治天の君(ちてんのきみ)は、日本の古代末期から中世において、天皇家の家督者として政務の実権を握った上皇又は天皇を指す用語。治天の君は事実上の君主として君臨した。但し、「治天の君」については在位の天皇を含める立場と在位の天皇を含めず院政を行う上皇に限る立場とがある。上皇が治天の君である場合、天皇は在位の君とよばれる。また上皇が治天の君として行う院政に対して、天皇が治天の君として政務に当たることを親政という。治天の君は、治天下(ちてんか)、治天(ちてん)、政務(せいむ)などとも呼ばれた。以下、本項では治天の君を「治天」という。「治天」は古くは天皇や皇族の敬称号として、5世紀後半まで治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)として成立していたが、その後は律令の整備によって使用されなくなっていた。平安時代後期の院政の開始により、「治天」の語が再び登場した。それまでは、藤原北家が摂政・関白(天皇の代行者・補佐者)として政治実権を持つ摂関政治が行われていた。あくまで律令官制の最高位に君臨するのは天皇であり、その天皇を代行・補佐することが、摂関の権力の源泉となっていた。しかし、白河上皇に始まる院政では、上皇が子へ譲位した後も、直接的な父権に基づき政治の実権を握るようになったため、摂関政治はその存立根拠を失った。この変遷は、天皇の母系にあたる摂関家が、天皇の父系にあたる上皇に、権力を奪われたものとみることができる。平安中期から後期頃から、特定の官職を一つの家系で担うことが貴族社会の中で徐々に一般化しつつあった。官職に就くことは、その官職に付随する収益権を得ることも意味しており、官職に就いた家系の長(家督者)は、収益を一族へ配分する権限・義務を持った。このような社会的な風潮が天皇家へも影響し、天皇家の家督者となった者が、本来の天皇の権限を執行するようになったのだろうと考えられている。この天皇家の家督者が、実質的な国王であり、治天と呼ばれるようになった。複数の上皇が併存することもあったが、治天となりうるのは1人のみであり、治天の地位を巡って上皇・天皇同士の闘争さえ発生した(保元の乱)。治天が実質的な君主になると、天皇はあたかも東宮(皇太子)のようだ、とも言われた。実際、院政が本格化すると皇太子を立てることがなくなっている。治天となりうる資格要件は大きく2つある。まず、天皇位を経験していること。次に、現天皇の直系尊属であること。この結果、治天になれなければ、自らの子孫へ皇位継承できないことを意味しており、治天の座を獲得することは死活問題であった。ただし、鎌倉時代以降になると、皇位に就かなかった後高倉院が治天となったり、光明天皇の直系尊属ではない光厳上皇が治天となったように、前述の資格要件が必ずしも満たされない場合も出現した。ただし、「治天の君」という言葉が出現するのは後嵯峨院政後の後深草上皇・亀山天皇の並立状態以降に生まれたとされている。応徳3年(1086年)に白河天皇が皇子の堀河天皇へ譲位し、院政を開始した時が、治天の成立だと考えられている。堀河天皇は皇位にありながら、政治の実務は白河上皇が行っていた。堀河天皇が崩御してその皇子鳥羽天皇が即位しても白河法皇が政務を担った。白河法皇が崩御すると、崇徳天皇に譲位し既に上皇となっていた鳥羽上皇が治天となり、院政を開始した。白河法皇も鳥羽法皇も積極的な政策展開を行い、専制的な院政の典型とも、院政の最盛期とも評されている。保元元年(1156年)、鳥羽天皇が崩御すると、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟が治天の座を巡って争い、後白河天皇が勝利した(保元の乱)。後白河天皇は2年後の保元3年(1158年)に退位すると院政を開始した。平清盛による院政停止や高倉院政の開始によって治天の地位から追われたことがあったが、清盛の死去と高倉上皇の崩御によって復活、それからは建久3年(1192年)に崩ずるまで治天の地位を保った。さて、白河院政の後期以降、院への荘園寄進が非常に集中するようになり、天皇家は莫大な経済基盤を得ることとなった。これらの荘園はいくつかのグループに分けられ、別々に相続されていった。例としては、鳥羽天皇が皇女の八条院に相続した荘園群である八条院領、後白河が長講堂という寺院に寄進した長講堂領などがある。治天の君は天皇家の家督者として、これらの厖大な荘園群を総括する権限を有していた。後白河天皇の次に治天となったのは、その孫の後鳥羽天皇だった。治承・元暦年間(1180年代)の治承・寿永の乱の結果、東国に鎌倉幕府が成立し、独自の支配権を獲得していたが、治天として専制を指向する後鳥羽上皇には、幕府の存在が我慢ならないものだった。承久3年(1221年)、まだ誕生して間もなく、源実朝暗殺により将軍不在となった幕府の体制を不安定と見た後鳥羽上皇は、幕府の武力排除を試みたが、幕府軍に敗北してしまった(承久の乱)。これにより、後鳥羽上皇及びその直系の上皇・天皇は追放され、後堀河天皇が即位した。後堀河天皇の父守貞親王が天皇家の家督者として、治天に就任することとなったが、守貞親王は天皇位に就いたことがなく、治天の資格要件を欠いていた。しかし、緊急事態であることが考慮され、特別に治天となり、後高倉院(天皇の例に倣い崩御後に院号を贈られた)として院政を布いた。これは、既に治天の存在が不可欠になっていたことを表している。承久の乱以降、治天がそれ以前と同等の権力を有することはなく、重要事項は幕府と協議した上で決定することが常態化した。後堀河上皇の没後、12才の若さで四条天皇が崩御すると、次代の天皇を指名するべき治天が存在しないという事態を招いた。公家の間では順徳天皇の皇子忠成王を擁立する動きがあったが、幕府は土御門天皇の皇子邦仁王を指名し、結果邦仁王が後嵯峨天皇として即位した。これは天皇の指名には幕府の承認が必要であるという先例になり、治天の権威が低下しただけでなく、治天の権限の一部を幕府が掌握したことになる。後嵯峨院政の末年には次代の治天の座を巡って後深草天皇の系統(持明院統)と亀山天皇の系統(大覚寺統)が対立した。治天である後嵯峨法皇は没する直前に手ずから譲り状を認めたが、明記されたのは長講堂領以外の荘園の相続であり、皇統のことは何も記さず「六勝寺ならびに鳥羽殿以下のことは治天下に依りその沙汰あるべし」と記されたのみであった。幕府は中宮であった大宮院に問い合わせると、大宮院は後嵯峨天皇の意志は亀山天皇系にあるとした。このため亀山天皇が治天となり、政務を執ることになったが後深草天皇系はこれに反発して幕府に力添えを頼んだ。幕府の調停の結果、双方が交互に治天の地位に就く両統迭立が行われるようになった。また長講堂領は持明院統に、八条院領は大覚寺統に相続されるようになり、経済面でも両統は同程度の実力を持つに至った。文保2年(1318年)に即位した大覚寺統の後醍醐天皇は、上記の状況を大きく変革した。まず、父であり治天でもある後宇多上皇の院政を停止し自ら政務に当たる親政を始め、また、2度にわたって倒幕を企てたが、いずれも天皇位への権力集中(権力の一元化)を指向したものだと見られている。1333年(元弘3年)に始まる後醍醐の建武の新政は数年で失敗に至り、当時最大の実力者だった足利尊氏が幕府政権を樹立することとなった。その際、尊氏は、持明院統の光厳上皇を治天とし、その弟の光明天皇を即位させ、自らは征夷大将軍に就任する。後醍醐天皇は治天の地位を否定したけれども、社会はそれを必要としていたことを表している。後に美濃守護土岐頼遠が光厳上皇に矢を射掛ける事件を起こした際に、尊氏から事件の処理を任された弟の足利直義は幕府内外から起こる頼遠助命の声を無視してその斬首を強行した。直義は光厳上皇の治天としての権威のみが、室町幕府の政治的な正統性を保障していることを理解していたのである。正平7年/観応3年(1352年)、北朝・幕府と対立していた南朝は、観応の擾乱に乗じ、北朝側の治天・天皇・皇太子を拉致することに成功した。建前であっても、政治決定には治天の裁可を必要としていたため、幕府及び北朝側の公家は北朝の再開に取り組むこととなった。治天・天皇・皇太子の奪還は困難と見られたため、出家していた弥仁王(光厳天皇の皇子)を後光厳天皇とし、京都に残る天皇家の中で最高位者だった広義門院(西園寺寧子、後伏見天皇の女御・光厳の生母)が治天の権能を行使することで対応した。女性で、しかも皇室の出自でない者が治天となるのは前代未聞の事態だったが、これにより北朝は存続することができた。どのような形であれ、治天という存在が政治上、必要不可欠だったのである。続いて、後光厳の子の後円融上皇である。後円融上皇は明徳4年(1393年)に崩御した。後円融上皇の皇子後小松天皇は、元中9年/明徳3年(1392年)に南北朝合一を実現して後醍醐天皇以来の唯一の天皇となり、皇子称光天皇に譲位して院政を行い、正長元年(1428年)に称光天皇が崩御して皇統が絶えると、伏見宮家から後花園天皇を立てて院政を続けた。治天の権能を行使した人物
出典:wikipedia
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