貴闘力 忠茂(たかとうりき ただしげ、1967年9月28日 - )は、兵庫県神戸市出身(ただし、入門時は出身地を福岡県福岡市博多区としていた。)で二子山部屋(入門時は藤島部屋)所属の元大相撲力士、プロレスラー。大相撲時代の得意技は突き、押し、張り手、いなし、引き、叩き。甥(姉の子)に元三段目若闘力がいた。所属:株式会社GHKクリエーションズ 現在、全国11店舗の飲食店を展開。講演会活動に加え、グルメ研究家として活動中。幼い頃から相撲が好きで力士に憧れ、小学生の頃は既に自分は力士になると決めていた。一方子供の頃は大のギャンブル好きである父親に迷惑を掛けられたせいかギャンブル嫌いであり、父親のギャンブル癖から借金取りが家まで押しかけ、借金取りから逃げるために小学校時代には6回から7回の転校を余儀なくされた。小学校を卒業後、一応面識のあった大関貴ノ花に入門を願った。しかし日本相撲協会の規定にて義務教育を終了しないと力士になれなかったため、とりあえず体験入門はさせたが「3年経ったらまたおいで」と1度は帰された。その後、地元に戻り、花畑中学2年時から柔道を始めた。同中柔道部の一年先輩にプロレスラー佐々木健介がいる。 3年時には全国大会に出場し団体戦の準決勝に進出したが古賀稔彦のいた弦巻中学に敗れた。中学校を卒業後、本当に元大関貴ノ花の藤島親方が師匠を務める藤島部屋(のちの二子山部屋)に入門した。入門の動機に関しては、ギャンブル癖のあった父親から逃れるというものもあった。1983年3月場所で初土俵を踏み、1989年3月場所後に十両昇進が決まった。この時、名字をそのままに「鎌苅」としていた四股名を「貴闘力」と改名した。なお、四股名は当初「貴闘心(たかとうしん)」と親方から聞かされており、本人も色紙には「貴闘心」でサインをしていたが、新十両発表の際に「貴闘心」ではなく「貴闘力」と改名することを知ったという。入門前はギャンブルを嫌っていたが、徐々に「少しならいいか」という気持ちでギャンブルの道に入り、次第に稽古が午前中に終わると、午後は競馬場やボートレースに通い、夜は麻雀という生活が当たり前になったとある。1990年9月場所新入幕、11勝4敗で敢闘賞を獲得する。1991年5月場所より小結に昇進し、以後三役から幕内上位に定着した。1991年5月場所3日目には、千代の富士と二度目の対戦となったが、一度目の対戦だった1990年11月場所は敗戦となったが、この場所で新小結に昇進した貴闘力は取組で、千代の富士の腕をつかんで土俵外へ放り投げる「とったり」という決まり手で快勝。勝利直後のインタビューでは「憧れの大横綱に勝てて嬉しいです」と語ったが、その日の夜千代の富士がこの一番を最後に現役引退を表明。結果的に貴闘力が千代の富士に対して、引導を渡した格好となった。千代の富士の引退報道に貴闘力は、「本当ですか! 信じられません。まだ自分は大先輩に対して偉そうな事を言える立場では無いので...」と言葉少なにコメントを述べるに留まっている。その後貴闘力は、千代の富士から直接「俺の事は気にせずに頑張れ」と励まされたという。この場所の貴闘力はその後も好調を維持して9勝6敗と勝ち越し、敢闘賞を受賞している。1993年2月に当時の二子山親方と藤島親方の名跡交換・両部屋の合併に伴い、師匠は二子山親方となった元大関貴ノ花のまま二子山部屋所属となる。1994年3月場所は一度前頭12枚目まで落ちたが12勝3敗と好成績を上げ、横綱・曙、それに同部屋の新大関の貴ノ浪との優勝決定・巴戦に出場した。この巴戦では最初、貴闘力は貴ノ浪との同部屋対決となるが貴ノ浪に敗退。2戦目、同部屋の貴ノ浪は曙に敗れて優勝を逃す。そして最後となる3戦目、貴闘力は曙に敗れたため、惜しくも幕内優勝を果たすことが出来ず、幕内初優勝までこれから6年の歳月を要することになる。1994年以後、長らく三役から幕内上位に定着していたが、前頭2枚目として臨んだ1999年11月場所で2勝13敗と大幅に負け越すと、翌2000年1月場所でも前頭10枚目で6勝9敗と負け越し、2000年3月場所には幕尻の前頭14枚目まで落ちた。すでに32歳であり、衰えの見えてきた貴闘力に対して周囲は十両に落ちるだろうという見方をしていた。ところが貴闘力は2000年3月場所が始まると初日からひとり12連勝を達成、優勝争いではトップで独走となった。その後、13日目に東2横綱・武蔵丸、14日目に西横綱・曙との対戦が急遽取組まれ、結果両横綱に敗れはしたものの、千秋楽になっても未だに優勝争いの単独トップに立っていた。そして、千秋楽において当時西関脇の雅山を下し、結果13勝2敗で史上初の幕尻優勝を達成した。なお、当時貴闘力の年齢は32歳5か月で、さらに幕内初優勝まで初土俵から実に所要102場所もかかった。またこの場所3日目には西十両3枚目の水戸泉と対戦しており、十両力士との対戦のあった力士が幕内優勝を果たすのは1961年5月場所の佐田の山以来のこととなった。初優勝が決まった瞬間、貴闘力は土俵下で男泣きしていた。それまで舅の大鵬が残した偉大な功績と自身の功績を息子からも比較されて困っていたそうだが、この優勝により貴闘力は「ようやく子供に『どうだ、父ちゃんだって強いんだぞ』と言える記録が作れました」と大喜びだった。また義父の大鵬も「私の32回の優勝よりも、今場所の貴闘力の優勝が一番嬉しいことだ」と嬉し涙を流しながらコメントした。十両陥落後は幕内最高優勝を経験した力士として、十両優勝決定戦に参加するという珍しい記録を持っている(2001年7月場所)。ちなみにその優勝決定戦は史上初の8力士によって争われ、この場所の十両に2桁勝利の力士はいなかった(9勝6敗)。2002年9月場所の12日目、十両での取組で最後の相撲となったベテランの寺尾戦で敗れて3勝9敗となり、幕下陥落が確定的になったことを機に引退。その後年寄・第16代大嶽を襲名し、大鵬部屋の部屋付き親方となった。その後部屋を継承した。なお本人が後年述懐するところによると、ギャンブルの借金(後述)は大鵬に何度も肩代わりしてもらったとのことである。2010年6月、週刊誌に野球賭博に関与したと報じられ、警視庁の事情聴取で関与を認めた。6月28日には日本相撲協会に退職届を提出したが、この時点では受理されなかった。6月27日、一連の賭博問題を受けて設置された特別調査委員会から、除名もしくは解雇処分の勧告案が出され、翌日の臨時理事会と評議員会で勧告案が受け入れられ、7月4日の臨時理事会で処分が決定、大関琴光喜啓司と共に解雇処分となった。当初、相撲協会は賭博関与を申告すれば厳重注意で済ませるとしていたが、琴光喜や大嶽親方は発覚時点で当初関与を否定していたことや、賭け金が他の力士に比べ多かった事などが解雇の理由となったとしている。部屋持ち親方の解雇処分は2007年の時津風部屋力士暴行死事件における元時津風の双津竜以来2例目、現役親方では元山響の前乃臻から3例目である。大嶽の名跡は、15代大嶽親方だった元十両大竜忠博の二子山親方が再び継いでいる。その後、7月5日に大鵬幸喜の三女と離婚、養子縁組も解消したため、本名が鎌苅忠茂に戻った。上記の不祥事により大鵬が死去した際にも葬儀への出席が許されなかった。貴闘力がギャンブルに熱中するようになったきっかけは、オーストラリア巡業の時にカジノで5500万円勝ったことであり、この時の勝利が忘れられず、結果として総額で5億円負けたという。2010年10月1日、かつての自身の部屋の近くの江東区扇橋2丁目に、焼肉店「焼肉本店ドラゴ(Drago : 伊)」を開店している。店の命名者は弟弟子だった貴乃花で、看板を揮毫し、開店日にも店を訪れている。開店時に元幕内駿傑を雇用するなど、引退力士の再就職支援も行っている。しかし本人が語るところによると、相撲協会を解雇されて以降も治らなかったギャンブル依存症により2013年には焼肉店の税金支払いを滞納し、一時は社員の給料を払えなくなったこともあるという。しかしこの体験をきっかけにギャンブル依存症者を対象とした自助グループに通うなどしてギャンブル依存症から脱却、以降はギャンブルを行っていない。2014年4月16日、リアルジャパン代々木競技場第2体育館大会に、リングネーム「貴闘力」として参戦、大仁田厚とプロレスデビュー戦を行い勝利した。元々プロレス参戦はこの1戦のみのつもりであったことと「本業が忙しい。借金があるのではなくプロレスは好きでやっていた」という考えから第3戦となる2015年1月12日のレジェンドプロレス東京・後楽園ホール大会を最後に引退。だが、その後、曙とプロレス対決を行うことが決定した。平成に入って時間一杯になるまで立ち上がろうとしない力士が増えた(昭和50年代後半までは時間前に立つ力士も多かった)中で時間前の仕切も気合充分、いつでも立つぞという構えは仕切の本来あるべき姿に近いとされた。実際、時間前に立つことも多く、そうした取り組みではしばしば激しい攻防を展開して土俵を沸かせた。そうでなくとも、しばしば張り手も飛び出す(張り手の応酬もする)回転の良い突き押しの相撲内容は見ごたえ十分で、1991年7月場所での琴椿との壮絶な突っ張りの応酬など名勝負の名に値する激闘は多い。関脇以下での最高成績9回は歴代最多。力士としては小柄な部類に入る体躯だったが、古い書籍を読み漁って過去の名力士たちの逸話を参考にするなど、熱心な研究でこれを補った。廻しを取られないようにするため、塩水を吹きかけて特にきつく締めていた。こうした廻し姿は力士の大型化にともなってゆるく締める力士が増えていた時代にあって評価された。付き人を背負ってのすり足や、ゴムチューブを利用した筋力トレーニング(プロレス好きの影響)など、独特の稽古でアイデアマンとしても知られた。当時の人気番組「カルトQ」の大相撲がテーマの回には出場を希望し、実際筆記予選ではトップクラスの成績だったが、「現役力士にはご遠慮願いたい」とやんわりと出場を断られたという。幕内での珍しい決まり手としては「二丁投げ」があり、貴闘力は都合3回この決まり手で勝っている。1991年5月場所2日目には、当時大関の霧島に対して鮮やかな二丁投げが決まり殊勲の星を挙げた。なぜか11月場所に弱く、1992年から最後の11月場所となった2001年まで10年連続で11月場所は負け越した。特に1996年11月場所は、同年7月に10勝、同年9月に11勝を挙げ大関昇進のチャンスだったが、場所中に尿管結石で入院するアクシデントも有って、結局6勝9敗に終わり大関昇進はならなかった。横綱である曙に対して相性が良く、通算15勝(28敗・決定戦1敗)を挙げ金星だけでも7個もせしめた。これは、高見山(対輪島)と並ぶ、ひとりの横綱からの金星獲得の最多タイ記録である。こうした曙に対する強さから『優勝するのはうちの横綱(貴乃花)。俺は曙を倒すのが仕事』と公言したことすらある。逆に曙からすれば天敵と言える相手で、翌日の相手が貴闘力だと決まると「どちらが横綱かわからない」と言われるほどの気落ち、気負いぶりだった。「立合い、最初の両手突きさえ外せば、曙は怖くない、ということを、全幕内力士に証明してみせたのが、彼の最大の功績」(小坂秀二)の評さえある。一方、武蔵丸には8勝37敗で金星はなし。曙を毎場所の様に苦しめながら、武蔵丸にはまるで歯が立たないので、合口の面白さの実例と言われた。若乃花、貴乃花とは同部屋で対戦がなかったこともあって、曙以外からの金星は2個と少ない。大関昇進を期待されたこともあったが、武蔵丸やライバル琴錦などに分が悪く、取りこぼしが多かったため果たせなかった。曙や武蔵丸との対戦では仕切の際に相手を挑発し態度が汚いと評されることもあった。天覧相撲の曙戦で待ったを繰り返し、睨み合いを演じて、説明に窮し面目を失った二子山理事長から叱責を受けたのはその好例である。現役時代には巡業中にテリー・ファンクと軽く(プロレスのまね事を)やったことがあり、冗談でテリーが「今夜からメーンでできる」と評しもした。カール・ゴッチが二子山部屋の稽古場を見学しに来ていた際には根掘り葉掘り聞いてくるところ四股を教えたため「教えてくれたから、俺のプロレス技を全部教えてやる」と感謝されたという。後年貴闘力が「教えてもらえば良かったな」と当時について悔いていた様子が伝えられている。プロレスを短期間で引退したことについては「毎日練習はしている。ただ、先生が総合の練習ばかりさせるんだ。蹴りとかタックルとか。『親方に求められているのは迫力。蹴りもパンチも真剣にやらないとダメ』って。俺は総合をするわけじゃないのに」とトレーナーを務めた佐山聡との意見が相違していたことについて胸の内を明かしている。
出典:wikipedia
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