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国鉄42系電車

42系電車(42けいでんしゃ)とは、1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)にかけて鉄道省(日本国有鉄道の前身)が製造した2扉クロスシートの旧形電車を便宜的に総称したものである。具体的には、モハ42形(42001 - 42013)、モハ43形(43001 - 43037)、モハユニ44形(44001 - 44005)、サロハ46形(46100 - 46103)、クハ58形(58001 - 58025)、クロハ59形(59001 - 59021)の105両のことである。1935年から1937年にかけて京阪神地区の急行電車用に製造されたモハ52形を基幹とするグループは、別項(国鉄52系電車)で述べる。42系電車は、本系列で唯一東京地区(横須賀線)に投入されたモハユニ44形を除き、東海道・山陽線京阪神地区に投入された。1934年(昭和9年)7月20日、吹田 - 須磨間が電化開業し、電車の運転が開始されたのに伴い新製投入されたものである。東海道・山陽線の関西地区電化区間は、のち同年9月に須磨 - 明石間、1937年(昭和12年)には京都 - 吹田間を延伸している。1930年代、阪神間では阪神電気鉄道本線および阪神急行電鉄神戸線(現・阪急電鉄)が、京阪間では京阪電気鉄道の京阪本線と新京阪線(現・阪急京都線)がすでに開業していた。特に阪急や新京阪では、強力な1時間定格出力150kWあるいは170kW級の主電動機を装備した優秀な電車が高速運転を行なっていた(新京阪P-6形や阪急920形など)。東海道・山陽線の京阪神間電化は、これらに対抗するため、同線での急行電車の運行を企図した背景がある。それゆえ本系列は、当時としては比較的長距離の運行を想定し、片側2扉の20m級車体にクロスシートを装備した。なお横須賀線用に製造された32系ではまだ付随車のみ20mで電動車は17mのままであったが、42系では電動車も含め20m級とされたものである。しかし搭載電動機は、それ以前の40系電車と同じ100kWの標準品(MT15C)であり、並行私鉄の同クラスの電車と比べて出力が小さかった。また内装が木製の半鋼製であり、既に全鋼製車両も存在した並行私鉄に比して、やや見劣りする感は免れなかった。当初の歯車比は、モハ32形と同じく高速型の1:2.26で、駅間距離が長い高速運転に適応させ、加速力は度外視している。電動車の台車はTR25(DT12)を、付随車用にはTR23を使用している。これらはいずれも軸バネ式で、ホイールベースを除いては類似設計であり、既に40系電車で採用されていた。本系列は、太平洋戦争の勃発により最も大きな変貌を遂げた系列で、扉を増設して3扉、4扉となったものがあり、4扉となったものは40系電車の歯車比の大きい低速台車との交換を行なっている。戦後は、1950年(昭和25年)に東京地区の旧モハ51形のモハ41形と交換で横須賀線に転属している。ここでも、3扉の70系電車と併用されることから、電動機交換による出力増強や扉の増設が行なわれている。1950年代には、クハが身延線、飯田線に転出、1960年代には電動車も地方への転出が本格化している。特に飯田線での長距離運用は著名であった。小野田線に残ったクモハ42001は、JR最後の営業用旧形電車として2003年3月まで運用されたことが特筆される。車体の基本構成は、1932年に登場した32系電車と同様の2扉クロスシートであるが、扉両側の窓は、32系の600mm1枚から、700mm2枚となって、立席スペースが増大されている。また、モハユニ44形を除いて、運転台は半室構造の貫通式とされ、車両間には貫通幌が設置されている。また、1934年製造車は、屋根上の通風器が3列となっている。1933年に13両が製造された両運転台式の制御電動車である。主に増結用として使用された。定員104名(座席68名、立席48名。両運転台であるが、002, 004, 006の3両は、パンタグラフが偶数(下り)向きであった。側面窓配置は、d1D2122D1d。1933年 - 1934年に37両が製造された片運転台式の制御電動車で、本系列で最も多く製造された基幹形式である。定員129名(座席74名、立席55名)。向きは、奇数番号車が奇数(上り)向き、偶数番号が偶数(下り)向きに統一されている。側面窓配置は、d1D2122D2。1937年に急行電車用の43038 - 43041(4両)が追造されているが、こちらについては別項(国鉄52系電車#第3次車)を参照されたい。1934年に横須賀線のモハユニ30形置換え用に製造された三等郵便荷物合造車で、5両が製造された。本系列唯一の東京地区への配置車である。車体は、前位より運転台、荷物室、郵便室、三等客室に区分され、定員80名(座席48名、立席32名)、郵便2t、荷物3tである。合造車であることから関西地区配置車が前面貫通の半室運転台構造であったのに対し、前面非貫通の全室運転台となっているのが特徴である。1934年に急行用として4両が製造された二・三等合造車である。横須賀線用の32系の同形式車とは、引き通し線の芯数(東京地区用は7芯3栓、関西地区用は12芯2栓)、定員(二等40名、三等60名(座席32名、立席28名)が異なるため、46100 - 46103と区分されたが、1936年(昭和11年)に横須賀線用の続番(46014 - 46017)に改番された。側面窓配置は、2D222242D2。1933年 - 1935年に25両が製造された三等制御車で、全車が偶数(下り)向きである。一般用の42系としては最も長期にわたって製造された形式で、最終増備車の58025は、唯一前面が半流線型となった。定員は、モハ43形と同じ129名(座席74名、立席55名)である。側面窓配置は、d1D2122D2。1933年製22両のうち、12両は三等付随車のサハ48形として計画されたが、並行私鉄への対抗のため列車本数を増やすように変更されたため、後述のクロハ59形とともに全車が制御車に変更された。1933年 - 1934年に21両が製造された二・三等制御車で、全車が奇数(上り)向きである。定員は、二等32名、三等77名(座席34名、立席43人)である。窓配置は、d1D26222D2。1937年にサロハ46形の改造車4両(59022 - 59025)が増加している。急行用の52系電車の増備にともない、急行に使用していたサロハ46形は普通用となるため1937年に吹田工場において4両(46014 - 46017)の三等室側に運転台を設置してクロハ59形(59022 - 59025)とした。オリジナルのクロハ59形とは、運転台が全室式である点、オリジナル車に比べ、二等室側の定員が多く、窓配置はd1D242222D2で、若干異なる。この改造によりサロハ46形は消滅した。1938年11月、急行電車以外の二等車が廃止され、クロハ59形はそのまま二等室を三等室に格下げして使用したが、車体中央部に扉を増設し、クハ68形(68021 - 68045)に形式変更するよう計画された。計画はされたものの、2年間施工されず、1941年3月から1942年5月までに16両(68021 - 68035, 68037)が施工されたにとどまった。この改造により、側面窓配置はd1D24D32D2となった。これらのその後については、"国鉄40系電車#クハ68形をクハ55形に改造を参照"。残りは、戦時輸送の本格化にともなって座席をロングシートに変更して落成し、直接クハ55形となった。1942年(昭和17年)11月以降の落成車は、戦時輸送のため座席がロングシートに変更されたため、9両が直接クハ55形となった。先にクハ68形へ改造されていたグループについても、1943年からロングシート化、座席半減が実施され、クハ55形に形式変更された。うち、59022については塚本駅事故後休車になっていたところ、試作的に4扉に改造され、一時的にクハ55106となったが、間もなく新形式クハ85形(初代)85026となった。モハ42形は、1944年(昭和19年)3月から42001 - 42010(10両)に対して4扉化および40系電動車との台車振替えによる低速化を実施するよう計画されたが、戦局の悪化により5両(42002 - 42004, 42007, 42010)が実施されたのにとどまった。残りの3両は、後述の3扉片運転台化が計画されており、2扉高速型の原形モハ42形は消滅することになるため、形式称号の変更は行なわれなかった。しかしながらその後の改造計画の頓挫によりモハ42形には、2扉高速型と4扉低速型の2種類が混在することになった。この状態が是正されるのは、1953年の形式称号規程改正時である。これにより4扉車は、全車新形式のモハ32形(2代。後のクモハ32形)となった。残る3両(42011 - 42013)は、台車の振替えを実施せずに、3扉化および後位運転台撤去のうえモハ51形(51072 - 51074)に形式変更するよう計画されたが、1944年7月に、42012 → 51073が実施されたのにとどまった。この車は、扉の増設を実施せず、運転台撤去のみを実施して落成したが、1953年の更新修繕II実施により漸く3扉化されている。モハ43形は1943年(昭和18年)、4扉化および40系との台車振替えによる低速化が計画され、試作車として43028に対して施工された。当初は、37両全車が対象とされ、モハ64形の同番となる計画であったが、1944年8月に43004 - 43017(14両)が3扉高速型のモハ51形(51088 - 51101)に変更され、43037, 43018 - 43036、43001 - 43003がモハ64形(64001 - 64023)とすることとされた。しかしながら、モハ51形化は施工車が全くないまま計画中止となり、モハ64形についても13両が施工されたにとどまった。なお、計画変更前に4扉化施工済みの車両については、計画変更にともなって改番が実施されている。また、改造の仕様については種車の窓割りを大きく変更し1000mm幅の扉を増設した車と、窓割りに大きな変更を加えず1100mm幅の扉を増設した車の2タイプがある。改造の施工は、すべて吹田工機部である。クハ58形は、全車に対して1944年から扉を2か所に増設し、4扉車クハ85形(同番)に形式変更するよう計画された。しかし、この形式も改造は全車に及ばず、約半数の13両に対して施工されたにとどまった。改造仕様について2種類(吹田工機部、鷹取工機部)あることも、モハ43形(モハ64形)と同様である。クハ85形の制定にともない、試作的に改造されていた55106も85026に改番されている。また、クハ85形は戦災廃車となった85023を除き1949年(昭和24年)、80系電車の計画にともなって85形を同系に明け渡すため、クハ79形79031 -に改番されている。詳細については、72系電車も参照されたい。太平洋戦争末期の米軍の空襲により、本系列では11両が被災し、廃車となっている。また、同時期に事故により6両が廃車となった。これらは、一部が70系客車として復旧・復籍したほか、私鉄に払下げられている。その状況は、次のとおりである。1950年(昭和25年)、戦時改造から免れ、2扉のまま残った42系は、中央線の旧モハ51形のモハ41形と交換される形で横須賀線に移った。このうちモハ43形6両は70系電車と混用されるため、1951年(昭和26年)から電動機をMT30形(142kW)交換して出力を増強した。これらは800番台(初代)に改番されたが、1953年6月の形式称号規程改正によりモハ53形となった。1951年、身延線に配置されていた7両にトイレが取付けられた。残る2両は伊東線に配置されていたためトイレ取付けは身延線転出後の1956年となった。そのため、この2両は1953年の改番の際、クハ47形100番台の末尾に置かれている。1953年の称号規程改正による、形式称号の変更は次のとおりである。戦時改造から漏れ、戦災を受けなかった9両がクハ47形に編入され、100番台に付番された。番号の新旧対照は、次のとおりである。クハ58形が偶数(下り)向きであったことから、全車が偶数番号に付番されたが、改番時点では、全車が静岡鉄道管理局管内に転属しており、同局の方針により全車が方向転換して奇数(上り)向きとなっていたため、番号と向きとの間に齟齬が生じている。後年、飯田線用の一部は、クモハ52形と4両編成を組むため、再び偶数(下り)向きに方向転換されている。また、58014と58016が末尾に付番されているのは、改番当時伊東線用でトイレを装備していなかったためだが、後年設置改造が行われた。横須賀線への転属後、主電動機を強力形に交換した7両が新形式のモハ53形を付与された。番号の新旧対照は次のとおりである。概要については、前記のとおりであるが、これ以外に第3次急行電車のモハ43形2両(43041, 43040)がモハ53形(53007, 53008)に変更されている。4扉化によりモハ64形に改造されたもののうち、戦災を免れた12両が新形式モハ31形に改称された。番号の新旧対照は次のとおりである。旧番号順に奇数偶数を揃える形で改番されている。5両が改造されたうち戦災を逃れた3両がモハ32形(2代)となった。番号の新旧対照は、次のとおりである。戦時改造によりクハ55形に編入されていた旧クロハ59形のグループは、戦後に一部がクロスシートを復活し、本改正においてクハ68形(2代)に改称された。全車が奇数(上り)向きである。番号の新旧対照は、次のとおりである。この改番の範疇ではないが、1954年度に3両のクハ55形(旧サロハ46形改造のクロハ59形)がクハ68形に改造されているので、合わせて記する。番号の新旧対照は、次のとおりである。1959年の改正により運転台つきの電動車は、制御電動車(記号:クモ)となったため、該当車の形式が改められた。また、従来形式は数字のみであったが、記号と数字をあわせて形式とすることとされた。1963年度、横須賀線に残るクモハ43形、クモハ53形各5両に対し、3扉の70系と混結した際に乗車位置を揃えるため、大船工場で車体中央部に客用扉を増設し、3扉に改造した。改造後は、クモハ51形(200番台)、クモハ50形に改められた。42系電車の地方転出にあたり、身延線で使用されるものについては、狭小建築限界トンネル通過の際の絶縁距離を確保するため、パンタグラフ取付け部分の屋根高さを低くする改造を行なっている。1956年、横須賀線から身延線への転出の際に更新修繕IIとともに3両が低屋根化された。後年の改造車と異なり、全長にわたって低屋根化され、前面は切妻となって印象が大きく変わった。この時には車番の変更は行なわれず、1959年12月22日付け達で番号の整理が行なわれ、クモハユニ44800 - 802に改番された。低屋根改造の際、大糸線に在籍していたため改造を免れたクモハユニ44003は、他車と同時にクモハユニ44000に改番されたが、1968年の身延線転属時に低屋根改造され、クモハユニ44803に改番された。こちらは、パンタグラフを後位に移してその付近のみ低屋根化しており、より原型に近い形態を維持していた。1965年、浜松工場で身延線用にクモハ43形を低屋根化したもの。パンタグラフを後位に移設してその付近のみ低屋根化した。運転室の締切りができることから、主に4両固定編成の中間電動車として使用された。身延線への62系(2代)投入後、52系のクモハ43810とともに北松本区(大糸線)に転出している。また、当初はパンタグラフの位置をそのままに、運転台側を低屋根化する計画であったようで、その形態の形式図が残されている。1966年、浜松工場でクモハ51形(200番台)を低屋根化したもので、改造内容はクモハ43形(800番台)と同様である。1970年、浜松工場でクモハ14形の置換え用にクモハ51073を改造したもので、元はモハ42形の異端車である。阪和線時代に出力増強されているが、形式の変更はされなかった。1967年(昭和42年)、飯田線で使用されていた旧クロハ59形改造のクハ68形3両にトイレが取付けられた。改番は1968年(昭和43年)5月で、400番台が付与された。身延線では1981年に、飯田線では1978年と1983年に新形電車への置換えにより廃車された。宇部線・小野田線用として1957年に転属した42001, 42005, 42006は小野田線本山支線用としてその後も使用され、42005を除く2両が西日本旅客鉄道(JR西日本)に承継された。東日本旅客鉄道(JR東日本)のクモハ12形引退後はJR最後の営業用旧形電車として注目されたが、42006は2000年に廃車となり、42001も2003年3月14日の運転を最後にクモハ123形に置き換えられ営業運転を退いたが、2016年現在も車籍を有している。旧形電車の最末期まで国鉄に在籍したため、終戦直後の事故車が2両小田急電鉄に譲渡されたに過ぎない。これらは1800形に編入され、1958年に車体更新を受け、原型を失っている。

出典:wikipedia

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