PCエンジン(PC Engine)とは、1987年10月30日に日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)から発売されたHE-SYSTEM規格に基づく家庭用ゲーム機。当時のメーカー希望小売価格は24,800円。任天堂のファミリーコンピュータが発売され数年が経過し、当時のハドソン(2012年よりコナミデジタルエンタテインメントに吸収合併)がより高性能のハードウェアを望むゲーム開発者やユーザーのニーズを把握したことで開発が始まり、市場に投入された。発売当初はファミリーコンピュータやセガ・マークIIIと競合し、後にスーパーファミコンやメガドライブと競合した。NECグループとしてはコンシューマ初参入ハードで、ハードウェアとソフトウェアの開発はハドソンが担当していた。発売当時としては常識を覆す高速・高性能であり、任天堂のシェアを崩すには至らなかったが、新規ハードとして一定の普及に成功し国内市場では1992年時点でスーパーファミコンに次ぐ24.7%のシェアを占めていた。1990年代前半の日本市場において、PCエンジンの周辺機器であるCD-ROMは最も普及していたCD-ROMゲーム機であり、NECの後藤富雄 (当時) は、「他のメーカーに先駆けてCD-ROMを採用したことに対しては、私としてはそれなりの自負がある」と述べている。コア構想に基づき多くの本体・周辺機器が発売された。多人数での対戦・協力プレイを想定し、最大5個のコントローラが接続可能なマルチタップが本体と同時に発売され、家庭用ゲーム機として世界で初めてCD-ROMをゲーム媒体に使用するなど、進歩的な設計であり、PCエンジンが世に送り出したCD-ROMゲーム機の思想はその後のゲーム機にも受け継がれていった。NEC-HEソフトウェア推進部長 (当時) の安田清明は「ゲームの世界でもアニメキャラクタや声優を使ったゲームとアニメが融合した文化ができている。これは任天堂が作った文化にはなかったもので、PCエンジンでNEC-HEが作ってきた文化だ」と評している。始まりはファミコンのソフト開発により予想外の収入ができ、ハドソンに資金的余裕ができた時期に遡る。当時、ハドソンの目指す高度な表現に対してファミコンやパソコンの「性能の限界が見えてきた。」という状況に直面していた。この問題に対して「自分たちが欲しいものを自分たちの手で作り上げる」という目的でハドソン社長工藤浩をはじめとしたハドソン技術者たちが動き出した(ハドソンはシステム開発も行っており、また半導体技術者も擁していた)。ハドソン技術者の山村喜美夫は「ハードを作るという発想ではなく、ソフトを作る発想で開発が始まったんです。ハードメーカーがハードを作ってくれないなら、性能を上げるためのチップを作ってみようということになったわけです。最初から新しいハードを作ろうとしていたわけではなく、あくまでチップの開発だったんです。」と語っている。この時点ではビジネスのことは考えておらず、単純に「自分たちの夢を追いかけただけ。」である。しかし、半導体メーカーではないハドソン単体ではチップを作ることができない。開発者(岡田節夫・山村喜美夫、他1名)が仕様書を書き、半導体メーカーに持ち込んでも「北海道から来た訳のわからない会社」では信用されない。NECを含む国内の主な半導体メーカーには断られた。最後に訪問したセイコーエプソンで、ようやく工藤の話をまともに聞いてくれた。ここで工藤は「別に売るつもりはないから、とにかく一個作ってほしいんだ。」「自分の机にファミコンより性能のいいゲーム機があればいいんです。」という話をしている。対するセイコーエプソン担当者が開発には相当な額がかかると言うと、工藤は「お金はいくらでも用意します。何なら、いまここに積みますから。」と返した。この時点で相手もあきれていたと後に工藤は言っている。こうしてチップの開発はスタートした。ハドソン、セイコーエプソン双方のメンバーがほぼ同年代で、細かい点ではよく話し合って決めた部分もあるので山村は「一緒に作ったという感覚が強い。」と証言している。そして完成したのが『Hu-7(工藤の証言より。山村の証言ではHu6270と呼んでいる)』と呼ばれるチップである(山村はHu6270の開発スタートが1985年春、Hu6270の完成のめどがつき、次の段階に進んだのが1985年末から1986年初め頃と証言している)。費用は2億円、数量として「1000個だか10000個だか(工藤の証言より)。」が作られた。(出典)完成したHu-7(Hu6270)の画像処理能力はファミコンのCPUを上回る性能を見せ、独自の新ハードの野望を抱かせるようになった。ハドソンは、これをまずシャープに持ち込んだ(「思ったよりもいいものができたというか、画像の処理能力なんかファミコンのCPUよりも数段いい。これを使って何かできるんじゃないかと思って、、とりあえずパソコンの関係でおつき合いのあったシャープさんにそれを見せたわけです。そうしたら、『これは商売になる!』というんで話が一気に盛り上がって----」と工藤は証言している)。結局シャープとは話がまとまらなかった。任天堂と協力関係にあり、それがネックになったといわれている。次に工藤が向かったのがNECである。ここで幸運なことに「ちょうどゲーム機を作りたいと思っていたんだ」という対応を受け、話がスムーズに進んでいった。任天堂のファミコンの急速な普及に触発され、NECも1983年末頃から後藤富雄を中心とした若手社員により、社内で「パソコン以外の何か。」を作るための議論が続いていた。これが答申にまとまった時期は不明だが「記録メディアにCDを使ったゲーム機」という結果となった。目標価格を10万円以下に設定したが、ゲーム機用の安価なチップ(CPU)を内製化する設計力がNECには当時無かった。そのため計画が頓挫していた。工藤が完成品のチップといっしょにNECを訪問したのはちょうどそのときでハドソンとNECの利害が一致したことになる。その後チップの開発とツール開発が同時進行して、チップはセイコーエプソン、製品化はNEC、Huカードは三菱樹脂とハドソンが共同開発することでPCエンジンは誕生した。(出典)日本電気ホームエレクトロニクスとハドソンによって提唱された規格。ライセンス商品の証明としてPCエンジンに関連する本体とソフトウェアには必ずロゴが記載されている。なお、「HE-SYSTEM」(エイチイーシステム)の「HE」はHome Entertainmentの略であり、『ホーム・エンターテイメント・システム』という意味である。PCエンジンは「コア構想」という拡張思想を持ち、パーソナルコンピュータのようにコア(核)の役割を持たせ、様々な周辺機器を接続することでゲーム以外にも対応させる。いわば周辺機器のエンジンに見立たものであり「PCエンジン」の命名はここが由来である。PCエンジンは時期によりパソコンのように拡張を繰り返し、1つのハードに2つの媒体で計5つの規格のソフトが流通した(※パイオニア製のレーザーアクティブによるLD-ROM2もあるが、ここでは省略する)。1987年にPCエンジン(初代機)発売される。従来のゲーム機とは一線を画した性能によって、初年度で60万台の販売を達成した。NECホームエレクトロニクスはハードウェア製造メーカーだったので1987年に設立されたNECアベニューがゲームソフトの開発と販売を行っている。また、ハドソンが初期のラインナップを充実させている。この時期、ナムコ(後のバンダイナムコエンターテインメント)やタイトーなどが参入。従来のゲーム機では実現が難しかったアーケードゲームが移植された(ファミコンソフトの製造における優遇措置で任天堂とのトラブルになっていたナムコもPCエンジンに注力し、ソフト供給ではハドソン・NECアベニューと共に初期の三本柱となった)。その後、アイレム・コナミ(その後ゲーム事業はコナミデジタルエンタテインメントへ移管)・データイースト・日本物産など、新たな市場を求めたサードパーティが積極的にPCエンジンへと参入し、それまで任天堂のファミリーコンピュータが独占状態であった国内の家庭用ゲーム機市場において、任天堂に次ぐ二番手となる市場を形成した。カプコンやコンパイルなどは早期に参入していたが、自社ブランドでの販売はなかった。PCエンジン本体と同時発売のマルチタップを用いて、『ボンバーマン』『スーパー桃太郎電鉄』『ダンジョンエクスプローラー』『モトローダー』等、最大5人で協力・対戦が可能なゲームがリリースされ、遊びの幅を広げていった。1988年末に家庭用ゲーム機では世界初のCD-ROMゲーム機となるCD-ROMを発売。当時パソコン用のCD-ROMドライブは高価でほとんど普及しておらず、本体接続用のインターフェースと合わせて25万円は要した物を普及価格帯にまで落とすことに成功し、88年11月という早い時期に家庭用ゲームへの採用を可能にした(CD-ROMの発売以前、ハドソンの朝礼の時に中本伸一がCDを持ってきて「お前ら、この中にゲームが入るから。」と発言したがハドソンの他の開発者たちは何を言っているか分からなかったという。)。CD-ROMは1989年の『天外魔境 ZIRIA』『イースI・II』、1990年の『スーパーダライアス』といったキラーソフトの登場により普及が加速していった。1989年末に3種類のハードを発売している。1991年に従来のCD-ROMシステムのRAMを2Mbitに拡張したSUPER CD-ROMが発売され、翌1992年3月にはCD-ROM機種が100万台を突破し、ソフト供給はCD-ROM中心になる。それに伴い、HuカードとCD-ROMドライブ一体型のハードであるPCエンジンDuoシリーズが主力になっていった。この時期に、『天外魔境II』『スナッチャー』といったSUPER CD-ROMを代表するキラーソフトが発売されている。次世代ゲーム機発売以前の日本市場において、PCエンジン CD-ROMは最も普及していたCD-ROMゲーム機であり、後発の競合機であるセガのメガCD(38万台出荷)を大差で引き離している。元NECアベニューの多部田俊雄は後に、「CD-ROMシステムは200万台近く売れた。PCエンジンがなければ全世界規模でCD-ROMの普及が1年は遅れていたでしょう」と後のインタビューで評価している。多部田俊雄によると、カプコンからライセンスを受けたのが「サイドアームスペシャル」だったが当時CD-Rが無かったので工場でプレスしなければならず、発売まで100万円以上が飛んだという。またアダルトゲーム移植の第一弾「ドラゴンナイト2」のとき内緒で広報してしまい日本電気ホームエレクトロニクスに呼び出され叱責されているが当時のNECアベニューの社長が理解を示し開発が続行できた。多部田の狙い通り「ドラゴンナイト2」は大ヒットになり、その後ギャルゲーの移植と開発と販売も行うようになった(PC-FX以降は他社ハードにもギャルゲーを供給するようになった)。CD-ROMの普及に伴い、日本ファルコム・アートディンク・システムソフト・リバーヒルソフト・ブレイングレイ・マイクロキャビン・コーエー(後のコーエーテクモゲームス)・日本テレネットといったPCゲームのソフトハウスも参入。CD-ROMの大容量を活かし、パソコンゲームからの移植も増えてくる。1994年春にはPCエンジン最後のアップデートになるアーケードカードが発売された。これにより、PCエンジンのRAMは18Mbitとなり大幅に増強され、『餓狼伝説2』『龍虎の拳』といったネオジオで人気を博していた大容量の格闘ゲームが目玉ソフトとして発売された。アーケードカードのキラーソフトとして期待されていた天外魔境III NAMIDAはSUPER CD-ROMからアーケードカード、さらにPC-FXに機種を変え続け、実際に発売されたのはPlayStation 2になってからであった。1994年末にPCエンジンの次世代機PC-FXが発売されたが、その後もPCエンジン向けソフトは継続して供給され続け、1999年6月にメッセサンオーとソフマップ専売のデッド・オブ・ザ・ブレイン 1&2を最後にソフトの供給が終了した。1987年の発売以来、PCエンジンのソフト供給期間は12年間に上った。PCエンジンは、初期のアーケード移植から中期以降のビジュアルシーン重視のゲームなど異なる傾向を持ったハードで『「R-TYPE」や「ドラゴンスピリッツ」。ほんとうにほしいゲームがよくそろっていました。その後、「ドラゴンナイトII」「卒業 」「ときめきメモリアル」が登場。こういった今はギャルゲーと呼ばれるソフトがゲーム機で遊べるようになったのもPCエンジンの功績です。』という評価を受けている。北米市場ではTurboGrafx-16(ターボグラフィックス16)の商品名で発売され、CD-ROMにあたるTurboGrafx-CD(HES-CDR-01 TurboGrafx-16と同時発売)やPCエンジンGTと同機能のTurboExpress(HES-EXP-01 1990年11月発売)、PCエンジンDuoと同機能のTurboDuo(HES-DUO-01 1992年10月発売)なども発売された。TurboGrafx-16は本体の大きさが国内版に比べ横幅が倍になっているが、これは本体が小さくて価格が高いと割高感が出て敬遠されるという海外の消費者心理を考慮したためである。またCD-ROMユニットは本体後部に接続する形式を取っているが、CD-ROMユニットの大きさは国内版と同じのため、組み合わせると、さらに特異な形状(真上から見ると『凸』型)となる。欧州市場ではフランスを除いて正式販売は行われなかった。フランス版PCエンジンは、当時日本で販売されていた本体をRGB仕様に改造したのみで、本体の形状や商品名称などは日本と同様PC Engineとなっていた。イギリスではNTSC出力のままの米国モデルがTelegames社より極少数販売された実績がある。TurboGrafx-16の名称は、Sega Genesis(北米版メガドライブ)及びSuper Nintendo Entertainment System(北米版スーパーファミコン)が搭載していた16ビットCPUの話題性に対抗するため、PCエンジンは画像処理周りなど一部の処理を16ビットで行っていたため、この様な商品名となった。北米では1992年4月より、取り扱いがNECテクノロジー社とハドソンの共同出資であるターボ・テクノロジー社に変更され、そのキャンペーンとして発売予定のTurboDuo(価格$299.99)に250ドル相当の特典(イースI・II、PC原人、PC原人2、ゲート オブ サンダー、ダンジョンエクスプローラー、専門誌『TURBO FORCE』、$50のソフト購入割引券)を添付させる「Add $250 Value」を実施。また1992年のサマーCESに合わせてTurboGrafx-16の本体価格を$69.99に引き下げた。TurboDuo発売後、既存のTurboGrafx-CDユーザ向けにスーパーシステムカードと3-in-1 CD(PC原人、PC原人2、ゲートオブサンダー)と$50のソフト購入割引券をセットにしたバリューパックが$95で販売された。ちなみに旧来のシステムカードは起動画面がTurboGrafx-CDのロゴになっていたが、スーパーシステムカードは国内版と同じ「SUPER CD-ROM SYSTEM」の起動ロゴになっている。北米でのTurboGrafx-16の販売はGenesisとSNESに苦戦した。日本ではヒットしCD-ROMゲーム機としてのPCエンジンの地位を確立したPCエンジンDuoも、北米版では同時期に発売されたSega CD(北米版メガCD)より普及せず、1993年中には市場からほぼ淘汰された。アメリカのゲーム雑誌GameProは「任天堂による日本のサードパーティの囲い込み」や「北米版ローカライズや広告宣伝の不備」も失敗の原因として挙げており、「1991年には市場がほとんど死んでいた」と評している。晩年は慢性的なソフト不足を補うため国内向けのソフトが輸出販売され、HuCARDのピンアサインを変換するアダプタも非公式に流通した。発売された本体が多岐にわたるため、それぞれの本体に対応する周辺機器は以下のページを参照すること。 一般に多く流通したソフトを遊ぶにはSUPER CD-ROMが可動する環境があれば良いが、本体、周辺機器共に多くのバリエーションが存在するため、システムの組み合わせパターンは数多い。分類すると下記のようになる。なお下記では、初代PCエンジン・PCエンジンコアグラフィックス・PCエンジンコアグラフィックスIIを合わせ「コアマシン」と称する。専門番組にハドソンが提供・協力、一部は日本電気ホームエレクトロニクスも提供をしている。それに加えコロコロコミックのタイアップ記事、週刊少年ジャンプの読者コーナーなど、影響下にあるメディアでPCエンジンの話題を多く取り上げ、また任天堂によるスーパーファミコンの発表まではファミコンの上位的な位置づけのハードとしてイメージ戦略を行った。
出典:wikipedia
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