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土門拳

土門 拳(どもん けん、1909年(明治42年)10月25日 - 1990年(平成2年)9月15日)は昭和時代に活躍した日本の写真家である。リアリズムに立脚する報道写真、日本の著名人や庶民などのポートレートやスナップ写真、寺院、仏像などの伝統文化財を撮影し、第二次世界大戦後の日本を代表する写真家の一人とされる。また、日本の写真界で屈指の名文家としても知られた。土門は、1950年代の前半頃から「社会的リアリズム」を標榜(後年本人が告白したところでは、実質的には社会主義リアリズムであったという)、「絶対非演出の絶対スナップ」を主張し、日本の写真界に一時期を画した。当時、リアリズム系の写真家としては、木村伊兵衛と双璧をなした。木村は「写真はメカニズムである」と捉えたのに対し、土門は「カメラは道具にすぎず、写真を撮るのは人間であり、思想である」と捉えていた。土門は様々なジャンルの写真作品を撮影しているが、いずれにおいても、完全な没個性(無記名)という報道写真ではなく、自分の個性を重視した。土門はまた、アルス社の「カメラ」誌の月例写真コンテスト審査員として、写真一枚一枚について詳細な批評を加え、懇切丁寧にアマチュア写真家を指導した。(月例土門と称された。)そのことを通じて自らの社会的リアリズムを一つの運動として盛り上げようと試みた。その結果、土門は一時、絶大な支持と人気を集めることには成功したが、運動の成果は土門の満足の行くものではなかった。投稿者にはのちに著名となる東松照明、川田喜久治、福島菊次郎らがいた。彼は日本工房在籍時から日本人が造った物に深い愛情と憧憬を抱き続け、フリーになってからは仏像や寺院、古陶磁などの伝統工芸品や風景など、一貫して日本の美を撮り続けた。周囲には、彼がとりあげる被写体の変化を趣味または退行と見なす者もいたが、土門は「古いものから新しいものを掬い上げる」報道として捉えていた。土門の「社会的リアリズム」に対しては当時、さまざまな誤解や非難もなされた。一つにはリアリズムを単なるスナップ写真と解釈する者がいた。また、「パンパン」や浮浪児、傷病兵など、当時の社会の底辺にカメラを向ける土門やその影響下にあるアマチュア写真家の一群の写真を評して乞食写真という批判をなす者もいた。ライバルとされた木村伊兵衛は浅い被写界深度でソフトなタッチで女性を撮影し好評を博したのに対し、土門は女性のポートレートにおいても「リアリズム」を発揮し、深い被写界深度でシワやシミなども遠慮会釈なく映し出したので、被写体となった女性たちから不評を買うことも少なくなかったが、その一方でどうしても土門に写真を撮ってもらいたいという女性もいた。1948年に土門は『カメラ』12月号のアンケートに答えて、世界の有名写真家ベスト10を挙げている(現在、当該記事は『写真随筆』(ダヴィッド社)に所収)。土門は完全主義者としても知られており、生来の不器用さを逆手に取り、膨大な出費や労力をいとわず、何度も撮影を重ねることによって生まれる予想外の成果を尊んだ。撮影時の土門の執拗な追求を伝えるエピソードは数多く、1941年に画家の梅原龍三郎を撮影した際は、土門の粘りに梅原が怒って籐椅子を床に叩きつけたが、土門はそれにも動じずその怒った顔を撮ろうとレンズを向け、梅原が根負けした一件や、1967年に東大寺二月堂のお水取りを取材した際にも、自然光にこだわり、真夜中の撮影にもかかわらず一切人工照明を使わず、度重なる失敗にもめげずに撮影を成功させた逸話などがある。撮影中は飲まず食わずで弟子にも厳しく、「鬼の土門」と称されるほどの鬼気迫る仕事ぶりであったが、人を惹き付ける魅力があり、多くの後進を育てた(「関連項目」を参照)。土門は、作品発表の場として展覧会よりも写真集を重視し、『古寺巡礼』全五集(美術出版社、1963年-1975年)などでは撮影から製本の一部始終にまでこだわった結果、定価も第一集が23,000円と、大卒者の初任給が40,000円程度であった当時、大変高価なものになった。2人が対立したのは、著作権の帰属が原因であった。名取は、ドイツのウルシュタイン社で報道写真家として活躍していた背景から、写真は芸術でも個人の作品でもなく、編集者ひいては雇用者である企業が著作権を持つ物であると考えていた。これに対し、土門は写真は表現手段の1つであり、個人の芸術的な所産だと考えていた。この対立には、西洋と東洋、絵画と写真、芸術性・個人性と社会性・集団性・企業性など様々な思想の対立が背景にある。名取と土門の対立を決定的にした事件は1936年に起こった。当時アメリカ滞在中であった名取は、グラフ誌「ライフ」に土門の作品を名取名義で発表したのである。このことに土門は怒り、2年後の1938年、土門はタイムライフ社からの依頼により、当時の外相の宇垣一成を取材。同時に取材していた木村伊兵衛を出し抜き、「ライフ」誌に「KEN DOMON」の特注のスタンプを捺した自分の作品を投稿した。(LIFE Magazine - September 5, 1938 Fall Fashions)その記事「日曜日の宇垣さん」は採用され、ライバルの木村はもとより、名取への大きな反撃となった。程なくして土門は日本工房を退社、名取との関係に自ら終止符を打った。こうして2人の仲は決裂し、土門は師の名取の葬儀にも参列をしぶる程になってしまった。しかし、土門は写真家としての名取には敬意を払っていたようで、名取の写真集『麦積山石窟』(1957年出版)には自著で評価を与えている。ばさら太師土門は、新しい撮影にとりかかる前には、準備のために多くの文献を読むことを自らに課していたが、個人的にも、志賀直哉や武田麟太郎、トーマス・マンなどを愛読するなど、文学好きとしても知られていた。また、1950年代に、カメラ雑誌の審査員を務めていた際には、見どころのある応募作品の裏に、感想や激励の文章をしたためて返送したり、読者からの質問や身の上相談があると、長文の手紙を送るなど、筆まめとして知られていた。写真集の解説も自ら手がけることが多く、『古寺巡礼』全五集(美術出版社)などは、文章だけで一冊の本に相当するほどの解説を書いている。書かれたテーマは写真、美術、人生観や食べ物に関するものなど幅広い。土門の文章は『死ぬことと生きること』正・続(築地書館)、『写真作法』、『写真批評』、『写真随筆』(ダヴィッド社)、『拳眼』、『拳心』、『拳魂』(世界文化社)などでまとめて読むことができる。また、土門は若い頃から書写を日課としており、大雅堂や大燈国師を手本としていた。『風貌』の撮影の際には、撮影したい人物の名前を自宅の襖に毛筆で列記し、それが終わるたびに新しく襖を張り替えたことは有名である。出版会や展覧会などで筆をとることも多かったが、1968年に脳出血のために半身不随になってからは、左手で揮毫するようになった。自著の題字を書くことも多く、『信楽大壺』、『古窯遍歴』、『死ぬことと生きること』、『骨董夜話』、『私の美学』、『風景』(矢来書院)、『子どもたち』(ニッコールクラブ)、『生きているヒロシマ』、『写真作法』、『写真批評』、『写真随筆』の題字は土門の筆によるものである。土門は少年時代には画家を志しており、1926年には、地方の展覧会で入選するほどの画才を持っていた。写真家として大成したのちも、機会あるごとに絵筆をとり、1950年には親交のあった画家、原精一や鳥海青児とのグループ展に絵画を出品したこともある。出品作のひとつ「Y嬢」は、モディリアーニ風の優れた油彩として知られている。また1968年に2度目の脳出血で入院した折にはリハビリテーションのために左手で100点以上の水彩画を描いている。美術界での交流も幅広く、前述の二人のほか華道家の勅使河原蒼風と、グラフィックデザイナーの亀倉雄策とは、お互いに風貌が似ているところから、周囲から3兄弟と呼ばれるほどに篤い親交を結んでいた。互いの制作活動に参加することも多く、三人の共同制作による作品にはポスター『仏陀』(1961年)や、随筆集『三人三様』(1977年)などがある。第二次世界大戦中は、名取洋之助を批判しつつも、それとは別の視点から国策に協力し、海外向け写真誌に掲載する写真の撮影を請け負っているが、海軍飛行予科練習生の撮影時には構図にこだわるあまり訓練を何度もやり直させたため予科練生らには不評だったという。戦後は、この戦時中の活動や自己の考え方については触れることがなかった。これに対しては「ここで沈黙を続けたことで、その後弁明する機会を逸してしまったと理解される」という評価もなされている。仕事場は築地明石町にあり、本人によると「印画紙の水洗の水の量がすごいので水道代は町内のフロ屋の次だった」という。

出典:wikipedia

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