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矢野通

矢野 通(やの とおる、1978年5月18日 - )は、日本の男性プロレスラー、実業家(飲食店経営)。東京都荒川区出身。新日本プロレス所属。中央大学レスリング部でジャンボ鶴田の2年先輩だった矢野修の息子として生まれ、7歳から父の指導のもとアマレスを始めた。京北中学校・高等学校時代には全国高校選抜レスリング選手権、全国高校総合体育大会と様々な全国大会で優勝を果たした。卒業し日本大学進学後も、世界学生選手権日本予選97kg級で優勝する。全日本学生選手権ではフリー、グレコの両部門にて制覇しており様々な大会を制した。大学卒業後の2001年4月、福田富昭を通じて新日本プロレス傘下の闘魂クラブに入団し、2002年より新日本プロレスに入門。同年5月18日にブルー・ウルフ戦でデビューを果たした。2003年8月31日にはパンクラス両国大会に出場し、渋谷修身を相手に総合ルールに挑戦し敗退するも、内外から評価を得た。2004年から、金髪・田吾作タイツ・半被・下駄という酒飲みキャラに扮する。矢野曰く「これが自分の本性を出した第2のデビュー戦」とのこと。ヒロ斎藤、後藤達俊というヒール職人に師事し、反則負けを幾度となくやった。2005年2月、蝶野正洋のバックアップを受けて海外武者修行に出発した。同年5月に帰国後、「ブラック・ニュージャパン」入りし、真壁刀義とともに反則三昧のプレーを展開した。しかし、長州力現場監督の「あいつは正統派ならもっと上にいける」という方針から11月に突然ベビーターンした。スコット・ノートンのタッグパートナーを務めている。2006年5月からは石井智宏と「平成の極道コンビ」という名目でタッグを組むようになり、後に天山広吉ら「G・B・H」に石井と共に合流。以降は天山・真壁をサポートする役割に徹していたが、2007年7月29日に金村キンタローを破りWEWヘビー級王座を獲得。同年には真壁とのタッグでプロレス大賞最優秀タッグ賞を受賞した。2008年2月17日両国大会で真壁と共にIWGPタッグ王座を奪取し第51代王者に君臨する。以降4度の防衛に成功し王座を守り続けたが、2009年1月4日、レッスルキングダムIIIでチーム3D(ブラザー・レイ、ブラザー・ディーボン組)とハードコアマッチルールで対戦。この試合に敗れ同王座を海外へ流出。その後リマッチとして同タッグチームと再び対峙するも、ここでも敗北を喫してしまった。4月5日、パートナーの真壁に対して椅子攻撃を喰らわせ、G・B・Hを離反。この日に真壁とシングルマッチで対戦した中邑真輔と共闘を宣言し、後に真壁、本間朋晃を除いたG・B・Hメンバーと共に「CHAOS」を結成した。6月20日、DOMINION6.20にて、真壁とシングルマッチで対戦。乱入してきた中邑のアシストを経て、真壁を鬼殺しで葬ったが7月シリーズに幾度となく真壁が乱入、7月20日に再度シングルマッチが組まれるも、真壁のキングコングニードロップでピンフォール負けを献上した。2010年に入ると棚橋弘至に標的を定め、2月14日に対戦、敗れはしたが矢野がハサミを持ち出し棚橋の髪を切るという暴挙に出て両者に遺恨が勃発した。5月3日のレスリングどんたくにて清算を晴らすべく再戦、ここでも棚橋を新技ハーフネルソン式サイドバスター(後に鏡割と命名)でピンフォールを奪った。試合後、バリカンを持ち出し棚橋の髪を刈ろうと襲い掛かるも失敗に終わった。6月19日、DOMINION6.19にて、ルーザー・ボールド・ルールで完全決着を果たすべく3度目の対戦を行う。最後は十字架固めでピンフォール負けを喫するも、髪を切られるのに抵抗する。しかし、駆けつけて来たKUSHIDA、TAJIRIに押さえつけられとうとう髪を刈られてしまった。2011年1月4日、レッスルキングダムVの舞台でTNAのロブ・ヴァン・ダムと対戦。この対戦以後、ヴァン・ダムの両手の親指で自身を指差すポーズを剽窃し「ヤノ・トー・ルー」とアピールするようになる。これをキッカケに日を追うごとにヒールでありながらコミカルな面が顕著に見られるようになり、二面性を持つレスラーとして観衆から支持を得た。8月のG1 CLIMAXの棚橋戦では観客から盛大な「矢野通」コールを受け、棚橋にはブーイングが起こるという「逆転現象」が巻き起こり、その声援を背に棚橋に完勝。結果的に決勝への進出を逃すものの、5勝4敗(勝ち点10点)という好成績をマークし存在確立によるバイプレーヤー脱却の期待を見せた。10月10日、全試合終了後の勝利者インタビュー中に棚橋とこの時すでに挑戦を表明していた永田裕志を襲撃し、IWGPヘビー級王座と同王座への挑戦権を強奪、IWGP王座の「I」の部位にガムテープを貼り付けマーカーで「Y」と書き記しカスタマイズした。以降自らを「YWGP("ヤノ・レスリング・グランプリ")王者」と名乗り、棚橋を挑発した。11月12日、強奪したベルトをかけて棚橋と対戦するも、テキサスクローバーホールドでギブアップ負けした。試合後、矢野はふてぶてしくベルトを持ち逃げしようとしたが永田に阻まれ、ベルトを奪還されてしまった。しかしこれに懲りず翌2012年3月、飯塚高史と共に天コジ(天山広吉、小島聡組)の保持するIWGPタッグ王座を強奪、5月3日に同王座の挑戦にこじつけると、小島からピンフォール勝ちを収めて第59代王者に戴冠した。6月16日にリマッチとして再び交戦するも、凶器の使用で試合の収拾がつかなくなりノーコンテスト裁定に終わってしまった。この目に余る暴挙の末に菅林直樹社長から王座剥奪を宣告されるも、以降もベルトを保持し続けた。7月22日に天コジとIWGPタッグ王座決定戦で三度対峙するも、ついに敗北を喫し王座を手放した。2013年2月9日、飯塚と共にプロレスリング・ノアに初参戦した。この日のセミファイナルでマイバッハ谷口&マイバッハ谷口Jrと対戦したが、試合は無効試合に終わるも、メインイベント終了後、NO MERCYのKENTAとBRAVEの杉浦貴、丸藤正道を襲撃し、今度は両者が保持していたGHCヘビー級王座とGHCタッグ王座を強奪した。さらに、NO MERCYに所属していたマイバッハ谷口と共闘を交わし、マイバッハにヘビー級王座を手渡した。3月10日横浜大会で杉浦、丸藤組とタイトルマッチで対戦、孤立した杉浦を鏡割からピンフォールを奪い、第28代王者に君臨した。また、ノアのチャンピオンになったことからグローバル・オナード・クラウン(GHC、地球規模の崇高なる王位)から「崇高なる大泥棒」のキャッチフレーズがつき、新日本プロレスでも使用されるようになった。2015年2月22日に開催された東京マラソンにチャリティランナーとして出場し完走、その夜に開催されたノア後楽園ホール大会に丸藤のパートナーXとして出場した。矢野はその際にマラソンの格好のまま試合を行った。2016年5月28日、ノアの大阪府立体育会館大会において丸藤と組んでGHCタッグを獲得。ヒール転向後はラフ殺法を織り交ぜた悪党ファイトを主体に相手を小バカにする挙動が目立っているが、ごく稀にバックボーンであるレスリングを生かした身のこなしを魅せることもある。また、オリジナルの技が多くほとんどの技の名前は酒の銘柄やそれに関連する言葉が由来となっている。近年では、クイック技を中心とした丸め込み技や急所攻撃を織り交ぜる短期決戦型の試合が多い。以下の技は酒飲みキャラとしてヒールになり始めた時期に使用していた技である。何れも反則を取られ、2004年4月から暫くの間、矢野は連続反則負けの記録を作っている。2011年東京ドームでのロブ・ヴァン・ダムとの対戦以降、コミカルキャラが定着し観客へのアピールを行うようになった。矢野は飲食店経営者でもある。2012年11月、水道橋駅近くにスポーツバー「EBRIETAS(エーブリエタース)」をオープン。新日本選手のイベントは勿論、野球・サッカー(国際試合含む)など、プロレス以外の顧客にも対応しており、試合・遠征がない日は矢野自ら接客を行う事もある。また同店では、プロレスラーの本田アユムやSAKIも勤務している。

出典:wikipedia

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