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新幹線大爆破

『新幹線大爆破』(しんかんせんだいばくは、", "Super Express 109" )は、1975年の日本映画。オールスターキャストによるパニック映画で、日本よりも海外での評価が高い作品である。上映時間152分。「新幹線が時速80キロメートル毎時を下回ると爆発する」という状況下の中で繰り広げられる、犯人と国家との攻防劇である。新幹線0系電車に爆弾を仕掛けた犯人、危機の回避に全力を尽くす日本国有鉄道(国鉄)サイド、わずかな糸口を頼りにその正体を追いかけ、徐々に犯人グループを追い詰めていく警察、パニックを起こす乗客の姿で主に構成されている。犯人側の人生背景にも大きくスポットが当てられており、町の零細工場の経営に失敗した男・過激派くずれ・集団就職で都会に来た沖縄出身の青年がなぜ犯行に至ったのか、日本の高度経済成長時代への批判を暗示しつつ明らかにされていく。犯人側にもドラマを与え感情移入を狙った演出も相まって、単なるパニックムービーとして括れないことが高評価に繋がっている。ある朝国鉄に、本日東京駅を出発した「ひかり109号」に爆弾を仕掛けたと、脅迫電話がかかってきた。犯人は今でいう「負け組」となった三名のグループで、新幹線に爆弾を仕掛け、誰も殺さず殺されずに巨額の身代金を得ようと完全犯罪を計画したのであった。終盤まで、犯人グループと警察当局・国鉄とのスリリングな駆け引き、そして乗客乗員らのパニックが続く。以下はクレジットなし当時の東映は『山口組三代目』の製作を巡って警察から厳しい規制を受けていたが、国鉄の全面的な協力を見込んで企画を立てた。岡田茂の前の社長である大川博は国鉄OBでもあり、国鉄とは蜜月だった。1960年の『大いなる旅路』は、国鉄機関士の半生の話で、脚本を読まない大川が唯一、実際に自身で企画した映画といわれ、冒頭で貨物列車が転覆するという重要なシーンに本物の車両を出し、国鉄から表彰された程だった。東映は特撮があまり得意でないことから国鉄の協力は不可欠で、「実写をふんだんに使い、迫力のあるパニック物を作ろう」と構想していた。日本で製作するテーマとして「『日本にしかない題材の新幹線を選び、それを乗っ取る・爆発させる』というストーリーは日本だけでしか出来ず、外国に持っていっても遜色ないものが出来る」と考えたのが始まりだった。1974年5月、岡田は当時の東映企画部長・天尾完次との打ち合わせで「実録路線」などの次なる素材を探していたが、この時岡田には「アメリカでヒットしているものが、間もなく日本でも受けるようになる。だから常にアメリカの動向を観察していなければならない」という考えがあった。当時のアメリカ映画は『大地震』『エアポート'75』『サブウェイ・パニック』『タワーリング・インフェルノ』など、いわゆるパニック映画が非常に受けており、「間もなく日本に輸入されてくるはず。それが『エクソシスト』などの後を受けて大当たりするはず」と予想していた。当初予定していたタイトルは『新幹線爆破魔を追え』であったが、岡田の指示で同タイトルに変更。岡田も「実録ものの一バリエーションとして、企画の幅を広げる意味でも是非実現し成功させたい」と張り切り、東映の館主や関係者も「これは当たる」「東映カラーを打ち破る手がかりになる」などと評判が良く、マスメディアからの反響も大きく「本作が成功すれば路線変更」という声も上がった。企画担当の天尾完次と坂上順は緻密なコンストラクションという点で「東映東京撮影所では佐藤純弥しかいない」「それに粘り強いライターなら小野竜之助だろう」と二人を組ませた。佐藤へのオファーが1974年初夏。小野へのオファーは同年の11月だった。佐藤はかつて国鉄国際部の依頼で、海外広報用の新幹線のPR映画を作った経験があった。有名な“新幹線が一定速度を下回ると爆発する”というアイデアは、坂上順の着想とされ、「飛行機は着陸したくても着陸できないというサスペンス映画があるけれど、新幹線の場合、停まりたくても停まれないというサスペンス映画はできないですか」と坂上が佐藤に伝えた。佐藤は東京・駒込六義園近くの鉄道関係の専門書を多く発刊している書店に出向き「新幹線教則本」を購入。また前記のPR映画を作った際に、国鉄の広報担当者が「新幹線は地上最速の輸送機関でありながら、最も安全である。何故ならば、新幹線の安全対策は多岐に渡るが、その根本思想は、何かあったら直ちに停止するということだからだ」と言っていたのを思い出し、爆発のメカニズムのアイデアを膨らませた。80キロのメカニズムを考案したのは佐藤である。元々、子供の頃からラジオ製作などが好きで、一定の周波数になったらスイッチが入るというメカニズムは有り得るということは知っていた。国鉄サイドからすれば、本作のアイデアがそうした盲点を突いていたことが協力を嫌がった理由といわれる。浜松駅での上り線への切り替えシーンのアイデアは、佐藤がB班として参加した実現しなかった黒澤明脚本の『暴走機関車』に似たシークエンスがあったという。当時駆け出しのプロデューサーだった坂上は、進行の頃から高倉健にたくさんの教えを請うており、主役の沖田哲男役には絶対に高倉とこだわっていた。しかし岡田から「もう鶴田浩二、高倉ばかりに頼るな」といわれた。当初は沖田哲男の役を菅原文太が倉持運転指令室長の役を高倉に予定していたが、この企画を菅原に打診したら「この映画の主役は新幹線で、演技者は付け足しだ」と断ってきた。坂上は東映本社に呼ばれ、「岡田社長が『若いのでやれ』って言ってるんだから梅宮辰夫か、小林旭にしろ」「高倉にこだわっていたら、企画が前に進まないぞ」と言われた。他に高橋英樹も主演候補に挙がったが、坂上は散々迷った挙句に岡田の家に夜電話して「どうしても健さんでやりたい」と訴えた。当初岡田は通常の映画作品よりキャスト・特撮の双方で予算が掛かっているため、「本来のギャラは出せない」と判断していたが、坂上に「通常のギャラの半分でいいなら高倉を起用してもいい」と提案。高倉に脚本を見せると「こんな面白い映画なら、どんな役でもいいからぜひ参加したい、もちろん犯人役でも構わない」と言ってきた。高倉は半分のギャラという提案に憤慨したが、「ギャラは半分でいいが、その代わり映画が当たったら成功報酬のパーセンテージが欲しい」と条件付きで了承した。高倉は「この映画に関しては俳優の魅力なんかは二の次で、ストーリーの面白さがある」「大変面白い脚本で、久しぶりにのってるんです」と当時のインタビューで述べていた。脚本の小野らは犯人役はある種パターン化された凶悪犯人像を考えていたため、高倉の出演によりただの凶悪犯という訳にもいかず、人間像を掘り下げて膨らまさなくてはならない。当初のシナリオはフランスで公開された内容に近く、犯人側の視点は簡潔なものだった。やむなく一度組んだ構成をバラして犯人側の回想などを加えてやり直した。やくざ映画のヒーローでならした高倉がジャンパー姿で倒産した中小企業のオヤジ役を引き受け、時代に取り残され絶望的に反撃を試みる男を演じ、同作はこれ以降に幅広い役柄をこなすきっかけとなった。宇津井健の東映初出演作品でもあり、高倉健と宇津井健が唯一共演した作品でもある。本編で絡むシーンは一切無かったが、高倉と宇津井が新幹線の模型を持ったスチール写真や二人が談笑しているスチール写真は残っている。その他、学生運動くずれを演じる山本圭の役は、最初に原田芳雄に打診したが、原田が「テロリズム的なものは嫌だ」と断ってきた、その後作品を観て「断って申し訳なかった。次は是非ご一緒に」と言ってきて、『君よ憤怒の河を渉れ』(1976年)で熱演した。山本圭の出演でプロデューサーの宮古とく子と坂上に縁ができ、『新幹線大爆破』を褒めた宮古が『君よ憤怒の河を渉れ』の監督に「佐藤を紹介してくれ」と言ってきた。前述のように制作費の高騰した分も俳優に協力をお願いし、通常より低めのギャラで出演してもらった。カメオ出演のうち、北大路欣也はノーギャラだという。岩城滉一はこれが映画デビュー作。関川秀雄の兄が新幹線開発に加わっていたために話を聞いたり、静岡県沼津市の新幹線検査工場を訪ねたりして資料を集めていたが1974年12月、国鉄が「現在、新幹線に爆弾を仕掛けたという電話は週に1本の割合でかかって来て、その度にいたずら電話かも知れないが、必ず最寄の駅に停車させて検査するような状態である。このような映画は、更に類似の犯罪を惹起する恐れがあるから製作を中止されたい」と本作の企画に断固反対の姿勢を打ち出した。その後も前述のような交渉を続け、タイトルを「変えろ」「変えない」で1か月揉めた。1975年2月初めに80%協力は得られないという線が出て、同年4月に国鉄の撮影協力は一切得られないと決定した。1975年4月18日号の『週刊朝日』には「九割がた製作中止になりそう」などと書かれたが、現場の士気はかえって上がった。1年以上かけた企画を潰すことはできず、ここから特撮での製作に切り替え、裏ルートで取材を行い、実物大の客車セットや模型を使って撮影を進めた。当時のニュース映像や資料写真を参考にしたり、いろんな手を使って本物そっくりのセットを作りあげた。このため、国鉄からは3年間出入り禁止となった。特撮部分に総額6000万円をかけている。 当時、実際の「ひかり109号」は東京9:48発の博多行きで、途中の停車駅は名古屋・京都・新大阪・新神戸・姫路・岡山から先各駅停車といういわゆる「Aひかり」と言われる列車であり、時刻は以下の通りである。東京(9:48発)→名古屋(11:49着/11:51発)→京都(12:41発)→新大阪(12:58着/13:00発)→新神戸(13:17発)→姫路(13:45発)→岡山(14:15着/14:17発)→新倉敷(14:31発)→福山(14:46発)→三原(15:01発)→広島(15:27着/15:29発)→新岩国(15:48発)→徳山(16:08発)→小郡((現:新山口)16:28発)→新下関(16:51発)→小倉(17:02着/17:04発)→博多(17:36着)なお、当時は新尾道・東広島・厚狭の各駅はまだ開業していない。東海道・山陽新幹線(東京 - 博多間)を全線通して運行される「ひかり」号は、のちの「のぞみ」の登場とその増発により、2003年10月1日のダイヤ改正以降では存在しない。公開当時、サントラ盤は主題曲とスキャットのシングルのみ発売された。その後、バップからライナーに作品解説も含むCDが発売された。劇中で流れた既製の楽曲のうち、沖田が爆弾の図面の入った封筒を預けた喫茶店で流れていたのは、松平純子の「両国橋」(作詞:喜多條忠、作曲:吉田拓郎)。沖田が分け前の発送作業をしたモーテルで部屋のテレビから流れていたのは、浜田勇の「怨み唄」(作詞:佐藤純弥、作曲:野田ひさ志)。1996年(平成8年)にバップよりJ-CINEサントラコレクションシリーズの一作としてサントラCDが発売された。なお、劇中に流れる青山八郎の音楽は、1977年(昭和52年)の東映実録ヤクザ映画『日本の仁義』に転用されている。5億3000万円の制作費は東映の作品において過去最大の金額と言われ、監督の佐藤純弥は2002年のトークショーで「現在(2002年)の貨幣価値なら20億円くらいでないか」と述べている。邦画では珍しいパニック系アクションの製作ということもあり、業界からも注目を集めた。しかし、国鉄に実物の新幹線の撮影協力を交渉したところ、安全を謳い文句にしていた国鉄サイドは刺激的な映画のタイトルに難色を示し、「『新幹線大爆破』という映画のタイトルでは新幹線のイメージが悪くなるので、『新幹線危機一髪』というタイトルへ変えるなら撮影に協力しても良い」とタイトルの変更を要求する。しかし岡田がOKを出さず、「何としても"新幹線大爆破"でいけ」と号令を出すまでに至ったものの交渉が決裂。最終的に国鉄からの撮影協力は得ることができず、ロケーション撮影は不可能となったため、岡田による「隠し撮りとミニチュア撮影の合成で行け」との命で、急ピッチで撮影に入った(詳細は#製作経緯を参照)。こうした経緯から制作が2か月ほど遅れ、完成が封切の2日前までずれ込んだために試写会の開催もなく、タイトルを理由として新聞への広告も拒否されたことで、宣伝が十分に行き届くことがなかった。また、上映においても本作のみの1本立て興行ではなく、当時の人気アイドルグループ「ずうとるび」のドキュメンタリー風中編映画『ずうとるび 前進!前進!大前進!!』との2本立て興行だった。『ずうとるび-』との併映は10代の映画ファンの興行への影響力が大きくなったのを見た岡田が、この年からメインの併映は「青春路線」で行くと発表していたからである。第一級のサスペンス映画に仕上がりながら、任侠路線が色濃く残る東映のイメージもあいまって興行的には成功を収めたとは言えず、同年に東映が企画段階で頓挫した作品の穴埋めとして急遽製作・上映された『トラック野郎・御意見無用』の配給収入には遠く及ばなかった。製作費を注ぎ込んだ『新幹線大爆破』がヒットせず、低予算で製作された『トラック野郎』が大ヒットしたことも同作のシリーズ化を後押しすることとなった。都心ではまずまずの入りだったが、新幹線に縁のない北海道や東北地方(当時)の客入りは悪く、当時の週刊誌誌上では「1975年3月の山陽新幹線の博多開業に合わせて公開しようとした便乗企画」などと書かれたが、山陽新幹線の通る西日本地域においても「サッパリだった」という。一方、『キネマ旬報』の読者選出ではベストワンに選ばれるなど、作品の評価そのものは非常に高かったためにマスメディアで様々な敗因の考察がなされ、東映営業部では「映画の内容がハイブローすぎてヤクザ映画とポルノが好みの東映ファンにソッポを向かれた」と分析。客層はいつもと違いホワイトカラーと女性客が圧倒的で、頼みのオールナイト興行は閑古鳥が鳴いた。脚本の小野竜之助は「ミニチュアを使った特撮を東映が大々的に宣伝し、トリックだとネタばらししたのがまずかった」「アイドル映画とくっつけないで、一本立てにしていたら結果は違った」などと話し、黒井和男も同様に「ミニチュアを派手に使って宣伝したポイントのズレが足を引っ張ったと思う」とのコメントを残している。アメリカのパニック映画に受けて立つという製作意図であったが、同時期公開された『タワーリング・インフェルノ』の拡大方式による攻勢により、本作も含めて東宝の『動脈列島』、松竹の『おれの行く道』などの日本映画は観客を持っていかれ、『タワーリング・インフェルノ』は当時史上最高の興行収入を記録した(62億円)。1975年度キネマ旬報ベストテン第7位、読者選出第1位。1975年には和製パニック映画『新幹線大爆破』、『東京湾炎上』、『動脈列島』が封切られた。キネマ旬報は、他2作は惨敗、唯一『新幹線大爆破』が及第点だったと評価している。1978年に『月曜ロードショー』(TBS系)で最初のテレビ放映があり、1980年代以降、同作品のビデオレンタルやテレビ放送がされるにつれ、劇場公開に間に合わなかった若い世代が本作に熱狂し、日本でも徐々に再評価されるようになった。日本ではヒットしなかったが、岡田の命でフランスに駐在していた東映国際部の杉山部長が岡田に「これは日本より外国が売れるんじゃないでしょうか」と報告。これを受け封切り公開終了後の秋にアメリカのジャーナリストを集めて試写を行うと高い評判を呼び、「通俗娯楽映画として水準を抜いたできばえ」「久しぶりの日本映画」などの評価を受けたほか、ミニチュアを使用した撮影と思わず、技術的にも評価された。その評判が全世界に流れ、「それまで商売をしたことのないような国からも引き合いがきた」という。東映国際部では、1975年10月のミラノ国際見本市に出品すると大好評を博し、さらに多くの国から輸出の引き合いが殺到した。これに気をよくした岡田は、名目上は日本代表団長として、実際は「新幹線大爆破応援団長」として世界の映画祭に直接乗り込みアピール。香港の日本映画見本市やテヘラン映画祭、ソビエト・タシケントのアジアアフリカラテンアメリカ国際映画祭など海外市場に積極的に売り込みを図ると、1975年から1976年にかけて輸出された東映作品の中で抜群の売れ行きを見せた。特にフランスではそれまで日本映画をマイナー扱いし、アートシアター形式の小劇場でしか上映されなかったという前例を破り、1976年6月からパリ及び近郊のゴーモン系劇場17館で一斉公開され、8週間のロングランヒットを記録。ヒットの理由は「フランスにも日本の新幹線に触発されて開発中だった高速鉄道のTGVがあったから」との声もあり、約44万人の動員を記録し、1976年12月18日からは日本でフランス語吹き替え版が凱旋公開された。日本において不入り映画が再上映されるのは珍しい事例といわれる。このフランス語版では犯人側のドラマはカットされ、沖田たちは単なるテロリストとして扱われたが、佐藤はこのカット版の大ヒットに複雑な思いがあり、フランス語版に基づいたテレビ放送を見た知人からの「面白かったよ」という電話に対し、「本当はもっと面白かったんだ」と言い返したとエッセイに記している。海外版は日本のスターが集結した超大作というよりも、アクションスター・サニー千葉主演のパニック映画として扱われているといわれる。イギリス・ロンドンではオリジナル版が上映され特別賞を受けたほか、その他英語圏では『' 』にて115分、フランスで『"Super Express 109" 』もしくは『' 』にて100分でそれぞれ公開されている。他にドイツで『' 』、スペインで『' 』、イランで『" 』など、1976年12月の時点で120ヵ国で公開されたとされ100ヵ国のポスターが存在するといわれる。犯人側と国鉄側ともに労働者に焦点があたっている内容ゆえか、東ドイツなど共産圏でも公開され好評を得た。地上波での初めてのテレビ放送は、1978年4月24日月曜日にTBSの『月曜ロードショー』で、カットされた2時間バージョンだった。その後、1980年4月4日金曜日に『ゴールデン洋画劇場』(フジテレビ)で、放送枠を21:00-23:55まで拡大して放送された。後にテレビ朝日などでも、年末特番として3時間枠でほぼ全長版で放送された。日本テレビでは1990年代に深夜番組として海外版にシーンを追加したバージョンがCM無しで放送された。有料放送では2009年(平成21年)頃にWOWOWで全長版が放送された。1975年に勁文社より佐藤純弥・小野竜之助共著『新幹線大爆破』が刊行された。またイギリスのミステリー小説家ジョゼフ・ランス(本名:)によるノベライズ版『"Bullet Train" 』が、1980年にイギリスで、1981年にアメリカで出版、1992年に7ヵ国語、2002年時点では16ヵ国で翻訳出版されているという。訳書は2010年に、イギリス版を元に論創社で刊行(論創海外ミステリ版、加藤阿礼・駒月雅子訳)された。ビデオソフト黎明期からソフト化が行われており、1981年には東映芸能ビデオから2巻組の全長版VHSが8万5000円で、60分に短縮されたバージョンが2万4800円で発売されていた。1983年8月16日にシネスコ版のビデオが発売され、その後1998年5月21日に再発売された。1999年(平成11年)7月21日に東映ビデオより2枚組レーザーディスクが発売された。東映プロデューサーの坂上順が、本作と1999年(平成11年)公開の「鉄道員」のプロデューサーであり、本作を機に東映を退社した高倉の事実上の復帰作でもある事から発売が企画された。佐藤監督と坂上プロデューサーのショートインタビューと公開当時の資料が見開きの内ジャケットに掲載され、インナージャケットには『ガメラ3 邪神覚醒』を制作していた庵野秀明と樋口真嗣による1998年(平成10年)の時点から作品を視聴した対談(現代との差異点・リメイクの話題など)が掲載されている。2001年(平成13年)、東映50周年記念を機にDVDソフト化希望の映画タイトルを投票により募集したところ、3位にランキングされ、2002年4月12日にレンタル開始、7月21日にセル発売となっている。

出典:wikipedia

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