柴田 勝頼(しばた かつより、1979年11月17日 - )は、日本の男性プロレスラー、総合格闘家。熊本県生まれ、三重県桑名市出身。新日本プロレス所属。プロレスラー、レフェリーとして活躍した柴田勝久は実父。父親の影響で何となく自分もレスラーになるんだろうと思っていたという。三重県立桑名工業高等学校時代はレスリングにて1997年全国高校生グレコローマン選手権81kg級に出場、2回戦で中邑真輔に敗れた。新日本プロレスの後藤洋央紀は高校の同窓生。レスリングの推薦で福岡大学への進学が決まっていたが、「大学に行ったら4年間プロレスラーになれない」との思いから高校の恩師と相談の上、恩師・父親と大学に出向き謝罪して推薦を取り消して貰い、新日本プロレスの入門テストを受けた。1998年に新日本プロレスに入門。1999年10月10日、井上亘戦でデビュー。ヤングライオン時代はその井上と共にジュニアヘビー級の路線に割って入り、IWGPジュニアタッグ王座に挑戦したことがある。シングルでも当時ケンドー・カシンが保持するIWGPジュニアヘビー級王座に挑戦するなど健闘を見せた。2000年4月、第8回ヤングライオン杯の公式戦で対戦した福田雅一が事故死する。2002年4月、メキシコへ短期遠征するも、同年6月に目の治療により戦線を離脱。11月に復帰し、マスクを被り天山広吉と乱闘を繰り広げた。2003年より魔界倶楽部入りし、魔界4号として活動、ファイトスタイルは蹴りを主体としたスタイルへと変貌し、以後はヘビー級レスラーとして活動をしていく。2003年11月3日、新日本プロレスのリングで天田ヒロミとK-1ルールで対戦、ファーストダウンを奪うものの、天田の膝蹴りでKO負け。2004年5月3日、K-1戦士・武蔵とも異種格闘技ルールで対決し、武蔵からテイクダウンを奪うものの、「寝技制限20秒」というルールにより極められず、最後は左ハイキックでKO負けを喫した。2004年5月15日、ブラジルで開催されたJungle Fight 2に参戦。初挑戦となった総合格闘技ルールでアイスマンと対戦し、肩固めで一本勝ち。2004年初め頃から会社側の意向で、柴田・中邑・棚橋弘至の3人が「新・闘魂三銃士」と呼ばれるようになるが、3人共にこのプランにあまり前向きではない反応を示し、特に柴田は「俺を新三銃士で括るな」と頑なに拒絶していた。2005年1月、新日本プロレスと3度の契約更改交渉を行うも決裂、1月31日付で退団した。同年5月14日の新日本プロレス東京ドーム大会に登場するも、翌週、上井文彦の興行会社ビッグマウスと契約を結んだ。2005年8月4日のビッグマウス主催大会「WRESTLE-1 GRAND PRIX 2005」に出場、プロレスリング・ノアの秋山準と対戦し13分46秒リストクラッチ式エクスプロイダーで敗北した。2005年8月10日、ビッグマウスとは7月末に契約を満了し、8月からは関連会社で村上和成が代表を務めるビッグマウス・ラウドに移籍をしたと発表。2005年11月5日、プロレスリング・ノアの日本武道館大会にて、KENTAとタッグを組み初参戦。2006年3月22日、前田日明・船木誠勝らの脱退騒動もあった「BIG MOUTH ILLUSION III」での門馬秀貴戦は、門馬のプロレスへの適応が高かったこともあり(プロレス参戦2戦目であった)、柴田のベストバウトと言われるほど評価が高い。2006年7月2日、「BIG MOUTH ILLUSION VI」での佐々木健介戦で、ノーザンライトボムに受け身をとった際に健介の顔と柴田の膝が接触、後ほど健介は左眼窩底骨折と判明した。2006年8月20日をもって、ビッグマウス・ラウドを退団、フリーランスの形態(柴田曰く「これから全て責任を取る」)で他団体に参戦していく意向を明らかにした。これについて柴田は「月に一回しか試合が無いことに不安を感じていた」とコメントしている。仲の良いKENTAが所属し、かねてより継続参戦を希望していたノアのリングがフリーとしての初戦となることが決定した。同年9月9日には、プロレスリング・ノア日本武道館大会にて、タッグマッチが組まれた(KENTAと組んで田上明・潮﨑豪組と対戦し、勝利)。2007年3月1日、本格的に総合格闘大会HERO'Sへの参戦を表明。また船木誠勝とともにチームARMSを発足させたことも明らかにした。同3月12日、HERO'S 2007 開幕戦 〜名古屋初上陸〜で山本宜久と対戦し、1R開始9秒右フックでKO勝ち。HERO'S初戦を白星で飾った。試合後、谷川貞治HERO'S実行委員は柴田を「ダントツで良かった」「雰囲気がある。トーナメントに出したい」と絶賛した。また試合に向けて20kg以上の減量を行い85kgにまで絞り、脂肪を落とした格闘技戦向けの肉体に変化した。この試合に勝利した柴田は興奮状態のままコーナーポストに登り絶叫し続け、セコンドの船木に宥められる。この映像シーンは柴田の「狂犬レスラー」をイメージを決定づける場面として、その後もTV等で使われた。2007年7月16日、HERO'S 2007 ミドル級世界王者決定トーナメント開幕戦でハレック・グレイシーと対戦。ハレックが体勢を崩した隙に一気に前に出るがハレックは無理やりテイクダウンを奪う。腕ひしぎ十字固めで一本負けとなった。試合後、柴田について谷川実行委員は「素質があるので、HERO'Sだけじゃなく、小さな大会でも海外でもいいから、とにかく試合経験を積んで強くなって欲しい」と話した。2007年9月17日、HERO'S 2007 ミドル級世界王者決定トーナメント決勝戦で桜庭和志と対戦、入場花道を全力疾走し、途中で転倒し前回り受身を取ってリングイン、試合開始前にセコンドとして来場していたヒクソン・グレイシーから受け取った花束を観客席に投げるなど興奮状態で試合開始。桜庭にテイクダウンを奪われると終始パウンドを受け続け、最後は腕ひしぎ十字固めで一本負けした。2007年10月28日、HERO'S KOREA 2007でホ・ミンソクと対戦。1Rの攻防でスタミナが切れ、2Rにパンチの連打を受けKO負け。2008年5月11日、DREAM.3のミドル級グランプリ1回戦でジェイソン・"メイヘム"・ミラーと対戦し、マウントパンチによりTKO負け。2008年7月21日、DREAM.5で自ら志願して秋山成勲と対戦し、袖車絞めで絞め落とされ一本負け。2008年10月23日、DEEP初参戦となったDEEP 38 IMPACTで滑川康仁と対戦し、引き分けた。2008年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜では桜井"マッハ"速人と対戦した。ゴングが鳴った途端、走って突っ込んで、マッハの顔面から流血させるなど抵抗するも一方的なマウントパンチを浴び続けTKO負けを喫した。試合後にマッハは「もっと経験を積めばチャンピオンを狙えると思います」と柴田を評価した。2009年4月5日、DREAM.8でミノワマンとプロレスラー対決。随所にプロレス技を繰り出す展開で2R終了終盤にジャーマン・スープレックスを繰り出し判定勝ち。2年ぶりの勝利となった。2009年9月、師匠・船木のプロレス復帰に伴い、ARMSから桜庭のチームLaughter7に移籍。2009年10月25日、DREAM初のケージ開催となったDREAM.12で試合1週間前にオファーを受けた新日本プロレスの元レスラー石澤常光とプロレスラー対決。パウンドでTKO勝ちを収めた。2009年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜のDREAM vs SRC 対抗戦での泉浩と対戦し、総合デビュー2戦目の泉にスタンドで終始圧倒されて判定負けを喫した。2010年6月6日、DEEP CAGE IMPACT 2010 in OSAKAでRYOと対戦し、0-3の判定負けを喫した。2010年10月24日、DEEP 50 IMPACTで中西良行と対戦し、パウンドによるTKO負けを喫した。2010年11月8日、K-1 WORLD MAX 2010 -70kg World Championship Tournament FINALで石井慧とDREAMルールで対戦し、アームロックで見込み一本負けを喫した。当初石井と対戦予定であったアンズ"ノトリアス"ナンセンが大会直前のドクターストップにより欠場となり大会前日になって参戦が発表されるほどの緊急参戦となった。2011年12月31日、DREAM&IGFの合同興行「FIGHT FOR JAPAN ~元気ですか!!大晦日2011!!」に桜庭和志と共に参戦し、IGFの鈴川真一&澤田敦士組とのタッグマッチに挑んだ。柴田としては5年ぶりのプロレスルールでの試合であった。試合は桜庭が澤田からTKOを奪い勝利したが、柴田は試合中にドロップキックを放ち着地の際に左腕から不自然な体勢で落下し、左手首を骨折した。2012年8月12日、新日本プロレスが主催するG1 CLIMAX最終戦、両国国技館大会にスーツ姿で登場。お面を被った桜庭と共に新日本に対して「ケンカ、売りにきました。」と宣戦布告とも言えるマイクアピールを行った。9月23日、DESTRUCTIONにて、桜庭とのタッグで6年ぶりに新日本のマットに上がり、出場。ケンカを買った井上亘&高橋広夢組と対戦し、3分3秒という短時間で試合を制する。その後、KING OF PRO-WRESTLING、POWER STRUGGLEといった新日本のビッグマッチにスポット参戦し、いずれも真壁刀義&井上亘組を相手に勝利を収める。2013年1月4日、レッスルキングダム7にて、真壁とシングルマッチで激突するも、キングコングニードロップでピンフォール負けを喫した。2月10日、THE NEW BEGINNINGにて、桜庭とのタッグで、後藤洋央紀&井上亘組と対戦。高校時代の同級生である後藤とプロレスのリングで初めて対峙した。試合は桜庭が井上からピンフォール勝ちを収め、試合後、後藤と会話を交わし再戦を希望した。5月3日、レスリングどんたく 2013にて、後藤とシングルマッチで対戦。張り手が相討ちとなり、ダブルノックダウン状態となってしまい、そのまま二人とも起き上がることなく両者KOの裁定が下された。その後、DOMINION6.22で柴田が勝利、KIZUNA ROAD 2013最終戦で再び両者KOとなった。8月、G1 CLIMAXに9年ぶりに出場。リーグ戦で後藤と同じブロックにエントリーされていたものの、後藤が7日の仙台大会で右下顎骨骨折を負い欠場。不戦勝扱いとなり、柴田は「早く治せ。復帰戦は俺がやってやるから」とコメントした。後藤戦の不戦勝を加えた柴田は5勝3敗という戦績で公式リーグ最終戦を迎え、11日の両国大会にて、棚橋弘至と対戦。勝てば決勝進出となる試合となったが、最後はスモールパッケージホールドでピンフォール負けを喫し、予選落ちとなった。9月8日、WRESTLE-1の旗揚げ戦に参戦。船木誠勝&河野真幸組の対戦相手Xとして、桜庭と共に登場し、試合は桜庭が河野からチキンウィングフェイスロックでギブアップ勝ちを収めた。12月7日、7年ぶりにプロレスリング・ノアに参戦。マイバッハ谷口とシングルマッチで対戦したが、マイバッハが刺又攻撃で暴走し反則勝ちとなった。この裁定に納得のいかない柴田はその場で再戦を申し入れると、バックステージに戻ったマイバッハを盟友であるKENTAの手によってリングへ引き戻され、要求通り再試合が行われた。再試合ではマイバッハの覆面を剥がす暴走っぷりを発揮し、最後はスリーパーホールドでレフェリーストップ勝ちを収めた。2014年1月4日、レッスルキングダム8にて、盟友である後藤の復帰戦の相手を務め、最後は後藤の昇天・改を喰らいピンフォール負けを喫した。試合後、場外で力なく倒れる後藤の許に駆け寄り、共に肩を組みながら退場し、「俺は今、青春をしている」というコメントを残した。2月9日、THE NEW BEGINNING in HIROSHIMAにて、後藤と初めてタッグを組み、CHAOSのオカダ・カズチカ&YOSHI-HASHI組と対戦し、快勝を収めた。3月6日、旗揚げ記念日興行において、後藤とのタッグIWGPタッグ王者のカール・アンダーソン&ドク・ギャローズ組とノンタイトルマッチながら勝利を収める。3月に開催されたNEW JAPAN CUPに初出場。1回戦ではアンダーソンを下し、週刊プロレスの表紙で「渦巻く柴田待望論」と書かれるほどだったものの、2回戦でシェルトン・X・ベンジャミンに敗れた。4月6日INVASION ATTACK両国大会において、後藤と組んでアンダーソン&ギャローズ組の持つIWGPタッグ王座に挑戦するものの敗れた。7月から開幕したG1 CLIMAX 24に出場。かつて新・闘魂三銃士として括られた棚橋、中邑と同ブロックに入り、いずれも勝利を収めた。9月21日DESTRUCTION in KOBEで再び棚橋と対戦し敗れるも、試合後棚橋と握手を交わし、電撃和解を果たした。11月8日POWER STRUGGLEで中邑の持つIWGPインターコンチネンタル王座に挑戦するも敗れる。また、この頃から巡業にフル参戦するようになり、本隊の面々と共闘している。同月から開幕したWORLD TAG LEAGUEに後藤と組んで出場。開幕3連敗でスタートするも、後半から巻き返して決勝進出。アンダーソン&ギャローズ組を破り、優勝を果たした。2016年1月4日、東京ドームWRESTLE KINGDOM 10で石井智宏の持つNEVER無差別級王座に初挑戦。死闘を制し、第10代NEVER無差別級王者になった。2016年3月3日、新日本プロレスに再入団。魔界倶楽部の一員として復帰して以降はキックを主体としたシュート系スタイルで、テレビ、雑誌等では喧嘩ストロングスタイルと呼ばれる。負けても、体が動かなくなっても、立ち上がって相手に向かっていこうとする姿勢は、藤田和之等の先輩レスラーも賞賛の言葉を送った。その代表例が天龍源一郎であり、柴田のことを可愛がっていた。柴田が新日を退団した際、天龍は「柴田くらい負けん気のある若い奴はいない」と語っていた。「技が軽い」、「プロレスが出来ない」などの声もあったが、新日時代は中邑や棚橋と活気に溢れたファイトを展開し、上記の天龍、藤田のような格上の選手相手にも印象に残る試合をしていることからも潜在的な高いセンスを彷彿とさせた。柴田は理想の試合として、1995年10月9日に行われた「新日本VSUWFインター全面戦争」の第1試合、永田裕志・石澤常光 vs. 桜庭・金原弘光戦を挙げている。柴田は「これこそがプロレスなんだ!って思いましたね。この試合を見てプロレスラーになろうと決めました」と語っている。柴田の肉体とファイトスタイルはこの頃から変化し、船木の指導により肉体は作り替えられ、二人三脚で「ステロイド剤などを一切使わずに、脂肪ではなく筋肉だけを付けて身体を大きくする」ことを目標に練習を行った。第2回興行の頃からパンクラス時代の船木のように手足が長く見えるようになり(船木曰く「これが理想的な肉体」)、第4回興行以降は今までになかったキレのある動きができるようになった。またクラシカルな動きも随所に取り入れ、そのレスリングの幅も広がっていった。なおこの頃よりアントニオ猪木を意識した動きを各所に見せるようになる。2005年よりほぼ同じファイトスタイルのKENTAとタッグを組むことになり、ノアへの継続参戦が予想されたが、スタイルの方向性の違いからかリング上では一時期距離を置いていたものの、KENTAとの交流自体は続いており、自身の技を伝授するなどしていた。新日本所属時代テ―マ曲は「BLACK NIGHT」。友人のアーチストに依頼したそうです。初期はボーカルもありましたが武蔵対決時等は前奏+間奏を使用。未CD化。
出典:wikipedia
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