古代ギリシア(こだいギリシア)とは、一般的に、古代ローマ支配下以前のギリシアをいう。短期間に文明が発達し、東西の文明に大きな影響を与えた。紀元前2600年ころ、小アジアのトロイア周辺に青銅器文明を持つトロイア文明が栄え、紀元前2000年ころには線文字Aを持つミノア文明がクレタ島のクノッソスを中心に興る。その後、紀元前2000年ころアカイア人がエーゲ海北部や小アジア西岸に住み着き、紀元前1500年ころに線文字Bを持つミケーネ文明がペロポネソス半島のミケーネ・ティリンスを中心に栄えた。紀元前1400年ころにはミケーネ文明はペロポネソス半島からエーゲ海に進出し、ミノア文明を滅ぼした。紀元前1200年ころにドーリア人が南下しアカイア人の領域に侵入した。この前1200年のカタストロフによるミケーネ文明の崩壊以降、紀元前800年ごろにかけては文字の史料に乏しく、文化・経済活動の沈滞した混乱の時代として暗黒時代と呼ばれることがある。この暗黒時代は、紀元前7世紀にフェニキア人との接触によって新たな文字であるギリシア文字(アルファベット)が成立し、再び文字資料が大量に出現するようになるまで続いた。紀元前8世紀ころに古代ギリシア文明が急速に開花し、それまで農村に住んでいた人々が城壁内に集住を行うようになって、ポリス(都市国家)が成立するようになった。ポリスは大小さまざまあるが、1500平方キロメートルから2500平方キロメートルの領土を持ち、市民と呼ばれる自由民男子とその家族数万から10万人と、奴隷など数万から10万人の人口を抱えているものが一般的であった。諸ポリスは、古代マケドニアによる覇権が確立する紀元前338年まで統一されることはなく、分立した。地域や風土によってポリスの政体は多様であり、王政、貴族を中心とする寡頭政、全市民参加の直接民主政を採用するポリスがあった。また正統な王の家系以外から出た個人が権力を握って世襲する場合があり、これは僭主政と呼ばれた。有力なポリスであったアテナイ、コリントス、テーバイは、自分たちの政体を他に押しつけようともした。ギリシアの都市国家群(ポリス)は、紀元前800年末には現在のギリシャ西南部、クレタ島を含むエーゲ海の島々、アナトリア半島の西海岸に広がっていた。紀元前750年ごろから、ギリシア人は人口の増加、交易、貴族集団同士の対立などが要因となって地中海世界全体に植民を進めた。紀元前500年末までには西から現在のスペインアンダルシア州のマイナケ、同バレンシア州のヘメロスコペウム(現在のデニア)、カタルーニャ州のエンポリオン、フランスではエロー県のアガテ、ブーシュ=デュ=ローヌ県のマッシリア(マルセイユ)、ヴァール県のアテノポリス、アルプ=マリティーム県のニカイア(ニース)に広がっていた。第二の本拠地と言えるほどの規模に達していたのはマグナ・グラエキア(イタリア南部とシチリア島)である。イタリア南部のギリシア植民都市の一部は19世紀に至るまでコムーネとして残り、ギリシア語を話す住民による生活が続いていた。このほか、チュニジアのキュニプス、リビアのキュレネとアポロニア、エジプトのナウクラティス、クレタ島北部のほか、アナトリア半島北岸を含む黒海沿岸全域に植民市を築いていた。例えば現在のグルジアに位置するトリグリト(ガグラ)がある。スペインのマイナケは周囲をフェニキアの入植地に囲まれ、キニュプスやシチリア島、キプロス島でもフェニキアと隣接しているものの、それ以外の土地では他のどのような勢力とも競合していなかった。ギリシア人による主な交易品は黒海の穀物とエトルリアからもたらされたスズである。丘陵地帯の多いギリシアでは重装歩兵による密集戦術が発達していた。ポリス間の抗争が続くにつれ徐々に戦術が洗練され、さらに重装歩兵の担い手である市民の政治的地位が向上し、市民共同体としての意識が高まったことで、戦術面のみならず精神的にも強力な軍隊となった。ペルシャ戦争で、その戦力の真価が遺憾なく発揮された。こうした中で紀元前499年、アケメネス朝ペルシア帝国に支配下にあったミレトスなどのイオニアの諸都市が反乱を起こした。このイオニアの反乱にはアテナイおよびエレトリアの2つのポリスが援助を行ったが、ペルシアはこの反乱を即座に鎮圧すると、反乱に加担した両都市への懲罰を決定した。これがペルシア戦争である。アテナイとスパルタを中心とする古代ギリシアの連合軍は、20万人とも50万人とも言われるペルシャ軍を撃退する。このペルシャ戦争の過程で、アテナイが強大化してギリシアの覇権を握る。紀元前5世紀中ころから紀元前4世紀中ころまで、ペロポネソス戦争やレウクトラの戦いなどポリス間の攻防が繰り返され、アテナイに代わってスパルタ、テーバイへとポリス内での覇権は移行していった。紀元前4世紀中ころになると、北方に存在していたマケドニア王国が優勢になり、紀元前338年、カイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破ってギリシアの覇権を握るとポリスは独自性をなくしていった。古代マケドニア王国はピリッポス2世の暗殺の跡を継いだアレクサンドロス3世(大王)がダレイオス3世のアケメネス朝ペルシア帝国を征服してインド西北部まで侵入し、ヨーロッパ、北アフリカ、西アジアに至る大帝国をうち立てた。大王の急逝の後ディアドコイがその遺産を継承し、2世紀に渡って古代ギリシア文明と古代オリエント文明を融合したヘレニズム文明が各地に拡散して、後にギリシアを征服した古代ローマをも含めて影響を与えた。また、7世紀以降の東ローマ帝国ではギリシア人居住地域が領土の大半を占めるようになったために、帝国の公用語もラテン語からギリシア語にかわっていき、中世末期までヘレニズム文明を受け継ぐこととなった。古代ギリシア人はそれぞれポリスを成立させて互いに対立する関係にあったが、ともに自らをヘレネス、他民族をバルバロイ(意味の分からない言葉を話す者)と呼んで区別した。ヘレネスとは神話中のデウカリオーンの子ヘレーンの子孫であり、ギリシア人は共通の祖先を持ち、共通の言葉を話すものと考えられたのである。古代ギリシア人はギリシア神話 を共有しゼウスを頂点とするオリュンポス十二神・デルポイの神託を信じ、 オリュンピア・イストモス・ネメアー・デルポイで開催された祭典には全ギリシア人が参加して競技を行った。祭典は運動競技のほかに演劇や音楽も競演された。ポリス市民である古代ギリシア人(市民)は日常の家事や作業などを女性や奴隷に任せて、他の市民との交流や体育、政治談義に日々を過ごし、その中でギリシア哲学や科学が発達した。また年長者が精神的・肉体的に年少者を一人前に教育することが理想とされ、関係を強固なものとするために少年愛的なことも行われるのが一般的だった。またキリスト教に由来するホモフォビアもなく同性愛も普通のことであり、軍隊の中に同性愛者を集めた神聖隊(ヒエロス・ロコス)という部隊も存在した。古代ギリシアの社会では古代ローマ同様に多くの奴隷が使用されて国家を支えた。アリストテレスも「奴隷は言葉を喋る道具であり、牛馬と同様に人間に貢献する」と言ってはばからなかった。戦争でも奴隷の獲得が重要な目的のひとつであった。奴隷の中には借金を通じて債務奴隷になるものもおり、これは後のソロンの改革時に改善されることになる。ギリシアは地中海性気候でなおかつ土地がやせていて大河川も少なかったためにいわゆる二圃式の乾燥農業(一年ごとに休閑期を挟む)が行われていた。穀物類は大麦・小麦が主であり、特に前者の生産が圧倒的であった。古代ギリシアが植民地を必要とした背景には小麦の需要を賄いたいという思惑があった。また、黍の栽培はごく一部でしか行われず、稲に至っては存在自体は知られていたものの栽培はされていなかったようである。一方、果実や野菜栽培は盛んに行われており、特にオリーブやブドウの栽培は多くの地域で行われていた。クレタ島やミケーネ文明の遺跡からはオリーブ油の倉庫跡が発見され、紀元前8世紀には葡萄酒の輸出記事が見られることからも分かる。また農業専門書ではないものの、ヘシオドスの『仕事と日』は世界最初の農事暦とされており、クセノポンも『家政論』において農園経営論を説いている。ただし、後世の農学者からは前者の内容の評価は高いものの、後者は実際の農業を理解していないと厳しい評価をされ、特にマックス・ウェーバーからは酷評されている。カール・ポランニーは、ヘシオドスは互酬関係の崩壊について記していると指摘した。古代ギリシアの市場は、ポリス内部の地域市場と対外用の市場に分かれており、対内市場にはアゴラ、対外市場にはエンポリウムが存在した。アゴラにはカペーロスという小売人が居住し、中央集権制度にかわって食料の再配分を行うための制度となり、民衆に食物を供給した。エンポリウムにはエンポロスという対外交易者が居住して取り引きを行った。ミケーネ文明はハインリヒ・シュリーマンによって様々な遺物が発見されたが、当時、植民地主義の時代であったため意図的に改竄された可能性が存在する。クノッソス宮殿はウィンザー城をモデルとして復元され、ミケーネで発見されたアガメムノンのマスクもカイゼル髭が付け加えられた。これらの行為は当時、植民地であった西アジアよりもエーゲ海先史文明が高度であり、植民地の宗主国である国々にとってふさわしい文明である必要があったために行われたもので、西アジアで発見された高度な文明と専制君主らに対抗するものであった。しかし、この専制君主のイメージは、古典古代の文明の基盤が水平的な市民社会であるとしていた古代ギリシャ史研究家の間ではとうてい受け入れられるものではなかった。そのため、エーゲ海先史文明と古代ギリシャ文明との間に存在していた『暗黒時代』が利用されることになった。この暗黒時代を利用することにより、エーゲ海先史文明は『前1200年のカタストロフ』によって崩壊、白紙となった上で暗黒時代に古代ギリシャ文明の基礎が新たに築かれたとしてこの矛盾は解消された。しかし、線文字Bが解読されたことにより、その矛盾は再び闇から蘇ることになった。エーゲ海先史文明が古典期ギリシャの直接祖先ではないという暗黙の了解があったため、線文字Bはギリシア語ではないと考える研究者が大半であったが、1952年、マイケル・ヴェントリスによって解読されると線文字Bはギリシア語を表す文字であったことが発覚した。1956年、ヴェントリスとジョン・チャドウィックらが線文字Bのテキストを集成した出版物を刊行、1963年にはL・R・パーマーらが新たな粘土板の解釈を提示、1968年には大田秀通による研究が刊行されるとミケーネ文明の研究は躍進することになった。現存する建造物や彫刻などは白一色であるが、かつては鮮やかな彩色が施されていた。劣化して色落ちした物もあるが1930年頃の大英博物館のスポンサー初代デュヴィーン男爵ジョゼフ・デュヴィーン(美術収集家・画商)の指示で大英博物館職員によって色を剥ぎ落とされたものも多い。近年になってこのことが公表され、調査によって一部の遺物から色素の痕跡が判明し、CGなどによって再現する試みも行われている。日本のテレビ番組「日立 世界・ふしぎ発見!」ではパルテノン神殿にプロジェクションマッピングで色彩を施した。エルギン・マーブルを参照。
出典:wikipedia
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