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黒澤明

黒澤 明(くろさわ あきら、黒沢、1910年(明治43年)3月23日 - 1998年(平成10年)9月6日)は、日本の映画監督、脚本家、編集家、映画製作者である。妻は元女優の矢口陽子。映画史の中で最も重要かつ影響力のある映画監督、巨匠であり、ダイナミックな映像表現とヒューマニズムに徹した作風で、『羅生門』『生きる』『七人の侍』など30本の監督作品を生み出した。小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男らと共に世界的にその名が知られており、作品もアカデミー賞と世界三大映画祭(ヴェネツィア、カンヌ、ベルリン)で受賞され、多大な評価を得ている。また、北野武、スティーヴン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラなどの映画人にも大きな影響を与えており、日本では「世界のクロサワ」と呼ばれた。映画監督として初めて文化勲章受章、文化功労者顕彰、東京都名誉都民選出、贈従三位(没時叙位)、贈国民栄誉賞(没後追贈)。1990年に日本人初のアカデミー名誉賞を受賞。1999年には米週刊誌『タイム』アジア版の「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選出されている。米国映画芸術科学アカデミー会員。1910年(明治43年)、東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井)の荏原中学校(現日体荏原高等学校)職員社宅に、父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれる。父・勇の生家は秋田県中仙町(現在の大仙市中仙町豊川)の士族の家で、先祖は安倍貞任の三男・黒澤尻三郎である。勇は陸軍戸山学校の第一期体操学生から同校の体操教官となり、その後日本体育会(現在の日本体育大学)の理事となって、併設された荏原中学校の要職も歴任した。1916年(大正5年)、森村学園附属幼稚園に入園。この頃、映画を観ることは「教育上好ましい」と語る父に連れられて、よく映画見物に出かけていた。黒澤は、主演の西部劇や連続活劇など、洋画をよく観ていたという。翌1917年(大正6年)、同学園尋常小学校に入学。1918年(大正7年)、勇が不正経理を追及され、理事の職を解かれた。そのため、大井町から小石川区西江戸川町(現在の文京区水道一丁目)の借家に移り、黒田尋常小学校(文京区立第五中学校の前身)に転学した。小学校低学年の頃、気の弱かった黒澤は、泣き虫でいじめられっ子だった。3年生の時、図画の時間に描いた絵が個性的であるために他の生徒に笑われる中、担任だった立川精治はこの絵を褒めるということがあった。すると、それ以来絵を描くことが好きになり、同時に学校の成績も伸び、やがて級長にもなった。後に黒澤は、立川を「生涯の恩師」と語っている。さらに実兄の丙午(須田貞明)から厳しい指導を受けたことや、終生の友となる級友の植草圭之助に出会ったこと、父に言われ剣道を始めたことなどで、心身ともに逞しくなり、卒業式では総代として答辞を呼んだ。卒業後、東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)を受験するも失敗し、京華中学校に入学。在学中に同舟舎洋画研究所に通う。中学時代からドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフなどのロシア文学を読み耽ったことで、人生観、倫理観の形成に多大な影響を受けた。また、学友会誌に作文「蓮華の舞踏」と「或る手紙」を載せ、国語教師の小倉要逸に「創立以来の名文」と絶賛された。1927年(昭和2年)、中学を卒業した黒澤は、画家になることを志し、美術学校(現・東京藝術大学美術学部)を受験するが失敗した。しかし、画家の道を諦めきれず、川端画学校に通って洋画を勉強。1928年(昭和3年)、二科展に「静物」が入選。同年、造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に入る。1929年(昭和4年)、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、洋画家・岡本唐貴(白土三平の実父)に絵を教わる。当時黒澤は、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチなど、ルネッサンス美術の絵画や彫刻に心酔していたという同年12月、第2回プロレタリア美術大展覧会に「建築場に於ける集会」「帝国主義反対」「農民習作」「農民組合へ」「労働組合へ」の5つの政治色の強い作品を出品した。1930年(昭和5年)に徴兵検査を受けるが、父が有力な軍人であったことや、兄が騎兵時代に負傷したこともあってか免除されている。この頃から、一時期だけ非合法な政治活動に参加し、街頭連絡員として地下に潜っていた。1936年(昭和11年)、画業に見切りをつけた黒澤は、新聞広告で見たP.C.L.映画製作所(後に東宝と合併)の助監督募集に応募し、100倍の難関を突破して4月に入社した。谷口千吉の推薦によって、主に山本嘉次郎監督の下で助監督を務め、『藤十郎の恋』や『綴方教室』などを担当した。また、山本の助言でシナリオを書くようになり、1941年(昭和16年)に書いた『達磨寺のドイツ人』は、映画化はされなかったものの評論家の間では話題となり、伊丹万作からも絶賛された。翌1942年(昭和17年)に書いた『雪』は情報局国民映画脚本募集で情報局賞を受賞し、『静かなり』は日本映画雑誌協会の国策映画脚本募集で1位に入賞した。山本監督の『馬』でB班監督を務めた際、主演した高峰秀子と恋愛関係にあったが、山本嘉次郎が破談役となって、不実で終わっている。戦中、黒澤は、初の監督作品として、自らシナリオを書いた『敵中横断三百里』が予定されていた。しかし、新人監督としてはスケールが大きすぎたため、実現しなかった。後に、この企画を見送った森田信義は、「私の一生の最大のミステーク」と語っている。1943年(昭和18年)、『姿三四郎』で監督デビュー。作品はヒットし、新人監督に贈られる山中貞雄賞を受賞終戦前の1945年(昭和20年)5月21日、監督第2作『一番美しく』に主演した矢口陽子と結婚。媒酌人は山本嘉次郎夫妻で、明治神宮で挙式を行った。同年、『虎の尾を踏む男たち』を敗戦をまたいで製作する。製作中に黒澤が敬愛するジョン・フォードが進駐軍の大佐として見学に訪れていた。黒澤はこのことを後にフォードから聞いて驚いたという。一方、作品は検閲で公開を見送られ、1952年(昭和27年)にようやく公開された。戦後第1作は、民主主義啓蒙映画の『わが青春に悔なし』で、翌1947年(昭和22年)に、焼跡の市井の人にスポットをあてた『素晴らしき日曜日』を発表し、毎日映画コンクール監督賞を受賞。東宝の看板監督の一人となった。また1946年(昭和21年)、山本嘉次郎が審査委員長を務めた東宝ニューフェイスのオーディションにおいて、撮影助手志望だったが、何かの手違いで俳優オーディションの面接を受けていた三船敏郎を目撃。本来は落選となっていた三船だが、一目ぼれした黒澤は山本に直訴までして採用。三船のデビュー作『銀嶺の果て』では既に脚本を執筆(主演は志村喬)。1948年(昭和23年)、『醉いどれ天使』で三船を自作に起用し、以来黒澤作品の常連俳優となった。同年3月、第三次東宝争議が発生、この影響で黒澤は山本、谷口、成瀬巳喜男、本木荘二郎、松山崇、田中友幸らと映画芸術協会を設立して組合を脱退。争議終結まで他社で映画製作を行うことになる。1949年(昭和24年)、大映で『静かなる決闘』を、新東宝で黒澤初のサスペンス映画となる『野良犬』を発表。1950年(昭和25年)、大映で『羅生門』を撮影。人間不信のテーマを含む難解な作品であったため、国内での評価はあまり高くはなかった。しかし、海外では大きな反響を呼び、1951年(昭和26年)、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞を受賞。その映像感覚が国際的に注目され、「世界のクロサワ」と呼ばれるきっかけとなった。1952年(昭和27年)、東宝復帰第1作として志村喬主演で『生きる』を発表。ヒューマンドラマの傑作との呼び声が高く、ベルリン国際映画祭上院特別賞を受賞した。1954年(昭和29年)、1年以上の製作期間と大規模な製作費をかけた大型時代劇『七人の侍』を発表。作品は大ヒットし、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞。現在に至るまで映画史上の名作として国内外で高く評価されている。さらに、原爆の恐怖を描いた『生きものの記録』、シェイクスピアの『マクベス』を日本の戦国時代を舞台に翻案した『蜘蛛巣城』、ゴーリキーの同名戯曲を江戸時代を舞台に映画化した『どん底』、娯楽時代活劇で黒澤初のシネマスコープ作品の『隠し砦の三悪人』を撮影し、黒澤の名を国際的に高めていった。1957年(昭和32年)、第1回ロンドン国際映画祭にジョン・フォードとともに招かれ、オープニング作品として『蜘蛛巣城』が上映された。また、1958年(昭和33年)にはベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)を受賞。1959年(昭和34年)、黒澤プロダクションを設立した。黒澤プロの設立は、黒澤の意向によるものというより、『隠し砦の三悪人』の大幅な撮影予定期間オーバーによる予算超過に業を煮やした東宝側が、黒澤にリスク負担させることにより枷をはめようとしたものであった(収益の分配も東宝側に有利な契約になっていた)。その後も時代劇の傑作『用心棒』や社会派サスペンスの傑作『天国と地獄』などを発表し、大監督の名声を確定させる。1965年(昭和40年)、ヒューマニズムの傑作と謳われる『赤ひげ』を発表。枠をはめられることを嫌っていた黒澤がその完全主義を徹底させ本作は、撮影期間約1年を要して大幅な予算超過となり、東宝との関係は悪化。東宝との専属契約は、解除された。ハリウッドからのオファーを受けるようになった黒澤は、『赤ひげ』の撮影後にアメリカで『暴走機関車』の製作を準備。主演にピーター・フォークとヘンリー・フォンダ、撮影監督にオスカー受賞者ハスケル・ウェクスラーが決定していた。しかし用意された脚本に黒澤側が納得しなかったことや、制作方針を巡りアメリカ側プロデューサーのジョーゼフ・E・レヴィーンと深刻な対立が生じたために頓挫(黒澤は65ミリカラーを希望したが、ハリウッド側は35ミリ白黒を提示した)。この企画は、後にアンドレイ・コンチャロフスキーが、黒澤の執筆した脚本を原案として映画化している。1968年(昭和43年)、日米合作『トラ・トラ・トラ!』の製作に参加する。20世紀フォックス側のアメリカ公式発表では黒澤は日本側部分の演出担当、黒澤プロ側の公式発表および日本での報道では総監督となっていた。しかし、黒澤の映画作りの方法とアメリカの映画作りの方法とがうまく合わなかったり(黒澤は事前に十分なリハーサルを行った上で、撮影に臨むのが通例であるが、米側に、この事前リハーサルの意味が理解されず拒否されるなど)、東京から来た黒澤に反感を持つ東映京都撮影所スタッフとの間で摩擦が発生しスタッフがストに突入するなどして現場が崩壊したことなどを理由にスケジュールが大幅に遅延した。ついに製作遅延を無視できなくなった米側により事実上の解任をされ、表向きには健康問題を理由に監督を降板したという発表がなされた。1969年(昭和44年)10月、木下惠介、市川崑、小林正樹らと四騎の会を結成。翌1970年(昭和45年)に山本周五郎の『季節のない街』を原作に、四騎の会で製作した初のカラー作品『どですかでん』を撮影。黒澤個人の邸宅を抵当に入れて資金を確保して製作するが、商業的には失敗となる。1971年(昭和46年)12月22日、自殺未遂事件を起こす。立ち直ることができたが、日本の映画産業の衰退の時期と重なったこともあり、この後は5年おきに撮るようになった。1975年(昭和50年)、ソビエト連邦から招かれ、ごく少数の日本人スタッフを連れてソ連に渡り『デルス・ウザーラ』を撮った。ソ連の官僚体制の中で思うように撮影が進まず、シベリアのタイガでのロケーション撮影は困難を極めた。完成した作品は、それまでの作風と異なり極めて静的なものであったために日本国内では評価が分かれたが、モスクワ映画祭金賞、アカデミー外国語映画賞を受賞。ソ連側の期待に十分に応え、日本国外では黒澤復活を印象づける作品となった。1976年(昭和51年)11月、日本政府から文化功労者として顕彰される。1980年(昭和55年)、ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラを外国版プロデューサーに配して『影武者』を発表し、カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。1985年(昭和60年)、フランスとの合作で『乱』を公開。1988年(昭和63年)から米ワーナー・ブラザーズの製作とスティーヴン・スピルバーグの提供で『夢』の製作に取り掛かり、1990年(平成2年)に公開された。以上の3作はいずれも外国資本参加によって製作された。1985年(昭和60年)11月、文化勲章を受章。映画業界の人物としては初の文化勲章受章者となった。1986年(昭和61年)、第58回アカデミー賞に出席。『乱』で監督賞などにノミネートされたほか、衣裳デザイン賞でワダ・エミが受賞。黒澤はビリー・ワイルダー、ジョン・ヒューストンとともに作品賞のプレゼンターを務める。1990年(平成2年)、アカデミー名誉賞を受賞。ルーカスとスピルバーグが、「現役の世界最高の監督です。“映画とは何か”に答えた数少ない映画人の彼にこの賞を送ります」と紹介した。遺作となった『まあだだよ』公開後、山本周五郎の二つの短編作品を脚色した『海は見ていた』のシナリオを執筆。1995年(平成7年)から『雨あがる』の脚本執筆に取り掛かるが、3月に京都の旅館で転倒骨折。療養生活に入るが、1998年(平成10年)9月6日午後0時45分、脳卒中により死去。。また、同年11月11日に友人である映画評論家・淀川長治が後を追うような形で死去。叙・従三位。同年10月1日、映画監督としては初の国民栄誉賞を受賞。没後、『雨あがる』が2001年(平成13年)に小泉堯史監督によって、『海は見ていた』が2004年(平成16年)に熊井啓監督によってそれぞれ映画化された。完璧主義とも呼ばれる黒澤は、妥協を許さない厳しい演出で知られる。俳優の演技はごく自然に見えるまでリハーサルを何度も何度も行い、徹底的に役になりきらせている(当時の映画界ではリハーサルは重視されなかったが、黒澤はデビュー作からリハーサルを入念に行った)。また、本読みの段階から衣装を着させることもある。黒澤作品の美術は細部まで綿密に作られ、巨大であるセットが特徴的である。長年黒澤作品で美術監督を務めた村木与四郎は、「(黒澤のセットの特長は)みんな大きなロケセットを一つデーンと建てちゃう点」と語っている。『野良犬』では30杯ものセットを作ったといわれ、『羅生門』では高さ20メートルに及ぶ巨大な門を大映京都撮影所前に建設した。カメラに写らないところにまで大道具小道具を作り込むのも特徴で、『赤ひげ』では薬棚の引き出しの中にまで漆が塗られ、『羅生門』では「延暦十七年」と彫られた門の瓦を4000枚も焼いている。『蜘蛛巣城』のクライマックスとなる、三船演じる鷲津武時が城兵の裏切りにより、全身に矢を浴びせられてハリネズミのようになり最期を遂げるシーンでは、本物の矢が三船に射かけられるという命がけのスタントが行われ、三船は黒澤に「俺を殺す気か‼︎」と怒鳴ったほどである(蜘蛛巣城#撮影に関するエピソード参照)。『天国と地獄』では、特急こだまからの身代金受け渡しシーンで、本物のこだま用国鉄151系電車を一編成チャーターし、実際に東海道本線上を走らせて撮影を行った(天国と地獄 (映画)#エピソード参照)。ほかにも、スタッフと役者を待機させながら演出意図に沿った天候を何日も待ち続けたり、撮影に使う馬はレンタルせず何十頭を丸ごと買い取って長期間調教し直してから使ったり、ロケ現場に立っていた民家の二階部分が妨げになる為、住民にお願いして撮影の時だけ二階部分を取りさり、撮影終了後にもとに戻したなど、様々な逸話がある。黒澤は複数のカメラを同時に回し撮影するというマルチカム手法を頻繁に取り入れた。これは長い芝居を複数台のカメラで同時に回し、ワンシーン・ワンカットで撮影するという手法である。これにより役者、スタッフの緊張感を高めリアルで迫力ある映像に結びついていった。この技法は元々『七人の侍』で、雨中の合戦や水車小屋が焼けるシーンなど撮り直すことが難しいシーンを、何台かのカメラで一度に写すことから始まったもので、『生きものの記録』から本格的に導入した。独特なパンフォーカス撮影もほとんどの作品で行っており、パンフォーカスには不向きな望遠レンズをあえて使用するため、絞りを極限まで絞って撮影しなければならなかった。そのためには強い照明をあてなければならず、黒澤の撮影日は電力不足で撮影所の他の仕事ができなかったという。また、あまりにも強い照明を当て続けたせいで役者のカツラが燃えだしたこともあった。志村喬は『悪い奴ほどよく眠る』の撮影で「髪は燃えそうなほど熱く、テーブルのフォークやスプーン(小道具)は熱くて持てなかった」と語っている監督作品は基本的にはすべて自らの企画・シナリオによる。大抵の作品では共同執筆者がいたが、自分の描きたいものを自分の言葉で語るということは譲らなかったという。共同執筆する理由として黒澤は「僕一人が書いていると大変一面的になるおそれがある。二人(もしくは二人以上)でディスカッションしながらやっていく」と語っている。そんな黒澤作品の主な共同執筆者として小国英雄(12本)、菊島隆三(9本)、橋本忍(8本)、久板栄二郎(4本)、井手雅人(3本)、植草圭之助(2本)がいる。映画音楽は作曲家任せではなく、作曲家に自分の欲しいイメージを的確に伝えていた。そのため注文の厳しい黒澤と作曲家との軋轢は常にあったという。『酔いどれ天使』から黒澤作品で音楽を担当した早坂文雄とは私生活でも無二の親友であった。『七人の侍』の「侍のテーマ」を作曲したのも早坂で、黒澤の黄金期の作品の音楽を作曲した。しかし、1955年に『生きものの記録』の音楽を最後に早坂が死去。代わって彼の愛弟子だった佐藤勝が『赤ひげ』までの音楽を担当した。武満徹も『どですかでん』と『乱』の2作を担当したが、黒澤と衝突して訣別している。晩年の作品では池辺晋一郎が担当した。ほかのスタッフは、一貫して東宝で製作していたことも含め、「黒澤組」による固定スタッフで製作したことが多かった。撮影の中井朝一、斎藤孝雄、上田正治、美術の松山崇、村木与四郎、録音の矢野口文雄らが黒澤映画を支えていった。プロデューサーは『素晴らしき日曜日』以降10本を担当した本木荘二郎が全盛期を支えて名コンビを謳われたが、使途不明金疑惑で失脚。その後黒澤プロダクションが採算に分担する体制となってからは東宝側プロデューサーとして田中友幸が6本を担当しており、この間は超大作が多い。黒澤は、1948年の『醉いどれ天使』から、1965年の『赤ひげ』まで、『生きる』を除く計16本の作品に三船敏郎を起用し、全作で主演として扱った。基本的に役者に惚れこむ事の無い事で知られる黒澤も、三船を手放さなかった。この時期の黒澤作品は「三船無くして黒澤は無く、黒澤無くして三船は無い」とでもいうべき、スター俳優とスター監督との幸福な関係に支えられているといってよい。黒澤は「三船君は特別の才能の持主で代わる人がいないんだ」と語っている。黒澤が「世界のクロサワ」と呼ばれると同時に三船も「世界のミフネ」として海外で広く知られる存在になっていった。『赤ひげ』を最後に黒澤は三船を使わなくなり、そのため2人の関係は様々に取り沙汰されることになる。三船と共に志村喬も黒澤作品には不可欠な存在であり、処女作『姿三四郎』から『影武者』まで、『續姿三四郎』『素晴らしき日曜日』『どん底』『どですかでん』の4作を除くすべての黒澤作品に出演した。『醉いどれ天使』からは三船とW主演し(『生きる』はワンマン主演)、『蜘蛛巣城』以降は加齢を理由に脇役を演じた。デビュー作『姿三四郎』で主演した藤田進は、『わが青春に悔いなし』まで『一番美しく』を除く作品に出演。1946年に藤田は東宝を退社したため、黒澤作品への露出はないが、『隠し砦の三悪人』で復帰。最後に窮地に遭った主人公を助ける仇敵を演じたが、それ以降に出演した『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『天国と地獄』では端役を演じている。仲代達矢は、『七人の侍』でのエキストラ出演が初の黒澤映画出演となり、『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』では三船に次ぐ二番手の役どころで出演。それ以降の作品では、勝新太郎の降板事件で勝新の代わりに出た『影武者』と『乱』に主演した。その他黒澤映画に出演した俳優として、主要な役では森雅之(5本)、大河内傳次郎(4本)、香川京子(4本)、山崎努(3本)、寺尾聰(3本)、山田五十鈴(3本)などが挙げられる。脇役では藤原釜足(12本)、千秋実(11本)、高堂国典(10本)、本間文子(10本)、清水将夫(9本)、土屋嘉男(9本)、加藤武(8本)、三好栄子(8本)、清水元(8本)、渡辺篤(8本)、千石規子(7本)、左卜全(7本)、東野英治郎(7本)、宮口精二(4本)などが常連出演した。黒澤が日本映画史を代表する映画監督であることは、疑問の余地がない。初期の作品では骨太なヒューマニズムやストーリーテリングの巧みさ、鋭い映像感覚(助監督を務めたこともある野村芳太郎は「世界的レベルを超えている」と絶賛している)は映画のお手本として多くの後進映画監督たちに影響を与えた。多くの作品を助監督として支え、監督デビュー後も黒澤ゆずりの重厚な演出で評価を受けた愛弟子に初期の堀川弘通、中期の森谷司郎、晩年の小泉堯史らがおり、東宝では他に本多猪四郎、丸林久信、小林恒夫(東映に移籍後に監督昇進)、出目昌伸、大森健次郎、橋本幸治、脚本家の廣澤榮らが巣立っている。数少ない他社作品(「羅生門」「醜聞」「白痴」など)にも上記の野村のほか、加藤泰、中平康、田中徳三らが助監督に名を連ねており、後年名を成した者の比率が非常に高い。日本国外の映画作家らへの影響は計り知れず、直接作品の中で模倣されたものだけでも枚挙に暇が無い。ジョージ・ルーカスは代表作『スター・ウォーズ』の登場キャラクターを『隠し砦の三悪人』から着想したと述べており(そもそも『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』のストーリー自体が『隠し砦の三悪人』に酷似しており、ファーストシーン・ラストシーンともそっくりである)、C-3POとR2-D2は同作の登場人物である太平(演千秋実)と又七(演藤原釜足)がモデルとなっている。スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』において砂嵐の中からジープが現れる場面は『蜘蛛巣城』を、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』で主人公が後ろ姿だけで顔を見せない冒頭は『用心棒』を、『シンドラーのリスト』のパートカラーは『天国と地獄』を、『プライベート・ライアン』のオマハビーチの戦闘シーンは『乱』をそれぞれ模したと言われる。フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』のファーストシーンの結婚式の場面は、『悪い奴ほどよく眠る』の手法を模したと言われる。マーティン・スコセッシは黒澤映画を名画座に通い続け鑑賞し、また実際にフィルムを手にしカットの構成を研究し尽くしたという。また、ジョン・ミリアス、ジョージ・ミラー、ロン・ハワードも黒澤映画の大ファンであり、自身の作品に大きく投影されている。『七人の侍』が米映画『荒野の七人』(ジョン・スタージェス監督)、『用心棒』が米映画『ラストマン・スタンディング』(ウォルター・ヒル監督)などに翻案された。イタリア映画『荒野の用心棒』(セルジオ・レオーネ監督)のように、盗作問題に発展したケースもある。技術的には、例えばサム・ペキンパー監督が得意として他のアクション映画でも多用されるアクションシーンのスローモーション撮影は、元を辿れば黒澤明の『姿三四郎』の手法であり、アクションシーンを望遠レンズで撮る技法も同様である。また、雨や風、水といった自然描写の巧みさはアンドレイ・タルコフスキーのような芸術映画監督を感嘆させて影響を与え、『羅生門』の映像美とストーリーテリングの巧みさはフェデリコ・フェリーニが深く共感した。この映画では、どしゃぶりの雨の質感を出すために墨汁を混ぜた水を放水車で降らせる、当時の技術的タブーを破って太陽に向かってカメラを向けさせる、森の中を走るシーンを移動撮影ではなくてパニングで撮るために俳優達をカメラの周りを円を描くように走らせる、といったように視覚効果を得るため様々な工夫を凝らしている。『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』(ピーター・ジャクソン監督)の合戦シーンでは、『七人の侍』の雨の中で弓を引く勘兵衛のショットがそのまま引用されていたり、『ラストサムライ』(エドワード・ズウィック監督)では雨や風、馬や屍の使い方など、黒澤映画から引用されたショットが多数に渡っている。黒澤を尊敬しているとコメントした映画人は数知れないほどである。クリント・イーストウッドは「クロサワは自分の映画人生の原点だ」と語っている。北野武も黒澤映画の影響を受けた人物の一人である。また黒澤も北野映画のファンであることを公言していた。黒澤との対談動画もある宮崎駿作品に対する影響には枚挙に暇もない。一例として『ハウルの動く城』冒頭の『蜘蛛巣城』の類似など。国内国外監督作品は全30作。上記の作品のうち、1952年までに公開された作品は、2004年1月1日に改正法が施行される前の著作権法の規定により、公開後50年を経たことを根拠に、日本国内においては著作権の保護期間が終了したとの誤解が一部であったことから、いくつかの作品が、著作権者の許諾なしに激安DVDで発売された。これに対し、製作者(著作権継承者)の東宝と角川映画は2036年(監督没後38年)まで著作権が存続するとして発売業者を相手取り、発売差し止めと在庫の廃棄を求める訴えを東京地裁に起こした。2007年9月14日に東京地裁で原告勝訴の判決が下った。松竹作品についても2008年1月28日に東京地裁で原告勝訴の判決が下った。発売業者は控訴・上告したが、2009年10月8日に最高裁は原告勝訴の判決を下しており、2036年まで著作権が存続することが確定している(映画の著作物#旧法時の映画の著作物も参照のこと)。佐賀県伊万里市黒川町大字福田字米島地内に建設が計画されていた。開館までの繋ぎの仮施設として、1999年7月2日に伊万里市市街地中心部の商業施設にサテライトスタジオが開設された。2001年、黒澤明文化振興財団が寄付金を募り黒澤明記念館を建築する予定で2007年年度末までに伊万里市が黒澤明記念館建設購入権を含め3億5100万円、総額で約3億8800万円もの建設資金を寄付などで集めたことが分かったが、同財団が佐賀県に提出した2007度決算報告書ではわずか140万円しか残っていないことが判明、純資産も9000万円しか無かった。2010年2月19日、伊万里市議会全員協議会に於いて、同財団理事長で黒澤明の息子である黒澤久雄らは「資金の大半は仮施設の運営などで使い果たしてしまった」と陳謝した。その後2010年5月には、同財団側が、多額の資金を集めて記念館を造ることが現実的でないとした上で、市内の商店街に既にオープンしているサテライトスタジオをリニューアルし本記念館としたいとの意向を示し、記念館の建設を事実上断念することを決めたと、伊万里市側が明らかにした。2011年3月6日、サテライトスタジオが閉館した。黒澤プロダクションは龍谷大学の協力の下、黒沢監督の直筆のノートやメモ、写真など計2万7431点の資料のデジタル化をし、「黒澤デジタルアーカイブ」としてインターネット上で公開している

出典:wikipedia

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