神聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、, , , )は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。1512年以降の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」()である。大空位時代に諸侯の台頭を許し、ヴェストファーレン条約でフランスに領土を割譲した。以後、その体制は諸領域の連合体に近いものになっているとはいえ、その版図に限られない国際的影響力を誇った。カール5世のときにイングランド王家と閨閥をつくったほか、ヴァチカン公認の中世大学を版図の外にも複数抱えた。版図消滅後は、財政基盤をロスチャイルドに残すかたわら、多民族を統治した勢力均衡の要領をウィーン体制に継承した。諸侯でも特にハプスブルク君主国は事実上の帝国とみなされた。宗教改革から続く帝国郵便をルドルフ2世は1597年に公認して領邦郵便を禁じた。しかし、君主国の郵便は堂々と営業した。ゲラルド・ファン・スウィーテンはイエズス会の検閲制度を段階をふみ、やがて完全に帝国のものへ転化した。その過程ではモンテスキューによる『法の精神』が発禁解除となった。帝国郵便は新聞の流通を掌握し、検閲網となった。このような体制はドイツ統一まで続き、万国郵便連合の基礎となった。日本では通俗的に、962年ドイツ王オットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により、カロリング朝的ローマ帝国の継承者として皇帝に戴冠したときから始まるとされ、高等学校における世界史教育もこの見方を継承している。しかし、ドイツの歴史学界ではこの帝国をカール大帝から始めるのが一般的で、その名称の変化とともに3つの時期に分ける。すなわち、カール大帝の皇帝戴冠から東フランクにおけるカロリング朝断絶に至る「ローマ帝国」期(800年-911年)・オットー大帝の戴冠からシュタウフェン朝の断絶に至る「帝国」期(962年-1254年)・中世後期から1806年にいたる「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」期である。これは帝国の体制構造の大規模な変化にも対応している。帝国はゲルマン王国の伝統に基づいた選挙王制の形式を取っていたが、中世盛期の三王朝時代(ザクセン朝、ザーリアー朝、ホーエンシュタウフェン朝)では事実上の世襲が行われており、実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった。皇帝は独立性の強い諸侯に対抗する手段として帝国内の教会を統治機構に組み込んでいた(帝国教会政策)。また、歴代の皇帝は「ローマ帝国」という名目のためにイタリアの支配権を唱え、度々侵攻した(イタリア政策)。当初、皇帝権は教皇権に対して優勢であり、皇帝たちは度々教皇庁に介入していた。だが、教会改革運動が進展すると皇帝と教皇との対立が引き起こされ、11世紀後半から12世紀にかけての叙任権闘争は皇帝側の敗北に終わった。この間に諸侯の特権が拡大して領邦支配が確立されている。1254年にホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、20年近くも王権の影響力が空洞化する大空位時代となり、諸侯への分権化がより一層進んだ。14世紀のカール4世による金印勅書以降、皇帝は有力な7人の選帝侯による選挙で選ばれるようになり、さらに選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権等の大幅な自治権が与えられた。この間、異なる家門の皇帝が続く、跳躍選挙の時代が続いたが、1438年に即位したアルブレヒト2世以降はハプスブルク家が帝位をほぼ独占するようになった。マクシミリアン1世治世の1495年から帝国改造が行われ、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなる。16世紀のカール5世の治世に始まった宗教改革によって帝国はカトリックとプロテスタントに分裂し、宗教紛争は最終的に皇帝側の敗北に終わり、アウクスブルクの和議によりプロテスタント信仰が容認されるとともに領邦の独立性が更に強化されることになった。また、カール5世はセバスチャン・カボットを投獄していたので彼を離反させてしまった。ハプスブルク家の所有した官僚制はフェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)が再編成し多様化させた。その頂点に枢密顧問会議デア・ゲハイメ・ラートが置かれた。この最高機関は、ドイツ各地が甚大な被害を受けた三十年戦争のさなかにあっても皇帝の意見よりオーストリア王朝の利益を優先した。議員には常にボヘミア人がいた。会議はヴェンツェル・オイゼビウス・フォン・ロプコヴィッツにより枢密院ディ・ゲハイメ・コンフェレンツへ刷新されて、レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)の政治判断を左右した。1648年にヴェストファーレン条約が締結されて戦争は終結し、全諸侯に独自の外交権を含む大幅な領邦高権(主権)が認められる一方、平和的な紛争解決手段が整えられ、諸侯の協力による帝国の集団防衛という神聖ローマ帝国独特の制度が確立した。枢密院以外では軍が強かった。官房間では政治闘争が繰り返された。会計局は、自由都市の経済と、戦中でも豊かなボヘミアからの収入を完全管理した。大トルコ戦争の後は、解放域の開発・通商による収益を誰にも掠め取られることなく帝国宝庫に納めた。こうした財源は軍事費につぎこまれた。宮廷軍事局の指令は法律同然であり、辺鄙な村落すら軍規に従わされた。その後スペイン継承戦争に備えてプロイセンに兵力を頼ることになった。諸侯のバランスは崩壊し、帝国はやがて機能不全に陥った。オーストリア継承戦争をきっかけに外交革命を果し、ついにプロイセンと7年戦争で相対する。19世紀初頭にはフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、フランスに従属するライン同盟に再編された。帝国内の全諸侯が帝国からの脱退を宣言すると、既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していた神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位し、帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。古代ローマ帝国の後継を称し、その名称は時代とともに幾度も変化した。「神聖(Sacrum)」の形容詞は、1157年にフリードリヒ1世がドイツの諸侯に発布した召喚状に初めて現れる。元々、彼らは古代ローマ帝国やカール大帝のフランク王国の継承国を自称していた。フランク王国は西ローマ帝国の継承国を自認しており、必然的に「神聖ローマ帝国」の名は(西)ローマ帝国からフランク王国へと受け継がれた帝権を継承した帝国であるということを標榜していた。そして帝位にふさわしいと評価を得た者がローマ教皇によりローマで戴冠し、ローマ皇帝に即位したのである。しかし、この帝国は「神聖」の定義や根拠が曖昧で、「ローマ帝国」と称してはいるが、現在のドイツからイタリアまでを領土としていてもローマは含んでおらず、さらに「帝国」を名乗りつつも皇帝の力が実質的に及ぶ領土が判然としない国であった。また、古代ローマ帝国の正統な継承国としては、15世紀中期まで東ローマ帝国(中世ローマ帝国)が存続していた。当然のことながら、東ローマ帝国側は神聖ローマ帝国が「ローマ帝国」であることを認めず、その君主がローマ皇帝であることも承認しなかった(二帝問題)。一方、神聖ローマ帝国側でも、東ローマ皇帝のことをローマ帝国であると認めず、「コンスタンティノープルの皇帝」「ギリシア人の王」などと呼ぶようになっていた。時代が下って1933年にナチスが政権を握ると、彼らは自らを「第三帝国」と呼び慣わしたが、これは神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に次ぐ第三のドイツ人帝国という意味である。神聖ローマ帝国の領域は今日のドイツ(南シュレスヴィヒを除く)、オーストリア(ブルゲンラント州を除く)、チェコ共和国、スイスとリヒテンシュタイン、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクそしてスロベニア(プレクムリェ地方を除く)に加えて、フランス東部(主にアルトワ、アルザス、フランシュ=コンテ、サヴォワとロレーヌ)、北イタリア(主にロンバルディア州、ピエモンテ州、エミリア=ロマーニャ州、トスカーナ、南チロル)そしてポーランド西部(主にシレジア、ポメラニア、およびノイマルク)に及んでいた。帝国は当初、ドイツ王兼イタリア王が皇帝に戴冠されて成立した。従ってその領域はドイツから北イタリアにまたがっていた。また9世紀末から10世紀にドイツ王に臣従していたボヘミア(現在のチェコ共和国)は1158年(または1159年)に大公から王国へ昇格し、帝国が消滅するまでその一部であり続ける。1032年にブルグント王国の王家が断絶すると、1006年にブルグント王ルドルフ3世とドイツ王(のち皇帝)ハインリヒ2世の間で結ばれていた取り決めにより、ハインリヒ2世の後継者コンラート2世がドイツ王・イタリア王に加えてブルグント王も兼ねることとなった。ブルグント王国は現在のフランス南東部にあった王国であり、これにより神聖ローマ帝国の領域は南東フランスにまで拡大した。13世紀半ば、皇帝不在の大空位時代を迎えて皇帝権が揺らぐとイタリアは次第に帝国から分離した。ブルグントにはシャルル・ダンジューを初めとするフランス勢力が入り込んだ。イタリアの諸都市は実質的に独立を得ていき、のちにはやはりフランスが勢力を伸ばそうとした。皇帝位を世襲するようになったハプスブルク家は北イタリアからフランスの勢力を撃退し、この地域の支配を確立するのであるが、それは北イタリアが再び帝国の一部となったことを意味するのではない。北イタリアが帝国の制度に編入されることはなかった。また、1648年のヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)の結果、エルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)のいくつかの都市がフランスに割譲され、スイスとオランダが独立した。この三地域は帝国から分離したのであり、北イタリアと同様、もはや帝国の制度外の地域となった。その後もフランスのエルザス=ロートリンゲンへの進出は続き、神聖ローマ帝国が消滅する1806年までにこの地域の全てが帝国から脱落することとなった。800年、カロリング朝のフランク王カール1世が教皇レオ3世(在位:795年-816年)によって西ローマ皇帝として戴冠された。5世紀末に西ローマ皇帝が絶えた後の西欧はローマ帝国の一部としてコンスタンティノープルの皇帝に従属していたが、ここに西ローマ皇帝が復活したのである。無論、実態としてはフランク王国が西ローマ帝国を名乗ったに過ぎない。この帝国は公的には西方帝国、西の帝国(フランス語: Empire d’Occident)と呼ばれているが、歴史学ではフランク帝国ないしはカロリング帝国と呼ばれている。西方帝国(カロリング帝国)はフランク王国の最終段階、あるいは中近世に渡って1000年続く神聖ローマ帝国の初期段階である。カールの戴冠は建国では無い。フランク王国はカロリング朝の前のメロヴィング朝が建国しているし、カロリング朝にしてもカール大帝の代までには既にフランク王国の支配者となっている。後に西方帝国となる国家の基本を作り上げたのは大帝の祖父であるカール・マルテルであるし、カロリング朝最初の王は父のピピンである。カールの戴冠の意義は西欧がコンスタンティノープルの皇帝に理念的にも従属しなくなったということであり、またローマ、ゲルマン、キリスト教の三要素からなる神聖ローマ帝国という概念が誕生した瞬間だということである。しかし843年、ゲルマン人の風習である分割相続が元で西方帝国は分裂した。分裂した西方帝国は一度統合されるものの、888年にカール3世肥満帝が死去すると再び分割され再建されることは無かった。西方帝国の分裂はフランス、ドイツという国家の始まりでもある。なお、西方帝国分裂後も名ばかりの帝位をイタリア王が得ていたが、924年に途絶えた。395年、地中海世界の全域を支配する世界帝国であった古代ローマ帝国は東西に分割された。東ローマ帝国はその後も1000年以上続くが、西ローマ帝国では蛮族が侵入して自らの王国を立てていった。476年にはとうとう本土イタリアが失われ、西ローマ皇帝位も廃止された。ガリア(現在のフランス)北部ではソワソン管区が残っていたが、486年にメロヴィング朝フランク王国のクロヴィス1世が滅ぼし、西ローマ帝国の実態は完全に消滅した。フランク王国はガリア全域を支配下にいれ、分裂と統一を繰り返しながらも強大化していく。メロヴィング朝フランク王国の末期は、宮宰が王国の実権を握っていた。宮宰とは、本来は王家の家政を取り仕切る、いわば執事長に過ぎない職である。しかしフランク王国では王家の家政上の私事と公務の区別があいまいのまま宮宰が行政、裁判、戦争に参加する権限を持ち、事実上の国王となっていた。8世紀初頭のフランク王国は東のアウストラシアと西のネウストリアに別れており、両方に宮宰がいた。アウストラシアでは7世紀半ばにカロリング家による宮宰職の世襲がほぼ確立していた。カロリング家のカール・マルテルは715年にアウストラシアの宮宰となり、718年には32才前後でフランク王国全体の宮宰となった。カール・マルテルは後の西方帝国における軍事、内政両面の制度を整えた。トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝のイスラム軍を破ったことでも名高い。このころ、ウマイヤ朝は北アフリカからジブラルタル海峡を越えてヨーロッパに侵入してきており、イベリア半島の西ゴート王国は滅ぼされてしまっていた。ウマイヤ朝は720年にはピレネー山脈を越えてフランク王国にまで進出してきていた。732年、ウマイヤ朝は大規模な北上を開始し、現在のフランス中央部ロワール川流域にまで迫った。カール・マルテルは厳しく訓練された重装歩兵の密集隊形によって敵将を討ち取った。結果、西ヨーロッパへのイスラム教徒の侵入はイベリア半島で留められた。内政面では王国全土の3分の1を占めていた教会領の没収を強行して、国を守る騎士に貸与(恩貸)した。封建制度の基礎を作ったのである。しかし当然ながら、カロリング家と教会との関係は悪化した。741年にカール・マルテルは55才で死去し、750年には息子のピピン3世が36才前後でフランク王国全土の実権を握る宮宰となった。ピピン3世はカロリング朝フランク王国の初代国王として即位し、その際に教皇領の元となった領土を教皇に寄進したことで知られる(ピピンの寄進)。ピピンは宮宰となった後、まずカール・マルテルが悪化させた教会との関係を修復した。751年、ピピンはローマ教皇ザカリアスの支持を受けた上でフランク族の貴族たちによって王に選出された。メロヴィング朝の王キルデリク3世は廃された。754年から755年、王は教皇の支持への見返りにイタリアの大部分を支配していたランゴバルド王国と戦い、イタリア中心部のラヴェンナを奪って教皇ステファヌス3世に献上した。カトリック教会とカロリング朝の結びつきは強くなり、フランク王国を「神の国」とするような観念が見られ始める。768年に王は52才で死去し、息子のカールとカールマンがそれぞれ26才と17才前後で後を継いだ。その後771年にカールマンが早逝したので、以降カールが単独で王国を支配した。カール大帝はフランク王国の領土を最大に広げ、西ローマ皇帝として戴冠された。カールの生涯の大半は征服行で占められていた。46年間の治世のあいだに53回もの軍事遠征を行った。北ではザクセン族(北ドイツ)、南ではランゴバルド族(イタリア)、西ではウマイヤ朝(スペイン)、東ではバイエルン族(南ドイツ)やアヴァール人と戦った。他にも西のブルターニュや北のフリース族と戦った。774年、カールはランゴバルドの首都パヴィアを占領し、自らランゴバルド王=イタリア王となった。中世イタリア王国の始まりである。北イタリアは事実上フランク王国の一部となった。カールはさらに父ピピンの例にならって中部イタリアの地を教皇に寄進した。しかし南イタリアはランゴバルド族の支配に留まり、ランゴバルド族の支配が終わってもフランク王国やその後継国家である神聖ローマ帝国に組み込まれることは無かった。また、カールは772年から30年にわたるザクセン戦争を行い、異教を守って最後まで抵抗をつづけたザクセン人の国家もフランク王国の一部とした。こうしてカールはイギリス、アイルランド、イベリア半島、イタリア南端部をのぞく西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成し、混乱した西ヨーロッパ世界に安定をもたらしたのである。800年12月25日、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂のクリスマスミサにて、58才のカールは教皇レオ3世(在位:795年-816年)から「西ローマ皇帝」として帝冠を授かった。前年に教皇の命を助けたことへの報酬であった。これがカールの戴冠であり、西欧に帝国が復興された(西方帝国)。ただし大帝は「もし、前もって戴冠があることを知っていたら、ミサには出席しなかっただろう」と言い残している。というのも、大帝の帝位はコンスタンティノポリスの東ローマ帝国から見ると皇帝称号の僭称にすぎなかったからであり、そもそもローマ教皇が皇帝を任命するという慣習はそれまでにはまったくなかった。カールの戴冠は教皇権の優位の確認でもあり、カトリック教会へ何かと干渉する東ローマ帝国への対抗措置でもあったのである。実際、教皇による戴冠は16世紀まで帝国にとっての伝統となってしまう。それでも大帝は自らの皇帝称号を東ローマ側に承認させるための皇帝補任運動を繰り広げ、812年にようやく妥協が成立した。東ローマ帝国はカールを「西ローマ皇帝」としては認めなかったものの、「フランクの皇帝」としての地位を認めた。その代わり大帝は南イタリアの一部と商業のさかんなヴェネツィアを東ローマ領として譲り渡すことを承認した。西欧的立場から見るならば、カールの戴冠は大きな意味を持っていた。これまで地中海世界で唯一の皇帝であった東ローマ皇帝に対し、西ヨーロッパのゲルマン社会からも皇帝が誕生したからである。ここでローマ教会と西欧は東ローマ皇帝の宗主権下からの政治的、精神的独立を果たしたと評価されている。814年に大帝は71才で死去し、存命だった唯一の息子ルートヴィヒ1世が35才前後で後を継いだ。フランク族には「領土相続権を長子のみに与えるのではなく、分割相続させる」という慣習が存在した。この慣習は明らかに統一国家維持の理念と相反していた。ピピン3世にもカール大帝にも共に国土を分割した兄弟がいたが、共同王たちは隠居するか早世するかしたため、王国は早いうちに一人の王の支配に戻った。カール大帝の三人の息子たちにもフランク族の伝統に従って分割相続する手筈が整えられていた。しかし兄二人が相次いで大帝に先だったため、末弟のルートヴィヒが全てを相続したのである。そして、ルートヴィヒ1世敬虔帝の治世に分割相続の問題点は一気に噴出した。ルートヴィヒ1世敬虔帝は分割相続と統一国家維持の妥協点を見出そうとしたが、自らの我儘で台無しにして西方帝国を混乱させた。まず817年、39才前後の敬虔帝は「帝国整備令」を発布。22才前後の長男ロタール1世には共同皇帝の地位と西方帝国本土を、20才前後の次男ピピンにはアキテーヌを、13才前後の三男ルートヴィヒにはバイエルンを与える分割統治案を定め、分権的統一王国の創出を図った。しかし823年、敬虔帝が45才位のときに四男カール2世が誕生してしまった。敬虔帝はカール2世を溺愛し、この末弟にも領土を与えることを決めた。三兄弟は激しく抵抗し、三度にも渡って反乱を起こした。敬虔帝は妥協と前言撤回を繰り返しつつ、隙あらばカール2世に領土を与えようとした。三兄弟も敬虔帝を二度廃位に追い込んだが、懐柔されたり兄弟間で仲違いしたりとまとまりがなかった。838年に次男ピピンが41才前後で死去。840年に敬虔帝も62才前後で死去した。しかし、父という共通の敵がいなくなったことで兄弟の領土を巡る対立は頂点を迎えた。ロタール1世の代に、とうとう西方帝国は解体した。841年、フォントノワの戦いで46才前後の皇帝ロタール1世、37才前後のルートヴィヒ2世、18才のカール2世の三者が会戦。西方帝国全土を領有せんとする皇帝に対し、ルートヴィヒ2世とカール2世は同盟を結び、皇帝軍を撃破した。843年8月10日、ヴェルダン条約が結ばれて三人の兄弟それぞれがフランク人の王であることが確認された。これをもって西方帝国はカール2世(シャルル2世)禿頭王の西フランク王国、ルートヴィヒ2世ドイツ人王の東フランク王国、そして皇帝の中部フランク王国に分裂した。ロタール1世の帝位は保たれたものの東西両フランク王国に対する宗主権は失われた。855年9月29日、プリュム修道院にて皇帝は60才前後で死去した。30才前後の長男ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世、ドイツ人王とは異なる)に皇帝の称号とイタリア、20才前後の次男ロタール2世にロタリンギア(ロレーヌ)とブルグント北部など、10才前後の三男カール(シャルル)にプロヴァンスとブルグント南部などが分割相続された。こうして中部フランク王国が三分された結果、フランク王国は5つにまで分裂してしまった。ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)はイタリアの一部を支配したのみで、西方帝国全体に皇帝としての権威を示すことはできなかった。863年、末弟シャルルが18才前後で相続人なく死去した。シャルルの遺領は皇帝と弟ロタール2世の間で分割された。皇帝はプロヴァンス王位を獲得してイタリア王国に併合した。869年にはロタール2世も嫡出子がないまま34才前後で死去した。しかし、この時の皇帝はイスラム軍との戦いのためにイタリアから離れられなかった。この隙にロタール2世領(ロタリンギア)はメルセン条約により、叔父のドイツ人王と禿頭王の間で分割されてしまった。皇帝にはイタリアのみが保たれ、現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型が形づくられた。875年8月12日、皇帝本人も嫡子無く50才前後で死去。イタリア王国およびローマ皇帝位は教皇ヨハネス8世の支持を得たカール禿頭王が52才で獲得した。カール2世禿頭帝は西方帝国の再統一を目指した。西フランク、イタリア、帝位を手に入れたカール2世は、残る東フランクも併合しようとした。876年に兄のドイツ人王が72才で死去するとアーヘン、ケルンへ侵攻。しかし同年10月8日、既に40才前後の壮年に達していたドイツ人王の子たちにアンデルナハの戦いで敗北した。翌877年、反対勢力の鎮圧のためイタリアに入ったものの、ドイツ人王の長男である東フランク王カールマンの大軍がアルプスを越え近づいてきたため撤退した。その帰国の途中サヴォワにて54才で死去した。子のルイ2世が30才前後で西フランク王を継いだが、イタリア王国は47才位のカールマンが獲得した。2年後、カールマンは病を得て身体が不自由になり、弟ルートヴィヒ3世とカール3世肥満王にそれぞれ東フランク王位とイタリア王位を譲った。翌880年、カールマンは50才前後で死去。同年、新たな東フランク王ルートヴィヒ3世は父と叔父が分割していたロタリンギアを全てリブモント条約で東フランクに編入し、父の代からの領土相続争いを収拾させた。一方881年2月21日、イタリア王カール3世はローマにて42才前後で皇帝として戴冠された。カール3世肥満帝は分裂していた西方帝国を相続によって一時的に統一した。882年には47才前後で死去した兄ルートヴィヒ3世の遺領を相続し、東フランク全土を手中に収めた。西フランクでもルイ2世が879年に32才前後で死去し、後を継いでいたカルロマンも884年に嫡子無く18才前後で死去した。このため、肥満帝は西フランクをも相続した。全フランクを相続した肥満帝だが、この時期にヨーロッパへ侵攻していたノルマン人、イスラム教徒そしてマジャール人に対処する力量がなかった。887年に肥満帝は廃位されてしまい、翌888年に49才前後で死去すると西方帝国は再度分裂した。西方帝国はヴァイキング撃退に功績があったロベール家ウード(36歳前後)の西フランク、カールマンの庶子アルヌルフ(38歳前後)の東フランク、プロヴァンス公ボソの遺児で肥満帝の養子だったルートヴィヒ3世(ルイ3世、肥満帝の兄とは異なる。当時8歳前後)のプロヴァンス、在地領主のルドルフ1世(28歳前後)が国王となったブルグント、敬虔帝の外孫ベレンガーリオ1世(38歳前後)のイタリアに分かれた。この後、カロリング帝国が再統一されることはなかった。カール3世肥満帝の死後、教皇によって戴冠された皇帝はイタリアのみを統治する状態になった。イタリア内外の地方領主がイタリア王位とローマ皇帝位を巡って争った。分裂した西方帝国は、北からノルマン人、東からマジャール人、南のシチリアや北アフリカからはイスラム帝国に攻撃され防衛面でも苦しんだ。888年の西方帝国分裂において38歳前後でイタリア王となっていたベレンガーリオ1世は、すぐにスポレート公グイード(カール大帝のひ孫にあたる)にとって代わられた。891年、グイードは皇帝にも戴冠された。グイードはイタリアを事実上二分化してベレンガーリオ1世と争った。892年、皇帝は息子のランベルトを後継者として共同帝位につけることに成功した。しかし教皇が代替わりしてフォルモススとなると対立関係になった。教皇は東フランク王アルヌルフをイタリアに呼び寄せた。45才前後のアルヌルフはイタリアを征服することに成功して896年12月に皇帝として戴冠した。アルヌルフはイタリアを長く支配することはできなかった。リューマチのため東フランクに帰還することを余儀なくされ、マジャール人の侵攻に苦慮しながら3年後の899年に50才前後で死んだ。東フランクは嫡子のルートヴィヒ4世(幼童王)が6歳で王位を継承した。イタリアではグイード親子が既に病死していたため復権することは無く、ベレンガーリオ1世がイタリア王として復位した。しかし、イタリアにも侵入してきたマジャール人に王は大敗してしまった。家臣および政敵からベレンガーリオは王として不適格であると見なされ、成人して20才前後になっていたプロヴァンス王ルートヴィヒ3世(ルイ3世)が900年のパヴィアでの議会で王に選ばれた。ルートヴィヒ3世は抵抗するベレンガーリオ1世を破り、901年に教皇から皇帝に戴冠された。ルートヴィヒ3世は東ローマ帝国と連携して帝権を増そうとした。900年頃、東ローマ皇帝の娘アンナを娶い、産まれた子供に西ローマ皇帝のカール大帝と東ローマ皇帝のコンスタンティヌス大帝にちなんだシャルル・コンスタンティンと名付けた。しかしまもなくベレンガーリオ1世の反撃にあい、905年には目を潰されてプロヴァンスに追い返された。皇帝位は廃され、プロヴァンス王国も又従兄弟で同年代の摂政ユーグに乗っ取られた。イタリア王位を取り戻したベレンガーリオ1世は915年、ローマからイスラム教徒を追い出した功績により65才位で皇帝に戴冠された。老帝ベレンガーリオ1世の権力はイタリア北部にのみ影響を及ぼしたにすぎなかった。戴冠の数年後、再び皇帝に不満を抱く勢力が結成され、彼らはブルグント国王ルドルフ2世に支援を求めた。923年6月23日、皇帝は決定的な敗北を喫した。皇帝はマジャール人に支援を求めたが、このことで国内の支持者からも見放された。924年4月7日に皇帝は暗殺された。70代半ばであった。元皇帝派はルドルフ2世を受け入れることもなく、925年に45才前後となっていたプロヴァンス摂政ユーグを王に選んだ。ルドルフ2世は926年にイタリアから撤退した。ユーグはマジャール人撃退にかなりの成功を収めたが、帝位を得ることはできなかった。しかしこの時代にしてはかなり安定してイタリアを治め、931年には、5才前後の息子ロタール2世を後継者として共同王位につけた。王はさらに親族に権力を与え、東ローマ帝国とも関係を築こうとしたが、これによって多くの敵を作った。945年、王は敵対するイヴレーア辺境伯ベレンガーリオ2世(ベレンガーリオ1世の外孫)に破れ、プロヴァンスに隠棲した。そして947年に70才弱で死去した。イタリアに残された息子ロタール2世も950年に24才前後で毒殺された。50才前後のベレンガーリオ2世は19才前後の息子アダルベルトとともにイタリア王として戴冠した。前王を毒殺した容疑により親子の政治的地位は弱体化していた。そのため新王は、前王の未亡人でルドルフ2世の娘である18才前後のアーデルハイトに息子アダルベルトとの結婚を強制しようとした。アーデルハイトは監禁され、ドイツ王(東フランク王)オットー1世に救援を求めた。この事件がドイツ王とイタリア王を兼ねる皇帝が君臨する帝国成立の契機となる。イタリアをベレンガーリオ1世が治めていた時代の911年、東フランク王国ではルートヴィヒ4世が嗣子無く死去し、カロリング朝が断絶した。ゲルマンの風習により、貴族による選挙で王が決められた。王に選ばれたのはフランク人の貴族であるコンラート1世(若王)だった。こうしてコンラディン朝が始まったものの、918年にコンラート1世が嫡子無く死去したため一代限りで断絶した。後を継いだのはザクセン人のハインリヒ1世(リウドルフィング家)であった。ハインリヒ1世によってザクセン朝が始まったことにより、王権はフランク人の手を離れた。このため、東フランク王国は単に「王国」と呼ばれるようになり、その王も単に「王」とのみ呼ばるようになった(なお、ハインリヒ1世は女系でルートヴィヒ1世敬虔帝の玄孫にあたり、カール大帝の血は受け継いでいる)。国号すらはっきりとしない「王国」は100年以上の時間をかけてやがてドイツ王国と呼ばれるようになり、帝国を構成する3王国(ドイツ王国、ブルグント王国およびイタリア王国)の1つとして位置づけられることとなる。一般的にはコンラート1世の即位をもってカロリング朝の東フランク王国から、独自のドイツ王国へ転換したとされる。ルートヴィヒ4世幼童王は父王アルヌルフが死んで王位継承した時点で6才前後であり、貴族たちによる摂政団が組織された。摂政団はマジャール人の侵入に苦しめられ、907年以降には東方の領土が壊滅して摂政2名を失っている。西フランク王国の援軍を得て、アルプス山脈北側の高原でようやくマジャール人を撤退させた。911年、幼童王は僅か17才前後で死去した。嗣子がなく、東フランクのカロリング朝は断絶した。貴族による選挙が行われ、王位はアルヌルフの外孫であるコンラディン家のフランケン公コンラート1世が30才前後で継承した。コンラート1世若王は国内の統制をうまくとることができなかった。東フランク王国はフランケン、シュヴァーベン、バイエルン、ザクセン、ロートリンゲン(ロタリンギア)といった部族公領の連合国家となっていたが、まずロートリンゲンの貴族たちが西フランク王シャルル3世(単純王)を自分たちの王として擁立した。結局、ロートリンゲンは西フランクに奪われて若王は統制勢力を弱めた。912年からはザクセン公ハインリヒ1世と対立することとなり、シュヴァーベンやバイエルンとの折り合いもつかず内戦となった。918年、若王は死の床にあった。王国の分裂を防ぐため、最も強大な勢力である宿敵ザクセン公ハインリヒ1世を敢えて後継者に指名したのち、37才前後で没した。ハインリヒ1世捕鳥王は解体しかけていた王国を再統一した。919年、フリッツラーの会合で40才前後のハインリヒ1世はザクセン人とフランク人(フランケン人)によって新国王に選出され、ザクセン朝(オットー朝、リウドルフィング朝)が開かれた。捕鳥王はまずシュヴァーベンとバイエルンに侵攻して臣従させた。921年に西フランクの単純王は捕鳥王を同格の「東フランク王」と認めた(ボン条約)。その後、西フランクが混乱状態に陥った925年、捕鳥王は若王時代に西フランクに奪われていたロートリンゲンを奪回した。東方ではマジャール人に対する城塞を整備し、さらにスラブ諸族を制圧した。イタリアではやはりマジャール人対策で功績を上げたユーグの治世であり、西方帝国全体で東方への防備が充実してきている。929年、捕鳥王は王令を出して次男のオットーを後継者に指名した。その際に王権と王国の単独相続を定め、フランク王国以来の均等相続の原則を否定した。936年7月2日、捕鳥王は狩りの最中に卒中で倒れ、メンレーベン(Memlebem)の王宮で60才前後で死去した。生前の指名通り、23才のオットー1世が後を継いだ。962年、ドイツ王(東フランク王)兼イタリア王オットー1世が西方帝国の継承者として皇帝に戴冠された。この戴冠が一般的には神聖ローマ帝国の始まりとされる。しかしながら、当時は「神聖ローマ帝国」("Heiliges Römisches Reich")なる名称は存在せず単なる「帝国」だった。オットー1世の戴冠によって新たな国家が誕生した訳でもなく、同時代の意識としてはあくまでもカール大帝からの連続としての教会の保護者そして西洋世界の普遍的支配者たる「ローマ皇帝」であった。ゲルマンの風習を残す選挙王制であったが、中世盛期の三王朝時代(ザクセン朝、ザーリアー朝、ホーエンシュタウフェン朝)では事実上の世襲が行われた。帝国はドイツとイタリア、1032年からはブルグントを加えた三王国からなり、皇帝は3つの王位を兼ねていた。初期ドイツ王国は南西部のシュヴァーベン(アレマニア)、南東部のバイエルン、中央部のフランケン、西部のロートリンゲン、北部のザクセンといったゲルマン部族公領の連合であった。加えて東方の国境付近には防備の必要上マルク(Mark、辺境地区、辺境伯領)という軍事地区が設置されていた。イタリアでは王位と帝位を巡る争いが無くなり、コムーネと呼ばれる都市国家群に分裂していた。ブルグントでもかなりの自治が認められて10前後の領邦へと分裂していた。西方帝国の問題は分割相続と封建制度による非中央集権的な社会にあったが、ザクセン朝はこの問題をある程度解決させた。まずオットー1世の父ハインリヒ1世は分割相続を否定し、国家の分裂を防いだ。そしてオットー1世は地位を世襲しない聖職者に注目し、帝国内の教会を官僚組織として統治機構に組み込んだ(帝国教会政策)。これにより、パリ周辺しか実効支配できていないフランス(西フランク)王権と比べてはるかに強大な王権が実現した。しかし皇帝が教会の人事権を握る事態は教会からの反発を招いた。皇帝と教皇の争いが続き、諸侯たちも両派に分かれて争った(教皇派と皇帝派)。歴代皇帝は教皇とイタリア都市国家を牽制するため、戴冠式を兼ねてイタリアに進駐した(イタリア政策)。カノッサの屈辱事件以降、皇帝権は徐々に弱まっていき、ホーエンシュタウフェン朝断絶と共に帝国の統治機構は崩壊した。オットー1世はドイツ王(東フランク王)とイタリア王を兼ね、ベレンガーリオ1世以来40年ぶりに皇帝に戴冠されて帝位の世襲にも成功し、帝国教会政策とイタリア政策という初期帝国の二つの柱となる政策を確立した。936年にドイツ王(東フランク王)に即位したオットー1世は融和的だった父と異なり諸侯に強圧的な態度を取った。不満を持ったフランケン公(コンラート1世若王の弟)、バイエルン公、ロートリンゲン公は、王の異母兄と弟を旗印に反乱を起こした。異母兄は戦死したが弟は許され、以後兄の片腕として忠誠を尽くした(バイエルン公ハインリヒ1世)。反乱の平定後、王は公を全て近親者にすげ替えた。公領を全て王族の支配下に置くことで王国の統一を図り、国内を固めようとしたのである。951年、オットー1世は前年に死んだイタリア王ロターリオ2世(ロタール2世)の未亡人アーデルハイトの救援要請を受けた。ロターリオ2世は現イタリア王ベレンガーリオ2世に毒殺され、アーデルハイト自身はベレンガーリオ2世の息子であるアダルベルトとの結婚を強要され、監禁されているというのである。38才のオットー1世はイタリア遠征を敢行してベレンガーリオ2世を破った後、19才のアデライーデと結婚した。そして、彼女との婚姻関係に基づきロターリオ2世の権威を受け継ぐ正当なイタリア王となった。ベレンガーリオ2世親子はこのときは許され、オットーの共立王としてイタリアの支配を委任された。しかしこのイタリア遠征の際に21才の王太子シュヴァーベン公リウドルフ(ロイドルフ)が父に反発して先走ったため、親子間に亀裂が走った。953年、王太子は義兄のロートリンゲン公コンラート赤毛公(王から見て娘婿)をはじめとする諸侯とともに大反乱を起こし、王は危機に陥った。とき同じくしてマジャール人が侵入し、王はこれを逆手にとってマジャール人の侵入は王太子の差し金であると宣言した。危機感を持った諸侯は王に臣従し、王太子と赤毛公の反乱は鎮圧された。マジャール人に対しても王は955年のレヒフェルトの戦いで大勝して、その脅威に終止符を打った。この戦いで赤毛公は大きな功績を上げながらも戦死し、最期の忠誠を見せた。赤毛公のザーリアー家は以後厚く用いられ、赤毛公のひ孫であるコンラート2世はザーリアー朝を起こすことになる。ここにきて、王は近親者による統治という政策の脆弱さを知り、教会勢力と結びつくことにする。司教や修道院に所領を寄進して特権を与えて世俗権力からの保護するとともに、司教の任命権を握って聖職者の忠誠を受け、国家行政を聖職者に委ねるのである。これを)といい、初期帝国の根幹となった。960年、イタリアでは若く世間知らずな教皇ヨハネス12世が無謀な教皇領拡大に乗り出してベレンガーリオ2世の反撃にあっていた。教皇は王に救援を要請した。翌961年に王はイタリアへ遠征してベレンガーリオ2世親子の共同王位を正式に廃位した。教皇を救った王は962年2月2日にローマにおいて教皇によりローマ皇帝に戴冠した(オットー大帝)。大帝は新たに教皇領を寄進したが、同時に「皇帝に忠誠を宣誓してからでなければ教皇職には叙任されない」と定めた。反発したヨハネス12世は敵対していたはずのベレンガーリオ2世と組み、東ローマ帝国やマジャール人とすら提携しようとした。しかし教会内部からの告発により、ヨハネス12世は大帝によって廃位された。以降の約100年は皇帝権が教皇権の上位に立ち、教会は帝国の官僚機構として利用されることとなる。973年、オットー大帝は60才で死去し、アーデルハイトとの子である18才前後のオットー2世が後を継いだ。オットー大帝以後の皇帝たちは、ゲルマン、ローマ、キリスト教の三要素からなる帝国の基本理念を確立させていった。一方、ピピンの寄進に始まる教会の世俗領主化は教会を堕落させていた。歴代皇帝は教会の綱紀粛正を理由とした改革によって教会人事を掌握していき、ついには教皇の罷免、選出すら自由にしていった。とは言え、あくまでも教会の堕落を食い止めることが目的であり、そうでなくては諸侯や市民の支持は得られなかった。オットー2世赤帝は帝国各地の反乱に苦しんだ。父が存命時の961年に6才前後でドイツ王に、973年には18才前後で皇帝に戴冠していた赤帝だが、即位から程なく従弟のバイエルン公ハインリヒ2世喧嘩公が反乱を起こした。同時期に西フランクからの亡命王子シャルルの扱いを巡り、西フランク王ロテールと戦ってパリへ進撃した。喧嘩公と西フランクを退けた980年末に赤帝は、「至高なるローマ人の皇帝」("Imeprium Augustu Romanorum")の称号を用いてイタリア南部への遠征を行ったが失敗した。983年、ドイツ北東部のノルトマルクで起きたバルト・スラブ人の蜂起への対応に乗り出そうとした矢先、マラリアにより28才前後で死去。子のオットー3世がわずか3才で王位を継いだ。結局、ノルトマルクは帝国からしばらく失われた。また、オットー2世の死から4年後の987年、西フランク王国でカロリング朝の王ルイ5世が死去した際、亡命王子シャルルは無視されてカペー朝が成立した。シャルル唯一の男子オトンに嫡子は無く、カロリング朝の男系子孫は完全に途絶えた。オットー3世は古代ローマ帝国の復興を夢見た。3才で即位した直後に喧嘩公が復権して王位を狙ったが、母テオファヌが摂政となって難局を乗り切った。テオファヌは東ローマ帝国の皇族出身であり、ビザンティン文化を持ち込んで息子に大きな影響を与えた。また、王国の安定に尽くした。テオファヌの死後、994年に親政を開始した王はイタリア遠征を敢行。ローマの反乱貴族を退けた後、自らが立てた教皇グレゴリウス5世により、996年に15才で皇帝に戴冠された。イタリアに留まった皇帝は古代ローマ様式の宮殿を新たに造営したり、東ローマ風の祭祀を行ったりした。しかし1002年1月23日に死去。21才の若さであり、結婚直前の死であったため嫡子は無かった。そのため、ザクセン朝唯一の男系子孫となっていた喧嘩公の子がハインリヒ2世として29才で即位した。ハインリヒ2世聖帝は帝国教会政策を強化して諸公の力を抑制し、帝国統治の要となした。即位した王はまず諸侯の臣従を受けるためドイツ国内を巡行、次いでイタリア遠征を行って1004年には在地貴族が独自に立てたイタリア王アルドゥイーノを下した。また、同時期にボヘミア公国(チェコ)を帝国に併合している。1014年には40才で皇帝として戴冠した。聖帝は普遍的なキリスト教帝国としての「フランク王国の復興」を目指しており、教会の守護者として教会改革に取り組んだ。改革自体は高潔なものだったが、教会の反発を招くことにもなった。1024年、聖帝は51歳で嫡子無く死去。ザクセン朝が断絶したため、オッペンハイムに聖俗諸侯が集まって国王選挙が行われた。オットー大帝の外玄孫で、かつ大帝を救って戦死した赤毛公のひ孫がコンラート2世として33才前後で国王に選ばれ、ザーリアー朝 が開かれた。コンラート2世の時代に帝国は版図を拡大した。即位後は聖帝と同じくドイツ国内の巡行とイタリア遠征を行い、1026年に35才前後で皇帝として戴冠した。1032年9月、ブルグント王ルドルフ3世が嗣子なく死去した。聖帝時代の1006年に結ばれた条約に従い、皇帝はブルグント王国を相続した。つまり皇帝はドイツ王、イタリア王に加えてブルグント王も兼ねるようになった。古代ローマ帝国の名称で言えば、帝国は本土イタリアとゲルマニアに加えて一部とは言えガリアも領有するようになった。このためか「ローマ帝国」(Imperium Romanum)の国名が公文書で用いられ始めている。1039年、皇帝は48才前後で死去し、子のハインリヒ3世が21才で後を継いだ。ハインリヒ3世黒帝の時代が「帝国」の最盛期である。黒帝は皇帝戴冠前から自ら「ローマ王」を名乗り、国王即位時点で地盤のフランケン公領に加えて、シュヴァーベン公位、バイエルン公位も手に入れていた。ロートリンゲンも即位後に掌握し、唯一基盤の無いザクセンでも多数の王室直轄地を作りだして城塞を築いた。1046年より黒王はイタリアへ遠征してローマ教皇庁に介入した。当時のローマ教会は聖職売買や私婚が横行して乱脈を極めていた。ハインリヒ3世は見苦しい権力闘争を行っていた3人のローマ教皇を罷免し、自らが任命したクレメンス2世によって29才で皇帝として戴冠された。その後も聖職叙任権を握り、教会改革派のドイツ人聖職者を次々と教皇位につけていった。1056年に38才で死去。子のハインリヒ4世が後を継ぐが、わずか5才であったため王権は弱体化した。ハインリヒ4世は黒帝から受け継ぐはずだった王権を追い求め、教会と争って破滅した。歴代皇帝の教会への介入は、教会の堕落を食い止めるという正当性があった。教会が黒帝に教皇の叙任権まで握られたのは自業自得であった。しかし傲慢なハインリヒ4世は改革派が教会内に台頭している状態で教皇と正面から対立してしまった。その結果、皇帝は教会の守護者としての権威、神権的帝権という取り返しがつかないものを失った。ハインリヒ4世はわずか5才でローマ王となったため、治世当初は母アグネスが摂政となった。しかし1062年、12才になった王はケルン大司教やバイエルン公オットー・フォン・ノルトハイムを中心とした諸侯に誘拐されてしまう。誘拐した諸侯の間でも権力闘争が続き、幼主は諸侯たちの政争の具となる。多感な時期に放置された少年王はわがままで頑固な性格となってしまう。1065年に15才で成人した王は王権の強化を目指して諸侯と対立した。自分をないがしろにした諸侯への復讐である。まず自分の後見人ということになっていたハンブルク司教アダルベルトを追放し、バイエルン公オットーからも公位を剥奪した。その後、父の黒帝が作ったザクセンの王室直轄地を取り戻すために努力したが、出身地のザクセンに戻っていたオットーを中心にザクセン貴族は反乱を起こした。1073年に始まったザクセン戦争は、1075年に国王側の快勝に終わって王権は復活したかに見えた。一方、教会ではクリュニー修道会改革派が台頭していた。教皇グレゴリウス7世は世俗権力からの脱却と聖職者の綱紀粛正を目指していた(グレゴリウス改革)。そしてローマ教皇庁は南ドイツ諸侯を通してザクセン貴族と繋がっていた。1075年、教皇は俗人による聖職者叙任を禁止する教皇勅書を発した。王は反発し、ミラノなどの諸都市で既存の司教に対して自分の息のかかった司祭を対立司教に立てるなど、教皇に対して露骨に挑戦した。これは教会の堕落とは関係がない単なる政治的行為であった。ローマ王とローマ教皇は激しく争い、王は不倫の醜聞を元に教皇の廃位を宣言するが、教皇も王を破門した。強権的な王を嫌うドイツ諸侯はこれに喜び、破門赦免が得られなければ国王を廃位すると決議した。王は窮地に陥り、政治的支持を失っていることに気づかされた。そして1077年、北イタリアのカノッサで教皇に赦免を乞う屈辱を強いられた(カノッサの屈辱)。教皇はここで赦してもいずれ反撃されることは理解していたが、高潔な聖職者を志す立場上、破門を解かざるを得なかった。破門は口実に過ぎなかった諸侯は国王の姉婿でシュヴァーベン公のルドルフを対立王に立ててなおも抵抗し、教皇も支持した。しかし1080年10月15日、エルスターの戦いで王はついに勝利を収めてルドルフを戦死させた。シュヴァーベン公位は王の娘婿であるホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ1世に与えられた。教皇による再度の破門は意味を成さず、王はイタリアへ遠征してイタリア王としても戴冠した。4年に及ぶ戦いの末に教皇はローマから追い出された。王は自ら立てた対立教皇クレメンス3世によって33才で皇帝として戴冠された。教皇グレゴリウス7世は亡命地のサレルノで失意の内に死去した。それでも教皇庁は屈服しなかった。外交の名手である教皇ウルバヌス2世は南ドイツと北イタリア一帯を味方に引き入れ、更に1093年には皇帝の長男コンラートをも寝返らせた。なお、ウルバヌス2世は第一回十字軍の派遣を呼びかけて名演説を行った人物としても有名だが、帝国はこの有様であったので十字軍には不参加である。皇帝は1098年にコンラートを廃嫡して12才の次男を後継者としてローマ王に選出させた。ハインリヒ5世である。しかし、ハインリヒ5世もまた教皇との和解を望み1105年に父を捕らえて幽閉してしまう。皇帝は脱出して息子と戦うが、翌1106年に55才で死去した。父の死去時、ハインリヒ5世は19才であった。ハインリヒ5世はその治世で叙任権闘争を終結させた。とは言え、なかなかスムーズにはいかなかった。王は1110年よりローマ遠征を決行し、一旦は国王有利のポンテ・マンモロ協約を結んだ。このとき、王は25才前後で皇帝に戴冠された。しかしローマ教会はドイツに引上げた皇帝をすぐさま破門。父と同じくザクセンの反抗勢力に苦しめられた皇帝は、1122年に教皇カリストゥス2世との間でヴォルムス協約を成立させた。皇帝は高位聖職者の叙任権を放棄し、領土の授封権のみを留めるという内容で、抗争は皇帝の敗北で終わった。実のところ叙任権放棄自体は名目のみであったが、教会領は帝国権威の従属物ではなくなり、徐々に帝国政治体制における独立した諸侯と化すことになる。1125年、ハインリヒ5世は38才で嫡子無く死去し、ザーリアー朝は断絶した。国王選挙が行われ、ザーリアー朝の宿敵であるザクセン公ロタールが50才でドイツ王に選出されてズップリンブルク朝を開いた(ロタール3世)。ハインリヒ5世は協力的であった甥でホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン公フリードリヒ2世を後継者にと望んだが、かなわなかった。叙任権闘争によって神権を失った帝国は、教皇と皇帝という2つの頂点を持つことになった。ザーリアー朝断絶後、ズップリンブルク朝の皇帝ロタール3世は教皇に臣従したが一代で絶えた。そこでロタール3世に対抗していたホーエンシュタウフェン家がザーリアー朝の流れをくむ新王朝となった。ロタール3世のシュタウフェン家との争いは娘婿のヴェルフ家に引き継がれた。ホーエンシュタウフェン朝と、それに対抗するヴェルフ家の主導権争いは長く続いた。イタリアでは両家の争いが皇帝派と教皇派という都市国家間の争いに変化し、15世紀末まで続いて諸都市を分裂させている。皇帝の権威と権力は保たれ続けたがあくまでもホーエンシュタウフェン朝皇帝たちの個人的な有能さによるものであり、制度的な帝権は教皇との争いで弱体化の一途を辿った。一方、フランスでは1180年に即位したフィリップ2世尊厳王によって王権の強化が進み、ドイツとフランスの力関係は逆転しつつあった。ロタール3世は先帝存命時に皇帝を無視した半ば独立した勢力を誇ったが、国王即位後はすぐさま逆の立場に立たされた。王と対立するシュタウフェン家は当主の弟コンラートを対立王に擁立し、1127年より軍事衝突に入った。王はシュタウフェン家を抑え込んだ後、ローマ教会の要望で南イタリアのシチリア王国に遠征した。その過程で1133年に58才前後で皇帝に戴冠され、教皇に臣従した。しかしシチリアを打倒できぬまま、1139年に62才で死去。嫡子無くズップリンブルク朝は一代で断絶した。皇帝は自身のザクセン公を継ぐことになる娘婿、ヴェルフ家のバイエルン公ハインリヒ10世(傲岸公)を後継者に望んだ。しかし国王選挙ではシュタウフェン家のコンラートが返り咲いて、コンラート3世として45才前後で即位した。ここに帝国全土を巻き込むシュタウフェン家とヴェルフ家の対立が始まり、イタリアでは皇帝派(ギベリン)と教皇派(ゲルフ)の抗争となる。コンラート3世はホーエンシュタウフェン朝の基礎を築いた。その治世はヴェルフ家との内戦から始まった。ヴェルフ家の傲岸公はコンラート3世の即位を認めず、王も傲岸公のザクセン・バイエルン公位没収を決定したため、ヴェルフ家とシュタウフェン家の戦争となった。傲岸公は捕縛されて2年後に死んだが戦争は続き、結局は傲岸公の子のハインリヒ獅子公にザクセン公のみ返還した。その後、1147年には第二回十字軍へ参加して大敗した。軍事面では冴えない王だったが内政面では皇帝権力の強化、シュタウフェン家の領土拡大に成功を収め、巧みな外交戦略をもってドイツ諸侯と提携を図った。1152年、王は58才前後で死去。皇帝として戴冠できなかった最初のローマ王(ドイツ王)となった。嫡子はいたが僅か6才であったため、甥である30才前後のシュヴァーベン公をフリードリヒ1世として後継者に指名して帝国とシュタウフェン家を託した。フリードリヒ1世赤髭王(バルバロッサ)は貿易で豊かになっていたイタリア諸都市に対する帝権の回復を目指した。赤髭王は即位するとまずヴェルフ家の獅子公と和解した。1155年、一回目のイタリア遠征において赤髭王は33才前後で皇帝に戴冠されたが、教皇へ臣従する儀式を強制された。帰国した赤髭帝は「神聖帝国」("Sacrum Imperium")の国名を用い、皇帝は教皇と対等であって直接神の祝福を受けていることを示した。赤髭帝は1158年から十年に渡る二〜四回目の遠征でミラノを初めとする都市国家群を征服し、の帝国議会にて多額の貢納を強制した。諸都市は激しく抵抗し、新教皇アレクサンデル3世は皇帝を破門した。諸都市はロンバルディア同盟を結成し、本国の獅子公も四回目の遠征からは参加を拒否するようになった。そして1176年、五回目の遠征におけるレニャーノの戦いでついに赤髭帝は惨敗を喫し、1177年のヴェネツィア条約で教皇に屈服した。しかし赤髭帝はこれを逆に好機とし、敗戦の責任を非協力的な獅子公におしつけて1180年に国外追放した。1183年、イタリア諸都市に自治を認める代わりに貢納金をせしめた。1184年からの六回目の遠征では子のハインリヒ6世をシチリア王女コスタンツァと結婚させて同盟を結び、教皇領を南北から圧迫した。赤髭帝は中欧でもポーランド、ハンガリー、ボヘミアに対して皇帝の権威を認めさせた。さらにオットー3世時代に失われた北東部ノルトマルクをブランデンブルク辺境伯アルブレヒト熊公に再征服させた。1189年、赤髭帝は第3回十字軍の総大将となってイスラム軍に圧勝するも、不幸にも水難事故により68才前後で死去した。ハインリヒ6世が24才で後を継いだ。ハインリヒ6世は南イタリアにあるノルマン王朝のシチリア王国の併合を企てた。元々1189年にシチリア王グリエルモ2世が子を残さずに死去した際、王位は叔母婿のハインリヒ6世に回るはずであった。しかし反ドイツ派は庶子筋のタンクレーディを擁立した。さらに先帝時代からの宿敵・獅子公が密かに帰国し、反乱を起こし始めた。1191年、王は獅子公を牽制しつつシチリア遠征を決行。その途上、ローマにて25才で皇帝に戴冠した。情勢は苦しかったが、ここで事件が起こる。先帝死後も第3回十字軍を続行した挙句にパレスチナから敗走してきたイングランド王リチャード1世がオーストリアで捕縛され、皇帝に引き渡されたのである。イングランドから多額の身代金を得た皇帝夫妻は軍勢を整え、1194年にシチリアを制圧した。皇帝は獅子公とも講和して先帝の追放令を解除し、改めて諸侯の一人として認めた。しかしザクセン公位は返還しなかった。ザクセン公位は先帝時代に東方辺境のアンハルト伯に渡っており、ザクセン公領は大幅に縮小した上で東方に移動した。1197年、皇帝は31才で急死。前年にドイツ王に選出されていた2才の息子フリードリヒ2世が後を継ぐが、教皇派は獅子公の子で22才前後のオットー4世を擁立した。皇帝派はこれに対応するため、ハインリヒ6世の弟にあたる20才のシュヴァーベン公フィリップを王に推戴した
出典:wikipedia
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