ル・マン 24時間レース(ル・マンにじゅうよじかんレース、仏:"24 heures du Mans" )は、フランスのル・マン近郊で行われる耐久レースである。24時間でのサーキット周回数を競う。主催はフランス西部自動車クラブ(ACO)。ル・マン24時間耐久レースと記されることもある。日本で「ル・マン24時間」というと、通常は一年の内で最も昼の長い毎年6月の初めから中頃に開催される自動車による耐久レースのことを指すが、現地では毎年、オートバイによる24時間耐久レースも開催されている。本項では四輪車による24時間レースについて解説する。1923年に初開催された歴史あるレースのひとつで、フォーミュラ1のモナコグランプリとアメリカのインディ500と並び「世界三大レース」と呼ばれる。そのため世界中の耐久レースに大きな影響を与えており、ル・マン・シリーズや世界耐久選手権の車両規定はル・マンのものに準じている。またデイトナ24時間レース、スパ・フランコルシャン24時間レースとともに「世界三大耐久レース」とも呼ばれる。レースが中止されたのはフランス自動車工業界のストライキの影響による1936年と、第二次世界大戦と戦後の疲弊と混乱による1940年から1948年にかけての間だけである。各国のメーカーが開発した最新鋭の耐久マシンを、現役のスタードライバーや若手ドライバーがドライブする姿を見ることができるのはもちろん、スプリントドライバーで一線を退いたスター選手や「ジェントルマン・ドライバー」と呼ばれるアマチュアドライバーの走りも見ることができる。競技はフランス中部にあるル・マン市のサルト・サーキットと呼ばれる全長13kmを超える周回コースで行われる。そのほとんどは普段は一般道で、スタートおよびゴール地点とその周辺は競技専用のブガッティ・サーキットの一部を使用する。各ストレートやコーナーには「ユノディエール」や「ミュルサンヌ」、「テルトル・ルージュ」、「ポルシェカーブ」、「フォードシケイン」などの名称がついている。サルト・サーキットの特徴といえばユノディエールという全長6kmに及ぶストレート(右のコース図で言う上のストレート区間)であったが、マシンの進歩により1988年には最高速が405km/hに達するなどしたため、安全上の問題からFISAが再三勧告をし1990年に2箇所のシケインが設けられた。なお、二輪のレースは「ブガッティ・サーキット」、四輪のレースは「サルト・サーキット」と、ピットエリア周辺一帯は共用しているものの別のサーキットを使用し、各々区別している。コース幅の片側に競技車を配置し、ドライバーは車両の反対側からコースを渡るよう駆け寄って乗車する。1925年より用いられた伝統あるスタート方法で、他のレースでも採用されたが、危険であり事故も多かったため、1971年から通常のグリッド式スタンディングスタートになっている。1955年に発生し、多数の死傷者を出したこの事故は、モータースポーツ界に大きな影響を与えたのみならず、事故の当事者となった自動車メーカーのその後の経営にも大きな影響を与えることになった。1955年6月11日18時28分、トップを走っていたジャガーのマイク・ホーソーンが周回遅れのオースチン・ヒーレーを抜いた直後に急減速してピットインした。後続オースチン・ヒーレーのドライバー、ランス・マクリンが追突を避けようと進路変更したところへメルセデスを運転するピエール・ルヴェーが避けきれずに衝突し乗り上げ、空中へ飛び上がった。ルヴェーのメルセデスはグランドスタンド側壁に衝突し車体は分解し炎上、衝撃でエンジンとサスペンションがそのままの勢いで観客席に飛び込み、観客・スタッフ、そしてルヴェーも含めて86人が死亡、約200人が重軽傷という大事故となった(当時のサーキットにはピットとコースを遮るピットウォールが存在せず、またピットロードも存在していなかった。これはサルト・サーキットに於いても例外ではなく、ピット前での接触事故は高頻度で起きていたとされる)。なお、このレースは事故後も続行された。「たとえどんな惨事が起きようとも、戦い続けるのがスポーツのルールである」ことが続行の理由であった他、レースを中断すると帰路についた観客がサーキットの周りや周辺道路を塞ぎ救急車が動けなくなる、といった事態を防ぐための主催者側の判断によるものであった。皮肉にも優勝者は大惨事のきっかけとなったマイク・ホーソーンであった。この事故の映像は、映画『グレート・ドライバー(原題"Fangio")』等で観ることができる。またルヴェーのチームメイトで当時彼の後方を走行、コクピットからその一部始終を目撃したファン・マヌエル・ファンジオは、この映画の中で「ホーソーンのピットインが物議を醸したが、ピット手前360mからの減速でルール上問題はなかった。マクリンがホーソーンを左側から追い越し、さらに別の1台(カール・クリングのメルセデス)がコース左側からピットに向かって進路を右に変えた結果、ルヴェーが行き場を失い悲劇を招いた。自分は奇跡的に無傷で現場を通過出来たが、背後は地獄だった‥」と、いわゆる「レーシングアクシデント(特定のドライバーの責任に帰しないレース中のアクシデント)」であったことを模型を用いて解説している。ちなみに事故後の調査でファンジオの乗ったメルセデスの車体にホーソーンの乗ったジャガーの塗装がこびり付いていたことでごく僅かに接触していたことが判明し、ファンジオが突然ピットインしたホーソーンのマシンを辛うじて回避できたことを証明している。メルセデス・ベンツチームはトップを走行していたが、事故発生の7時間半後、全マシンを呼び戻すと、そのまま棄権した。そして事故の一部始終を目の当たりにしたファンジオはその多大な精神的ショックから、それ以来生涯ル・マン24時間レースに姿を見せることはなかった。事故の10分後には大破したマシンの残骸をメルセデスのスタッフが必死になって回収していたことが確認され、これに関して後に「ニトロメタンなど特殊な添加剤を用いていたのではないか」と(事故の原因とはならない)規定違反を疑う声があったが、これについてメルセデスのファンジオは「あんな素晴らしい車にそんなものいらないよ」と笑い飛ばし、アルトゥル・ケザーは「燃料噴射システムの秘密を知られないため」という趣旨の発言をしている。モータースポーツの安全性という点で大きな疑問を投げかけたこの事故の影響は非常に大きく、後に開かれる予定だったスペインと西ドイツのグランプリレースは中止、フランス・イタリアでも政府の許可が出るまでモータースポーツは開催されず、スイスに至ってはレースそのものが禁止されたなど全世界に大きな影響を残している。F1も例外ではなく、1955年は主催者がキャンセルするなどして3戦も中止になっているが、その後のモータースポーツ全体での安全性向上の礎にもなっている。メルセデス・ベンツ自体も、1985年のル・マン24時間レースにザウバー・C8にて復帰するまで実に30年に渡りル・マンひいてはモータースポーツから姿を消すこととなった。なおこの事故の詳細を記した書籍として『死のレース 1955年 ルマン』が存在する。事故から20年後に事故の当事者の一人であるランス・マクリンが著者に電話で初めて明かした事実の他に、写真や関係者の証言を含めた事故の詳細、当事者であるマクリン、ホーソーン、ジャガーそれぞれの人物像やレース後のそれぞれの動向が著されている。1999年のレースに於いてもメルセデス・ベンツは、前年たった2時間で全滅した屈辱を晴らすために投入したAMGメルセデスCLRが、予選、フリー走行、そして決勝と3度に渡って宙を舞う事態に見舞われ、1955年の悪夢再びか、と騒がれた。そしてこの時もメルセデスはそのままル・マンから去った。事故の当事者の一人であったランス・マクリンは、その後モータースポーツの世界を離れてカーディーラーとなったが、2002年にこの世を去っている。その年度にEU圏内で新発売された車輌が採用される。第1回レースが開催されてから65年目となる1999年には、自国フランスの自動車ではなく、その年デビューしたばかりのベントレー・アルナージが起用された。1923年、第1回目のレースが国際レース化を謳いながら殆ど自国の車で占められていたものの、イギリスからエントリーした2台のベントレーとベルギーの"エクセルシオール"によって辛うじて国際レースとして開催できたことに対する感謝を忘れることなく形にしたものとして注目された。またこの時期は、ベントレーの親会社であるロールス・ロイスが自動車業界の再編に伴って売却の憂き目に遭っており、ベントレーブランドも存亡の矢面に立たされていた時期でもあった。後にロールス・ロイスがBMW、ベントレーがフォルクスワーゲン(VAG -フォルクスワーゲン・アウディグループ)と、それぞれが新しい経営母体の元で存続することになる。日本車では1990年に日産・フェアレディZ 300ZXが採用され、また1997年に日産・スカイラインGT-R(BCNR33)が採用されたことがある。ユノディエールは以前6kmに及ぶ直線であり、最高速度300km/hで走っても1分以上かかった。最高速度が400km/hに近づき45秒ほどで走り切る車両が登場したが、非常に長い時間アクセルを踏みっぱなしにして猛烈なスピードで駆け抜けることになり、特に夜間は自車の前照灯だけが頼りとなる。初めて走行すると永遠に続くのではないかと思われるほど長く感じられ、非常に勇気が必要で、異次元に迷いこんでしまうのではないかという錯覚に陥るという。日本チームとして最初に参戦したシグマ・オートモーティブ(後のサード)の監督として赴いた加藤眞は走行車両を見て、マシンが悲鳴を上げているように思え、日本人ドライバーには事前に見せない方が無難ではないかという印象を持ったほどであった。WM・セカテバ・プジョーは成績よりもこのユノディエールの直線における最高速度に命をかけており、1986年に407km/hの公式記録を残している。しかし実際には計測されていないだけで400km/hを越えていたマシンが数多くあったといわれており、1989年には決勝走行中にメルセデス・ベンツのザウバー・C9が400km/hを記録した。国際自動車スポーツ連盟(FISA、後の国際自動車連盟)は安全性の観点から2km以上の直線を認めない旨ルールを作成し、ユノディエールを分割するよう圧力をかけた。フランス西部自動車クラブはこれこそル・マンの特徴である旨主張し1989年はスポーツカーシリーズから外れて対抗したが、FISAは命令に従わなければ国際格式レースとして認めない旨通告した。そのままではフランス国外からの参加ができなくなるためシケインを2つ挿入するコース改修がなされたが、工事完成は1990年のレース直前となり、2ヶ月前にFISAのコース査察を受けなければならなかったため1990年もスポーツカーシリーズからは外れることとなった。地元でもあり第一回の1923年にシェナール&ウォルカーが総合優勝したのを含め初期には有力であった。1989年、C9で総合優勝した。ル・マンに初めて日本の自動車メーカーのエンジンが登場したのは、主要自動車生産国としては最も遅い1970年である。マシンはリーバイス・レーシングが、シェブロンB16に、マツダ製10A型、ロータリーエンジンを搭載したものだった。1970年代は排気ガス規制対策やオイルショックによって自動車メーカーのレース活動が停滞しており、プライベーターたちの地道な活動からル・マンへの挑戦が始まった。1980年代以降はマツダや日産自動車、トヨタ自動車、本田技研工業などがワークス・準ワークスチームで参戦したが、総合優勝したことのあるのは1991年のマツダだけである。(海外メーカー車を使用する)日本チームや日本人ドライバーも優勝しているが、日本メーカー車に日本チーム、日本人ドライバーというオールジャパンチームとしての優勝はまだない。日本では、株式会社マクランサ代表の林正史(株式会社童夢代表の林みのるの実弟)の企画により、1979年にTBSによる2時間番組「ルマン栄光への24時間」が全国放送された。同じく、林正史の企画・プロデュースにより1982年から1986年までテレビ朝日がダイジェスト版を放送し、同局が1987年から2003年まで中継を行っていた。2004年と2005年は、CS放送のスカイパーフェクTV!でレース前後を含めた25時間完全生中継、スポーツ・アイ ESPN(後のJ sports ESPN)でも部分的に中継を行っていた。2006年から2008年まではテレビ生中継は行われず、CS放送のG+でダイジェスト版が放送された。2012年以降はBSスポーツ専門チャンネルのJ SPORTSがスタートから8時間とゴールまでの6時間の計14時間の生中継を実施。また、J SPORTSの契約者向けにスカパー!オンデマンドでの24時間ライブ配信を実施。2012年からは、日経CNBCが現地取材もとにした特別番組を放送。現地取材へは、谷中麻里衣が出向いている。毎年原則として、スタート直前の日本時間22時59分(現地時間15時59分)フォーメーションラップがメゾンブランツェに到達する頃放送開始、放送開始と同時に出場する全マシンのスターティンググリッドがテロップで紹介され、スタートから2周ほどした後オープニングと提供クレジット、日本時間24時頃にニュースなどによる中断を挟み、以降日本時間翌朝5時まで(年によっては4時までの場合もあった)放送。日曜午後にも1時間半程放送(2003年は放送されず)。ここまでが生中継。ゴールはディレイ録画で日本時間23時に放送開始し1時間半程中継、合計約9時間にも及ぶ長時間中継であった。なおサッカー欧州選手権開催年にはスタート/ゴールが現地時間15時と1時間早まるため、日本でのスタート時の放送は録画であった。日本時間23時の放送開始で、録画のためスタート進行はダミーグリッドからフォーメーションラップがスタートする場面から放送が開始された。それぞれの時間帯がパートで分けられており、それに沿って実況するアナウンサーは交替していた。競合する同業社が同じ番組を提供するということは当時の広告業界ではタブーとされていたが、非常に長時間に及ぶこの番組を成立させるためには競合する自動車メーカーや、タイヤメーカーの協力が必要不可欠であった。企画者の林正史が各メーカーを説得して廻り、日本ではじめて競合社が提供する番組が誕生した。1990年、1991年に2年間、文化放送で中継された。実況は同局扇一平アナが担当。映画ドラマレーザーディスクビデオソフトLPVHDCD小説漫画ゲーム
出典:wikipedia
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