つの点で総理大臣を務めた最後の人物となった。また満77歳2ヶ月での就任は、日本の総理大臣の就任年齢では最高齢の記録である(2015年1月現在)。鈴木は総理就任にあたり、メディアを通じて次のように表明した。鈴木の就任後まもなく亡くなったアメリカ大統領ルーズベルトの訃報を知ると、同盟通信社の短波放送により、「今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し今まで以上に強く戦います」という談話を世界へ発信している。1945年4月23日のTIME誌の記事では以下のように発言が引用されている "I must admit that Roosevelt's leadership has been very effective and has been responsible for the Americans' advantageous position today. For that reason I can easily understand the great loss his passing means to the American people and my profound sympathy goes to them."同じ頃、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーも敗北寸前だったが、ラジオ放送で対照的にルーズベルトを口汚く罵った。アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンは鈴木のこの放送に深く感動し、英国BBCで「ドイツ国民の皆さん、東洋の国日本にはなお騎士道精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固として存する。鈴木首相の高らかな精神に比べ、あなたたちドイツ人は恥ずかしくないですか」と題して声明を発表し、鈴木の武士道精神を称賛、鈴木の言葉は戦時下の世界に感銘を与えた。戦局が悪化し決戦態勢構築が進められていた1945年(昭和20年)6月9日、貴族院および衆議院本会議の演説で鈴木は徹底抗戦への心構えを述べる中でアメリカの「非道」に触れるに際し、1918年(大正7年)のサンフランシスコ訪問時に「太平洋は名の如く平和の洋にして日米交易のために天の与えたる恩恵である、もしこれを軍隊搬送のために用うるが如きことあらば、必ずや両国ともに天罰を受くべしと警告した」というエピソードを紹介した。2日後の衆議院の委員会で、質問に立った小山亮から「国民は詔勅にある『天佑』を信じて戦いに赴いているのであり、天罰を受けるなどという考えは毛頭持っていないだろう」として、演説での発言が国民に悪影響を与えるのではないかという疑念を打ち消すような釈明を求められた。これに対する鈴木の答弁(発言を後から取り消したため会議録では抹消されている)に議場は紛糾し、その後の再度の鈴木の釈明に「これでは内閣に信を置けない」として小山は質問を打ち切り、退席する事態となった(天罰発言事件)。議会召集に最初から反対していた和平派の海軍大臣・米内光政は内閣を反逆者扱いする議会に反発して閉会を主張するとともに辞意を表明、内閣は瓦解の危機に瀕した。抗戦派と目された陸軍大臣・阿南惟幾は、鈴木とともに米内を説得し、内閣瓦解をなんとか防いだ。この鈴木の国会演説に関して半藤一利は、鈴木が日本の立場(平和を愛する天皇と国家)を訴えて連合国の無条件降伏の主張を変えさせることが目的だったと記している。これに対し保阪正康は、鈴木の意図は天皇との暗黙の了解のもと、議会に真意を汲ませて和平へと国論を向ける助力とすることにあったと述べている。1945年(昭和20年)6月6日の最高戦争指導会議に提出された内閣総合企画局作成の『国力の現状』では、産業生産力や交通輸送力の低下から戦争継続がほとんどおぼつかないという状況認識が示されたが、「本土決戦」との整合を持たせるために「敢闘精神の不足を補えば継戦は可能」と結論づけられ、6月8日の御前会議で戦争目的を「皇土保衛」「国体護持」とした「戦争指導大綱」が決定された。この日の重臣会議で若槻禮次郎から戦争継続についての意見を尋ねられた時、鈴木は「理外の理ということもある。徹底抗戦で利かなければ死あるのみだ」と叫びテーブルを叩いた。このとき同席した東條英機は満足してうなずいたが、近衛文麿は微笑しており若槻が不審に思った。これは、東條ら戦争継続派に対する鈴木のカムフラージュと言われており、内大臣(木戸幸一)に会いに行くと、皇族をはじめ、自分たちの間では和平より道はもうないといふ事に決まって居るから、此事、お含み置きくださいといふ話。若槻さんは首相はどうなのですかと訊くと、勿論、和平説ですといふ内大臣の返事で、初めて近衛さんの微笑の謎が解けたといふ」という若槻の証言が残っている。前記の「天罰」発言がなされたのはその翌日であった。「戦争指導大綱」に従い、国民義勇戦闘隊を創設する義勇兵役法など決戦のための体制作りが進められた。7月に陸軍将校の案内で、鈴木は内閣書記官長の迫水久常とともに国民義勇戦闘隊に支給される武器の展示を見学したが、置かれていたのは鉄片を弾丸とする先込め単発銃、竹槍、弓、刺又などすべて江戸時代のしろもので、迫水が後年の回想(『機関銃下の首相官邸』)で「陸軍の連中は、これらの兵器を、本気で国民義勇戦闘隊に使わせようと思っているのだろうか。私は狂気の沙汰だと思った」と記すほどのものであった。こうした状況で木戸幸一と米内光政の働きかけにより、6月22日の御前会議でソ連に米英との講和の仲介を働きかけることが決定された。ソ連は日ソ中立条約の延長を拒否したが、条約は規定に従い1946年(昭和21年)春まで有効となっていた。「日本軍の無条件降伏」を求めたポツダム宣言にソ連が署名していなかったことも政府側に期待を持たせた。鈴木は「西郷隆盛に似ている」と語るなど秘書官の松谷誠らとともにソ連のヨシフ・スターリンに期待していた。一方でスターリンは、3週間前のポツダム会談においてアメリカ大統領トルーマンに、日本から終戦の仲介依頼があったことを明かし、「日本人をぐっすり眠らせておくのが望ましい」ため「ソ連の斡旋に脈があると信じさせるのがよい」と提案しており、トルーマンもこれに同意していた。ポツダム宣言発表翌日の7月27日未明、外務省経由で宣言の内容を知った政府は、直ちに最高戦争指導会議及び閣議を開き、その対応について協議した。その結果、外務大臣・東郷茂徳の「この宣言は事実上有条件講和の申し出であるから、これを拒否すれば重大な結果を及ぼす恐れがある。よって暫くこれに対する意見表示をしないで見送ろう。その間に対ソ交渉を進めソ連の出方を見た上で何分の措置をとりたい」という意見で合意し、政府の公式見解は発表しないという方針を取った。翌28日付の各紙朝刊では、「帝国政府としては、米・英・重慶三国の共同声明に関しては、何等重大なる価値あるものに非ずしてこれを黙殺するであろう」等の論評が付せられたものの、その他は宣言の要約説明と経過報告に終始し、扱いも小さなものであった。ところが、継戦派の梅津美治郎、阿南惟幾、豊田副武らが宣言の公式な非難声明を出すことを政府に強く提案し、これに押し切られる形で米内が「政府がポツダム宣言を無視するという声明を出してはどうか」と提案して認められた。28日午後におこなわれた記者会見において、鈴木は「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な價値あるものとは認めず默殺し、斷乎戰爭完遂に邁進する」というコメントを述べた。鈴木は、ポツダム宣言に対しては意見を特に言わない、との態度をとったつもりであり、「黙殺」という言葉についても「no comment(ノーコメント、大人びた態度でしばらく賛否の態度を表明しない)」という意図をこめていたが、翌日新聞各紙に「黙殺する」という言葉を大きく取り上げられ、結果的にこの発言が連合国側にポツダム宣言に対するreject(拒否)と解されたことは誤算となった。この「黙殺」は同盟通信社により「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、ロイターとAP通信では「reject(拒否)」と報道された。記者会見に出席した同盟通信国際局長の長谷川才次は、「政府はポツダム宣言を受諾するのか」という質問に対して鈴木が「ノーコメント」と回答したことをはっきり記憶していると戦後に述べている。また、鈴木の孫の哲太郎は1995年(平成7年)の8月のNHKラジオの戦後50年特集番組において、「祖父の本心は『ノーコメント』と言いたかったのだと思うが、陸軍の圧力で『黙殺』になってしまったのだろう。祖父は後で、あの『黙殺』発言は失敗だった、もっと別の表現があったと思うと漏らしていた」と語っている。ポツダム宣言に対する日本政府の断固たる態度を見たアメリカが日本への原子爆弾投下を最終的に決断したとの見方もある。鈴木自身は自叙伝のなかで、「(軍部強硬派の)圧力で心ならずも出た言葉であり、後々にいたるまで余の誠に遺憾とする点」であると反省している。高木惣吉海軍少将は米内に対して「なぜ総理にあんなくだらぬことを放言させたのですか」と質問したが、米内は沈黙したままで、鈴木のみが責をとった形となった。トルーマンの日記には7月25日に「この兵器(原爆)は日本に対して今日から8月10日までの間に用いられる」と記しており、鈴木の発言とは関わりがない。この7月25日は原爆投下の正式な日取りが決定された日で、長谷川毅は、トルーマンが日本のポツダム宣言拒否後に原爆投下を決定したというのは歴史的事実に反し、宣言発表前に原爆投下は既に決定されており、むしろ投下を正当化するためにポツダム宣言が出されたのだと述べている。一方で、同時期にポツダム宣言を受諾するよう促された鈴木が、内閣情報局総裁下村宏等に、「今戦争を終わらせる必要はない」との発言をしたという記録もある。また、トルーマンは「今のところ最後通牒に正式な返答はない。計画に変更はなし。原爆は、日本が降伏しない限り、8月3日以後に投下されるよう手配済みである」と述べており、原爆投下の決定は「黙殺」発言に影響を受けていないにせよ、原爆投下計画は、日本側の沈黙を受けてのものであることにかわりはない。8月6日の広島市への原子爆弾投下、9日のソ連対日参戦と長崎市への原子爆弾投下、15日の終戦に至る間、鈴木は77歳の老体を押して不眠不休に近い形で終戦工作に精力を尽くした。昭和天皇の希望は「軍や国民の混乱を最低限に抑える形で戦争を終らせたい」というものであり、鈴木は「天皇の名の下に起った戦争を衆目が納得する形で終らせるには、天皇本人の聖断を賜るよりほかない」と考えていた。8月10日未明から行われた天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)では、ポツダム宣言受諾を巡り、東郷茂徳が主張し米内光政と平沼騏一郎が同意した1条件付受諾と、本土決戦を主張する阿南惟幾が参謀総長・梅津美治郎と軍令部総長・豊田副武の同意を受け主張した4条件付受諾との間で激論がたたかわされ、結論がでなかった。午前2時頃に鈴木が起立し、「誠に以って畏多い極みでありますが、これより私が御前に出て、思召しを御伺いし、聖慮を以って本会議の決定と致したいと存じます」と述べた。昭和天皇は涙ながらに、「朕の意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である」と即時受諾案に賛意を示した。昭和天皇の聖断が下ったが、ポツダム宣言に記された国体に関する条文の解釈について、外務省と軍部の間で見解が分裂し、8月14日に再度御前会議が招集され天皇の聖断を再び仰ぐことになった。御前会議は8月14日正午に終わり、日本の無条件降伏が決まった。8月15日の早朝、佐々木武雄陸軍大尉を中心とする国粋主義者達が総理官邸及び小石川の私邸を襲撃し(宮城事件)、鈴木は警護官に間一髪救い出された。正午、昭和天皇の朗読による玉音放送がラジオで放送された。この日の未明、阿南惟幾が自刃した。同日、鈴木は天皇に辞表を提出し鈴木内閣は総辞職したが、東久邇宮内閣が成立する8月17日まで職務を執行している。鈴木一の述懐によると、生涯二度の暗殺の危機を生き延びた鈴木は、「軍人は政治に関わるべきではない」を信条としていた。敗戦の1年後1946年(昭和21年)のインタビューでは、「われは敗軍の将である。ただいま郷里に帰って、畑を相手にいたして生活しております」とコメントしている。1945年(昭和20年)12月15日に枢密院議長・平沼騏一郎が戦争犯罪容疑で逮捕されたため、鈴木は枢密院議長に再度就任した。1946年(昭和21年)1月、昭和天皇から御紋付木盃並びに酒肴料を下賜され、加えて特旨を以て宮中杖の携行を許された。6月3日、公職追放令の対象となったため、枢密院副議長・清水澄に議長を譲り辞職し、郷里・関宿町(現:野田市)に帰った。1948年(昭和23年)4月17日、肝臓ガンで死去、享年81。死の直前、「永遠の平和、永遠の平和」と、非常にはっきりした声で二度繰り返したという。関宿町の実相寺に葬られた。遺灰の中に二・二六事件の時に受けた弾丸が混ざっていた。遺品の多くは野田市の鈴木貫太郎記念館に展示されている。戦後、長男・一より多治速比売神社に東京で鈴木神社創建の話があり、鈴木の生まれ故郷で敬神の念が深かった多治速比売神社の境内が適しているということで、建立場所について当時の宮司に相談があったという。死後12年を経た1960年(昭和35年)8月15日に、最高位階である従一位を贈位されている。従一位を没時追賜した例は多いが、死去から年数を経て贈位するのは例が少ない。日本海海戦のときには、第四駆逐隊司令として、ロシアのバルチック艦隊の残存艦3隻を雷撃で撃沈した。そのため連合艦隊参謀・秋山真之から「1隻は他の艦隊の手柄にしてやってくれ」と言われた。第四駆逐隊の乗組員たちは、その後毎年5月27日の海軍記念日に、鈴木を囲んで当時の思い出や海軍の将来を語り合う「晴濤会」という会合を催していた。会員の一人であった荒城二郎(当時「朝霧」乗組、のち中将)は、「翁(鈴木)はこの集まりを毎年楽しみにしていた。首相在任中の1945年にも官邸に会場を用意していたほどだったが、さすがにこの時は空襲による灯火管制・交通途絶により中止となった」と述懐している。枢密院議長をしていた1943年(昭和18年)のこと、会議の席で海軍大臣・嶋田繁太郎が山本五十六の戦死(海軍甲事件。国民には秘匿されていた)を簡単に報告した。驚いた鈴木が「それは一体いつのことだ?」と問うと嶋田は「海軍の機密事項ですのでお答えできません」と官僚的な答弁をした。すると、普段温厚で寡黙な鈴木が「俺は帝国の海軍大将だ! お前の今のその答弁は何であるか!」(鈴木は予備役ながら軍籍があった)と大声で嶋田を叱責し、周囲にいた者はいまだ「鬼貫」が健在であることを思い知らされ驚愕したという。同じ頃、以前校長を務めた海軍兵学校を訪ね、当時校長だった井上成美に「井上君、兵学校の教育の効果が現れるのは20年後だよ、20年後!」と大声で言い、井上もわが意を得たりと大きく何度も頷いたという。井上は終始戦争反対派、校長に就任してからは兵学校の制度や因習を改正しのちに名校長と言われるようになるが、鈴木の言葉を傍らで聞いていた兵学校長付副官は、「井上さんの、『戦後』のために生徒を教育している真意を見透かして、ただこの言葉だけを言いに江田島まで来たんだと思う」と述べている。海軍の命令で学習院に軍事教練担当の教師として派遣された折に、教え子に吉田茂がいた。吉田は鈴木の人柄に強く惹かれ、以後も鈴木と吉田との交友は続き、吉田の総理就任後も鈴木に総理としての心構えを尋ねたと言われている。例えば、「吉田君、俎板の鯉のようにどっしり構えること、つまり負けっぷりをよくすることだよ」などといったことを伝えていたと言われている。1945年(昭和20年)8月14日の御前会議終了後、陸相・阿南惟幾は紙に包んだ葉巻の束を手に「終戦についての議論が起こりまして以来、私は陸軍の意見を代表し強硬な意見ばかりいい、お助けしなければならないはずの総理に対し、いろいろご迷惑をかけてしまいました。ここに慎んでお詫びいたします。ですがこれも国と陛下を思ってのことで、他意はございませんことをご理解ください。この葉巻は前線から届いたものであります。私は嗜みませんので、閣下がお好きと聞き持参いたしました」と挨拶にきた。鈴木は「阿南さんのお気持ちは最初からわかっていました。それもこれも、みんな国を思う情熱から出てきたことです。しかし阿南さん、私はこの国と皇室の未来に対し、それほどの悲観はしておりません。わが国は復興し、皇室はきっと護持されます。陛下は常に神をお祭りしていますからね。日本はかならず再建に成功します」と告げた。阿南は静かにうなずいて「私も、そう思います」と言って辞去した。鈴木は迫水久常に「阿南君は暇乞いにきたのだね」とつぶやいた。その数時間後、阿南は割腹自決した。阿南は鈴木の侍従長時代の侍従武官であり、そのときから鈴木の人柄に深く心酔していた。表面的には閣議や最高戦争指導会議で、鈴木と対立する強硬意見を言うことの多かった阿南であるが、鈴木への尊敬の気持ちはは少しも変わらず、陸軍部内の倒閣運動を押さえ込むことに見えない形で尽力したりしている。自分の意見と正反対の方向すなわち終戦の方へ流れがすすみはじめた頃、陸士同期の国務大臣・安井藤治に阿南は「どんな結論になっても自分は鈴木首相に最後まで事を共にする。どう考えても国を救うのはこの内閣と鈴木総理だと思う」と言ったという。この阿南の鈴木への深い敬意が、潜在的ではあるが、終戦への流れに大きな役割を果たしたといえる。漢籍に通じ、特に『老子』を終生愛読した。空襲で目ぼしい財産を失ってからも、孫が古書店で買い求めた『老子』を読んだ。内閣書記官長の迫水久常に「大国を治むるは小鮮を烹(に)るが如し」(国の政治というものは小魚を煮るようなもので、決して慌てて動いてはいけない)という『老子』の一節を贈り、終戦工作の要諦を示唆している。幼年に生地を去っているが、多治速比売神社への崇敬の念が深く中佐時代にも参拝したという。海軍中将鈴木貫太郎の名で「敬神崇祖」と書かれた大きな扁額が残されているが、現在は氏子参集殿に掲げられており、同文の扇面が複製され氏子に分けられた。また、大正12年の境内摂社稲荷社の本殿改築及玉垣新築に際して、海軍中将鈴木貫太郎の名で奉納した玉垣石が残されている。「正直に 腹を立てずに 撓まず励め」という遺訓は、母校である前橋市立桃井小学校の基本目標になっており、校歌の歌詞にも採用されている。また、同校の卒業生でもある糸井重里は、この遺訓を「よくできたものである」と絶賛している。

出典:wikipedia

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