神無月(かんなづき、かみなしづき)は、日本における旧暦10月の異称である。今日では新暦10月の異称としても用いられる。「神無」を「神が不在」と解釈するのは語源俗解であるが、この俗解が基になって更にさまざまな伝承を生じることになった(後述)。「神無月」の語源は不詳である。有力な説として、神無月の「無・な」が「の」にあたる連体助詞「な」で「神の月」というものがあり、日本国語大辞典もこの説を採っている(後述)。「水無月」が「水の月」であるのと同じである(6月#水無月の語源)。出雲大社に全国の神が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神がいなくなるとという説は、中世以降の後付けで、出雲大社の御師が全国に広めた語源俗解である。高島俊男は、「月の名で、師走と同じくらい古い民間語源を有するのが「神無月」である。十月には各地の神さまがみな出雲へ行ってしまって不在になるので神無月、という説明で、これも平安時代からある。「かみな月」の意味がわからなくなり、神さまがいないんだろうとこんな字をあてたのである。「大言海」は醸成月(かみなしづき)つまり新酒をつくる月の意だろうと言っている。これも憶測にすぎないが、神さまのいない月よりはマシだろう。」と評している。なお、月名についての語源俗解の例としては、師走(12月)も有名である。御師の活動がなかった沖縄県においても、旧暦10月にはどの土地でも行事や祭りを行わないため、神のいない月として「飽果十月」と呼ばれる。日本国語大辞典は、語義の冒頭に、「「な」は「の」の意で、「神の月」すなわち、神祭りの月の意か。」とし、語源説として次の11説を列挙している。出雲に神々が集まるからという民間語源が元になって、出雲地方において、10月が神在月(あるいは神有月)と呼ばれるようになった。したがって、これも一種の民間語源である。出雲では、出雲大社ほかいくつかの神社で旧暦10月に「神在月」の神事が行われる。伝承によれば、かつて諏訪大社の祭神であった「諏訪明神」があまりにも大きな体であったため、それに驚いた出雲に集まった神々が、気遣って「諏訪明神に限っては、出雲にわざわざ出向かずとも良い」ということになり、神無月にも諏訪大社に神が有ることから神在月とされている。能登では、10月に神々が出雲に集っている間にも、宝達志水町の志乎神社の神だけはこの地にとどまり能登を守護するという。そのためこの神社は「鍵取明神」と呼ばれる。なお、志乎神社は素盞嗚尊・大国主命・建御名方神を祭神とするが、能登にとどまるのは建御名方神である。長野県小諸市の飯縄山では、神無月に小諸や佐久地域の神々を出雲へ送る「神送り」を行った。また出雲から帰ってきた神々を迎える「神迎え」も盛大に挙行された。神送りや、神迎えの時に松明を燃やす伝統があった。その火により明治時代に火災が発生し、この行事は中断されたままになっている。平安時代には国土と諸神の母神である伊邪那美神の供養月なので行われるという記述がある。出雲大社に神が集まるのは、一般には縁結びの相談のためとされている。そのため、かつて佐渡には10月の縁談を避ける風習が、北九州では神が出雲に向かう日と帰ってくる日には未婚の男女がお籠りをする風習があった。出雲に行くのは大国主神系の国津神だけであるという説や、天照大神を始めとする天津神も出雲に行くという説もあり、この考えと一致するような、「出雲に出向きはするが、対馬の天照神社の天照大神は、神無月に出雲に参集する諸神の最後に参上し、最初に退出する」と言う伝承もある。出雲に祭神(さいじん)が出向いてしまっては、その地域を鎮護(ちんご)するものがいなくなるということから、「留守神」と呼ばれる留守番をする神も考え出されるようになった。一般に留守神には恵比須神が宛てられ、10月に恵比須を祀る恵比須講を行う地方もある。鹿島神宮の祭神は、地震を起こす原因と考えられた「地中に棲む大鯰(おおなまず)」を、押さえつける「要石」を鎮護するものであり、過去に神無月に起きた大地震のいくつかは、鹿島の神が出雲に出向いて留守だったために起きたと伝承されている。
出典:wikipedia
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