萩原 淳(はぎわら じゅん、1973年8月20日 - )は、東京都西東京市出身の元プロ野球選手(内野手、投手)、プロ野球コーチ。東海大学甲府高等学校で1990年と1991年に選抜高等学校野球大会へ出場。高校通算25本塁打の強打を誇り、強肩強打が持ち味の内野手として注目を集めた。1991年のドラフト会議において、オリックス・ブルーウェーブから2位指名を受け、入団。新人時代は田口壮・イチローと同じく期待されたが才能が開花せず、プロ入り9年間で1安打に終わる。そんな萩原の現状を重く見た仰木彬は、シーズン途中に投手へ転向させた。投手転向2年目のに1軍初登板を果たすと1回無失点に抑えた。同年はこの1試合の登板に終わった。には一から鍛え上げた直球を武器に活躍し、夏にはヘルニアで離脱した大久保勝信の後を受けて抑え投手も務め、48試合で10セーブ・防御率2.64と安定した活躍を見せた。当初は直球や多少変化するムービングファストボールしかなく変化球と呼べるものが全く投げられなかった。変化球を投げられず直球を狙い撃ちされたことで翌年2003年は42試合に登板したものの防御率が6.90に悪化した。そして翌年2004年も前年同様投手陣崩壊は変わらず、33試合の登板で防御率7.00とさらに悪化し、2年連続チーム防御率5点台後半の原因となってしまった。オフの選手分配ドラフトによってオリックス・バファローズに残留することが決まった。合併球団1年目のは中継ぎだけでなく中1日で先発したり(3回限定)、8回から延長12回まで一人で投げ抜くなどフル稼働し、新たにカーブを習得して49試合に登板して3勝2敗1セーブ・防御率3.89という好成績を挙げた。は前年の疲労から不本意な成績だったが、5年連続30試合以上の登板とチームに貢献した。は開幕からチームが不調だったが、1軍での登板機会を与えられず、6月28日、清水章夫・木元邦之との交換トレードで歌藤達夫とともに北海道日本ハムファイターズへ移籍した。移籍後の2007年はそれほど登板機会を多く与えられなかった。再昇格後の9月28日に移籍後初勝利を挙げた。同年は5試合に登板するも防御率5点台と不調だった。チームはリーグ連覇してCSも制して11月2日の日本シリーズ(対中日ドラゴンズ戦)でも中継ぎとして登板するが、シーズン終了後に選手の若返りを図るチーム方針から戦力外通告を受けた。11月7日の12球団合同トライアウトに参加した直後、同年まで日本ハムのゼネラルマネージャーを務めていた高田繁が来季から東京ヤクルトスワローズの監督へ就任するのに伴い高田から契約の誘いを受けて、12月4日に東京ヤクルトスワローズへ入団した。はロングリリーフや敗戦処理ながらも完全に再生を果たし、150km/hを超える直球を連発するなど安定した投球をみせ、磐石のリリーフ陣の一角を担ったが、安定感を欠き、25試合の登板に終わった。には自己最速の154km/hを計測するなど、衰え知らずの一面を見せた。しかし、9月中旬に右肩痛を発症したことで降格し、そのままシーズンを終えた。は移籍後初の1軍登板無しに終わり、同年10月3日に2度目の戦力外通告を受け、現役を引退した。からまで四国アイランドリーグplus・愛媛マンダリンパイレーツの投手コーチを務めた。からは愛媛と同じリーグに所属する高知ファイティングドッグスの野手コーチを2シーズン務めた。3月1日、森山一人の後任として愛媛のコーチに就任することが発表され、3年ぶりに愛媛に復帰した。高校時代は強打の内野手として注目されたがプロ入り9年目に投手へ転向。転向のきっかけは、練習で150km/hの速球を投げたことが仰木の目に留まったことからである。もし、投手転向を拒否した場合は、球団から戦力外になっていたことが明らかになっている。投手転向後は150km/h前後の速球を中心に投げる中継ぎ投手として活躍した。変化球の球種自体は少ない分、速球派投手として、打者1人に対する短い登板から敗戦処理までこなせるほどのスタミナの持ち主。
出典:wikipedia
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