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美作国

美作国(みまさかのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。ミサカ(御坂・三坂)に由来する、あるいはウマサケ(甘酒)の産地であることに由来すると言われる。明治維新の直前領域は、津山市、美作市、真庭郡、苫田郡、勝田郡、英田郡の全域および岡山市の一部(北区建部町のうち福渡以北の旭川左岸側)、真庭市の大部分(阿口、五名、山田、宮地以南を除く)、久米郡の大部分(江与味を除く)、兵庫県佐用郡佐用町の一部(奥海・若州・上石井・下石井・水根・桑野・海内・東中山)にあたる。北東に因幡、北西に伯耆、西に備中、南に備前、東に播磨と隣接する。中国山地が瀬戸内海に落ち込んで行く過程の山地側に位置する。国全体が海に面しない内陸の山間地であり、平地は山々の合間に盆地が点在するだけである。主要な盆地は三つあり、西部の真庭市を流れる旭川沿岸の盆地、吉井川の流れる中央部で東西広域にわたる津山盆地、梶並川・滝川が吉野川に合流する東部の美作市の盆地で、美作はその三盆地を核におよそ西部(真嶋郡、大庭郡)・中央部(苫田郡、久米郡)・東部(英多郡、勝田郡)の三つに別れる。西北の蒜山山麓に蒜山高原が、また中北部の那岐山麓には日本原高原が広がるが広戸風という突風に見舞われる。岡山三大河川の内、旭川と吉井川の上流域に位置し、近代化が進むまでは高瀬舟が流通の役目を担った。国全体が山間部であるため、大河川・街道に恵まれない土地の交通運搬は容易ではなく、周縁部では同国内より隣国との関係が深い地域も多い。和銅6年(713年)4月3日、備前守 百済王南典と備前介 上毛野堅身の提案により、備前国から英多郡、勝田郡、苫田郡、久米郡、真嶋郡、大庭郡の六郡を分けて設けられ、初代美作守には分立提案者である上毛野堅身が就任した。美作の分立は、かつての吉備国分解の最終段階であり、鉄資源を吉備氏から直接、ヤマト政権の管轄下に置くことによる吉備氏弱体化の意図があったとされる。美作には英田、白猪屯倉、錦織、久米、弓削などヤマト王権と直結する部民や施設が配置された地名が多くある。平安時代の平家全盛期には平氏知行国となっており、江見氏、豊田氏など作東の武士は平家方についている。鎌倉時代は、有力御家人である梶原景時が、続いて景時を追って幕府の有力者となった和田義盛が守護となったが、両者とも鎌倉幕府の政権内部の抗争に敗れ族滅され、北条氏の領国となった。この時代、久米郡・苫田郡を中心に足利氏の荘園が多く存在した。美作国は古代から歴史上一貫して美作を基盤とする安定勢力が出現せず、南北朝時代の動乱から戦国時代の終焉まで、山名氏、赤松氏、尼子氏、浦上氏、毛利氏、宇喜多氏など周辺の大勢力の草刈り場となって、常にその浮沈に巻き込まれた。守護やそれとほぼ同期する実際の支配勢力は室町幕府期だけでも山名氏、赤松氏、尼子氏、浦上氏、宇喜多氏の間を幾たびも変遷、最終的に1600年の関ヶ原の戦いに東軍に参与した小早川秀秋が備前・美作両国を領するも、わずか2年で改易された。小早川家断絶後は森氏が入封し津山藩が成立した。森氏は鶴山に日本三大平山城の一つに数えられる津山城を築城して城下町を整備し、美作全体を一括した統治をなした。この時代は『作陽誌』など地誌も編纂されたが、森氏は5代94年の支配で改易されてしまう。その後、有力外様大名が犇めく山陽道に睨みをきかす意味で津山に徳川政権直轄の代官所が置かれた。その後すぐに越前松平家が10万石で封じられ再び津山藩となったが、美作国内は小藩に分割された。津山が中心的都市となったのは、江戸時代に森氏が城下町を整備してからであり、それまでは吉井川を境に苫田郡と久米郡に分割される土地に過ぎず、中心は二宮の西にある院庄であった。明治4年(1871年)の廃藩置県により旧藩制をひきずった形で津山県、真島県、倉敷県、鶴田県、挙母県、古河県、生野県、明石県、沼田県、龍野県に別れて属し、同年11月整理統合されて美作国と領域的に一体の北條県となったが、その北條県も明治9年(1876年)、すでに小田県と合併していた岡山県に合併され、廃止された。明治維新後に岡山県の管轄となって以後は県北の一部として扱われ、名称として東部の美作町が残る程度で特に旧国としての美作を意識した活動はなかったが、平成17年(2005年)4月から津山地方振興局を美作県民局に改編し、真庭地方振興局、勝英地方振興局を支局として編入することで、ほぼ美作の領域を統一的に扱う行政機関が成立し、また平成25年(2013年)に美作国建国1300年記念事業が行われるなど、再認識が進んでいる。文献によると国府は苫田郡に設けられていた。現在の津山市総社にあったと推定されている。1970年(昭和45年)に同所の国府台寺で、国府関連とみられる遺跡が発見されてから発掘調査が続いている()。尼寺跡は国分寺跡の西方500mほどの地と推定されているが不詳。美作総社宮・中山神社・高野神社は、合わせて「美作三大社」と呼ばれる。英多(あいだ)郡家は豊国原盆地ないし江見盆地(旧作東町川北・藤生)が想定され、特に奈良平安時代の閻武廃寺跡が他の四廃寺へ通ずる交通上の中心地に位置していることや、"郡"の墨書のあるかわらけ出土品などから後者の可能性が高いとされる。美作市(旧・英田郡作東町)の高本遺跡である。勝田郡家は勝田盆地北西部の大字平字尾堂293番地の畑のなかで「郡」刻印のある須恵器が発見され、一体(平遺跡)の発掘調査が行われて奈良~平安時代の遺跡や遺物が発見されており、滝川沿いに南隣する川西でも建物跡が発掘により見つかった。これらによりこの場所(勝田郡勝央町の勝間田遺跡)にあったと推定される。苫田郡は苫東郡・苫西郡にもっとも早い時期に分割されており、苫田郡家、また分割後の両者とも明確な位置はわからない。『日本地理志料』は「即郡家所在、郡名因起」と郡家の位置によって郡名も決まったという。苫東郡家は津山市大字北山「椿高下」と"コウゲ"地名と椿高下廃寺跡が重なる場所が可能性が高いとされ、苫西郡は建郡の経緯から国府付近の田中郷辺りと推察される。久米郡家は久米川の砂岩段丘上(津山市(旧:久米郡久米町)の宮尾遺跡)にあり、四時期の遺構が検出されている。第一期の遺構は遺跡中央部の品字形はいちの建物郡とその東方に総柱の倉庫、西方の南北棟の建物である。白猪屯倉がそのまま郡家になったとの考えは、現在白猪屯倉碑の建てられている真庭市五反の大庭廃寺跡出土遺跡は白鳳期から平安時代のもので、大庭臣一族の氏寺であったと推定されることにより否定され、廃寺の西隣りで現在の久世中学校から薬王寺付近に想定されている。『落合町史』で郡家の郡長が住んだと見られる「長者屋敷」と周辺の関連地名が検証され、天津神社の創立が和銅3年(710年)であることや蔵通り・仰天などの地名から、大字平島の北隣高屋集落の立地する段丘上に想定されている。

出典:wikipedia

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