加藤 健(かとう けん、1981年3月23日 - )は、新潟県北蒲原郡聖籠町出身の読売ジャイアンツ所属のプロ野球選手(捕手)。愛称は「カトケン」。1998年のドラフト会議において、読売ジャイアンツから3位で指名され、入団。高校では通算15本塁打を放っている。9月27日の対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)の6回裏で一軍初出場を果たすと、その後も数試合に出場しながら打撃では3打数0安打に終わった。にはフレッシュオールスターゲームにイースタン・リーグ選抜として先発出場し、上野裕平とバッテリーを組んだ。には2試合に出場するも無安打に終わるなど一軍に定着できず、にはイースタン・リーグで打率.289・5本塁打で二軍の成績を収めた。は4年ぶりに一軍出場を果たすと、同年6月11日の対千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)でようやく一軍初安打を記録した。その後も少ない出場機会ながら打率.294を記録、同年オフにはハワイ・ウィンターリーグへ派遣されることが決まった。からは正捕手・阿部慎之助に次ぐ2番手として開幕一軍入りを果たす。出場試合の少なさは変わらなかったものの、同年9月21日の対横浜ベイスターズ戦(東京ドーム)では負傷していた阿部に代わって先発出場、寺原隼人からプロ初本塁打を放って勝利に貢献した。は開幕前に左肩を骨折したことで出遅れるも、開幕から控え捕手として一軍入りを果たした。この年に開催される北京オリンピックに阿部が出場することを見越し、同年6月に横浜ベイスターズから鶴岡一成が加入すると、経験・打撃力などで上回る鶴岡に次ぐ第3の捕手としてチームを支えた。この年は前年に並ぶ28試合に出場し、2008年の日本シリーズにおいても阿部の代わりに5試合に出場するなど、プレーオフでは自身最多の出場機会を得た。同年オフに上原浩治がボルチモア・オリオールズへ、二岡智宏が北海道日本ハムファイターズへそれぞれ移籍したことで、翌年からは1998年ドラフト指名選手で最後の読売ジャイアンツ所属選手となった。はオープン戦において低迷したことで完全に出遅れ、同年7月3日に昇格した。その後、9月20日に抹消されるまでに13打席において2死球を受け、負傷退場も経験するなど苦難の年となった。特に2009年9月4日の対ヤクルト戦(東京D)においては、延長11回に高木啓充から頭部に死球を受けて交代したが、この時すでに巨人は加藤以外に捕手登録されていた阿部慎之助・鶴岡一成をすでに交代させており、急遽捕手経験のある木村拓也が捕手を務めるという事態も発生した(詳細は木村の項を参照)。は捕手として1試合の出場、さらに守備機会も無かったが、は開幕前に阿部が負傷離脱したことで、實松一成と共に控え捕手へ返り咲いた。開幕2戦目となった4月13日の対東京ヤクルトスワローズ戦(東京ドーム)では内海哲也とバッテリーを組んで7回途中無失点に抑え、4月15日の東京ヤクルトスワローズ戦(東京ドーム)では澤村拓一の初登板・初先発でバッテリーを組んだ。2012年は、レギュラーシーズンでの出番は限られたが、11月1日の日本シリーズ第5戦には阿部の負傷もありスタメン出場。この試合の4回表の攻撃時、日本ハムの投手多田野数人が投じたボールに加藤はバントの構えから大きくのけぞり、さらに当初ファウルと判定していた主審の柳田浩一に頭を押さえるポーズをして頭部死球をアピールした。柳田はこの投球が加藤の顔に当たったとして「死球」と判断し、多田野は危険球により退場となった。しかし、リプレイの映像では投球は加藤の頭には当たっておらず、評論家からはこの判定を疑問視する声があがっており、加藤が死球を装ったのではないかという疑義も持たれている(詳細は柳田浩一#誤審騒動も参照)。2012年のアジアシリーズ制覇にも貢献。2015年は、阿部の一塁転向や相川亮二の骨折離脱もあり出番が増加し、2度の猛打賞もマークするなど35試合出場・18安打はプロ17年目にして自己最多を記録した。2016年は小林誠司が正捕手に定着したこともあり再び出場機会を減らし、わずか2試合の出場に終わった。同年限りで鈴木尚広が引退し、加藤も戦力外通告を受けた。
出典:wikipedia
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