林 威助(リン・ウェイツゥ、英文表記:Lin Weichu, 1979年1月22日 - )は、台湾の台中市出身のプロ野球選手(外野手)。左投左打。現在は、台湾の野球リーグである中華職業棒球大聯盟(CPBL)の中信兄弟に所属し、2015年からチームのキャプテンを努めている。中華民国(台湾)国籍だが、日本の高校・大学に通っていたため、NPBでは規定により日本人登録選手の扱いになっていた。台湾台中市出身。幼い頃にテレビで見た日本野球に憧れ、小学生時から野球を始めた。台中の中学校(中山國民中學)在学時から、台湾ではその非凡な野球センスが話題となっていた。中学卒業後に日本への野球留学の誘いを受け、父の体調を慮って一旦は断ったが、翌年再び勧誘され、日本の文化に触れたい好奇心もあってに柳川高校へ入学した。同級生に田中瑞季がいる。入学当時はほとんど日本語が分からず、また台湾での中学時代に比べるとはるかに厳しく辛い練習のため「台湾に帰りたい」と思ったこともあったが、2年夏には福岡大会で決勝に進出し、小椋真介を擁する福岡工大付高校に敗れたものの準優勝。しかし入学が2年遅れだったため、3年時は日本高等学校野球連盟で定められている年齢制限を超え公式戦に出場できなかった。甲子園出場という目標を失い、台湾に帰ることを考えたが、日本でプロ選手になることに目標を切り替え、木製バットを使用するなど高校卒業後を見据えた練習に入った。高校通算47本塁打を放っているが、以上のような理由から高校1・2年の2年間での記録である。に関西学生野球連盟所属の近畿大学へ進学し、入学直後の春季リーグ戦から右翼手のレギュラーとなり首位打者とベストナインを獲得。その後は不調に陥り3年時は膝の故障で主に代打で出場し、4年時はその故障をおして3番・左翼手でスタメンに復帰、春季リーグ戦後のリーグ選抜に名を連ねたほか、秋季リーグ戦では2度目のベストナインに選ばれた。秋に行われた2002年度ドラフト会議で阪神タイガースから7巡目指名を受け入団。は故障の癒えていない膝のリハビリに専念し、一軍・二軍戦ともに公式戦出場はなかった。10月11日の対東京ヤクルトスワローズ戦で公式戦初スタメン・初安打・初打点を記録。は機会は少なかったが主に代打で出場し、優勝決定後にはスタメン出場の機会も巡ってくるようになり初本塁打を記録。はかつて掛布雅之が着けていた背番号31に変更。第1回WBCチャイニーズタイペイ代表に選出された。シーズンに入ると代打として起用され、セ・パ交流戦では指名打者でのスタメン出場も数試合あった。も開幕から代打での出場が主だったが、4月下旬に濱中治が怪我で離脱して以降はレギュラーに定着。交流戦後はシーツの不振に加えて桜井広大の台頭もあり、一塁手としてのスタメン出場も多くあった。しかし、5月13日の対ヤクルト戦でオーバーランした一塁へ帰塁した際に右肩を痛めながら、「せっかくつかんだチャンスを逃したくない」と打撃コーチの正田耕三に訴えて強行出場を続けた悪影響により8月下旬に登録抹消。9月27日に一軍復帰するも規定打席には4打席不足したが、それでも打率.292を記録。中でも15本塁打と58打点は、いずれも金本に次いでチーム2位だった。それまで「プロの世界でレギュラーとして試合に出るようになるまでは、台湾の家族を試合に招待しない」と決めていたが、この年になって日本での生活12年目で初めて家族を日本に招くことができた。しかし、「右肩肩峰下滑液胞炎」と診断された右肩の回復が思わしくなかったため、同年オフに台湾で開催されたアジア選手権大会の台湾代表を辞退。12月に手術を受けた。は前年受けた手術のリハビリなどの影響から、シーズン初出場は5月29日の対千葉ロッテマリーンズ戦であった。この試合は6回裏1死二塁の場面で代打として登場、一塁線を抜ける適時二塁打を放った。7月8日の対読売ジャイアンツ戦で左膝靭帯を痛めて離脱し、北京オリンピックのチャイニーズタイペイ代表を辞退。8月に復帰したが、シーズン成績は打率.249・2本塁打だった。は再び第2回WBCチャイニーズタイペイ代表に選出されたが、敗退したアジア予選で調子を崩し、一軍登録されたのは5月8日であった。その後も不振が続いて前年を下回る56試合の出場で、打率.208・3本塁打・11打点に終わった。の沖縄における春季キャンプでは、この年に打撃コーチに就任した片岡篤史の親友である立浪和義からも臨時指導を受けた。シーズンでは熾烈な外野手争いの中で出場機会はさほど多くなかったが、得点圏打率.412を記録した。、打撃不振に陥り、63試合に出場するも打率は1割台と結果を残せなかった。は出場機会に恵まれず、わずか6試合で7打数1安打の成績に終わった。、8月4日にシーズン初の出場選手登録を果たして同日の対巨人戦(東京ドーム)に6番・右翼手でスタメンで出場したが、打撃で4打数無安打(2三振)、右翼の守備でも精彩を欠いて途中交代した。結局、一軍公式戦への出場機会はこの1試合のみで、10月1日に球団から戦力外通告を受けた。11月に侍ジャパンと親善試合を行う台湾代表に招集されていたが、これを辞退して第一回12球団合同トライアウトを受験し、フェンス直撃の三塁打を含む2安打2四球、左翼の守備でフェンスに激突しながらの好捕を見せるなどアピールしたが、NPB球団で獲得する球団は現れなかった。2013年11月28日、台湾・中華職業棒球大聯盟の兄弟エレファンツからドラフト3巡目で指名され、2月17日に正式契約を結んだ。3月末にスライディングをした際に左膝の半月板を損傷。その後も試合には出場したものの、26試合で打率.192・本塁打1・打点10で、5月14日に左膝の手術を受けた。春季キャンプ中に、監督の謝長亨からチームキャプテンに任命された。95試合に出場し96安打、打率.309、本塁打6、打点58の成績を残した。速球に強い選手であり、スイングスピードが150 km/h以上であればプロでも一流と言われるところ、林は大学時代に168km/hを計測していた。前述2008年の復帰戦代打でのブライアン・シコースキーとの対戦で、150 km/hの速球を警戒しつつ初球のチェンジアップに対応した一打には、「ああやって対応できる」と監督の岡田彰布から評価された。一方、前述の立浪からは「力があっても無駄な動きをしているところがある。もっと打てる選手。外からバットが出やすいようだ」と評された。打撃への高評価に対し、守備・走塁への評価は芳しくない。2006年までは試合途中で代打起用された後の守備へは滅多に就かず、中村豊など守備固めの選手が入ることがほとんどだった。一塁手として出場することもあったが、ミットを持つことになる右肩をケガして以降は一塁起用を見送られている。なお2007年の右肩と2008年の左膝のケガ(二塁走者として牽制帰塁した際に負傷)は、いずれも走塁時のものである。現代のプロ野球選手としては大きな体ではないが、握力は90 kgを計測する。座右の銘は「一球撃命」。勝負を決める一打を放つという意味。『中国語ジャーナル』2007年8月号(アルク社)では林について特集が組まれ、表紙に載った。
出典:wikipedia
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