シンセサイザー()は、一般的には主に電子工学的手法により楽音等を合成(:シンセサイズ)する楽器「ミュージック・シンセサイザー」の総称。電子楽器、音源と呼ばれることもある。シンセサイザーの発明は、「ある時 誰かが 世界で初めて何かを発明し、その成果が後に世界中に広がった」という出来事ではない。100年以上にわたる電子楽器の歴史の中で、多くの人々が試行錯誤を繰り返し、時としてほぼ同じものがあちこちで再発明されながら、技術の蓄積と概念の洗練が進み、途中、戦争による停滞や技術者の世代交代を挟んで、1960年代以降マイクロ・エレクトロニクスと共に急速な発展を遂げて、現在の形になった。出発点は19世紀末に遡る。最初に登場したのは発電機や電話を応用したシステムで 、次に有線音楽配信を狙った巨大システムが構築された 。20世紀初頭、真空管が発明されラジオやトーキーの実用化研究が本格化すると、ラジオ技術 を応用した楽器 や、トーキー技術 を応用したサンプラーの祖先 が登場した。遅くとも1920年代初頭には楽器用低周波オシレータが登場し、それをリボンコントローラや鍵盤で演奏する電子楽器が登場した 。これらの楽器は後の改良の結果、現在ではシンセの祖先と見なされているが、登場当時は非常にシンプルでシンセサイザーと呼べる物ではなかった。1930年代にはシンセサイザーの基本要素が出揃い 、初期のシンセサイザー時代が開幕した 。ただし当時のフィルターは、パッシヴ回路が主流でその効果は緩やかなため 、1970年代アナログ・シンセのように強力な音作りの手段にはならず、むしろ他の合成方式や発音方式、 の音色調整として補助的に使われる事が多かった。この時期に登場した、ミニモーグのような機能と外観を持つ楽器もその一例である。ポリフォニック楽器の分野では、当初は方式や ピックアップ方式が有力で、特に倍音加算合成をトーンホイールで実現したハモンド・オルガン は一大勢力となり、この分野で40年以上勢力を維持した。電子楽器では「分周回路」と「フィルターによる減算合成」を組合せた新しい楽器が登場し 、これ以降多くの電子オルガンが同方式をベースとした倍音加算合成を提供した。ただし当時のオルガンの多くが採用した全鍵発音方式は、当時の実装技術では規模が巨大化しがちなため、個々の音響合成回路はごくシンプルに抑えられ、音色表現能力は限定された。そこで高度な表現力を要するリード演奏専用に、単音で小型の電子鍵盤楽器 が登場した。これは オルガンやピアノの鍵盤近くに設置して合奏する小型楽器で、その演奏スタイルは後に、電子オルガンのソロ鍵盤や、電子オルガン上に置くプリセット・シンセに発展した。このほか同時期、1939年ニューヨーク・ワールドフェアでヴォコーダ(1928年通信用途で実験開始)や鍵盤演奏型のスピーチシンセサイザー(Voder)が一般公開された 。しかし同年勃発した第二次世界大戦により各国は戦時体制へ移行し、ヴォコーダは軍の暗号通信装置(SIGSALY)に利用され、アメリカの電子楽器開発者は爆撃誘導装置やレーダーの開発に駆り出され、ドイツの電子楽器研究拠点ハインリッヒ・ヘルツ研究所では、職場のユダヤ人排斥に反対したが職を追われ、そうして世界の電子楽器開発は停止した。 1945年に戦争が終わると、ドイツの電子音楽スタジオが即座に活動を再開し、またドイツで実用化されたテープレコーダを使って音を切り貼りするミュージック・コンクレートがフランスに登場し、現代音楽という新しいキーワードの元、電子楽器が息吹を吹き返した。1950年前後、軍事技術だったコンピュータが世界に広がると共に、コンピュータ音楽が登場した。当初は曲の自動演奏が試みられ、次に高い計算能力を生かして確率的作曲や音響合成に応用された。1957年のプログラムは、ディジタル音源とソフトウェア音源の元祖と認識されており、後にその上でFM合成を含む多くの研究開発がなされた。同じ1957年には「シンセサイザー」という名を初めて使ったコンピュータ用音源「」も登場している。その基本構成は現在のアナログ・シンセサイザーとほとんど同じで、出力される音は初期のアナログDTM音源のクオリティに到達していた。1952-1958年、音楽家が開発した「」は、鍵盤の他にR.A.Moog社のテルミンを流用したコントローラを装備し、後には電圧制御式シーケンサも追加された。後にモーグは、クラヴィヴォックスの回路や音が 60年代のモーグ・シンセサイザーとよく似ていたと語っている。"(以下要約中。詳細は各節参照)"シンセサイザーを含む電子楽器の歴史は、およそ19世紀末まで遡る事ができる。それ以前にも電磁気学的効果を応用した電気楽器がいくつか登場していたが、自由な音響合成を特徴とするシンセサイザーの祖先としては、19世紀末以降の下記を挙げるべきだろう。1920年代には、エレクトロニクスの発達により、真空管式の電子楽器が登場した。以上の3つは、しばしば一般向け解説書で「シンセサイザーの先祖」として言及され、中でもテルミンは、アナログ・シンセサイザーのルーツにあたる最初期の電子楽器 とされる事が多い。 または、発明者の弟子が精力的な改良を行い、リボンコントローラ楽器としての本質を守りながら、後にモーグ・シンセサイザーと同様な機能や形に進化した。一方日本では、1935年ヤマハの山下精一が「マグナオルガン」を発表している。これはドイツ留学経験のある山下がテルミン等の電子楽器にヒントを得て開発した、各種楽器音を再現可能な鍵盤楽器と伝えられているが、詳細は不明である。1930年代には、既に前述のシンプルな電子楽器が登場していたが、ピアノやオルガンに匹敵する本格的電子楽器の実用化は疑問視されていた。例えば1936年Miessnerは、フィルターを使う減算合成も、倍音を重ねる倍音加算合成も、電子回路では機構が複雑になり過ぎ実用化が難しいので、生楽器の発音機構を併用した電気楽器こそ実用的だとする説を発表した。しかし減算合成は1936-1937年に相次いで実用化され、また倍音加算合成もパイプオルガンの再現目的で後に実用化された。1936年、による の改良版 コンサート・トラウトニウム は、鐘の音を再現可能な(副倍音)加算合成と、フォルマント・フィルターによる音作りを併用した。この楽器は、パウル・ヒンデミットの"トラウトニウムと弦楽の為の協奏曲" や、1940年リヒャルト・シュトラウスの"日本の祝典に寄せる祝典曲" の1942年ドイツ・プレミア公演(鐘の音の再現)で使用された。1937年、ドイツのハラルト・ボーデは、初期のキーアサイン方式による部分ポリフォニック・シンセサイザー「ワーボ・フォルマント・オーゲル」を開発、その後約50年間に渡って多数の発明と製品開発を継続して、モーグを始めとするアナログシンセサイザーの歴史に大きな影響を残した。1937年頃、アメリカのハモンドは、全鍵発音式の減算合成ポリフォニック・シンセサイザー ノバコードを開発、1939年に発売開始した。「一台でオーケストラやバンド・サウンドに匹敵する音を出せる」という触れ込みの最も初期の電子楽器で、1960年代まで数多くの映画/ラジオ/テレビのサウンドトラック に使用された。 1940年代になると、他のメーカも同様な方式に基づく電子オルガンを開発し発売した(なお戦争のため発売が戦後にずれた機種も多い)。登場当時の電子オルガンは、電球のような形とサイズの真空管を数十〜百本単位で使った物量勝負の電子機器であり、真空管の特性上、その動作は必ずしも安定しているとはいえなかった。また各メーカが自社の電子オルガンのモデルにした楽器は、教会用パイプオルガン (アーレンオルガン)、シアターオルガン (、エレクトーン)、ハーモニウム/リードオルガン等と、明らかに差異があったが、総称的にすべて 電子オルガン と呼ばれた。また電子オルガンとは別に、細かな音作りや表現が可能な小型の単音電子鍵盤楽器の系統も登場した。1952年、アメリカの作曲家が開発したシンセサイザーは、鍵盤演奏式でオーディオ・エンベロープやビブラートを装備していた他、若きロバート・モーグが製造したテルミンをコントローラに採用し、3オクターヴにわたるポルタメントを実現していた。後期のモデルでは電圧制御式シーケンサ等が追加され、音程や音色の制御信号(CV)を映画フィルム上に光学的に記録・再生できた。後にロバート・モーグは、先行したClavivoxの回路や音が、60年代モーグ・シンセサイザーと類似していたと語った。これらの楽器は、人気オルガン奏者がソロフレーズに活用して一時代を築いたり、電子音楽スタジオで現代音楽の作品や映画のサウンドトラック作成に使用され、後に登場したトランジスタ式シンセサイザーを受け入れる音楽的土壌を育んだ。日本では1960年前後、同様な単音楽器が電子オルガンのプロトタイプ として開発・発売された。「電子オルガンに載せて使うソロ楽器」というコンセプトは、アープやモーグのプリセット・シンセを経て、日本の初期シンセ製品にも引き継がれた。1928年、ベル研究所のは通信回線多重化のための音声符号化/同復調法の研究を行い、バンドパス・フィルター方式のヴォコーダーの実験を開始した。この技術は1935年特許出願され、1939年米国特許が成立、同年開催のニューヨーク・ワールドフェアで一般公開された。また同技術を応用した鍵盤操作式スピーチシンセサイザー VODER (1938年米国特許) も同時公開された。ただしこの時点では音楽的利用を図った形跡は見られない。そして戦争開始とともに軍事通信への利用が最優先になり、SIGSALY をはじめとする多くの軍事用音声暗号化システムが同技術を採用した。なお同時期には軍事技術を民生転用して、音楽用ヴォコーダーとよく似た効果が得られる別の音楽用装置が誕生している。1939年アルヴィノ・レイが開発した は、電子楽器というより1970年代のトーキング・モジュレーター () を連想させる「任意の音を喋らせる」装置である。この装置は軍事用喉マイク を 喉スピーカに転用し、喉に当てて口を動かすと、あたかも効果音や楽器音が喋っているかのような効果が得られた。Sonovoxは1940年のの映画や、アニメ映画の動物の声、ラジオ局のジングル等に使用されており、名称はともかくその効果と音は一般に広く認識されている。1950年、オーストラリア最初のコンピュータCSIR Mk1上で、世界最初のコンピュータ音楽が演奏された。1957年、ベル研究所のはと呼ばれる、ディジタル信号の生成・処理プログラムを開発した。これはディジタル・シンセサイザーやソフトウェア音源の元祖と言われており、そのほか潜在的にディジタル・サンプラーの元祖でもある可能性が高い。MUSICはその後進化を重ねてで一旦完成し、マサチューセッツ工科大のに引き継がれて、現在オープンソースのCsound、、の原型となった。1980年代IRCAMで開発された有名なグラフィカル音楽言語Max (1990年発売)は、マックス・マシューズの名前にちなんでいる。1956年頃 (1955年説もある)、RCAプリンストン研究所の ハリー・オルソンとハーバード・ベラーが「RCA マークII サウンド・シンセサイザー」 という真空管製でパンチテープ制御式のコンピュータ用音源を開発し、1957年に同機は設置された。歴史上「シンセサイザー」(合成)という単語が用いられた初めての音響合成機器とされており、構成図によれば 現在のアナログシンセサイザーの基本要素をほぼ備え、録音によれば 初期DTM音源と同程度の演奏が可能だった事を確認できる。なお同機は、確率論に基づく音楽の数学的解析と音楽生成手法の研究のために開発された音源であり、音響合成の研究や楽器の確立は特に目的としていなかった。このほか、コンピュータ連携の有無は不明だが、1955年頃ドイツの総合電機メーカー シーメンス が、英語で " と呼ばれる電子音響合成システム(ドイツ語名不詳) を開発して同社Siemens Studioに設置している。これは同社が当時制作中だったシーメンスグループの記録映画に、飛びぬけた音楽をつけようと若手作曲家に依頼をし、この作曲家に同社研究所が協力する形で開発された。システムの構成は、戦争中の通信用ヴォコーダを改造した音楽用ヴォコーダを中心に、その他の音源ソース(パルス波, ノイズ)、フィルター、テープレコーダ、ミキサー等からなり、RCAの装置と同様にパンチテープによる自動制御も装備していた。システムは同社Siemens Studioに設置されサウンドトラック制作に使用された後、1960-1963年には同機の有効活用を目的に多数の現代作曲家が招聘された。しかしこの文化活動は多額の費用がかかったため許容範囲を逸脱し、1963年同スタジオは ()に譲渡され、そこで数年間の利用の後、閉鎖された。1959-60年、ハラルト・ボーデはモジュラー・シンセサイザー と サウンド・プロセッサーを開発し、そのコンセプトを論文で発表した。また1961年には、トランジスター技術を使ったコンパクトで自己充足的なモジュラー・シンセサイザーを AES論文で提案し、そのアイデアは、モーグといった初期のシンセビルダーにより相次いで実現された。1963年、アメリカのは、おそらく世界初となる現代的なモジュラー・シンセサイザー 100 series を開発した。1964年、アメリカのロバート・モーグ博士は、テルミンのトランジスター化とRCA・マークIIの改良に関する研究を通じて、楽器としての使用に足るシンセサイザーの試作を行い、モーグシンセサイザーの仕様を確立した。1965年同博士による「モーグ・シンセサイザー」は、CM関係者のアルウィン・ニコラやレコード・エンジニアのウォルター・カルロスに納入され、1967年には製品版モジュラー・シンセサイザー(Moog modular synthersize I,II,III)を発売している。なお同時期アメリカではアープの前身が電子楽器の特許出願を開始し、ロンドンでは後のエレクトロニック・ミュージック・スタジオ創設者が、電子音楽スタジオをコンピュータ制御する計画を開始した。1968年、ウォルター・カルロスによる「スウィッチト・オン・バッハ ()」は、アメリカ・コロムビア・レコードよりリリースされ、全世界で累計100万枚を売り上げるヒット・アルバムとなった。さらにエマーソン・レイク・アンド・パーマーのキース・エマーソンを初め、1970年代には多くのロック系ミュージシャンに使用され、さらに冨田勲の「月の光」「惑星」などの作品が世界的なヒットをすることによって、一般的にも認知される楽器となった。1970年前後には、「EMS」、「アープ」、「イー・ミュー ()」といった比較的新しいメーカーも参入した。日本では 1973年3月 コルグがミニコルグ700を発売、同7月 ローランドが を発売、同時期にヒルウッドもBlue Commets '73を発売、翌1974年にはヤマハがSY-1を発売し、70年代を代表する日本のシンセサイザー・メーカが勢ぞろいした。 なお1970年代までのシンセサイザーは、モノフォニック・シンセと呼ばれる1音しか音の出ないタイプが主流だったが、70年代中期にヤマハやオーバーハイムがポリフォニックシンセサイザーを発売し、さらに70年代後期にはシーケンシャル・サーキットが音色メモリーを搭載したProphet-5を発売、市販製品の制御部にもディジタル技術が浸透し始めた。デジタル音源の普及と共に一時期廃れていたが、2000年代に入ってアナログシンセが見直され、各社から往年の名機の復刻や雑誌の特集でも取り上げられるなど、一部で復活の機運が高まりつつある。前述のようにヴォコーダは 1928年最初の実験が行われ、1939年一般公開された。同時公開で応用技術による鍵盤式スピーチ・シンセサイザーも登場したが、当時はどちらも音楽利用された形跡は見当たらず、その後ヴォコーダは軍事暗号通信に広く利用された。なお同時期にはが安価な喉スピーカで「喋る楽器」を実現して人気を博し、1960年代のトーキング・モジュレータに繋がる系譜を切り開いた。1955年シーメンスが作曲家Josef Anton Riedlと共に開発した シーメンス・シンセサイザーは、通信用ヴォコーダを改造した音楽用ヴォコーダーを中心に構成されたと伝えられており、実物も現存しているがその詳細は不明である。 1969年、アメリカのは最初の音楽用ヴォコーダ Farad を自作し、自身のアルバム"the Electronic Record for the Children" (1969)で使用した。そしてFaradはたちまち追随者を生み出した。1970年ウェンディー・カルロスとロバート・モーグはFaradにインスパイアされた10バンドのvocoder (元の名は spectrum encoder-decoder)を開発した。当初は発音を区切らないと声が不明瞭だったが、後にシビランス・コントローラ を追加し、通信用ヴォコーダとは別の「音楽用ヴォコーダ」が確立した。以降各社からヴォコーダが相次いで登場し、70年代-80年代前半に最初のヴォコーダ・ブームが到来し、2000年代にはバーチャル・アナログ技術でコンパクト化されたヴォコーダが2度目のブームを巻き起こしている。前述のようにディジタル音源は1957年Max Mathewsの登場以降、主に高価な大型コンピュータ上で研究が進められた。一方、同時期に誕生したマイクロ・エレクトロニクス技術は、1960年代の宇宙開発/軍需ニーズを背景に急速な発展を遂げ、1970年前後にはLSI技術の民生利用が本格化し、その中からマイクロプロセッサが誕生した。こうして1970年代には、大型コンピュータを専用ハードに置き換えた初期のディジタル・シンセサイザーが登場し、一足早くディジタル音源時代が開幕した。他方、国内楽器業界は 有名なディジタルオルガン特許係争 の影響もあり、ディジタル音源開発への取り組み全般が滞りがちだった。そのような中、ヤマハは早くからディジタル音源開発に取り組み、また積極的な訴訟対策を行って、1977年同社初のディジタル系となるPASS音源を発売、更にスタンフォード大学からFM音源のライセンスを取得して万全を期していた。また電卓戦争の覇者カシオは、1979年VLSI技術を使った小型電子楽器やホーム・キーボードを発売し、ディジタル楽器の低価格化競争の先鞭を付けた。1980年、ヤマハはFMアルゴリズムを使った画期的なディジタルキーボード GS1を発売し、1983年には普及価格のDXシリーズを発売して、一大ディジタル旋風を巻き起こした。FM音源は周波数変調を用い複雑な倍音を持った金属的な響きを特徴とし、多くのミュージシャンが積極活用した。一方この時期には、数多くの有名なシンセ・メーカー や キーボード・ブランドが 高機能低価格化の流れから振るい落とされて、80年代半ば頃に事業終結したり、吸収合併または商標売却等の憂き目に合った。1980年代中盤には、それ以外のディジタル・シンセサイザー や サンプラー も普及価格で登場し、オールインワンのワークステーション機種も登場して、一般ユーザ・レベルのディジタル音源時代が開始された。他方、1980年代初期に活躍したハイエンド・ディジタル製品はその優位性を失い、徐々に事業を停止して独自技術の売却や技術移転をしたり、あるいは思い切った業態変更を余儀なくされた。それまでのシンセサイザーは、メーカー毎に独自の制御方式を採用していたので、シンセサイザーの相互接続には大きな壁があった。MIDIは、異なるメーカー間であっても、複数の電子楽器を連動し演奏・操作可能にする事を目的として、1981年初春、Sequential Circuits/Oberheim/Rolandの3社で規格策定を開始した。1981年秋には他の日本メーカも参加して規格策定を進め、1982年MIDI基本仕様(ドラフト)が登場、初期製品で規格を実地検証した後、1983年「MIDI1.0詳細仕様」が正式に制定された。1990年代に入ると、デジタル技術の発達により実際の楽器の音色をサンプリングしたPCM音源が一般的となり、昔ながらの音を合成する楽器というニュアンスは薄れていった。それでもこの時期にもコルグやヤマハなどから物理モデル音源といった新たな音源方式を採用したシンセサイザーも発売されている。1995年、Clavia DMIがDSPによるバーチャルアナログ・シンセを発売すると、高価で不安定なヴィンテージ・シンセに代わる新しい楽器として注目を集め、各メーカも同様な製品を発売し始めた。ソフトウェア音源は前述のように1957年に始まり、その後継システム上で研究開発が続けられ、1970年代末ディジタル音楽ワークステーションの形でポピュラー音楽製作現場に入り込んだ。1980年代末から1990年代初頭にはDSP搭載の研究用ワークステーション(IRCAMカードを搭載したNeXT,SGI Indigo等)やDAW系システム(digidesign製品等)で進化を続けた。そして1990年代前半、一般のパソコン上のソフトウェア音源利用が一般化し始めた。1990年代半ばにはDTM音源(Reality, VSC, Timidi)や各種シミュレーション音源(Rubberduck, ReBirth、Juno)が実用され、またDAW用プラグイン規格(VST規格, Direct Music(DXi)等)も登場した。そして2000年代以降、高性能化したパーソナルコンピュータ上でDAW環境が安価に安定して利用可能になると、それまであまりコンピュータに手を出さなかった平均的な音楽製作現場でも、DAW上で動作するソフトウェア楽器を徐々に使用するようになった。なおソフトウェア・シンセサイザーとは、基本的にこれまでの各方式のシンセサイザーをコンピュータ上に再現したもので、新しい音源方式ではない。ソフトウェア・シンセサイザーではコンピュータの演算能力と記憶容量を利用し利便性の面が拡張されている事が多く、使い勝手の向上をもたらしている。現在ではコンピュータ上に多くの音源方式がシミュレートされ、手軽に多くのタイプの音源方式にふれられる事から、一時下火となっていたアナログシンセのような、音を合成して音色を作成するような音作りにも目が向けられるようになっている。演奏では、小室哲哉や浅倉大介が多用している。加算合成、減算合成、・変調合成や、サンプリング音源、またはそれらの複合型など多数の方式が存在している。アナログシンセサイザーの時代は減算合成が主流だったが、その後、ディジタル技術の発展により、サンプリングしたデータを元に音を構築するPCM音源が主流となった。当初は特殊な電子装置やキーボード (楽器)の一種として分類されていたが、その後、ギター型や笛型、打楽器型のコントローラーを備えたシンセサイザーが登場した。さらに演奏用のインターフェイスを分離したシンセサイザーモジュールと呼ばれる機材も登場している。ここではシンセサイザーそのものに関する任意の業績があると評される者のみを、その業績も含めて列記している。
出典:wikipedia
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