バウハウス(, バオハオスとも)は、1919年、ドイツ・ヴァイマルに設立された、工芸・写真・デザインなどを含む美術と建築に関する総合的な教育を行った学校。また、その流れを汲む合理主義的・機能主義的な芸術を指すこともある。学校として存在し得たのは、ナチスにより1933年に閉校されるまでのわずか14年間であるが、その活動は現代美術に大きな影響を与えた(モダニズム建築、20世紀美術の項を参照)。バウハウスはドイツ語で「建築の家」を意味する。中世の建築職人組合であるバウヒュッテ (Bauhütte, ) という語をヴァルター・グロピウスが現代風に表現したものである。バウハウスの歴史はわずかな期間であるが、この間に運営方法は大きく変わった。ドイツ帝国のヴァイマル大公ヴィルヘルム・エルンストは、ベルギーの建築家でアール・ヌーヴォーに造詣の深いアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデをヴァイマルに招聘した。1902年、ヴェルデは私設の「工芸ゼミナール」を設立し、1908年、「大公立美術工芸学校」に発展した。1911年には、ヴェルデ設計による工芸学校の校舎が建てられた。ヴァン・デ・ヴェルデは(1914年)で、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受け、規格化を重視したドイツ工作連盟のヘルマン・ムテジウスと衝突し(、規格化論争)、1915年にドイツを去らざるを得なくなった。このため、工芸学校を建築家ヴァルター・グロピウスに託した。第一次世界大戦後にドイツ革命(1918年11月3日 - 1919年8月11日)が勃発、ドイツ帝国が崩壊して大公の統治が終わり、ヴァイマル共和国が成立。1919年、工芸学校と美術学校が合併して「国立バウハウス・ヴァイマル」設立(ヴェルデ設計の旧工芸学校の校舎を使用)。初代校長にグロピウスが就任し、同年にバウハウス創立宣言が出された(ちなみに宣言の表紙はリオネル・ファイニンガーの「社会主義の大聖堂」)。予備課程を担当していたヨハネス・イッテン (Johannes Itten) の方針から、初期の教育内容は、合理主義的(機能主義的)なものと表現主義的(神秘主義・精神主義的、芸術的、手工業的)なものとを混合していた。1922年にソ連の高等芸術学校ヴフテマス(1920年 - 1930年)から招聘したワシリー・カンディンスキーがロシア・アヴァンギャルドの構成主義的な造形教育を開始した後、グロピウスはオランダのデ・ステイル(ピエト・モンドリアンによる新造形主義や、テオ・ファン・ドゥースブルフによる要素主義)の影響を受け、より合理主義的・機能主義的な考え方をとるようになった。やがて、グロピウスとヨハネス・イッテンとの間に対立が生じ、1923年にイッテンがバウハウスを去り、後継者にはハンガリーを亡命した構成主義のモホリ=ナジ・ラースローが就任、予備課程を担当した。その結果、合理主義・機能主義が、バウハウスの中心的な教育傾向となっていった。これは工業デザインや大量生産に合致するものであった。その後、ヴァイマルのバウハウスは閉鎖され、1925年にデッサウに移転し、「市立バウハウス・デッサウ」となった。デッサウの校舎はグロピウスの設計によるもので、モダニズム建築の代表作として各国に紹介された。グロピウスは1928年に校長を退き、グロピウスの後継者にはハンネス・マイヤーが指名された。ムテジウスの系譜に連なるマイヤーは唯物論の立場から「バウエン」(Bauen, )を唱え、全てを規格化・数値化・計量化し、合目的性・経済性・科学性を徹底的に重視させた。これによりドイツ表現主義的な審美性は無くなり、造形の呼称は「美」に代わって「形成」 (Gestaltung) とされた。マイヤーの手腕でバウハウスは初めて黒字を生み、国際的な評価が高まり、同校のデザイン活動は最高潮に達していた。1929年6月にマイヤーの後援でバウハウス内に「ドイツ共産党細胞」という同好会が結成された。マイヤーが公然たる共産主義者であったこともあり、さらにバウハウスはナチスら右翼勢力に敵視されるようになる。1930年にマイヤーは解任され、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエが校長に就任した。1932年にデッサウ校は閉鎖し、ベルリンへ移転して私立学校になった。ミース・ファン・デル・ローエの方針はマイヤーの「バウエン」を継承しつつも、政治色を払拭するものだった。しかし1933年にはナチスにより閉校される前にミース・ファン・デル・ローエにより解散された。(出典、Magdalena Droste"Bauhaus
出典:wikipedia
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