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エベレスト

エベレスト、エヴェレスト()、またはチョモランマ( "Chomolungma, Qomolangma")、サガルマータ( "Sagarmāthā")は、ヒマラヤ山脈にある世界最高峰の山である。エベレストはインド測量局()で長官を務めたジョージ・エベレストにちなんで命名された。1920年代から長きにわたる挑戦の末、1953年にイギリス探検隊のメンバーでニュージーランド出身の登山家であるエドモンド・ヒラリーとチベット出身のシェルパであるテンジン・ノルゲイによって初登頂がなされた。エベレストの標高については諸説あり、1954年にインド測量局が周辺12ヶ所で測定しその結果を平均して得られた8,848 mという数値が長年一般に認められてきた。1999年、全米地理学協会はGPSによる測定値が8,850mだったと発表した。厳密には地殻変動などの影響によって標高は年々変動していると考えられている。エベレストの南麓に位置するネパールのサガルマータ国立公園はユネスコの世界遺産に登録されている。現在、エベレストはネパールでは「サガルマータ(सगरमाथा Sagarmatha)」、チベットでは「チョモランマ(ཇོ་མོ་གླང་མ་ jo mo glang ma)」、中国では珠穆朗瑪峰(Zhūmùlǎngmǎ Fēng)または聖母峰(Shèngmǔ Fēng)と呼ばれている。エベレストの存在が初めて文献上にあらわれたのは1717年、康熙帝の命令を受けてイエズス会士ジャン・バティスト・レジス(Jean-Baptiste Régis)が『皇與全覧図』と呼ばれる中国地図を作成した時であった。そのチベット部分、現在のエベレストの位置に山の絵が描かれ「朱母郎馬阿林」(チュモランマアリン)と表記されている。この地図はレジス神父の故国フランスに送られ、それを受け取った同僚のイエズス会士ジャン・バティスト・デュアルド(Jean Baptiste du Halde)が地図製作者のダンヴィル(Jean-Baptiste Bourguignon d’Anville)に託したので、ダンヴィルによって1735年、『中国新地図集』(Nouvel Atlas de la Chine)として出版された。ダンヴィルの地図では「チョウモウ・ランクマ」(Tchoumou Lancma)と表記されている。これがヨーロッパに「チョモランマ」の名称が初めて紹介された時である。イギリス東インド会社は1765年以降、測量局を設けてインド各地の詳細な地図の作成を行っていた。1815年、ベンガル、ボンベイ、マドラスにあった三つの測量部が統合されてインド測量局が発足。さらに1818年8月1日にはインド大三角測量部(The Great Trigonomentrical Survey of India)が別に設けられ、三角測量のエキスパートであるウィリアム・ラムプトン(William Lambton)が部長に、28歳の士官候補生ジョージ・エベレストが主任助手に任命された。1833年に組織改編で大三角測量部がインド測量局の傘下に入り、ランプトンの逝去によってエベレストが二代部長となった。1830年にはエベレストはインド測量局長官も兼務することになる。エベレスト長官はインドの南岸からヒマラヤ山麓までの三角測量を終え、1843年にアンドリュー・ウォー(Andrew Scott Waugh)に長官職を譲って退任した。ウォー長官の時代にヒマラヤ山脈の山々の計測が行われ、まずカンチェンジュンガが世界最高峰であると考えられた。しかし、彼らはさらに奥地にある山に興味を持った。この山は初め「ピークb」(Peak b)、次に「ピークh」(Peak h)のちに「ピーク15」(Peak XV)と呼ばれるようになる。インド測量局の主任測量士でデヘラードゥーンに駐在していたラーダナート・シクダール(Radhanath Sickdhar)がピーク15の測量を行って海抜8840mという標高を算定した。(シクダールはエベレストが世界最高峰であると考えた最初の一人であるとされている。)ピーク15の地域はネパールとチベットにはさまれていたが、どちらの国にも入国ができなかったため、インド測量局では山の地域での呼称を確定できなかった。1856年3月、ウォー長官はピーク15が8840mでカンチェンジュンガの測量値(8582m)よりも高く、おそらく世界最高峰であるという書簡を王立地理学協会に送付した。この書簡の中でピーク15の名称として「地方での呼び名は数多くあるだろうから、どれか一つを選ぶのは難しい」として前任長官のエベレストにちなんで、山の名前を「エベレスト山」(初めMont Everest、後にMount Everest)としたいとして以下のように述べた。「尊敬する前長官のサー・ジョージ・エベレスト大佐(Colonel Sir George Everest)は、全ての地形に現地での呼称を採用するよう、私に教えてきた。しかしこの山には、おそらく世界最高峰であろうこの山には、現地での呼称を見いだすことができなかった。もし仮にそれがあったとしても、私たちがネパールへの立ち入りを許可される前に、それが見つかることはないだろう。今のところ、この高峰を名付ける特権と責任とは、同等に私に委譲されているものと思う。この山の存在が、市民と地理学者に広く知られ、文明国家に深く浸透するかは、この高峰の名称いかんにかかっているであろう。」まだ存命中だったジョージ・エベレスト自身はこの名前がヒンディー語と無関係でインドの人々に発音できない名前であるとして反対し、地理学協会にその旨を書き送ったが、1856年8月に開かれたベンガル・アジア協会の会合で世界最高峰の発見が報告された後の9月に王立地理学協会が「エベレスト山」の名称を受け入れ、インド政庁も承認した。ちなみに現在のエベレストの発音(IPA:/ˈɛvərɪst/または/ˈɛvərɨst/ EV-er-est)と実際のジョージ・エベレストの発音(/ˈiːvrɪst/ EAVE-rest)は異なっている。 ピーク15の名称についてはネパールに駐在した外交官ブライアン・ホジソン(Brian Hodgson)が1856年に地元で「デヴァドゥンガ」(Devadhunga)と呼ばれていると唱えたり、1907年にはインド測量局の技師ナタ・シン(Natha Singh)が地元の民が「チョー・ルンブ」(Chho Lungbhu)と呼んでいることを記録している。1909年にはエベレスト登攀のための情報収集をしていたグルカ連隊の将校チャールズ・グランヴィル・ブルース(Charles Granville Bruce)がクーンブ地方の出身のシェルパから「チョモ・ルンモ」(Chomo Lungmo)という名前を聞いている。他にも19世紀の終わりには「チョモカンカル」(Chomokangkar)というのが山の名前であるといわれたこともあったが、インド測量局は一貫して「エベレスト」の呼称を用い続けた。1950年代に入って中国政府がチベット名「チョモランマ」(Chomolangma、珠穆朗瑪)を採用した、これは「世界の母なる女神」の意味であるという。1960年代にはネパール政府が「サガルマータ」(世界の頂上の意味)という名称を示した。この名前はネパールの著名な歴史学者バーブラーム・アーチャリヤ(Baburam Acharya)が1938年に文芸誌『シャルダ』に紹介したものだというが、カトマンズでは知られていない一部の地域での名称だったらしい。ネパールは以後、この名称を使い続けている。山の名称に人名を用いたことについては王立地理学協会やインド政庁でも議論があり、悪しき先例になると考えた人々も多かった。エベレスト山という名称が受け入れられた後で、世界第二位のK2に関しても名称を「ウォー山」(Mount Waugh、1860年)あるいは「ゴドウィン・オースティン峰」(Godwin-Austen 1886年)としようという動きがあったが、いずれも地理学協会やインド政庁が受け入れなかった。1852年、インド測量局の技師でベンガル出身のインド人測量技師、ラーダナート・シクダール が240kmはなれたインドから三角測量した結果、「ピーク15 (Peak XV)」 という仮称で呼ばれていた山が世界最高峰であることを発見した。当時ネパールは「禁断の王国」であり、外国人は入ることはできなかったため、より近距離での測量は不可能だった。測量の結果によればP-15 (Peak XV) の標高は約8,840 m (29,002 ft) だった。現在最新の標高は8,848 mとされているが、他にもいくつかの異なる標高が測量結果として報告されている。2番目に高い山はK2で、標高8,611 mである。2005年5月22日、中国のエベレスト測量隊はエベレストに登頂、数ヶ月に渡る測量の結果、同年10月9日にエベレストの標高は8,844.43 m±0.21 mと公式に発表した。彼らはこの数値がこれまでで最も正確な標高であるとしている。しかしこの標高は最も高い岩石の部分に基づくもので頂上部分の氷や雪は含んでおらず、モンブランやテンリタグといった他の高峰の標高の基準と異なっている。測量隊は雪と氷の厚みも測量しており、この結果は3.5 mだったことから、8,848 mという従来の測量結果に誤りはなかったことになる。しかし実際のところ雪と氷の厚みは変化するため、正確なGPSによる測量がなければ、厳密な標高を求めることは不可能とされている。現在最もよく知られている8,848mという標高は、1955年のインドによる従来より近距離からの測量によって、初めて求められたものである。1975年の中国による測量でも同様の結果が得られた。どちらも頂上部分の氷雪の厚みを含んだものである。1999年5月、ブラッドフォード・ウォッシュバーン率いるアメリカエベレスト遠征隊は山頂にGPSユニットを設置、8,850mという測量結果を発表した。これによれば岩石部分の標高は8,850m、氷雪を含めると更に1 m高いとされている。ネパール政府は正式にこの測量結果を認めていないが、この数値は広く用いられている。1999年と2005年の調査双方にジオイドの不確かさという問題が指摘されている。エベレストの標高は周辺のプレートテクトニクスにより年々高くなっており、山頂も北東へと移動していると考えられている。現在2つの報告書が、エベレストは年4 mmの速さで標高が高くなっており、また山頂は年3-6 mmの速さで北東へ移動しているとしている。しかし、他の報告書の中には横方向への移動はもっと速く(年27 mm)、標高は縮むことさえあるとしているものもある。またエベレスト山頂では風化が激しいので、地殻変動によって一時的に8,848 mを超えてもその分は侵食されてしまうため、エベレストの標高はこれ以上高くならないという説もある。エベレストは最も高い海抜高度をもつ山である。しかし、ハワイのマウナケアとエクアドルのチンボラソがエベレストに代わる「世界最高峰」とする主張もある。マウナケアの海面からの標高は4,205 mだが、海底からの高さを考慮すればその標高は10,203 mを超えることになる。また海抜高度6,267 mのチンボラソ頂上はアンデス山脈の最高峰ですらないが、地球の形状は赤道に近づく程に膨れており、地球の中心からの高さは6,384.4kmになる。これは、エベレストの6,382.3 kmよりも2,168 m高い。また、最も深い海であるマリアナ海溝のチャレンジャー海淵はエベレストの標高よりも遥かに深い。もしエベレストをチャレンジャー海淵の深さに沈めたとすれば、山頂ですら2 kmもの深度に沈むこととなる。1893年、探検家として知られ、政務官を務めていたフランシス・ヤングハズバンドと第五グルカ・ライフル連隊の勇将として鳴らしていたチャールズ・グランヴィル・ブルース准将 (Charles Granville Bruce) がチトラル(現在のパキスタン)のポロ球戯場でエベレスト登頂について話し合ったのが具体的なエベレスト登頂計画の嚆矢であるといわれる。1907年にはイギリス山岳会の創立50周年記念行事としてエベレスト遠征隊の派遣が提案されたが、実現しなかった。しかし、北極点到達(1909年)および南極点制覇(1911年)の競争に敗れたことで、イギリスが帝国の栄誉を「第三の極地」エベレストの征服にかけていくことになる。遠征計画は第一次大戦の勃発によって先送りになるが、戦争の終結とともにイギリス山岳会と王立地理学協会がエベレスト委員会を組織し、ヤングハズバンドが委員長となって、エベレスト遠征計画の具体化が始まった。1921年、エベレスト委員会によって第一次エベレスト遠征隊が組織される。隊長にはグルカ連隊で長年勤務し、地理に明るく、地元民の信頼も厚いチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がふさわしいと思われていたが、軍務に影響があるという理由で回避され、代わりに中央アジアを巡回した経験を持つ歴戦の英雄チャールズ・ハワード=ベリー ()中佐が選ばれた。隊員としてカシミール地方に詳しく高度と人体の影響に関しての専門家であったアレクサンダー・ケラス()博士、医師のサンデイ・ウォラストン()、測量班としてのちにインド測量局の長官をつとめることになるオリヴァー・ウィーラー()、インド測量局の局員ヘンリー・モーズヘッド ()、地質学者のアレクサンダー・ヘロン()、登攀部隊のリーダーとして50代のベテラン登山家ハロルド・レイバーン()、若手登山家として知られていたジョージ・マロリーとオーストラリア生まれのジョージ・フィンチが選出された。フィンチは直前になって健康を理由にメンバーから外され、代わってマロリーの登山仲間だったガイ・ブロック () がマロリーの推薦によって選ばれた。第一次遠征隊は登頂そのものでなく、登頂のための周辺調査とルート確認を目的として英国を出発。インドのカルカッタに上陸後、ダージリンからチベットを回り込んでエベレストを目指した。チベットのカンパ・ゾンでは体調がすぐれなかったケラス博士が心臓発作で亡くなるというアクシデントに見舞われたが、遠征隊はエベレストのノース・コル(North Col、チャン・ラとも呼ばれる、標高7020m)にいたるルートを確認するとともに、エベレスト周辺の詳細な地図を初めて作成することに成功して帰国した。1922年には第二次遠征隊が送り込まれた。隊長として宿願であったチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がつき、エドワード・リーズル・ストラット (Edward Lisle Strutt) 大佐を副隊長に迎え、前回参加できなかったジョージ・フィンチ、ハワード・サマヴィル (Howard Somervell) 博士や エドワード・ノートン、同地方の地理にも詳しい医師のトム・ロングスタッフ (Tom George Longstaff)、 同じく医師のアーサー・ウェイクフィールド (Arthur Wakefield) 博士、ブルース准将の甥でやはりグルカ連隊所属のジェフリー・ブルース (Geoffrey Bruce) 大尉と同僚のジョン・モリス (John Morris) 大尉、さらに前回のメンバーであるマロリー、モーズヘッド、遠征隊の模様を映写機で撮影することになるジョン・ノエル (John Baptist Lucius Noel) 大尉らが選ばれた。第二次遠征隊は三度の頂上アタックを行った。7620mの地点に設けられた第五キャンプから第一次アタックチームを率いたマロリーは、酸素ボンベなどは信頼性が低いと考えてこれを用いず、サマヴィルやノートンらと無酸素で北東稜の稜線に達した。薄い空気に苦しみながら、一同は8,225 mという当時の人類の最高到達高度の記録を打ちたてたが、天候が変化し、時間が遅くなっていたため、それ以上の登攀ができなかった。次にジョージ・フィンチとウェイクフィールド、ジェフリー・ブルースからなる第二次アタックチームは酸素ボンベをかついで5月27日に8,321 mの高さまで驚異的なスピードで到達することに成功した。ブルースの持っていた酸素器具の不調で第二次チームが戻ってくると、マロリーはフィンチ、サマヴィルと第三次アタックチームを編成して山頂を目指そうとした。しかし、マロリーらがシェルパとともにノース・コル目指して斜面を歩いているとき、雪崩が発生して7名のシェルパが命を落としたため、一行は失意のうちにベースキャンプに戻り遠征は終了した。1924年の第三次遠征隊では1922年同様隊長はブルース将軍がつとめ、副隊長にはノートン大佐がえらばれた。隊員として経験者のジョージ・マロリー、ジェフリー・ブルース、ハワード・サマヴィルが選ばれ、さらにベントリー・ビーサム (Bentley Beetham) 、E・シェビア (E.O. Shebbeare)、地質学者でもあったノエル・オデール、マロリーと最期を共にしたアンドリュー・アーヴィンらが選ばれた。一行は2月28日にリヴァプールを出航、3月にダージリンへ到着し、3月の終わりにダージリンから陸路エベレストを目指したが、道中でマラリアのためブルース将軍が離脱、ノートンが隊長になった。4月28日、遠征隊はロンブクに到着してベースキャンプを設営し、そこから順にキャンプをあげていった。彼らは7000m付近に第四キャンプを設けて頂上アタックの拠点とし、そこから頂上までの間に2つのキャンプを設けることにした。ノートンはサマヴィルと共に酸素ボンベなしで頂上を目指し、途中から一人で北壁をトラバースし標高8572mに到達、人類の最高到達記録を更新したが引き返した。マロリーは6月8日、22歳の若いアンドリュー・アーヴィン1人を連れて第六キャンプを出発、酸素ボンベを使用して山頂を目指した。2人はこのまま行方不明になり、第三次遠征隊は山を下りた。第三次遠征隊が許可のないロンシャール谷に入っていたこと、彼らが帰国後に上映した記録映画の中で紹介されたチベット人の習俗が不正確であったことが当時のダライ・ラマを怒らせ、以後9年間エベレスト入山の許可が出なかった。」1933年、イギリス第四次遠征隊。隊長ヒュー・ラットレッジ (Hugh Ruttledge)、隊員にはフランク・スマイス (Frank Smythe)、ジャック・ロングランド (Jack Longland)、パーシー・ウィン=ハリス (Percy Wyn-Harris)、レイモンド・グリーン (Raymond Greene)、ローレンス・ウェイジャー、 エドワード・シェビア (Edward Shebbeare)、 トム・ブロックルバンク (Tom Brocklebank)、 1922年隊にも参加したコリン・クロフォード (Colin Crawford) らがおり、後に遠征隊の隊長をつとめる歴戦の登山家エリック・シプトンもその中に含まれていた。この遠征では高度8570mが最高で登頂はできなかったが、ウィン=ハリスが頂上近くでアーヴィンのものとされるアイス・アックスを発見したことで有名になる。同隊ははじめてエベレスト遠征にラジオを持参した。なお、1933年4月3日、スコットランドの貴族、第14代ハミルトン公爵ダグラス・ダグラス=ハミルトンが操縦席がむき出しの複葉機(ウエストランド機)に乗り込み、エベレスト山頂の上を飛び越えると共に史上初めてエベレストの空撮に成功した。1934年、イギリスの奇人モーリス・ウィルソン (Maurice Wilson) が飛行機を山腹に不時着させ単独登頂をするという計画を立てたが、不許可となる。登山経験のないウィルソンは「霊的な助け」によって頂上にたどりつけると信じ、2人のシェルパを雇ってノース・コルのふもとまであがったが行方不明になる。1935年、イギリス第五次遠征隊。登頂目的でなく、エリック・シプトンをリーダーにモンスーン時の気候を調査する目的で派遣された小規模のグループだった。ノース・コルのふもとでテントに包まれたモーリス・ウィルソンの遺体と日記を発見。隊には1938年隊の隊長になるビル・ティルマン (Bill Tilman) がいた。また、ニュージーランド出身のダン・ブライアントをシプトンが気に入ったことが後にエドモンド・ヒラリーが遠征隊に参加する道を開くことになる。有名なテンジン・ノルゲイが若手シェルパとしてエベレスト行に初参加。1936年、イギリス第六次遠征隊。1933年の失敗を批判されて以来、隊長就任を固辞していたラットレッジが適任者不在を理由で再び隊長に引っ張り出された。1924年隊のノエル・オデールも参加を打診されたが年齢を理由に辞退している。エリック・シプトン、フランク・スマイス、ウィン=ハリス、チャールズ・ウォレン、ピーター・オリヴァーらが参加。日程の当初は雪も少なく天候にも恵まれて成果が期待されたが、直後に例年よりも早いモンスーンが到来したため、隊はほとんど何も成果を得られず帰国し、「最低の遠征隊」と酷評されることになる。1938年、イギリス第七次遠征隊。隊長ビル・ティルマン。再び小規模な遠征隊を組むことにし、隊員としてシプトン、スマイス、ウォレン、オリバーら経験者が選ばれた。古参のノエル・オデールも再び参加。天候の悪化のため登頂を断念し、遠征隊は帰還。翌年以降は第二次世界大戦の影響で登山は行われず。1949年、ネパールが鎖国を解き、初めてネパール側の登山が可能になる。逆にそれまで唯一のルートだったチベット側は中国の支配下におかれたことで閉鎖された。ネパールの開国は、戦前アジアに強い影響力を持ったイギリスが独占してきたエベレスト遠征に世界各国が参加できるようになったということを意味していた。1951年、イギリスのマイケル・ウォード、トム・ボーディロン (Tom Bourdillon)、ビル・マーリがネパール側から入って山頂へのルート探索を行うことにし、エリック・シプトンを隊長として迎える。ネパール到着後、クムト・パルバット遠征を終えたニュージーランド隊から2名、アール・リディフォードとエドモンド・ヒラリーが参加。シプトンは1935年にメンバーだったニュージーランド人ダン・ブライアントに好印象を持っており、そのことがニュージーランド人の参加につながった。一行は難所アイスフォールを突破しウェスタン・クウムに至る現在でもよく使われる南東稜ルートを発見する。この遠征の帰途メンルン氷河の近くでシプトンは雪上に残る「巨大な足跡」を発見、後に未知の生物「イエティ」のものだと喧伝されることになる。1952年、スイスがネパールから1952年の入山許可を得、イギリスは1953年の入山許可しか得られなかった。動揺したイギリスは合同遠征隊を提案するが拒否される。スイス隊はエドゥアール・ウィス・デュナンを隊長とし、アルプスで鳴らした屈指の登山家たちレイモン・ランベール (Raymond Lambert)、アンドレ・ロッシュ、ルネ・ディテール、エルンスト・ホッフシュテッターらを擁してエベレストに挑んだ。同隊はシェルパとしてテンジン・ノルゲイを指名して参加を要請、テンジンはこれが4度目のエベレスト登攀になった。一行はアイス・フォールを超え、巨大なクレバスに道をさえぎられたが、ジャン・ジャック・アスパーがザイルをつかってクレバスの反対側に渡ることに成功し、そこに橋をかけてウェスタン・クウムへの道を開いた。最終的にランデールとテンジンがそれまでの最高高度8,611 mに達し、頂上は目前だったが天候に恵まれず撤退。この年、ソ連が秘密裏に遠征隊を送り込んで壊滅したといううわさが西側メディアで流れたが、詳細は明らかにならず。1953年、酸素装備の改良、登攀技術の研鑽などによって満を持したイギリス隊が送り込まれる。この機会を逃せば次の派遣は数年後になっており、翌年以降各国が続々と隊を送り込む予定だったため、イギリスは強い意気込みで1953年隊を送り出した。隊長はベテランのシプトンにいったん決まったものの、第60ライフル連隊のジョン・ハント (John Hunt) 大佐が推挙されてもめにもめた。その後、突如シプトンが隊長という決定がくつがえされ、ハントが隊長に代わった。この時のトラブルに心を痛めたシプトンは登山界の表舞台を去ることになる。遠征隊は順調にキャンプを前進させていき、2つの頂上アタックチームを送り出した。まず最初のチャールズ・エバンスとトム・ボーディロンのチームが5月26日にアタック、南峰(8749m)を制したが酸素不足で撤退した。後に続いたエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイの第2チームが5月29日午前11時30分に世界で初めての登頂に成功、エリザベス2世の戴冠と時期を同じくする偉業にイギリスは沸き、マロリー以来の宿願を果たした。1960年5月25日、中国隊がセカンドステップを超えて北東側からの初登頂に成功。同隊が夜間登頂したため、頂上での写真をとっていなかったことなどから、この登頂は長く西側諸国から疑いの目で見られていたが、現在ではほぼ認定されている。(下記リスト参照)1963年5月22日、アメリカ隊が登頂に成功。初縦走も成し遂げる。1965年5月20日、21名からなるインド隊(M・コーリ隊長)が登頂に成功、シェルパのナワン・ゴンブは史上初めて2度エベレストの頂上に立った人物となった。(1度目は1963年のアメリカ隊と。)ネパール政府によって外国人による登山が1969年まで全面禁止となる。1970年5月11日、松浦輝夫と植村直己が日本人として初めて登頂に成功した。1975年5月16日、田部井淳子が女性として世界で初めて登頂に成功した。1973年イタリア隊のリナルド・カレル、ミルコ・ミヌッツォら5人が登頂しイタリア人として初のエベレスト登頂。 実業家グイド・モンジーノが組織したこの隊はイタリア人隊員は隊長も含め64人、雇用したシェルパも100人にのぼり、ジェット機とヘリコプターで搬入した物資は50トンに及ぶなど単独の登山隊としては最大級の規模であった。1996年5月10日 8名が死亡する大量遭難死が発生した(エヴェレスト大量遭難参照)。同シーズンにさらに4名の遭難があり1シーズンで12名の死者が出た。1999年5月1日、アメリカのマロリー&アーヴィン捜索隊が標高8,160m付近でマロリーの遺体を発見した。マロリー達が持参していたカメラ、ヴェスト・ポケット・コダックが発見されたならばエベレスト登山史上最大の謎が解けることになるが、未だ発見に至っていない。しかし、登頂に成功した暁に置いてくるつもりだった彼の妻の写真が遺留品になかったことから、ジョージ・マロリーが登頂に成功していたのではないかという説を唱える人も多い。なお、マロリー&アーヴィン捜索隊は2001年にも捜索活動を行い、前回発見できなかったアーヴィンの遺体とカメラを捜索したが、この時の捜索では何も発見できなかった。2012年5月19日、異常高温によりルート工作が難航したため待機させられていた大量の登山隊が開通時に一斉に押し寄せ、1日で234人が登頂し大渋滞が発生。これを遠因として登頂後に高山病を発症し4人が死亡した。この年はいくつかの登山ツアーは山頂までの登頂を諦めている。2014年4月18日、ネパール側ルート上のクーンブ氷河中にある「ポップコーン・フィールド」付近を、西稜の肩の懸垂氷河の崩落を原因とした大雪崩が直撃。ルート工作中のシェルパが多数巻き込まれ16人が死亡(死者は全てネパール人ガイド)。この事故死をきっかけにシェルパ側から事故時の補償を拡充する声が高まり、登山のサポートを事実上ボイコット。334人が登頂を断念している。また、ネパール観光局は、シェルパの保険金を2014年9月以降、引き上げる措置を講じている。2015年4月25日、同日発生したネパール地震の影響で大規模な雪崩がベースキャンプを直撃し、日本人1人を含む18人が死亡。エベレスト史上最悪の遭難事故となった。ネパール側では余震によりルート修復が困難になり、キャンプ1とキャンプ2に100人以上が取り残されたがヘリコプターで救助された。一方、この地震をうけて、中国政府はチベット側の登山中止を宣言。この影響で、この年は1974年以来41年ぶりに登頂者が1人もでなかった。登頂者数は2010年時点で3,142人(のべ5,104人)で、その中の142人(のべ173人)が無酸素で登頂している。2012年には登頂者数が3,842人(うち女性は219人)となり、1週間にベースキャンプから山頂まで2往復する女性も現れた。商業登山や公募隊が盛んになり、登山者数はますます増加する傾向にある。登頂のためのノウハウが蓄積され、死亡率は減少傾向に、登頂成功率は上昇傾向にある。登山者の増加により、渋滞が問題になっており、渋滞によりヒラリー・ステップで2時間半〜4時間待つこともあり、ヒラリー・ステップを簡単に素早く登れるように2013年現在、固定ロープだけでなくハシゴも設置する事が検討されている。エベレストに入山するには入山料を支払わないと登れないシステムになっている。2015年時点の入山料は、ネパール側では春の通常ルート(南東稜)で1人あたり11,000ドル。他にリエゾン・オフィサーや医療サポート、ロープ設置などの名目で1500ドルほどかかる。春以外の季節、または通常ルート以外のルートでは、入山料はこれよりも安くなる。2014年の価格改定時に1人で登る場合の入山料が値下げされたが、団体割引がなくなっている。チベット側の入山料は1人あたり7,000ドルである(2015年時点)。登山ツアー(商業公募隊)が多数あり、2015年現在、ネパールからの通常ルートの場合、入山料などの全ての諸経費込みで$35,000〜$85,000程度となっている。ネパールからの通常ルートは、シーズン毎に各隊のシェルパが固定ロープ、ハシゴを設置し、それに沿って登山する形となり、氷壁などを登る必要などはない。チベット側からの登山は難易度が相対的に高くなっているが、こちらも公募隊が多数組まれている。商業公募隊には品質のばらつきがあり、死亡率の高いものも存在する。最近の日本人による登頂のほとんどが商業公募隊かテレビ局の撮影を伴う物になっている。エドモンド・ヒラリーは登山ツアーを「商業活動」と批判している。田部井淳子も、現地ネパール人の助けがあって登頂に成功したが、今では助けを得られるかはお金次第であると述べ、登山の過度の商業化を危惧した。また登山者数の増加に伴い、ネパール側、チベット側の2つのノーマルルートで渋滞が発生し、それが誘引となって遭難する案件も出てきている。2005年にはチベット側だけで35グループのエベレスト登山ガイド隊が活動しており、一連の登山ビジネスの活発化が山に対する敬意や畏怖の念を薄れさせると懸念する声も上がっている。登山ルートには、随所に120体もの遭難者の遺体が放置され凍結ないしは乾燥によりミイラ化している。遺体の中には登山ルートの目印となっているものもある。遭難死の7割は下山時に発生している。ネパール側のエベレスト以外(K2など)の山も含めたヒマラヤ山脈での標高8500m以上の山の登山での死亡率は以下の通り。登山ツアーの1つ Himalayan Experience の客の登頂成功率は悪天候とシェルパの死により誰も登らなかった2012年を除くと、客を毎年20名前後取るようになった2003年〜2011年で60%〜82%(この数字はガイド・シェルパを含まず)。日本人専用の登山ツアーとしてアドベンチャーガイズがあり、2004年〜2013年にガイドを除いて23名参加し、17名登頂成功、2名死亡(死亡事例はいずれもガイド自身がエベレスト登頂未経験のケースに発生)。ネパール側の登山ルートは成人(16歳以上)のみ登山ができる年齢制限がかかっており、2010年9月より中国側登山ルートによる登山が18歳から60歳に年齢制限がかかる。制限導入の背景は、従来より若年層による登山にはより大きな危険が伴うと批判が出ていたこと、最年少記録更新のヒートアップが予想されたこと、などがある。ただし中国側の規制は強制ではなく、2014年には13歳のマラバト・プルナが中国側から女性最年少登頂を果たしている。登山ルートには度重なる登山のゴミが廃棄されており、生態系に与える影響や水質汚染が懸念されている。ネパール政府は、自分が出したゴミとは別に1人あたり8Kgのゴミを持ち帰るよう義務付ける、新しい規制を2014年から導入した。ゴミを回収することを目的とした登山が行われることもある。上記のようにエベレストの山頂へと登ることは熟練の登山家でも危険を伴うが、一方で南麓であるネパール側の6,000 m以下のエベレストの山腹まではそれほどの難所もなく、高山病対策さえあれば一般の観光客でもトレッキングを楽しむことは可能であり、世界中から多くの観光客が訪れる。日本でも、いくつかの旅行社がエベレスト・トレッキングツアーを催行しており、参加者も多い。また、単独で、または登山ガイドをつけての個人トレッキングも可能である。トレッキングを行う場合、まずネパールの首都カトマンズから飛行機でルクラ村へと向かう(テンジン・ヒラリー空港も参照)。ここから北のエベレスト山腹へと向かう道はエベレスト街道と呼ばれ、多くの登山客が行きかう。ルクラ村の手前にある路線バスの終点ジリ村から徒歩で数日かけルクラまで歩くことも出来る。ルクラから北へ向かうと、この地方で最も大きく登山基地となっているナムチェ村を通り、やがて西のゴーキョ・ピークと東のカラ・パタールへ向かう二つの登山道が分岐する。ゴーキョ・ピークは標高5,483 m、カラ・パタールは5,545 mの地点にあり、どちらも眼前にエベレストを望むことが出来る。

出典:wikipedia

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