大邱広域市(テグこういきし、)は、大韓民国南部の都市である。人口は約250万人で、ソウル、釜山、仁川に次いで韓国で4番目であるが、仁川はソウルのベッドタウンとしての性格も強いため、実質的には韓国第3の都市である。大邱は1392年から1896年まで慶尚道の道都であり、1896年に道制がしかれて以来は慶尚北道の道都となった。1981年に直轄市に昇格し、1995年に広域市となった(慶尚北道庁は2016年に安東市に移るまで大邱に所在していた)。1938年には115.65平方キロを面積としていたが、周辺地域との併合・分離を何度か行っており、広域市昇格時にほぼ現在の面積となっている。大邱広域市長を参照。読みと各種表記は大韓民国の地方行政区画を参照。イタリアのミラノとも1999年から姉妹都市であると説明されていたが、後に虚偽であったと判明している。古代の大邱はタボル(다벌、多伐)、タルボル(달벌、達伐)、タルブルソン(달불성、達弗城)、タルクボル(달구벌、達句伐)、タルクファ(달구화、達句火)などと呼ばれていた。これらは古代朝鮮の固有語の音写で、おおむね「大きい原野」などの意味となる。新羅の時代には蝟火郡達句火県で、統一新羅の景徳王在位期間の757年に唐風に寿昌郡大丘県と改称された。高麗時代は寿城郡と呼ばれた。李氏朝鮮の時代より、大邱は慶尚道北部地域で最大の都市であり、慶尚道地域における行政上・経済上・文化上の中心都市であったが、現在ではその役割は国際貿易都市である釜山に受け継がれている。18世紀に大丘から現在の漢字の大邱に書き換えられている。これは「丘」が儒家の始祖、孔子の諱であり、それに配慮し「邱」に置き換えたとされている(避諱)。日本統治時代、1910年に大邱郡は大邱府(たいきゅうふ)に改められ、1914年に大邱府と達城郡は分離、独立後の1949年に大邱府は大邱市になっている。1946年10月1日、大邱10月事件によって大韓民国一部地域で230万人がアメリカ軍政に抗議して蜂起する。朝鮮戦争時、大邱のすぐ側を流れる洛東江(ナクトンガン)付近でもっとも激しい戦闘が行われたが、釜山とともに街の大部分は戦争中も韓国側が防御し続けた。戦後、急激な発展をとげ、人口は10倍以上となった。1963年には公山・嘉昌・城西・月背の4つの面が慶尚北道達城郡に戻され、1981年に大邱直轄市として慶尚北道から分離し、市域拡張を重ねて1995年に大邱広域市になり、慶尚北道の達城郡を編入している。内陸の盆地に位置しているため、韓国内でもっとも暑い都市の一つといわれる。記録上の最高気温極値は40.0℃(1942年8月1日)、最低気温極値は-20.2℃(1923年1月19日)、過去最深積雪は55.4cm(1953年1月18日)である。大邱の主要産業は、繊維・金属・機械製造である。大邱周辺で生産されるリンゴの品質も東アジアでは著名である。1970年代から1990年代にかけて、ミス・コリアを多く輩出している。近郊の名所としては世界遺産の海印寺大蔵経板殿で知られる海印寺が挙げられる。近郊都市として、東隣の慶山があげられ、宅地開発が進められた。かつての新羅の首都であった慶州は、東へ50kmほど離れている。市内のKORAILの駅のうち、旅客列車が停車するのは大邱駅・東大邱駅のみであり、その他は旅客扱いを休止している。大邱市庁に近いのは市名を冠した大邱駅であるが、ターミナル駅は東大邱駅となっており、KTXは東大邱駅のみ停車。同駅には全ての列車が停車する。2010年に京釜高速線の東大邱駅 - 釜山駅の新線が開通し全面開業となった。ソウル駅まで約1時間55分・釜山駅まで45分。KTX全面開業以降、大邱線は東大邱駅始発の列車が大半となり、中央線・東海南部線へ直通する列車が同駅を始発・終着するものが多い。大邱駅はKTXを除く全てのITX-セマウル・ムグンファ号が停車する。詳細は各線のページを参照のこと。 快速・循環・幹線・支線に分かれている。T-money等のICカードが利用可能。大邱には8つの大学と6つの専門大学、2つのポリテク大学がある。韓国プロ野球の三星ライオンズは、2011年に韓国勢として初めてアジアシリーズを制した。Kリーグの大邱FCは、全国初の市民Kリーグクラブである。大邱スタジアムは、2002 FIFAワールドカップ、2011年世界陸上競技選手権大会の会場となった。2003年夏季ユニバーシアードは市内を会場とした。
出典:wikipedia
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