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藤井康雄

藤井 康雄(ふじい やすお、1962年7月7日 - )は、広島県福山市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。から福岡ソフトバンクホークスの一軍打撃コーチを務めている。福山市で生まれ育ち、『巨人の星』に惹かれて小学校2年生で野球を始め、当時は三塁手を務めていた。この頃から将来はプロ野球選手になることしか頭になく、同じ左打ちの王貞治に憧れていた。福山市立鷹取中学校では投手と外野手を兼任し、打球がライト側の校舎を越えるほどの長打力があったという。野球留学で進んだ泉州高等学校でもポジションは変わらず、長打力を評価されていた一方で変化球が苦手だった。甲子園出場はならなかったが知人の勧めでプリンスホテルに入社し、プロ入りした石毛宏典の後任として遊撃手へのコンバートが検討されたものの、数日でこの案が却下されて一塁手となっている。社会人時代には全日本代表の4番を務めた事もある。また20代前半で肩を故障して半年ほど野球ができなくなり、歯がゆい思いをしたという。社会人野球No.1の強肩とベース1周14秒5の俊足を評価され、1986年のドラフト会議で阪急ブレーブスから4位指名を受けた。東京に6年間いた事もあって在京球団を希望していたが、「与えられた環境で頑張ることが大事ではないか」という母の助言もあって入団を決めたという。担当スカウトは三輪田勝利で、契約金と年俸それぞれ4,300万円、450万円(いずれも推定)で契約を結んでいる。全日本代表のメンバーで同時入団した山越吉洋(86年2位)、本西厚博(85年4位、翌年入団)と共に「全日本トリオ」と呼ばれた。プロ1年目ののキャンプから打球の飛距離はレギュラー陣にも引けを取らず、監督の上田利治に積極的に起用されて同年は77試合に出場した。一方で、金属バットから木製バットに変わった事で、感触の違いや頻繁に折れる事に悩んだ。オフには結婚式を挙げ、上田から「細く長く、頑張れ」と言われて気持ちに余裕ができた事を後年までよく覚えていたという。は5月下旬にブーマー・ウェルズが左ヒザ関節炎で帰国し、代わりに一塁手を任されると打撃面で好成績を残し、5月28日の対南海戦では初の四番を任されている。また、同年はジュニアオールスターゲームで決勝ホームランを放ち、MVPと賞金100万円を獲得した。ブーマーの復帰後は右翼手のレギュラーとなり、規定打席には達しなかったもののシーズンで20本塁打を記録した。チーム名がオリックスになったは簑田浩二の移籍もあって開幕から右翼手のレギュラーとなり、ブルーサンダー打線の一角を占めた。7月には自身初のオールスターゲームに出場し、斎藤雅樹から2ランホームランを放って優秀選手に選ばれている。シーズン通算では打率.292、30本塁打、90打点の成績で、初のベストナインに選出された。は5月に打率.363、6本塁打、18打点の成績で初の月間MVPを受賞し、自己最多の37本塁打、96打点をマークしている。は5月3日の対日本ハム戦でサヨナラ2ランホームランを放ち、自身にとってプロでの本塁打の中で最も記憶に残っているという。しかし5月の守備練習中にフェンスに激突してむち打ち症となり、左腕が痺れて首が動かなくなった。身体のバランスが崩れたことで本来のバッティングフォームが損なわれ、同年は打率が.222に大きく低下した。さらにバランスを崩したまま練習したことで両膝を痛め、翌は出場試合数が20試合に激減している。同年オフの契約更改では1,000万円減の年俸4,000万円(推定)となっている。試合に出られない期間は辛抱強く治療とトレーニングに取り組み、また家族と接する機会が増えたため自分を見つめなおすことができたという。は序盤の打率が1割台から2割台の間で低迷していたが、5月18日の対ロッテ戦で3本塁打7打点を挙げ、7月には打率.324、4本塁打、12打点で2度目の月間MVPを受賞している。同年はチームトップの28本塁打、86打点の成績で2度目のベストナインに選出され、パ・リーグ特別表彰で努力賞を受賞している。また、11月のパ・リーグ東西対抗では決勝3ランホームランを放ってMVPを獲得している。オフの契約更改では4,000万円増の年俸8,000万円(推定)となっている。仰木彬が監督に就任したはブレイクしたイチローが右翼手を務めることも多く、柴原実やキャブレラとともに右翼手や一塁手として起用された。は阪神大震災の影響が強く残る中でリーグ優勝を果たし、優勝の決まった試合でウィニングボールを捕球した事とともに非常に印象に残っているという。同年の日本シリーズでは第3戦から第5戦まで5番・右翼手としてスタメンで出場している。も規定打席には達しなかったが3年ぶりの20本塁打を記録し、日本シリーズでは第4戦以外は先発出場してチームも日本一になっている。は打率、本塁打、打点ともに前年を下回り、取得したFA権の行使についても球団からドライな態度を示され、野球協約の限度を超える40%(3,000万円)減の年俸4,800万円で契約を更改している。は打撃コーチの新井宏昌の助言でバットを950グラムから約920グラムに軽量化して重心も先よりにしたところ、ヘッドスピードが速くなったという。飛距離が伸びた事でシーズン終盤まで本塁打王を激しく争い、最終的にはトップのナイジェル・ウィルソンと3本差の30本塁打を記録している。当時は仰木マジックと呼ばれる采配で起用方法が毎日のように替わっていたが、打順などが固定された方がやりやすいと感じていたという。は9月30日の対ロッテ戦で、小林雅英からパ・リーグ新記録となる通算14本目の満塁本塁打、且つ日本プロ野球史上唯一の2死・3点差からの代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放つなど、出場は88試合ながらチームの日本人トップとなる15本塁打を放っている。しかし打率は初めて1割台となり、契約更改では2,000万円減の年俸3,000万円(推定)となった。はNPBの現役最年長野手の一人となった。新監督の石毛宏典からは確実性を上げることを目標にキャンプで打撃を大きく矯正されたが、かえって打撃を崩す一因となった。同年で現役を引退し、10月13日の対近鉄戦で引退セレモニーが行われ、始球式で14歳だった長男と対戦している。これにより、阪急時代からオリックスに在籍していた選手はいなくなった。からまでオリックス二軍のサーパス神戸で打撃コーチを務め、仰木彬の監督時代の背番号72を希望して着けていた。には編成部に入ったが、からは二軍打撃コーチとして現場に復帰。新人時代に指導していたT-岡田にマンツーマンで打撃フォームを指導し、すり足打法を習得したT-岡田はウエスタン・リーグで21本塁打を記録して翌年のブレイクの足がかりを作った。からは編成部でスカウトを務め、同年退団。勝負強さを高めることを期待されて、からはソフトバンクの一軍打撃コーチに就任。2011年とのリーグ優勝・日本一に貢献。現役通算282本塁打を記録した強打者だが、あくまでヒットの延長上にホームランがあり、自分のスイングができれば自然と飛距離は伸びたという。また、安打に対する本塁打の比率が非常に高いという特徴があった。通算満塁本塁打14本は中村剛也(16本。2015年シーズン終了現在)・王貞治(15本)に次ぐ2本差の3位である。また代打満塁本塁打は、通算4本、シーズン3本(2001年)のいずれも、日本プロ野球記録である。対戦した中で最もすごさを感じた投手として、速球とスライダーのキレが抜群だった松坂大輔と、フォークボールが一度浮き上がってから急激に落下するように見えた野茂英雄の2人の名を挙げている。プロ入り直後は渡辺久信や郭泰源の投球に衝撃を受け、また若い頃は打席から目が合うと笑ってくる牛島和彦が苦手だったが、闘志をむき出しにしてくる小野和義のようなタイプとは相性が良かったという。西崎幸広からは満塁打を3本打っており、これは自身最多である。ミスター・ブルーウェーブ、ヤスオさんの愛称で親しまれた。ファンサービスも熱心で、ファンがサインを求めるとできるだけ応じていたという。福山市内にある実家は、カラオケ喫茶店を営んでいる。友人の尾崎和行のプロデュースで、1999年に『…洋子'99』など3曲を収録したCDをブルースターレコードから出している。同CDでは大島公一や谷佳知もコーラスを務めた。

出典:wikipedia

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