福井藩(ふくいはん)は、越前国にあって現在の福井県嶺北中心部を治めた藩。藩庁は福井城(福井市)。藩主は越前松平家(福井藩主家)。家格は親藩・御家門で、32万石。越前藩(えちぜんはん)とも呼ばれる。また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代忠昌以前の結城(松平)秀康・忠直時代を故に北ノ荘藩(きたのしょうはん)と称することがある。越前国は戦国大名朝倉氏滅亡の後、柴田勝家・丹羽長秀・堀秀政の領有を経て豊臣秀吉配下の小大名によって分割支配させられていた。関ヶ原の戦いの際、青木一矩は西軍方に付いたために戦後越前北ノ庄8万石を没収されている。慶長6年(1601年)に関ヶ原の戦いの功により、徳川家康の次男の秀康が越前一国67万石を与えられ、柴田勝家の築いた北ノ庄城を約6年かけて大改修し居城とする。秀康は結城姓を松平に復し、越前松平家を興す。秀康の嫡男松平忠直は、大坂の陣で戦功を立てながらも将軍秀忠に認められなかったことなどから、次第に幕府に反抗的態度を取るようになった。そのため、元和9年(1623年)忠直は乱行を理由に廃されて豊後国大分に配流された。翌年の寛永元年(1624年)4月、越後高田藩で別家25万9千石を与えられていた忠直の弟(秀康の次男)の松平忠昌が50万石で福井藩の主な家臣(幕府に選ばれた百余名を主とする)、藩領を継承する。7月の忠昌入部ののち、居城周辺の街・北ノ荘は福居(後に福井)と名を改められる。またこのとき、越前国は複数の藩に分割されることになる。その後、福井藩は支藩の分封と相続の混乱から所領を大幅に減らし、貞享3年(1686年)に第6代藩主綱昌は発狂を理由に強制隠居処分され、前藩主昌親が領地半減の上で再襲(吉品)した。吉品が就封の際、領地宛行状が城地名の福井侍従となり、忠昌が大坂の陣で使った片鎌槍の大名行列の際の使用を禁じられた。また、この時に藩邸の格式も下がり、江戸城の詰間が将軍家の親族が詰める大廊下から、外様の国持大名と同じ大広間へ異動した。ただし、この間もこれ以降も歴代藩主は当代将軍の偏諱を拝領する「特別な家」であり続けた。享保6年(1721年)には支藩松岡藩(福井県吉田郡永平寺町)の再併合により30万石に復し、文政2年(1819年)にさらに2万石を加増されるなど、徐々に家格は回復した。内政では領地の激減や複数回の天災に見舞われたことなどにより、藩財政を大いに逼迫させ、度重なる一揆に見舞われて困難を極めた。田安徳川家から養子に入った幕末の藩主慶永(春嶽)は、橋本左内らを登用し、また熊本藩から横井小楠を招聘して藩政改革をおこなった。安政の大獄により隠居を余儀なくされたが、謹慎解除後は公武合体派の重鎮として幕政に参与している。戊辰戦争では、薩長主導の明治新政府に加わり、江戸無血開城後は、上野の寛永寺一帯に立てこもった彰義隊の討伐に参戦した。福井藩領は明治4年(1871年)、廃藩置県により福井県、ついで足羽県となり、さらに敦賀県を経て石川県に併合されるが、のち旧越前および若狭が福井県として分立した際にその中心部となった。親藩 52万5000石→45万石→25万石→30万石→32万石 (1601年 - 1871年)光通の子・権蔵は光通正室の国姫所生ではなく嗣子とはならなかった。延宝元年(1673年)に江戸へ出奔し、延宝3年(1675年)将軍・徳川家綱に謁見し従五位下、備中守に叙任、賄料1万俵江戸定府の諸侯に列した。 本多富正(重次の甥)-昌長-長員=長教-副紹-副充=副久-副昌-富恭=副元(常陸府中藩主・松平頼説の子、頼功の次男)家老を輩出する藩内最高の家格の高知席は17家。府中領主の筆頭家老本多内蔵助家は、17家の高知席のさらに上の地位にあった。上記のほか、南条郡12村、今立郡18村、丹生郡14村、大野郡13村、坂井郡69村の幕府領を預かったが、「旧高旧領取調帳」では第1次府県統合後の状況になっているため、下記以外の変遷の詳細は不明である。明治維新後、南条郡3村(旧西尾藩領1村、旗本領1村、福井藩預所管轄の旧幕府領1村)、大野郡11村(福井藩預所管轄の旧幕府領)が加わった。
出典:wikipedia
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