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新沼慎二

新沼 慎二(にいぬま しんじ、1979年6月22日 - )は、元プロ野球選手(捕手)、野球指導者。現役時代を通じて右投右打だったが、一時は練習でスイッチヒッターに挑戦していた。仙台育英学園高等学校では2年・3年時に連続で全国高等学校野球選手権大会出場。1997年のドラフト会議で横浜ベイスターズ、日本ハムファイターズ、ヤクルトスワローズの3球団に2位指名され、横浜に入団。くじ引きの時、横浜・権藤博監督が当たりくじを引き当て交渉権を獲得のはずだったが、ヤクルトからくじ引きの順番が違うと抗議が出る。事務局は協議し不手際を認め、3球団もそれを了承した結果、交渉権はそのまま横浜が獲得した。入団後は当時正捕手だった谷繁元信、控えにも秋元宏作らがいたため二軍生活が続いたが、10月7日の中日ドラゴンズ戦でプロ初出場。8月3日、プロ入り9年目にして中日の川上憲伸から初安打・初本塁打を打つ。8月23日、広島東洋カープの宮崎充登から本塁打を打ち、プロ2本目の安打も本塁打で飾る。二軍では71試合に出場し打率.307を記録、打撃で成長を見せた。は第二捕手であった鶴岡一成の移籍もあり、14試合に出場したが、チーム方針で若手捕手の起用も多く一軍定着はならなかった。二軍では打率.394を記録するなど、打力をつけてきた。シーズン終了後にひじの遊離軟骨を取り除く手術を行なった。もシーズン当初は二軍生活が続いたが、大矢明彦監督の休養に伴い田代富雄が監督代行となるとようやく一軍に昇格、細山田武史との併用でスタメン起用されることが多くなった。しかし7月18日の対中日戦でトニ・ブランコとのクロスプレーで首を負傷し登録抹消。9月から一軍に復帰するが、途中出場での起用が大半だった。この年は前年を上回る自己最多の34試合に出場した。はFA移籍の橋本将や事実上の正捕手となった武山真吾に出遅れ出場試合が減少。しかし夏場に一軍昇格を果たすと出番こそ少ないながらも結果を出し、8月27日の対中日戦では自身プロ初のサヨナラ安打とヒーローインタビューも経験。武山との併用のほか代打要員としても存在感を見せ、以降は降格される事なく一軍のままシーズンを終えた。シーズンは選手会長に就任。3月11日の東日本大震災では自身の地元である石巻市が被災。幸いにも家族は無事だった。開幕直後は武山がレギュラーだったこともあり、代打での出場が多かったが、シーズン中盤はスタメンに起用される機会が多くなり、7月17日の阪神戦では自身初となる3安打4打点の猛打賞を記録する活躍を見せた。その後若手が多く起用されることになったため8月15日に登録抹消されてからは一軍に昇格することはなかったが自己最多の45試合に出場して存在感を見せた。も引き続き選手会長を務め、横浜DeNAベイスターズの初代選手会長となったが、FAによる鶴岡一成の復帰、黒羽根利規や高城俊人の台頭もあり3試合のみの出場に留まり、同年9月21日に戦力外であることが報じられ、9月25日に引退発表した新沼は「たくさんの方々の支えのおかげで、大好きな野球をここまでできました。選手会長としての仕事は全くと言っていいほどこなせず、チームに迷惑をかけてしまいました。でも、いつも近くには素晴らしい先輩方、そして後輩がいてくれたおかげで、ここまで来れたかなと思います。チームがどうすれば強くなるか、村田の次のキャプテンを誰にするかなどを皆で悩んで話し合った時間が、自分にとって凄く大事なものとして心に残っています」とコメントした。10月8日の広島戦で引退セレモニーを行い、8番・捕手で先発出場。小杉陽太とバッテリーを組み1回表にこの日が同じく現役最後の試合となった元横浜の石井琢朗、安部友裕、丸佳浩の3人を打ち取った。1回裏の攻撃では4人で攻撃が終わり、打席に立つことがないまま2回に高城俊人に交代した。に二軍育成兼バッテリーコーチ、からまで一軍バッテリーコーチを務めた。2016年からは、DeNA球団のフロントに転じる。

出典:wikipedia

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