東京ヤクルトスワローズ(とうきょうヤクルトスワローズ、)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。東京都を保護地域とし、都内新宿区にある明治神宮野球場を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県戸田市にあるヤクルト戸田球場である。シーズンオフでリーグ拡張方針に伴うプロ球団乱立のあおりを受け、各地の国鉄鉄道局(当時)の野球部から選手が引き抜かれる事態が発生した。国鉄は同年の大幅な合理化で労使関係が悪化していることもあり、国鉄職員の団結と意志発揚を目的にプロ球団設立を発案した。当時の国鉄総裁・加賀山之雄が大の野球好きだったことも、参入実現の一要因となった。しかし、日本国有鉄道法に抵触するため国鉄が直接親会社になることはできず、国鉄の外郭団体である財団法人交通協力会(現:公益財団法人交通協力会・株式会社交通新聞社)が主体となり、1月12日に財団法人鉄道弘済会、日本通運、日本交通公社(現:公益財団法人日本交通公社・株式会社ジェイティービー)などの企業により株式会社国鉄球団(資料によっては国鉄野球株式会社となっている物もあり)を設立。球団名を国鉄スワローズ(こくてつスワローズ "Kokutetsu Swallows" )とし、(#球団名も参照のこと)セントラル・リーグに加盟。初代監督には西垣徳雄が就任。国鉄参入直前のセ・パはともに7球団であり、切りの良い8球団にしたいという思い、それも大企業である国鉄のプロ参入にセ・リーグ関係者は色めき立っていたが、パ・リーグとの勧誘合戦により参入が立ち消えになってしまうことを恐れ、セ・国鉄内部ともに極秘扱いで計画は進められた。参入の下準備も佳境に差し掛かる頃には巷間でも国鉄参入の噂が立っていたが、国鉄がプロ球団など作るはずがないとパ・リーグは高を括っており、参入は至って順調に成功した。本拠地は元逓信省総裁松前重義の尽力で、武蔵境の旧中島飛行機工場跡地に新しい野球場「武蔵野グリーンパーク野球場」が建設された(諸事情により1956年閉鎖。7試合しか行われなかった)。しかし、参入が他新球団より遅れていたため選手確保がままならず、自前の鉄道局野球部を中心に他の社会人や大学などのアマチュア野球に残っている人材をかき集めたが、プロ経験者は戦前の一時期阪急に在籍した中村栄ただ1人という状態だった。アマチュア野球では強豪の鉄道局野球部もプロでは全く通用しなかったため、松竹ロビンスの二軍監督・森谷良平と、かつて奉天満鉄倶楽部に在籍していた宇佐美一夫を追加補強してクリーンアップに据えたものの、その後も貧打に悩まされた。3月10日の球団初公式戦の対大洋ホエールズ戦(下関)に2対1で敗れ、続く11日の対広島カープ戦に3対2で球団初勝利を挙げる。しかし序盤の3月21日から14連敗、4月26日から10連敗で最下位で、8月に享栄商の金田正一が高校を中退して入団し、10月1日にプロ初勝利を挙げるとこの年8勝を挙げ、チームは終盤13連敗の広島に代わって7位となった。この年チームは42勝94敗2分で首位松竹ロビンスから57.5ゲーム、最下位広島と1.5ゲーム差の8球団中7位に終わる。シーズン終了後、西日本パイレーツがセ・リーグを脱退したため、セ・リーグは7球団となる。開幕から4月にかけて12勝4敗で首位に立つが、5月に入り6連敗で2位に落ちると、6月には3勝10敗として、前半戦終了時には6位となっていた。8月に入り、金田正一がこの月6勝を挙げ、チームは11勝10敗で勝ち越し5位に浮上し、そのままシーズンを終える。金田は、22勝を挙げ、最多奪三振を獲得するとともに、9月5日に球団初となるノーヒットノーランを達成。土屋五郎が、球団初のタイトルとなる最多盗塁を獲得。この年よりフランチャイズ制が導入され、国鉄は読売ジャイアンツ、毎日オリオンズ、大映スターズ、東急フライヤーズと共に後楽園球場を本拠地とした。開幕から2勝2敗とした後は4連敗、4月に入り4連敗と6連敗、5月に10連敗と連敗を重ねたが、松竹と広島が低迷したことで5位でシーズンを終了。この年120試合制となり初の50勝到達となったが、このうち半分ちかくの24勝は金田正一で二年連続奪三振王となった。佐藤孝夫が球団初の新人王を獲得。松竹と大洋が合併したことで、この年からセ・リーグは現在の6球団制に移行。45勝79敗1分に終わり、首位巨人から42ゲーム差、5位大洋松竹と4.5ゲーム差で球団初の最下位となる。西垣徳雄が監督を退任、後任は藤田宗一。読売ジャイアンツから移籍した宇野光雄の活躍で同年の対巨人戦8連勝。宇野と箱田弘志が球団初のベストナインを獲得する。首位中日から32ゲーム差、55勝73敗2分の5位に終わる。10月19日、金田正一がシーズン350奪三振を記録、NPB新記録となると共に大リーグ・ボブ・フェラー348を抜く世界新記録。町田行彦が本塁打王を獲得。57勝71敗2分で、首位巨人と34.5ゲーム、4位広島と1ゲーム差の5位に終わり、藤田が監督退任、後任は宇野光雄。対巨人戦で11勝(13敗)と互角の試合を見せる。大脇照夫が5月3日の対中日戦(中日)でノーヒットノーラン、宮地惟友が対広島(金沢兼六)で球団初、日本プロ野球3人目となる完全試合を達成している。チームは首位巨人と21ゲーム差、61勝65敗で4位に終わる。オフ、南海ホークスから飯田徳治を金銭トレードで獲得。金田正一は7月15日の対中日戦(中日)で2000奪三振を記録。8月21日の対中日戦(中日)でプロ野球4人目の完全試合を達成し、この年は最多勝利と最優秀防御率を獲得、沢村賞と自身初のベストナインに選ばれている。佐藤孝夫が22本塁打で本塁打王となる。チームは58勝68敗4分、首位巨人から15.5ゲーム差の4位に終わる。開幕戦の対巨人戦(後楽園)、金田正一が巨人のルーキー長嶋茂雄を4打席連続三振に抑えるなど、4対2で勝利する。5月24日の対阪神戦(甲子園)で飯田徳治がアキレス腱切断、日本プロ野球記録の連続試合出場記録が1246で止まる。6月6日、金田が球団初の通算200勝を達成。チームは2年連続の58勝68敗4分、首位巨人から17.5ゲーム差の4位に終わる。金田正一が投手部門三冠王(最多勝、防御率、奪三振)と沢村賞を獲得。この年も開幕戦の対巨人戦(後楽園)で金田正一が巨人のルーキー王貞治を2三振に抑えている。チームは63勝65敗2分、首位巨人から15.5ゲーム差の4位に終わる。9月30日に金田正一が対中日戦(後楽園)で勝利して、10年連続20勝を達成するが、チームは54勝72敗4分、首位巨人から17.5ゲーム差、6年ぶりの最下位となる。宇野は監督を辞任、後任は砂押邦信。6月6日、森滝義己がプロ野球史上5人目となる完全試合を達成。67勝60敗3分で3位とし、球団初のAクラス、勝率5割を記録する。9月5日、金田正一がメジャーリーグ、ウォルター・ジョンソンの記録を抜く通算3509奪三振を達成。51勝79敗4分、首位阪神から24ゲーム差の最下位となる。セ・リーグは3割打者が1人という投高打低のシーズンだったが、その中でも国鉄のチーム打率は.201(313得点)だった。これは2リーグ制以降の最低の記録である。11月、東映と共に韓国に遠征し、親善試合を行う。砂押は監督を退任、後任は浜崎真二。オフ、西鉄から豊田泰光を獲得。年々増大する経営費のために経営主体は交通協力会から鉄道弘済会へと変わっていたが、公共企業・国鉄の球団であるという体面もあり相当の緊縮財政だった。新人選手の契約金は高騰する一方で満足な補強もできず(当てになる戦力は金田だけだった)、同年に起こった三河島事故による批判は球団にも飛び火していた。この年の8月、球団譲渡を前提とした業務提携を産経新聞社、フジテレビジョン・ニッポン放送・文化放送と結び、フジサンケイグループとの関係が生じる。この時点で経営主体はフジサンケイグループに移る。5月8日の対大洋戦(後楽園)で金田正一が通算300勝を達成。チームは65勝73敗2分、首位巨人から18ゲーム差の4位。浜崎は監督を退任、後任は林義一。本拠地を後楽園球場から神宮球場へ移転する(移転の経緯については後述のフジサンケイグループ及び明治神宮野球場#ヤクルトの本拠地を参照)。7月30日、金田正一が入団2年目の1951年から14年連続となるシーズン20勝を達成。61勝74敗5分、首位阪神と18.5ゲーム差の5位に終わる。同年オフ、林義一の監督更迭・留任を巡り産経新聞と国鉄は激しく対立。エースの金田が「林監督がそのまま続投した場合移籍するが、解任された場合は残留する」との声明を出したことから国鉄は頑として林の更迭を主張、一方の産経サイドは他社マスコミ(読売新聞、朝日新聞、毎日新聞)により「林監督更迭」のスクープを先取りされていたことがあり、議論は平行線を辿り最終的には経営主体の産経サイドが意見を押し切った。林は留任し、金田は10年選手の特権を行使して巨人に移籍した。金田を失ったことにより国鉄は経営意欲を完全に喪失し、フジサンケイグループへ経営権を全て譲渡して経営から撤退することとした。もとより国鉄球団は業務提携後フジサンケイグループの資金力に丸々依存しており、移譲は時間の問題と見られていたが、喧嘩別れで球団譲渡という結末となった。4月23日、国鉄は球団の経営権をサンケイ新聞とフジテレビに譲渡することを発表し、5月10日、サンケイスワローズ( "Sankei Swallows" )に改称。サンケイ初年度となったが、国鉄初年度以来の90敗以上となる、44勝91敗5分。首位巨人とは45.5ゲーム差となった。この年からドラフト会議が行われているが、1位河本和昭をはじめ11名中9名が入団拒否している。1月7日、少年野球ファン開拓のためという理由に加え、フジテレビで鉄腕アトム (アニメ第1作)が放送されていたことや手塚治虫が当時球団後援会副会長(会長は徳川夢声)だったという経緯もあって鉄腕アトムをペットマークに使い、チーム名をサンケイアトムズ( "Sankei Atoms" )に、運営会社名を株式会社サンケイアトムズに改称。同年ヤクルト本社が株式を取得して球団運営に参加。これに伴い球団旗も当時の産経新聞の社旗をアレンジしたものを使っていた。52勝78敗で大洋と並んで5位、首位の巨人とは37ゲーム差。58勝72敗5分で首位の巨人と26ゲーム差の5位。武上四郎が新人王を獲得。1月28日、神奈川県横須賀市に武山球場が完成、二軍本拠地となる。5月26日には対広島戦に勝利し、球団通算1000勝を達成。来日2年目のデーヴ・ロバーツが40本塁打を打つなどして、ベストナインを獲得。投手では石戸四六がチームとしては金田正一以来となるシーズン20勝を挙げる。64勝66敗4分、首位の巨人とは13ゲーム差の4位。産経新聞は本体の業績不振のため株式の一部をヤクルト本社へ売却。球団経営に積極的だった産経新聞・フジテレビジョン社長の水野成夫が病に倒れ、後を継いだ鹿内信隆がフジサンケイグループの事業見直しを行った結果、不採算だったプロ野球球団経営からの撤退、資本関係のみの継続を決めたもの。当時、ヤクルト本社は水野とは旧知の間柄だった南喜一が代表者を務めていた。表面上は共同経営とし球団名をアトムズ( "Atoms" )と、運営会社名を株式会社アトムズ球団としたが、実質経営権はヤクルト本社が握った。ボブ・チャンスが24試合で12本塁打を記録した。58勝69敗3分で、首位の巨人と16.5ゲーム差の5位。1月7日にヤクルト本社が公式に単独で経営権を持ち、球団名をヤクルトアトムズ( "Yakult Atoms" )に、運営会社名を株式会社ヤクルトアトムズに改称となり、チームカラーもヤクルト本社の社色である赤・白・緑のものとなった(球団旗やユニフォームなどに使用)。この年は序盤から大きく出遅れ、8月には1936年の大東京軍と並ぶ16連敗を喫した。この連敗期間中の8月20日に別所毅彦が監督を解任され、2軍監督の小川善治がシーズン終了まで代理監督を務めた。結局、シーズン92敗を喫し、勝率は3割を大きく下回る.264で、首位の巨人に45.5ゲーム差を付けられ最下位に終わる。2桁勝利投手ゼロは球団史上初であり、2015年シーズン終了現在も唯一である。東条文博が28盗塁で盗塁王。三原脩が監督に就任。チームは2年連続最下位に終わる。松岡弘は14勝を挙げた。9月27日、二軍はイースタンリーグで初優勝している。前年に三原とともに入団した中西太打撃コーチのマンツーマン指導を受けた2年目の若松勉が首位打者、ルーキーの安田猛も1972年・1973年と2年連続で防御率1位となって頭角を現す。彼らの活躍もあり、この年は最下位を脱出、4位に浮上。8月12日、二軍は2年連続イースタンリーグ優勝。チームは2年連続の4位に終わり三原は監督を辞任。11月26日、虫プロダクションの倒産に伴い、鉄腕アトムのキャラクター使用を中止。10月26日、球団名を株式会社「ヤクルト球団」、チーム名を「ヤクルトスワローズ( "Yakult Swallows" )」に変更。キャラクターも、ツバメをモチーフにしたものに変更。打撃コーチの荒川博が監督に昇格、コーチで入団した広岡達朗・沼澤康一郎・小森光生と「早大カルテット」を形成した。松岡が17勝、浅野啓司も防御率2位と活躍し、チームは13年ぶりのAクラスとなる3位。日本ハムとの交換トレードで大杉勝男を獲得したが結果は4位。シーズン終了後に武上四郎が引退。5月12日、荒川博監督が成績不振を理由にシーズン途中で休養し、ヘッドコーチの広岡達朗が5月13日から代行となり、6月17日に監督就任。結局5位に終わり、国鉄時代のからこの年まで15年連続シーズン負け越しを記録し、セ・リーグワースト記録となる。なお、全球団に負け越したにもかかわらず最下位を免れたのは、日本プロ野球史上初めてのケースだった。大杉がこの年多くの記録を立て、9月14日の大洋戦では1イニング5本塁打の日本タイ記録を達成した。若松が2度目の首位打者、入団2年目のチャーリー・マニエルが42本塁打を放ち、チームは球団創設以来初の2位に躍進。2月、球団史上初めて日本国外キャンプとなるアメリカ・ユマキャンプを行う。初優勝を狙うチームは前半を首位で折り返すも、後半に入り失速、3連覇を狙う巨人に抜かれ、8月には一時4.5ゲーム差を付けられるが、8月26日からの対巨人3連戦を松岡の完封、安田の連日の好リリーフで2勝1分けと持ち直し、巨人に代わり首位に返り咲く。9月に初めてマジックが点灯すると、9月19日のダブルヘッダー第2試合、さらに杉浦亨が連日のサヨナラ打を放った20日・21日と3試合連続サヨナラ勝ちを収め、下位球団相手に取りこぼす巨人を尻目に一気に加速、10月4日の対中日戦(神宮)で創立29年目で初のリーグ優勝を決める。日本シリーズではそれまで3年連続日本一だった阪急ブレーブスを4勝3敗で下し初の日本一。この年は開幕から129試合目まですべて得点を挙げていたが、最終戦の広島戦で大野豊に完封負けを喫し、全試合得点とはならなかった。マニエルの放出を軸としたオフの補強に失敗し、開幕8連敗と大きく出遅れる。5月に盛り返し、5月27日にはマニエルに代わる新外国人ジョン・スコットがサイクル本塁打を放つ活躍で勝率を5割まで戻すが、その後は再び最下位を独走。8月にヘッドコーチの森昌彦が解任され、これに激怒した広岡が途中休養(指揮権放棄)し辞任。打撃コーチの佐藤孝夫が代理監督を務めた。結局このシーズンは最下位。武上四郎が球団初の生え抜きとして監督に就任。相性優先のローテーションで巨人・中日・阪神・大洋から15勝以上挙げるが、広島に大きく負け越し、結局この年優勝した広島に大差をつけられての2位に終わる。松岡が最優秀防御率のタイトルを獲得。マニエルが復帰し優勝への期待が高まるが、マニエルは年齢的な衰えで12本塁打に止まり、さらに若松、スコットが相次いで負傷し外野陣が崩壊、出場機会が大幅に増えた代走・守備固め専門の青木実が盗塁王を獲得したが、チームは4位に終わる。シーズン終了後に安田が引退。優勝当時の主力の衰えと外国人選手の不振からシーズン序盤より最下位を独走。最終結果は45勝75敗10分、首位の中日と23.5ゲーム離される。ドラフトにて巨人との抽選の末入団交渉権を獲得した荒木大輔が入団する。チームは2年連続最下位に終わり、シーズン終了後に大杉が現役引退。ルーキーの高野光が開幕投手に大抜擢され話題となったが、開幕からチームは不振が続く。武上がシーズン途中で監督休養、中西太が代理監督に就任するが中西も途中休養し、投手コーチだった土橋正幸がシーズン終了まで代理監督を務めた(その後土橋は、正式に監督に就任)。この年、チームは5位に終わる。杉浦享が自己最多の34本塁打、八重樫幸雄も捕手として球団初の3割打者と活躍したがチームは最下位。10月9日に若松が2000本安打を達成。シーズン終了後に優勝バッテリーの松岡と大矢明彦が共に引退。同年、日本プロ野球選手会は労働組合の資格を得たが、オーナーの松園尚巳は「(親会社の)ヤクルト本社をはじめ、グループ内で労組を結成している会社は無い」として、ヤクルト選手会を労組選手会から脱退させた。大洋を自由契約になったレオン・リーが入団するが、2年連続の最下位となり土橋は辞任。関根潤三が監督に就任。シーズン途中に入団した現役大リーガーボブ・ホーナーが「ホーナー旋風」を起こしチームは4位に浮上。荒井幸雄が新人王を獲得。この年のドラフト会議で、長嶋一茂との交渉権を抽選の末に獲得。シーズン5位に終わるが、抑えの伊東昭光が全て救援・規定投球回数未到達ながら18勝で最多勝。広沢克己と池山隆寛が30本塁打以上を放ち、栗山英樹が規定打席未到達ながら打率.331を記録し台頭。巨人戦も8年ぶりに勝ち越し。ラリー・パリッシュが本塁打王、新人の笘篠賢治が新人王を獲得。一方でパリッシュ・広沢・池山が共に100三振を記録。シーズン4位に終わり、関根が監督を勇退、若松が現役を引退。このオフ、ヤクルト選手会は労組選手会に復帰した。野村克也が監督に就任。野村は新人の古田敦也を正捕手に起用、またそれまで捕手だった飯田哲也をセカンド(後にセンター)にコンバートし柳田浩一をレギュラーに抜擢する。この年は5位に終わる。6月に球団新記録の12連勝(それまで当時の12球団で唯一、2ケタ連勝がなかった)で一時は首位に立つも、その後失速し優勝争いから脱落するが、最終戦に勝利し3位を確定、11年ぶりのAクラス。広沢が打点王、古田は捕手としては野村以来26年ぶり、セ・リーグでは初の首位打者となる。広島・巨人・阪神との優勝争いとなる。西村龍次と岡林洋一以外の先発陣が手薄だった投手陣は4月に高野、5月に伊東と、故障で長年離脱していたベテランが復活。開幕ダッシュに成功し首位を走るも、7月の巨人との天王山で3連敗。前半戦を3位で折り返す。後半に入ると、前半戦わずか8本塁打のジャック・ハウエルが本塁打を量産し首位に返り咲く。しかし、この頃から投手陣全体の駒不足に苦しみチームは9月に入り9連敗を喫した。一時は3位にまで下がるが、9月24日に荒木が1541日ぶりの復活登板を果たし息を吹き返す。10月7日、阪神との首位決戦に連勝し王手をかけると、10月10日の甲子園での直接対決でハウエルが2打席連続本塁打、先発荒木の好投を受けて最後は伊東が締めくくり14年ぶりの優勝。後半戦だけで30本塁打のハウエルは首位打者と本塁打王の二冠となり、MVPも獲得した。日本シリーズは、西武ライオンズと対戦。シーズン中同様に怪我人等の投手駒不足で、岡林が7戦中3戦先発完投、伊東・金沢が岡林が完投した試合以外中継ぎで全試合登板(中継ぎだけの登板はこの2名だけしかしていない)、シーズン未勝利の高卒新人石井一久を先発で起用と、総力戦で西武に食らいついたが、3勝4敗で日本一は逃す。同年オフ、長嶋一茂が巨人に移籍。この年のシーズン観客動員数247万7000人は、2015年シーズン終了現在、球団記録である。前年苦しんだ投手陣の底上げを図る。前年不在だったストッパーの座に開幕直後は山田勉、5月からは高津臣吾が座り、先発投手陣では新人の伊藤智仁が故障で離脱するまで7勝、防御率0.91の驚異的な活躍で新人王を獲得。岡林は前年の酷使の影響で不調だったが、西村、伊東、荒木、そして故障から復活した川崎憲次郎と宮本賢治が投手陣を支えた。打撃陣も広沢克実が2度目の打点王、ハウエルがサヨナラ本塁打5本と勝負強さを発揮しリーグ2連覇。日本シリーズでも4勝3敗で西武に前年の雪辱を果たし15年ぶりの日本一、シリーズMVPの川崎はカムバック賞も受賞した。シーズン終了後に杉浦と八重樫が引退。高津が最優秀救援投手を初受賞するが投手陣の不調・故障離脱が相次ぐ。さらに古田が右手負傷で戦線離脱したのが響き、2年連続リーグ制覇から一転して4位。初優勝時のメンバーで最後の現役選手だった角富士夫が引退。シーズン終了後、広沢克がFAを宣言し巨人へ移籍、自由契約のハウエルも巨人に入団する。広沢とハウエルが入団した巨人相手に不利が予想されたが、巨人との開幕第2戦を桑田真澄の危険球退場をきっかけに逆転勝ちし流れが一変。打撃陣は古田、飯田がシーズン通して活躍。土橋勝征が野村監督から影のMVPと賞賛される活躍で後半3番に定着、阪神を解雇されたトーマス・オマリーが狭い神宮で本塁打を量産し自身初の30本塁打。同じくロッテを解雇されたヘンスリー・ミューレンも下位打線で29本塁打を放ち、池山と「第2のクリーンアップ」を形成した。投手陣はテスト入団の新外国人テリー・ブロスが9月9日の巨人戦でノーヒットノーランを達成、最優秀防御率を獲得する。西村とのトレードで近鉄から移籍してきた吉井理人、2年目の山部太、4年目の石井一が揃って二桁勝利。9月30日に巨人を下し2年ぶりのリーグ優勝。オリックス・ブルーウェーブとの対戦となった日本シリーズでもオマリーが活躍、古田を中心とするバッテリーもイチローを中心とする相手打線を抑え4勝1敗、2年ぶりの日本一に輝いた。ダイエーから移籍の田畑一也が移籍1年目で12勝、西武から戦力外通告を受け移籍の辻発彦がリーグ2位の打率3割3分3厘をマーク。しかし、シーズンはレギュラー選手の不調・故障離脱が相次ぎベストメンバーをそろえることができずリーグ4位に終わる。オマリーとミューレンが抜けたものの、この年も「野村再生工場」が冴え渡る。広島を自由契約になった小早川毅彦が入団、開幕戦の巨人戦で、それまで3年連続で開幕戦完封を続けていた斎藤雅樹から3打席連続ホームラン。中日から自由契約となった野中徹博が13年目で初勝利、ダイエーから自由契約となった廣田浩章もリリーフ陣を支える。開幕前は低評価だった新外国人のドゥエイン・ホージーが巨人・松井秀喜を抑え本塁打王を獲得。4番の座には古田が就き、本塁打こそ9本だったが高打率をマークし「つなぎの4番」として君臨した。投手陣では先発、田畑が15勝、吉井が13勝、伊藤智も高津とのダブルストッパーで復活した。終盤、横浜ベイスターズに最大10あったゲーム差を3.5ゲーム差まで迫られるが、9月2日の直接対決で石井一がノーヒットノーランを達成するとその後は横浜を突き放し結果的に11ゲームという大差をつけ2年ぶりの優勝。日本シリーズでも西武を4勝1敗で退け4度目の日本一。オフに吉井がFAでMLBのニューヨーク・メッツに移籍。開幕直前に日本ハムとの交換トレードで野口寿浩を放出し、のちに選手会長となる城石憲之を獲得。同年、高卒新人の五十嵐亮太を擁し、球団史上初のファーム日本選手権制覇を達成した。しかし1軍は川崎が最多勝、石井一久が最多奪三振を獲得するも投打の歯車が合わず4位に終わる。野村は同年限りで退団し、後任には打撃コーチの若松勉が就任。就任1年目のは先発陣(石井一久・伊藤智仁・川崎憲次郎)が総じて1ケタ勝利に終わるなどして4位に低迷したが、前年まで通算8勝の高木晃次がプロ入り初の規定投球回数に到達してチームの日本人最多の9勝を、新外国人のジェイソン・ハッカミーがチーム最多の12勝を挙げた。野手陣ではハッカミー同様新外国人のロベルト・ペタジーニが44本塁打を放ち本塁打王を獲得、オリックスからトレードで来た高橋智が復活をアピールし、主に守備要員だった佐藤真一が突然の打撃開眼でチームを牽引。またプロ3年目の岩村明憲の成長など明るい話題もあった。石井一久がシーズン最終登板で中日の山本昌を抜いて最優秀防御率のタイトルを獲得する。五十嵐も前半リリーフ登板だけで11勝を挙げる活躍をしたが、チームの好不調の波が激しく終わってみたら去年と全く同じ勝敗で2年連続の4位に終わる。投手陣は川崎がFAで中日に移籍、伊藤智らの故障離脱で先発投手が不足する中、石井一久以外、新しい投手陣に様変わり。2年目の藤井秀悟が14勝を挙げ最多勝、巨人を解雇されテスト入団の入来智とオリックスを解雇されテスト入団2年目の前田浩継の「リストラ組」もそれぞれ10勝、7勝とローテーションを支え、横浜を解雇された島田直也がチーム二位の52試合に登板。打線も、本塁打と打点の2冠のロベルト・ペタジーニ、打率2位の古田を筆頭にレギュラー8人が全て規定打席到達という安定ぶりで、この年のみ採用の「勝利数優先」の順位決定方式を逆手に取り、巨人を振り切り4年ぶりのリーグ優勝。若松は球団生え抜きとして初の優勝監督となった。日本シリーズでは大阪近鉄バファローズと対戦。近鉄自慢の「いてまえ打線」を封じ込めて4勝1敗で4年ぶりの日本一を達成。この年、セ・リーグは勝数で順位を決定した。ただし、勝数が最も多い球団と勝率が最も高い球団が異なる場合はプレーオフで優勝決定する方式へと変更し、マスコミ等に掲載される順位表も勝数順とされた。しかし各球団試合消化数には違いがあり、実際に優位に立つのは勝率の高いチームだった。ドーム球場をフランチャイズとして順調に試合を消化した巨人に対し、雨天中止があるヤクルトは例年に比べてさらに試合消化が鈍かった。このため前半戦終了時には巨人の方が試合数が多いため勝数も多く首位に立ったが、勝率ではヤクルトが上回り、ゲーム差(勝数優先の順位表では表示されなかったが)でも4.5差をつけていた。この「隠れ首位」の状態は8月まで続いた。このような経緯があったためか、2002年からは勝率優先の順位へと戻った。ただし、2007年のクライマックスシリーズ導入までは勝率が最も高い球団と勝数が最も多い球団とが異なる場合はプレーオフで優勝を決定することは変わらなかった。2002年 - 2004年も3位以上を保ち、4年連続でAクラスになった。4年連続でAクラスを確保したのは、球団史上初の出来事である。ただし2003年は前年順位でヤクルトを上回る巨人と同率3位だったため開幕権を得られず、2005年の開幕はビジターで行われた。2004年は年間の総得失点差が-73点と大幅にマイナスであったにもかかわらず、最終戦で巨人を追い抜き72勝64敗の2位でシーズンを終えた。石井一久が大リーグのロサンゼルス・ドジャースに、翌には高津臣吾が同じく大リーグのシカゴ・ホワイトソックスに移籍。には、稲葉篤紀が日本ハムへFA移籍。4月24日、古田敦也が捕手としては野村克也以来史上2人目、大学・社会人を経てプロ入りした選手としては史上初の通算2000本安打を達成。シーズン結果は4位。シーズン終了後、若松は監督を退任。後任は選手として現役の古田敦也が選手兼任監督として就任した。二軍はこの年から社会人大会に出場している(詳細)。2005年12月19日のプロ野球実行委員会で、古田の悲願だった地元密着型として「東京ヤクルトスワローズ( "Tokyo Yakult Swallows" )」へのチーム名変更が全会一致で承認され、ユニフォームに国鉄時代以来となる「Tokyo」の文字が復活した。2006年も前年同様、リック・ガトームソンがノーヒットノーランを達成するなどの活躍で交流戦2位になるが、交流戦終了後はほぼ5割ラインに停滞し続ける。結果3位となり2年ぶりにAクラスは確保したが、優勝争いにからむことはほとんどなかった。11月4日には神宮球場において東京六大学選抜とヤクルトによるアマ・プロ交流試合が実施され、外国人選手とFA移籍を控えた岩村を除く一軍メンバーが出場。試合は3対2でヤクルトが勝利している。この年のオフ、岩村が大リーグ・タンパベイ・デビルレイズ(当時)へ移籍。五十嵐、石井弘寿の「#ロケットボーイズ」が手術の影響でシーズンを棒に振ったのを皮切りに、ディッキー・ゴンザレス、アダム・リグス、高津臣吾などの主力級が次々と離脱、まったく戦力が整わなかった。最終的に青木宣親が首位打者、アレックス・ラミレスが打点王、セス・グライシンガーが最多勝投手になるが、シーズン143試合目で1986年以来21年ぶりの最下位を確定させてしまう。8月から、東京のUHF、東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)で2007年度初のテレビ中継が開始。以前から年間数試合は中継があったが、近年は1試合も中継が無い年もあった。9月、古田の現役引退・退団が発表された。なお、伊東昭光も辞意を表明したため、チーム最年長コーチの八重樫幸雄がヘッドコーチ代理を兼任していた。後任監督は高田繁、1軍投手コーチに荒木大輔がヤクルトに復帰した。一方選手では、打点王のラミレスとこの年16勝を挙げたグライシンガーが巨人へ、石井一久がFAで西武へ移籍した。年明けには藤井秀悟を交換要員とする3対3のトレードを日本ハムと行った。巨人に開幕3連勝をするなど4月終了時は3位に立ったが、石川雅規、館山昌平に続く先発が不在となる。野手では福地寿樹や飯原誉士をはじめとする俊足の選手が中心となったが、前年本塁打王争いを演じたアーロン・ガイエルの離脱などで長打力に欠けた。夏場には北京オリンピックで青木と宮本が離脱したため戦力が安定せず、シーズン終盤に8連敗(そのうち3試合がサヨナラで7試合が1点差)を喫し、CS争いを繰り広げる中日、広島に引き離され5位に終わった。しかし、前年まで崩壊していたリリーフ陣が怪我で苦しんでいる最中に、林昌勇、押本健彦が加入し、前年登板が無かった五十嵐が復活、先発で結果が出なかった松岡健一が転向し結果を残すなど整備が進んだ。横浜からFA権を行使した相川亮二を獲得し、球団初のFA獲得選手となった。長打補強のためジェイミー・デントナを獲得した。このシーズンは序盤から2位をキープして前半戦で貯金を最大14まで伸ばしたが、後半戦に入った途端に急失速、8月には1971年8月以来となる月間18敗(7勝)、9月にも1992年以来の9連敗を喫し、さらにはチームを支えてきた田中浩康や飯原、宮本、川島慶三といった主力が怪我で離脱、宮本が強行出場するなど厳しい状態が続き、一時は阪神や広島に抜かれ5位に転落した。しかし、高木啓充や鬼崎裕司の登場で息を吹き返し、10月9日の対阪神戦との直接対決に勝利して3位が確定し、3年ぶりのAクラス入りで初のクライマックス・シリーズ進出を決めたが、結果的に後半戦の大失速が響いて初の勝率5割未満のCS出場チームとなっている。中日とのクライマックス・シリーズ第1ステージでは、第1戦は石川の好投とデントナの逆転本塁打で勝利したが、新型インフルエンザにより選手が離脱したことも響いて、2・3戦と中日に2連敗。1勝2敗で敗退した。オフには、五十嵐亮太がFAで大リーグ・ニューヨーク・メッツに移籍。阪神からFAで獲得した藤本敦士の活躍で開幕3連戦で鬼門の東京ドームで勝ち越すなど好調な滑り出しだったが、4月中旬以降は失速。交流戦で9連敗を喫するなど、一時は最下位に転落した。5月26日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦をもって高田が辞任、ヘッドコーチの小川淳司が監督代行として指揮をとることになった。※監督代行時も含む。6月に打線の補強としてジョシュ・ホワイトセルを獲得し、トレードではリリーフ陣の強化のため渡辺恒樹や山岸穣を獲得。小川体制になってからのヤクルトは、野手陣と投手陣共に奮起し徐々にチーム状況が好転していく。6月に14勝8敗、7月に11勝8敗、8月には10連勝を含む18勝8敗と大きく勝ち越す。8月24日の対横浜ベイスターズ戦で勝率を5割に復帰させ、その後も勝率5割前後を維持しながら、3位とのゲーム差を徐々に詰め、最小で3.5ゲームまで3位との差を詰める。しかし、最終的には前半戦の不振が響いた形となり、4位となりCS進出はならなかったが、72勝68敗4分けとシーズン成績は6年ぶりの勝ち越した。このシーズンはリーグ優勝した中日に相性が良く、セ・リーグ他球団が苦手としたナゴヤドームでリーグ唯一の勝ち越し(シーズン通算で7勝4敗1分け。小川体制移行後に限れば5勝1敗)、シーズン対戦成績も15勝8敗1分けと唯一勝ち越し、特に小川体制移行後は12勝3敗と圧倒した。高田監督時代に非常に苦手にしていた巨人に対しても、後半戦は同一カード3連勝を含む対巨人戦5連勝などもあり、小川体制に代わってからは8勝7敗1分けと勝ち越している。東日本大震災の影響により、開幕日が当初の3月25日から4月12日に延期された。開幕直後はウラディミール・バレンティンや畠山和洋などが好調で4月下旬にはセ・リーグの首位に立った。その後も首位をキープし続け、8月には阪神に一時詰め寄られるも9月に9連勝して阪神の追撃をかわし、対巨人戦は12勝8敗4分と11年ぶりに勝ち越した。しかしバレンティンや畠山ら主軸打者がシーズン終盤から相次いで打撃不振に陥ったことに加え、主力選手の離脱が相次ぎ、最大10ゲーム差をつけていた2位中日との直接対決は9月以降で1勝8敗と大きく負け越し2位に後退する。最終的に70勝59敗15分、首位とは2.5ゲーム差で10年振りのリーグ優勝を逃した。クライマックスシリーズファーストステージで巨人に2勝1敗で勝利、球団初のファイナルステージに進出したが、中日に2勝4敗で敗退した。石井弘寿が現役引退。バレンティンが本塁打王を獲得。青木宣親がポスティングシステムを利用して大リーグ・ミルウォーキー・ブルワーズに移籍。3月19日には球団事務所が東京都港区の東新橋から明治神宮野球場にほど近い北青山に移転した。3月30日の開幕・巨人戦で球団史上初の開幕戦完封勝ちを記録(対する巨人は球団史上初の開幕戦完封負け)し、4月24日に対中日戦(神宮)に勝利し首位タイとすると、続く26日の同カードでも勝利して単独首位に立つが、交流戦では5月30日に対日本ハム戦(神宮)に敗れて、チーム39年ぶりとなる10連敗を記録するなど9勝15敗の最下位に終わり巨人・中日の首位争いから後退、前半戦は広島と同ゲーム差の4位となり、後半戦は広島との3位争いとなる。9月29日、対中日戦(神宮)に0対4で敗れたが、この日広島も阪神に敗れたため、3位確定とし2年連続のクライマックスシリーズ出場を決めている。クライマックスシリーズファーストステージでは、中日と対戦。1勝1敗とした第3戦で1対0でリードしていた8回裏にトニ・ブランコに満塁本塁打を打たれて逆転され敗戦、1勝2敗で敗退している。福地寿樹と宮出隆自が現役引退。バレンティンが2年連続本塁打王を獲得。林昌勇が退団。一方で、元楽天の岩村明憲を獲得。岩村は7年ぶりの古巣復帰となる。5月以降は最下位に低迷。9月23日の対阪神戦(甲子園)に0対2で敗れクライマックスシリーズ進出の可能性が消滅し、3年ぶりのBクラスが確定し、続く10月1日の対巨人戦(神宮)で1対0で敗れたことで、6年ぶりの最下位が決まった。本拠地・神宮球場では31勝32敗1分だったが、神宮以外の球場では26勝51敗3分と大きく負け越した。ウラディミール・バレンティンが8月に日本プロ野球新記録の月間18本塁打を記録するなど本塁打を量産、9月15日の対阪神戦(神宮)で日本プロ野球新記録のシーズン56号本塁打とアジア野球新記録の57号本塁打を記録し、この年60本として3年連続本塁打王を獲得。投手では新人の小川泰弘が16勝4敗で最多勝と勝率第1位投手賞の2冠を獲得。宮本慎也、藤本敦士が引退。終盤まで最下位に低迷し、9月22日に小川淳司監督が球団に申し入れ、今季限りで監督を辞任することを会見で表明、9月29日の対広島戦(マツダ)に敗れ2年連続最下位が決まった。10月8日、後任にチーフ打撃コーチの真中満の就任が発表された。シーズン前には2年連続の最下位低迷から脱却するため、大型補強を慣行した。国内FA権を行使した成瀬善久(千葉ロッテマリーンズ)と大引啓次(北海道日本ハムファイターズ)をそれぞれ獲得、さらにメジャーリーガーのローガン・オンドルーセックとも契約を結んだ。一方で相川亮二がFA権を行使して読売ジャイアンツへ移籍するも、人的補償で奥村展征を獲得した。シーズン開幕後は、西鉄ライオンズが1956年に記録した開幕から13戦連続の3失点以下のプロ野球記録を更新する14試合連続3失点以下を記録し、投手陣が好調だったこともあり一時は首位に立つ。しかし、5月に入ると9連敗を喫したこともあり最下位に転落した。バレンティンやラスティングス・ミレッジら主軸選手の怪我もあり5月22日にミッチ・デニング(BCリーグ・新潟アルビレックス)と基本合意した。また、交流戦も6年連続で負け越すなど苦戦を強いられた。交流戦後は一時首位に立ち、時には勝率を5割切っての首位もあったが、館山の復帰や真中監督が掲げた新打線が機能し始めたことにより、チームは盛り返し始め前半戦は4位ながらも首位・DeNAとは僅差の状態でターンした。後半戦に入ると、阪神・巨人とのデッドヒートの末、終盤に阪神を交わし首位に立つと9月24日の対DeNA戦に4-2で勝利し、3年ぶりのAクラス入りとセ・リーグ一番乗りでのクライマックスシリーズ進出が決定。さらに9月27日の対巨人戦に勝利し、優勝へのマジックナンバー「3」が点灯した。そして10月2日、阪神との本拠地(神宮球場)最終戦において、1-1で迎えた11回裏2死1・3塁から雄平がサヨナラタイムリーを放ち2-1で勝利し、14年ぶり7度目のセ・リーグ優勝を決めた。前年度最下位からのリーグ優勝は1976年の巨人以来となり、2年連続最下位からのリーグ優勝は2001年の大阪近鉄バファローズ以来となった。またシーズン中喫した9連敗というのは優勝チームの連敗数としては1992年のヤクルトに並ぶワースト記録となった。投手記録ではトニー・バーネットが自身2度目となる最多セーブ投手となり、打撃記録では、川端慎吾が首位打者と最多安打、山田哲人が本塁打王と盗塁王と最高出塁率の他、球団史上初となるトリプルスリーを達成、畠山和洋が打点王をそれぞれ獲得し、ヤクルト3選手が打撃タイトルを全て独占する活躍を見せた。打者主要3タイトルを同一チームで3人が獲得したのは史上初。クライマックスシリーズのファイナルステージでは、ファーストステージ勝者の巨人と対戦。4勝1敗(アドバンテージ1勝含む)で初のクライマックスシリーズ制覇を果たし、14年ぶりの日本シリーズ進出が決定した。日本シリーズでは、福岡ソフトバンクホークスと対戦。第3戦で山田がシリーズ史上初の1試合3本塁打を記録して勝利するが、その他の試合で全敗し1勝4敗で敗退。この年限りでヤクルト一筋17年間を貫き、WBCブラジル代表にも選ばれたユウイチが引退。シーズン終了後、トニー・バーネットがテキサス・レンジャーズに移籍。オリックス・バファローズを自由契約となった坂口智隆、北海道日本ハムファイターズを戦力外となった鵜久森淳志を獲得。外国人はオンドルセクの配置転換によるセットアッパーとしてジョシュ・ルーキーを、先発要員としてカイル・デイビーズを、他にもルイス・ペレスを獲得した。一方で、由規が肩の負傷を理由に戦力外となり、育成選手契約を結んだ。3月23日、選手10名が去年夏の高校野球決勝を使った野球賭博に関与していたことが発覚した。球団側は同月15日の時点で把握していたにも関わらず隠蔽していた。チームは、主砲・バレンティンを欠いたことが響き、9年ぶりの開幕4連敗を喫した。以降も投手陣に故障者が続出したことで下位に低迷する。加えて6月23日、神宮球場で行われた中日戦で守護神・オンドルセクが9回表に同点に追いつかれたことで降板後暴言を吐き、謹慎処分が下されたことが引き金となって7月21日に退団し更なる苦境に陥る。低迷するチーム状況の中で球団は5月30日、韓国から河載勲(ジェフン)を獲得し、7月5日には由規を支配下に復帰させ、7月20日には八木亮祐をオリックス・バファローズに放出し近藤一樹をトレードで獲得しテコ入れを図る。7月24日の対中日戦で由規が1786日振りの勝利を挙げた。前半戦は最下位で折り返すも後半戦は順位を上げ、9月1日には3位DeNAに1ゲーム差まで迫ったが、9月19日にBクラスが確定しCS出場はならなかった。最終的には64勝78敗1分けで5位に終わる。山田哲人がプロ野球史上初めて2年連続のトリプルスリーを達成した。いずれも名球会メンバー「スワローズ」の名称は、当時の国鉄では唯一の特急列車、かつ日本最速だった「つばめ」号に由来する。球団旗には、列車のヘッドマーク等に使われていた「つばめマーク亅を採用し、「スワローズ」のロゴデザインは国鉄のデザイン室がデザインしたものを今日まで使っている。ペットマークは、基本的につば九郎を使ったものが使用されるが、一部メディアでは燕太郎を使ったものを使用。応援歌では、オリジナルで作曲したものと、従来のポップス曲に声援を加えたものとに分かれる。そして、得点が入るとビニール傘を振りながら東京音頭を歌うのが、スワローズの応援の特色。東京音頭を初めて応援に使ったのは東京オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)であるが、東京オリオンズの本拠地移動もあって、1978年の優勝と前後して始められた。神宮の応援団から始まったが、現在は全国で行われている。2008年よりリニューアルされた公式ファンクラブで、2015年3月現在さだまさし(歌手)と出川哲朗(ピン芸人)と村上春樹(作家)が芸能人枠として「SWALLOWS CREW名誉会員」に登録している。本拠地である神宮球場で行われる試合の前売りチケット購入や常設グッズショップ(スタジアム通り・神宮軟式球場敷地内)でのショッピングでもポイントが貯められる。会員はプラチナ・ゴールド・レギュラー・キッズ・ライト(いずれも有料)・無料の6種類となっている。2012年から、東京ヤクルトスワローズ・読売ジャイアンツ・横浜DeNAベイスターズとの3球団合同で「GSDBプロジェクト」を立ち上げファンクラブ会員に限り巨人・DeNA主催のヤクルト戦で来場ポイント付与や会員限定イベントの実施の他該当試合の前売りチケット優先販売や球場DJ・チアチーム・マスコットキャラクターの相互訪問を行っている。国鉄の列車「つばめ号」のヘッドマークに使われていた「つばめマーク」を使用。当時の親会社、産経新聞社の社旗(橙色地。中央に横の白地ライン、ライン部分に水色で「サンケイ」の文字)をアレンジしたものを使用。上記5社と「オフィシャルスポンサー」27社の計32社(2012年シーズン現在)が、球団とのパートナーシップを展開している。チームの愛称「スワローズ」が日本語で燕を意味することから、それと同じ名前を地名にしている新潟県燕市と、燕市に本社を置くツインバード工業(家電)、和平フレイズ(調理器具)、エコー金属(日用品金属加工)、北越工業(重機械)、燕食品(食品加工)の5社が協賛し、2011年から「スワローズ・燕市交流事業」の取り組みをしている。(詳細後述)セ・リーグでは各球団の申し合わせにより、2002年度からホーム用ユニフォームに限定してスポンサー広告を掲出できるようになったが、スワローズでは2005年まで掲出していなかった。2006年、オフィシャルスポンサーとなったユニデンがホームユニフォーム左胸、カカクコムがヘルメットにそれぞれ掲出を開始したのを皮切りに、ユニフォーム広告を採用した。契約満了後の2008年は掲出を見送ったが、ユニフォームのデザインを変更した2009年に再開。2010年からは親会社・ヤクルト本社の商品名を記したエンブレムやステッカーを掲出している。※太字は優勝達成監督球団として公認された永久欠番は2015年現在ない。他に欠番的な背番号には以下のものがある。生え抜きまたはフリーエージェントで獲得した選手で、かつ対象者に推薦が必要とされる。1962年に国鉄球団と業務提携を結んだフジテレビジョンは、当時後楽園球場のテレビ放映権が、包括的な放映権契約を独占で結んでいた日本テレビ放送網しか与えられていなかったため、当時東映フライヤーズがメイン球場としていた神宮球場を本拠地にすることを前提に球団経営を引き受けたといわれる。その後先述どおり1965年のシーズン開幕直後に正式に球団譲渡を受け入れてサンケイ(産経)スワローズ(1966年からサンケイアトムズ)とした。なお、国鉄球団がフジサンケイグループの後援を受け入れるにあたっては、後楽園の放映権の絡みから、神宮球場に隣接する神宮第2球場をフジサンケイグループ主導で建て替えて専用球場とする計画をしていたが、日本学生野球協会などからの反対意見や、明治神宮も第2球場をアマチュア専用球場にしたい意向もあったためか、第2球場ではなく学生野球との日程調整をし、それを優先させる形で主球場への移転を認めたという経緯がある。国鉄から球団を買収した産業経済新聞社、フジテレビジョンは共にフジサンケイグループの企業である。1970年に産経新聞は球団経営から撤退したが、ヤクルトは引き続きフジサンケイグループが球団を後援する事を条件に経営を引き受けたという。2000年にヤクルト球団の第三者割り当てで、産経撤退後も5%弱の球団株を保有していたフジテレビは従来の分も併せて20%程度の株式を引き受ける事となり、球団と業務提携を締結した(以降、スタッフ社員も代替わりし、スタッフはほとんどフジサンケイグループの者が取り仕切り、資金面、管理はヤクルト本社系統、チームの運営等はフジサンケイ系統からヤクルト球団に転入したもので構成されているという)。これに伴い、フジテレビと同じフジサンケイグループのラジオ局・ニッポン放送も従来以上にヤクルト球団をバックアップすることとなったが、しかしながらそのニッポン放送は1979年以来横浜ベイスターズ(当時)(旧:大洋球団)の株式を保有し、同一企業とそのグループが複数の、しかも同一リーグに所属するチームに関与している事が長年の問題になっているが(実際横浜が筆頭株主をニッポン放送に変更しようとした際に他球団のオーナーの猛反対にあいTBSが筆頭株主となった)、2005年にゴールデンイーグルスのオーナーの楽天が、横浜ベイスターズのオーナー(約70%保有)のTBSとの資本提携を図った際に、根来コミッショナーは「楽天とは異なり、フジテレビは横浜、ヤクルト両球団に対して実質的な支配権を持っていない」との見解を示している。フジテレビONE(フジテレビジョンのCS衛星放送)では、これまでの対巨人戦の地上波とのトップ&リレーナイターに加え、2005年から巨人戦以外の主催ゲーム全試合(セ・パ交流戦含む)を『SWALLOWS BASEBALL L!VE』という題でCS衛星放送独占中継することになった。それ以前の1998年-2004年までは、当時フジテレビが資本参加していたスカイスポーツ→Jスカイスポーツ→J SPORTSで、フジテレビ・ニッポン放送とその関連法人である八峯テレビ(現・フジ・メディア・テクノロジー)との協力を得て、前述の巨人戦を除くヤクルト主催・主管の全試合を「スカイ・スタジアム→Jスカイ・スタジアム→J SPORTS STADIUM野球好き」にて放送していた。また、CSが普及する前は、巨人戦をフジテレビとテレビ朝日(水・日曜を中心に、まれに金曜も)、一部のデーゲームをフジテレビ・テレビ朝日・まれにテレビ東京で、巨人戦裏カードのナイターをテレビ朝日(主に水 - 金曜日)が西武ライオンズ戦と同様の扱いで平日を中心に放送する以外は原則として大手民放5局で放送することはなく、テレビ神奈川が随時『TVKハイアップナイター』として、特に大洋との対戦(どちらの主催を問わず)を中心に、大洋戦の放送がないも他カードを併せる形で年数十試合を放送した。またCSテレビが放送ではなく通信(配信)であった1990年代のごく一時期ではあるが、朝日ニュースター(当時は朝日新聞社主導経営。現テレ朝チャンネル2)でごく数試合、テレビ朝日協力によるヤクルト戦の中継をケーブルテレビ向けに配信したことがあった。さらに1967年からごく数年間、当時独立局で経営難にあえいでいた東京12ch(現・テレビ東京)が全日放送に復帰するにあたり、番組ソフト不足解消の一環として、フジテレビから放映権を譲渡する形(ただし、制作主体は東京12chが行い、CXは制作協力だった)を取って、巨人戦以外のヤクルト主催・主管試合を東京12chから放送したこともあった。この時も球団資本の関係で、解説者とアナウンサーはCXからの派遣で賄っていた。サンケイアトムズ時代の1967年10月9日、横浜公園平和野球場で行われた対中日戦ダブルヘッダーでの出来事。試合で使う予定の公式球を搬送していたスポーツ店の自動車が交通渋滞のあおりを受け、試合開始予定の正午を過ぎても到着しないというハプニングが起きた。そのため公式記録員がセ・リーグの鈴木龍二会長に連絡を取ったところ、鈴木は「応急処置として中日側の了解を得て練習球で試合をするように」と指示を出したものの、中日側はこれを拒否。結果的には公式球の到着を待って37分遅れで試合が始まった。当時セ・リーグのアグリーメントでは「ダブルヘッダーで試合を行う場合、第1試合は日没5時間前までに開始しなくてはならない」と定められていたことから、中日の西沢道夫監督は「このままでは第2試合は中止になってしまうのではないか」と抗議したが、日程調整上当初のダブルヘッダー開催を強行した。1978年10月4日、ヤクルトは地元・神宮で対中日戦を行った。ヤクルトの応援席のライト側外野席には「国鉄スワローズ→サンケイアトムズ→ヤクルトスワローズ初優勝!! 29年間のご支援ありがとう」という旨の横断幕が既に試合前から掲揚された。そして圧倒的な9-0のリードで迎えた9回1アウト1塁から谷沢健一の打球がセカンドゴロからのゲッツーとなり、念願の地元胴上げで初優勝を達成した。決定の瞬間、選手らが1塁ベンチから飛び出して広岡達朗監督を胴上げすると、興奮の余りに客席からグラウンドに飛び出したファンからも祝福の胴上げや拍手をし、優勝記念の表彰式どころの騒ぎではなくなっていた。この模様はフジテレビから全国に放送された。更にバックスクリーンのスコアボードにもセ・リーグ参加の他5チームに対するお礼のコメントを書いた垂れ幕が掲げられた。2人のリリーフ投手五十嵐亮太と石井弘寿のコンビ。五十嵐は日本人右投手最速の158km/hの直球を、石井は日本人左投手最速の155km/hの直球をそれぞれ持った球界最速のリリーフコンビとしてその名をとどろかせた。「ロケットボーイズ」という愛称自体は、2002年5月にファンの公募で決められたものである。もともとリリーフエースの高津臣吾へつなぐセットアッパーとしての役割を果たしていたが、高津がFAでシカゴ・ホワイトソックスに移籍したことで2004年から五十嵐がストッパーとなる。五十嵐は抑えの守護神として2004年度、リーグ最多の66試合に登板して球団新記録となる42セーブポイントを挙げ、最優秀救援のタイトルを獲得した。一方の石井は2004年度、故障とアテネオリンピック出場でチームを離れることが多かったが、後半戦での登板機会は多く、中継ぎエースとして活躍した。しかし、2009年に五十嵐がFAで大リーグのニューヨーク・メッツに移籍したことに伴い、ロケットボーイズはコンビ解消となった。2005年秋に古田敦也が監督に就任し、日本プロ球界では29年ぶりとなる選手兼任監督が誕生した。日本プロ野球選手会の会長でもあった古田は、かねてから「ファンにとって、プロ野球をもっと身近な存在にしたい」という想いが強く、2004年の球界再編問題で自ら奔走した経験から、その想いをより強くした。そこで監督就任と共にファンサービス向上や地域密着の強化などを柱とした球団改革構想「F-Project」の活動を同年11月1日に開始した。F-Projectの「F」はFuruta(古田)の他、プロジェクトが目指すFan(ファン)、Fun(楽しむ)、Full(満員の球場)の3つの言葉を表しており「よりファンと選手・チームの距離を身近なものにして、本拠地の明治神宮野球場をスワローズファンで満員にし、かつ単に応援するだけでなく、ファン自らチームに参加してもらい、共に楽しみを分かち合いたい」という願いが込められていた。プロジェクトには古田の他、ヤクルト球団職員、外部からもカカクコム社長の穐田誉輝(当時。現相談役)や芸能・放送関係者を招聘し、IT産業やマスメディアを巻き込んだ球団の多角的経営を目指すことを打ち出した。同年11月23日に神宮で行われたファン感謝デーに合わせて、球団モバイルサイトのURLのQRコードが刷り込まれた名刺が作成され、当日は古田自らファンにこの名刺を配布するパフォーマンスが繰り広げられた。さらに、都内の企業ともオフィシャルパートナーシップを締結し、カカクコムの他、家電製造業のユニデンとも契約した(2006年からホーム用ユニフォーム左胸部分にロゴマークを掲出)。また、都民参加型のチームを作るという観点から東京都民銀行ともスポンサー契約を締結した。なお、これらの企業との契約は古田退任後に解消されたものも多く、東京都民銀行に至っては巨人の本拠地である東京ドームでの広告掲載に切り替えている。さらに古田は球団に対し、当時の球団名「ヤクルトスワローズ」に「東京」を冠し、地域密着をアピールすることを提案した。古田は1990年代半ばから契約更改交渉の席などで球団幹部に対し「球団名に都市名か地域名を入れることはできないか」と提案を続けてきたものの実現には至らなかったが、球団もF-Projectの立ち上げを機に協力することを決定。球団名を「東京ヤクルトスワローズ」と変更した(同年12月19日のプロ野球実行委員会で承認)。なお、球団名に「東京」を冠していた球団は過去に例があり、戦前の東京巨人軍、東京セネタース、大東京軍(いずれも消滅)、戦後の東京オリオンズの4球団。東京オリオンズは1969年を最後に「ロッテ」に改称したが、東京ヤクルトはそれ以来37年ぶりに「東京」を冠する球団となった。また、これを機に神宮球場がある明治神宮外苑周辺の新宿区、港区、渋谷区の3つの特別区をホームタウンと位置づけ、「スワローズタウン(ヤクル
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