曙 太郎(あけぼの たろう、1969年5月8日 - )は、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島ワイマナロ出身で東関部屋所属の元大相撲力士、プロレスラー(現在フリーランス)、総合格闘家、タレント。格闘技・プロレス分野では曙(あけぼの)のリングネームで活動している。本名同じ(1996年4月22日に日本国籍を取得)。旧名・米国名:チャド・ジョージ・ハヘオ・ローウェン(Chad George Haaheo Rowan)。ハワイ・パシフィック大学中退。大相撲時代の最高位は横綱(第64代)で、日本人以外で初の横綱。横浜大洋ホエールズに所属したジョーイ・マイヤーは従兄弟に当たる。ハワイではバスケットボールをしていたが、大学はコーチとの対立もあって中退。後にその体格を東関親方(元高見山)に見込まれ、相撲界入りし、1988年3月場所に初土俵を踏む。元々東関は弟の方を入門させたかったようであったが、気の進まない弟のジョージは「しょうがないよ、兄貴を連れていく」と身代りにチャドを新弟子として提供した。父親はいきなりの展開にも拘らず入門を喜んだが、一方で母親は猛反対。母の反対もあったので、日本にやってきた時にチャドは「とにかくもうハワイには帰れないな」と感じていた。チャドはまた本土の大学にスカウトされた地元の運動部員が挫折してハワイへ出戻るたびに住民から中傷を受ける様を何度となく見てきたため、両親を困らせないという意味でもハワイには帰れないと覚悟していた。同期入門は「花の六三組」と言われる横綱・3代目若乃花(現タレント・花田虎上)、貴乃花、大関・魁皇、小結・和歌乃山、前頭・力櫻(現プロレスラー・力皇猛)、十両・須佐の湖、鶴ノ富士、琴岩国、琴乃峰など。序ノ口では貴乃花(当時・貴花田)に勝ったが、琴乃峰にプロ初黒星を喫している。相撲教習所に入学したばかりの頃は来日から日が浅いことで若貴ブームのことを理解していない曙ですらも若貴兄弟との格の違いを思い知らされたといい、自身が基礎の稽古を行っていた際にはもう既に若貴兄弟は三段目や幕下の地位にいる教官と申し合いをしていたという。教習所時代には和歌乃山の強さにも驚いていたようであり、教習所の生徒達でトーナメント戦を行う度に優勝していたと述懐している。後年のインタビューでは「中学横綱のタイトルを引っさげて入ってきて、体はさほど大きくないんだけど、もう手がつけられないほど強いの。和歌乃山は入門して半年くらいで、教習所の先生たちと同じくらいの番付まで出世していました。中学を卒業して入門した力士で、そんな人はおそらくいないんじゃないかな?」と当時についての感想を述べていた。新弟子時代にはまだ相撲歴が浅かったこともあって場所入りの度に東関から「せいぜいがんばってくれよ。負けても仕方ないよ。相手のほうがちっちゃい時から相撲を取ってるんだから」という趣旨の冷やかし文句を浴びせられたという。三段目時代の1989年3月場所前、まだ指折りの大部屋だった伊勢ヶ濱部屋に出稽古に出かけた曙は当時、1月場所で10勝をあげ自己最高位の前頭筆頭まで躍進した若瀬川に胸を借りた。相手が三段目と甘く見ていた若瀬川は2、3回軽く四股を踏んだだけで、仕切って待っている曙の前に立つと両手を広げて大きく胸を出した。曙は若瀬川の胸をめがけて頭から思い切りぶちかますと若瀬川は仰向けにひっくり返り、腰を痛めて病院に運ばれる羽目になった。初土俵からわずか一年で幕内力士を「病院送り」にした曙はこの場所6勝1敗、翌場所は早くも幕下に昇進した。ちなみに若瀬川は7日目まで休場、翌日から出場したがわずか1勝しかできず、遂に三役の座を手中にすることはなかった。1990年3月場所新十両。同年9月場所若花田(のち若乃花)、大翔山、貴闘力とともに新入幕。にちなみに一文字四股名の新入幕力士は1916年5月場所新入幕の明 虎吉(あきらか とらきち)以来74年ぶりであった。また1993年3月場所には、1915年6月場所の鳳 谷五郎以来、実に78年ぶりの一文字四股名の新横綱となった。新入幕の頃には既に内心で大相撲に対する使命感を持っていたとのことであり、これについては「僕らの場合は8勝、勝ち越しなんかじゃ許されない。10番くらい勝って、ようやく『まぁまぁよかった、合格点』みたいな感じだったわけです。それくらい、周囲の期待はものすごいものがある。でも、それに応えて、それでも満足できない僕らがいたんですよ」と引退後のインタビューで述懐している。また、当時前頭筆頭の地位だった1991年7月場所初日では、体重が200Kg以上の巨漢横綱だった大乃国を、曙自ら立ち合いから一撃で大乃国を押し倒し、土俵の外へ一気に吹っ飛ばした事もあった。なお、同場所で復活を懸けた横綱大乃国は、この一番で調子を狂わせたのか8日目で4勝4敗の成績不振により、この1991年7月場所限りで現役引退となっている。1992年5月場所千秋楽では、最後まで優勝争いに加わっていた当時前頭7枚目の若花田を一気に押し倒して、幕内初優勝を果たした。これで直近3場所の成績が、全て三役の地位で13勝(優勝次点)-8勝-13勝(優勝)で合計34勝11敗、大関昇進の目安とされる「三役で3場所合計33勝以上」の成績を挙げる。但し「2場所前の8勝7敗が物足りない」という意見が一部出ていたものの、当時横綱は5月場所直前で北勝海が引退して空位、大関も小錦と霧島の二人しかいなかった事情も有って、満場一致で曙の大関昇進が決まった。しかし期待された新大関の翌1992年7月場所は、直前の稽古中に足の小指を骨折してしまい、曙本人は強行出場を直訴したものの師匠を初め周囲の大反対の意見を受け、初土俵以来初の無念の全休に。いきなり大関角番となった次の同年9月場所は、9日目で3勝6敗と黒星が先行。あわや大関2場所目で関脇陥落の大ピンチだったが、そこから切り抜け終盤6連勝、9勝6敗となんとか勝ち越した。とはいえ本人にとってこの場所の不甲斐なさは相当であったようであり、場所後は「吐くまで飲んだ」と伝わる。そして1992年11月場所では14勝1敗と2度目の優勝。翌1993年1月場所も、大関昇進を賭けていた関脇の貴乃花(当時貴花田)を千秋楽結びの一番での直接対決で圧倒して完勝。13勝2敗で3度目の優勝、さらに大関の地位で2場所連続優勝を果たして、ついに外国出身初の横綱に昇進した。1992年5月から1993年1月まで5場所(番付上は4場所)続いた横綱空位を、1993年3月場所で解消した。当時の曙は「すんなり昇進できた」と認識していた一方で、貴花田の大関昇進についてかなり厳しい見方があったことが伏線になっていたと振り返っている。横綱土俵入りは雲龍型を選択、東関部屋と同じ高砂一門である九重親方(第58代元横綱・千代の富士)が土俵入りの指導を行った。新横綱の1993年3月場所は10勝5敗に終わり、横綱2場所目の同年5月場所は千秋楽結びの一番、大関貴ノ花と13勝1敗同士の相星決戦で惜しくも敗北。それでも横綱3場所目の同年7月場所から11月場所まで、幕内優勝3連覇を達成。さらに同1993年は、自身初の年間最多勝を獲得。その後も1994年11月場所に至る迄11場所の間一人横綱を維持。1994年3月場所では12勝3敗同士で新大関・貴ノ浪、平幕・貴闘力との優勝決定戦三つ巴で連勝して優勝、混戦を制した。1994年5月場所前、巡業中に武双山との稽古中に左膝を痛めるも、一人横綱の責任感から同5月場所を強行出場。さらに5月場所9日目の小城錦戦で右膝も故障するが、10日目まで曙ただ一人10連勝していた。しかし11日目、当時前頭筆頭の貴闘力に土俵際の引き落としに敗れて金星配給しついに初黒星。翌12日目、前日の貴闘力戦で両膝のケガが悪化したため突如途中休場、横綱不在となってしまう。場所後両膝を手術したがその回復が遅れ、同年7月場所・9月場所は共に全休。11月場所で3場所ぶりに復帰し10勝5敗に留まるも、同場所千秋楽結びの一番の当時大関・貴乃花との取組は、今後も大相撲史に語り継がれる歴史的な大熱戦となった。曙は惜しくも貴乃花に土俵際での上手投げに敗れたが、福岡国際センターの館内は大拍手が鳴り止まなかった。また貴乃花はこれで大関で2場所連続全勝(30連勝)を達成し場所後横綱昇進を決め、翌1995年1月場所からは曙・貴乃花と同期生同士の二人横綱となった。なお、曙の横綱土俵入りは四股の足がほとんど上がらず、この点では貴乃花と比べて見劣りがした(しかし、四股は本来足を高く上げるものではなく、玉錦以前の四股に戻ったとも言え、本質的な問題ではない。むしろ足を高く上げ土の付いた足の裏を客に見せるのは不浄であるとするのが本来的な概念)。また、土俵中央最後の左の四股の前に横に出す手は右手なのに、1993年9月場所、横綱4場所目を迎えた曙はなぜか土俵入りの際、左手を上げて左の四股を踏んだ(これは初日から4日目まで続いた)。しかしたくましい上半身が引き立つせり上がりは非常に迫力があり、NHKの大相撲中継でも度々アップで映し出された。いかつい顔もせり上がりで正面を睨むこの時ばかりは映え、総じて魅力ある土俵入りを見せたといえる。1998年2月に行われた長野冬季オリンピックでは、当時東横綱の貴乃花が直前の同年1月場所中体調不良で途中休場となったため、欠席した貴乃花の代役として西横綱の曙が開会式のときに横綱土俵入りを演じた。1994年5月に両膝を故障した後は若貴らの活躍や、同じハワイ出身で後輩の武蔵丸の台頭もあって優勝間隔が空くことが多くなり、2001年1月場所の引退までのおよそ6年間で幕内優勝は4回に留まった。特に1997年5月場所の優勝以降3年間は個人後援会が現夫人との結婚に反対した末解散し、2000年には第2子が生まれたが、後援者が去って行き私生活でも苦境に立たされていた中での出来事であった。それでも2000年7月場所は初日から13連勝を決めて(成績は13勝2敗)、19場所ぶり10回目の幕内優勝を達成し復活を果たしたが、自身はこれで満足出来たため引退する事を考えたという。しかしその後「もう少しだけ頑張ってみよう」と思い直し、翌9月場所は終盤まで優勝を争い優勝次点に留まったが、千秋楽結びの一番で14戦全勝だった第67代横綱・武蔵丸に唯一の黒星をつける先輩横綱の意地をみせる。次の同年11月場所は、3横綱5大関が全員千秋楽まで皆勤し、さらに8力士全て9勝以上の勝ち越しというハイレベルの中、曙は14勝1敗の成績で2場所ぶり合計11回目の優勝を果たしたが、これが結果的に曙自身最後の幕内優勝となる。その2000年には1993年以来、7年ぶり2度目となる年間最多勝も獲得した。翌2001年の1月場所は、持病となった両膝のケガの悪化により全休。その1月場所終了直後、両膝の回復がこれ以上見込めないなどの理由により、突如現役引退を表明する。引退会見での曙は「8〜10勝の平凡な勝ち越しなら出来るが、もう優勝争いは不可能」「横綱として足を引きずった惨めな姿で土俵に上がりたくない」と決意したという。また、後年になって両膝の怪我の原因が腰にあったことを明かしている(曙の背骨は普通の人間より一つ多く、その背骨の摩擦が膝まで来ていた)。元横綱曙の引退相撲は、2001年9月場所後に行われた。横綱最後の土俵入りには、同期のライバルだった横綱貴乃花が右膝の手術後長期療養中により参加せず、太刀持ちは横綱・武蔵丸、露払いは武蔵丸と同じ武蔵川部屋で当時大関の武双山がそれぞれ務めた。なお曙の断髪式には貴乃花も出席し、ほか武蔵丸や小錦らが鋏を入れていた。引退後、若乃花・貴乃花とともに相撲人気を高めた貢献者として、日本相撲協会から功労金1億円が贈られた。礼儀正しさや謙虚な態度は「日本人以上に日本人らしい」と評され、部屋や一門の別なく下位の若手に積極的に稽古をつける第一人者としての責務を真面目に果たしたことなど、親方衆・力士からの評価はとても高かった。長身を活かした突き押しが特徴で、立ち合いの際にはリーチの長さを生かすために、仕切り線から下がって始めることが多かった。その一方で足が長い体型(平幕時代に発行された相撲に関する書籍の力士紹介でヨネスケに「投げや足技を食らうと長い足のせいで無様に負けてしまう」「上半身がアンコで下半身がソップ」と評されたこともあった)から下半身が脆いという、致命的な弱点を持ち合わせていた。手足の長さから重心が高く、半月板損傷などで足の故障が多かった。特に舞の海など、小兵の力士に懐に潜り込まれ足を取られると容易にバランスを崩され、何もできずにあっさり負けてしまうことも目立った。例として、1991年11月場所で舞の海に三所攻めで負けた一番はその好例である(但しこの時の決まり手は取り組み序盤から再三内掛けで攻め立てていたため「内掛け」が取られた)。横綱昇進からしばらくするとアンコが顕著化した影響で膝が悪化したため、突き押しの他に四つ相撲も使用して慎重な相撲を心掛けるようになった。現役引退後は曙親方として東関部屋で後輩の指導をしていたが、東関親方との関係や将来設計、日本相撲協会の体制ややり方に不安を抱き(金に関する甘さとして、貴乃花に勝った際に受けた懸賞の束を曙が道端のホームレスに同情して差し出したエピソードが残っており、経営者として不適格である面が退職に繋がったという見解も為される)、2003年11月5日、日本相撲協会に退職願を提出し受理され、翌11月6日に記者会見を開き格闘技K-1参戦が発表された。2003年12月31日、デビュー戦となった「K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!」(ナゴヤドーム)でボブ・サップと対戦、1ラウンドKO負け。なお、うつ伏せになって倒れているシーンの視聴率は紅白歌合戦を上回った。2004年3月27日、「K-1 WORLD GP 2004 in SAITAMA」(さいたまスーパーアリーナ)で武蔵と対戦、プッシングでスリップダウンした武蔵に対しレフェリーの制止を振り切り攻撃し続けたため反則をカウントされるなどして、判定負けを喫した。2004年7月17日、「アジアGPトーナメント」(韓国)で中国の張慶軍(チャン・チンジュン)と対戦するも手数が出ず延長の末判定負け。2004年8月15日、「K-1 WORLD GP 2004 in LAS VEGAS」(ラスベガス)で行われた世界最終予選でリック・ルーファスと対戦。プッシングの反則で減点を受け、0-3の判定負け。2004年9月25日、「K-1 WORLD GP 2004 in TOKYO 開幕戦」(日本武道館)でレミー・ボンヤスキーと対戦。2Rまで善戦するも、3Rに右ハイキックで失神KO負け。2005年3月19日、「K-1 WORLD GP 2005 in SEOUL」(韓国)の準々決勝で角田信朗と対戦し、判定で悲願の初勝利を挙げた。しかし準決勝でチェ・ホンマンと対戦し、KO負け。2005年7月29日、「K-1 WORLD GP 2005 in HAWAII」でチェ・ホンマンと再戦したが1R2分52秒TKO負け。2006年7月30日、チェ・ホンマンと3度目の試合を行い、2R57秒KO負け。2008年8月9日、K-1 WORLD GP 2008 IN HAWAIIの大会プロモーターを務めた。2015年12月31日、RIZIN FIGHTING WORLD GRAND-PRIX 2015 さいたま3DAYSでボブ・サップと再戦し、判定負け。2004年12月31日、「K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!」でホイス・グレイシーと初の総合格闘技ルールで対戦。ホイスとの体重差は実に138kgであったが、オモプラッタからリストロックを極められ、1Rでタップアウト負け2005年12月31日、「K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!」でボビー・オロゴンと総合格闘技ルールで対戦し判定負け。2006年5月3日、HERO'Sに参戦しドン・フライと対戦。2R3分50秒フロントチョークで一本負け。2006年12月31日、4度目の大晦日格闘技参戦となった「K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!」でジャイアント・シルバと総合格闘技ルールで対戦。1R1分2秒チキンウィングアームロックで一本負け。2005年のプロレス参入後、2013年8月まで、個人事務所「曙道(旧:チーム・ヨコヅナ)」所属のフリーランス・レスラーとして、全日本プロレスやハッスルなどをはじめ様々な団体・興行に参加した。2013年9月、全日本プロレス正式入団後初の大会となる「王道トーナメント」に参戦。1回戦で優勝候補の秋山準と対戦し、新必殺技のパイルドライバーで勝利。決勝戦まで勝ち進み、対戦相手の潮崎豪にも勝利し、第1回王道トーナメント優勝を果たし初の三冠ヘビー級王者にもなる。2014年4月22日に肺炎のため入院し、その後も体調が戻らず5月30日に王座を返上した。7月27日、8月16日の後楽園ホール大会で復帰することと、全日本プロレス運営会社の取締役に就任することが明らかになった。2015年4月25日、2015チャンピオン・カーニバルで諏訪魔を破り、初優勝した。2015年11月2日付で退団し取締役も辞任。2015年12月4日、株式会社「王道」の発足を発表。自らのマネジメント事務所、並びにプロレスラーとしての所属団体。ジャイアント馬場夫人である馬場元子からの支援から「王道」を譲り受けた。また個人事務所が馬場の自宅に構えるなど異例となった。2016年4月20日、後楽園ホールにてプロレス興行「王道 THE BEGINNING」を開催。2mを超える長身といかつい容貌のため、また若貴の人気が突出していたためあるいは師匠同士の因縁のため、外国人初の横綱を張ったことなどから悪役的な位置づけをされることが多かった。実際に師匠同士の因縁については本人も新弟子時代より意識しており、当時より「貴花田に負けたら部屋に戻れないだろう」と思っていた。だが平幕力士として話題性が少なかった時期には、関取に昇進して以降ハワイの両親の元に送金を欠かさなかった(1991年5月場所に小錦に敗れ7勝8敗と1点の負け越しを喫し連続勝ち越しが途切れるまで、勝ち越しによって増額された分の給金を送金していた。このことは広く知られており、負けて負け越しとなる一番を元とした取組が漫画で描かれた折にも、曙をモデルとした力士がその旨を心の声として語っている)ことから「孝行息子」また、当時の東関部屋の部屋頭だったことや師匠譲りのオレンジ色の廻しを締めていたこと(後には紫や黒、緑に変えている)から「ジェシーの一番弟子」として微笑ましく見守るファンは多く、相撲部屋を扱ったテレビ番組で師匠の東関親方とともに当時の高砂親方(元小結・富士錦)のもとに新年の挨拶に訪れ、お年玉をもらう姿が放映されたり好意的に扱われていた。しかし折からの「若貴ブーム」で相撲を大々的に取り上げ始めた民放スポーツ番組では、若貴に対抗するヒール役として扱うことが当時は多かった。曙貴両雄の対戦は、1990年11月場所〜2000年11月場所の61場所間に42回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は史上1位の27回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が10回(うち、相星決戦が5回でこれも史上1位である)あった。千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番をしめす。
出典:wikipedia
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