ナリタタイシンは日本の競走馬。ウイニングチケットやビワハヤヒデを破り皐月賞を制した。半姉に阪神牝馬特別を勝ったユーセイフェアリーがいる。※以降、馬齢は全て旧表記(数え年)にて表記する。3歳の7月、札幌でデビュー。2戦目に勝ち上がった後はきんもくせい特別(500万下)、福島3歳ステークスと福島で2戦したが勝ち切れなかった。それでも、12月のラジオたんぱ杯3歳ステークスで清水英次とのコンビで勝利を収め、一躍クラシック候補に躍り出た。4歳になり重賞に出走するものの、シンザン記念ではアンバーライオンを捕まえ切れず2着に、武豊を鞍上に迎えた弥生賞でもウイニングチケットを捉えられず2着に敗れた。こうして迎えたクラシック第1弾の皐月賞ではウイニングチケットとビワハヤヒデの2頭による一騎討ちの様相を呈している中で3番人気に推された。レースではスローペースの中、1コーナーで最後方、4コーナーでも12番手と後方を位置取りながら、最後の直線で馬群をぬって伸び、ビワハヤヒデをクビ差差し切って優勝した。この時から3強の一角として認められるようになる。日本ダービーでもウイニングチケット、ビワハヤヒデに続く3番人気となった。レースでは直線で物凄い脚で追い込んできたが、ウイニングチケット、ビワハヤヒデに次ぐ3着に終わった。ダービー後、ウイニングチケットやビワハヤヒデなどライバルたちが休養する中、高松宮杯に出走した。いつも通り後方からの競馬となったが、逃げるロンシャンボーイを捕らえきれず2着に敗れた。高松宮杯出走後、京都新聞杯を予定していたが、1週前の追い切り中に運動誘発性肺出血(EIPH)を発症して出走できず、ぶっつけで菊花賞に挑まざるを得なかった。そして、菊花賞では3番人気で出走したが、終始後方のまま17着と大敗し、その年のシーズンを終えた。なお、菊花賞では3000mの走破に3分14秒1を要し、勝ったビワハヤヒデから9秒4、16着のトップローモンドからも5秒7の大差をつけられており、最下位に入線してもおかしくない状態だったが、ネーハイシーザーがレース中に心房細動を起こし、ナリタタイシンから更に30秒遅れて入線したため、最下位にはならなかった。年が明けて古馬となった初戦の目黒記念では大外からの差しで皐月賞以来の勝利を挙げた。そして、ビワハヤヒデとの一騎討ちとなった春の天皇賞では、3コーナーの坂下からのまくり戦法で勝負にいったが、1馬身4分の1の差、ビワハヤヒデに届かず2着に敗れた。その後宝塚記念の直前には軽症ではあったが骨折、京都大賞典の直前には下痢、秋の天皇賞の直前には屈腱炎を発症してしまい、結局5歳の秋は出走できずに終わってしまった。屈腱炎発症後、このまま引退すると思われたが、1年もの休養ののち、宝塚記念に出走する事となった。山田泰誠とのコンビで挑んだ宝塚記念では長期休養明けが響き、16着(競走中止したライスシャワーを除けば、最下位)と大敗した。その後、高松宮杯に向けて調整を行っていたが、屈腱炎が再発したために出走を断念。この屈腱炎のため、ナリタタイシンは引退し種牡馬となった。種牡馬となったナリタタイシンは早世したリヴリアの後継として期待されたが、産駒がことごとく走らず、地方重賞勝ち馬は新潟ジュニアカップを勝ったファヴォリートのみ、中央競馬では最も走った産駒でも2勝を挙げたのみであった。2003年に種牡馬を引退。繁殖入りした産駒が少なかったこともあり、その血は孫世代で途絶えている。現在、ナリタタイシンは日高町のベーシカル・コーチング・スクールで余生を送っている。
出典:wikipedia
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