内務省(ないむしょう、)は、1873年11月10日に設置され、1947年12月31日に廃止された日本の中央官庁。地方行財政・警察・土木・衛生・国家神道などの国内行政を担った。初代内務卿の大久保利通の思想を反映して、設立当初から国民生活全般への強度の監視を課題としており、行政事務の枠にとどまらなかった。第二次世界大戦前の日本では「官庁の中の官庁」、「官僚勢力の総本山」、「官僚の本拠」 とも呼ばれる最有力官庁であったが、敗戦後、GHQの指令によって解体され、廃止された。内政・民政の中心となる行政機関であり、長である内務大臣は内閣総理大臣に次ぐ副総理の格式を持ったポストとみなされていた。太政官制での歴代内務卿、及び内閣制度発足(1885年12月22日)後の歴代内務大臣については「内務大臣 (日本)」を参照。内務次官、警保局長、警視総監は「内務三役」と称された重職で、退任後は約半数が貴族院の勅選議員に選ばれていた。1871年11月12日、岩倉使節団に副使として参加していた大久保利通は、日本の政治体制のあるべき姿として先進国のイギリスではなく、発展途上のドイツ(プロイセン王国)とロシア帝国こそモデルになると考えていた。官僚の力を活用した近代化を目指していた大久保は、行政や財政を司る官僚機構に注目しており、各国の内務省と大蔵省について仔細に調べさせている。1873年3月、官僚機構を活用した近代化のモデルを求めてドイツを訪問した大久保は、ビスマルクという強い指導者の下で、官僚機構を活用した近代化を推し進めている様を目の当たりにして、強い影響を受けていた。1873年5月、帰国した大久保は、フランス第二帝政の国内省(内務省) と、プロイセン王国の帝国宰相府(1879年に帝国内務省に再編) をモデルに、1873年11月10日、強い行政権限を持つ官僚機構として、内務省を設立した。大久保利通を初代の内務卿として設置された当初は、のちの所管事項に加え、殖産興業や鉄道・通信なども所管し、大蔵省・司法省・文部省三省の所管事項を除く内政の全般に及ぶ権限を持っていた。その後、農商務省・逓信省など各省が独立し、内務省の所管は大正期には地方行政・警察・土木・衛生・社会(労働)・神道(国家神道)などといった分野に限られるようになったが、戦前各省の総合出先機関的な性格が強かった道府県庁を直接の監督下においていたため、地方行政を通じて各省の所管事項にも直接または間接に関係し、内政の中心としての地位を保ち続けた。特に、文部省は内務省によって事実上支配下に置かれていた。そのため、日本の教育行政は内務省が主導していた。元内務官僚で、内務大臣も務めた後藤文夫は、内務省が各省庁に対して影響力を及ぼしたことの大きな理由の一つに、地方団体に対する監督権、とくに地方財政監督権を持っていたことを指摘している。これにより、内務省の所管事項であった土木や衛生は勿論のこと、文部省・農林省・商工省・交通行政関係者に対しても内務省の立場を非常に強くしていたという。このほか内務省は地方財務監督権(原案執行、起債認可、継続費の認可)も持っており、各省庁は何をするにしても、内務省の同意と協力を得なければならなかった。満洲事変や日中戦争など戦時色が濃厚になると、防空事務・国土計画を所管に加えたほか、国民精神総動員運動などの国民運動の中心ともなった。1938年1月11日には外局であった衛生・社会両局が厚生省として分離されたが、当時の人事は内務省と一体のものとして運用されていた。1910年代から1930年代にかけては政党員が内務大臣に就任したり、内務官僚出身者が代議士に転身して政党幹部に就任したりすることで省内に大きな影響力を与える一方、自党が選挙に有利になるように反対する省幹部や知事らを更迭して自党を支持する官僚を後任にあてる人事を頻繁に行うようになり、政権党が変わるたびに大規模な人事異動が行われて「党弊」とも呼ばれた。1925年5月12日に治安維持法が制定されると、特別高等警察の元締として、思想犯や政治犯の取り締まりを行い、網の目のような監視体制を日本全土に構築した。1930年代に軍部が台頭すると、それと結んだ革新官僚が政党の影響力を排除した法改正を行うなど、独自の政治力を持つようになる。一方、軍部が地方行政や警察への介入を図ったために、双方の間で権限争いも生じた(ゴーストップ事件など)。戦前の北海道庁・樺太庁・警視庁、各都道府県の特高警察は内務省の下部組織であった。国民精神総動員運動が叫ばれた時代には、民間人主導の精神運動の地方組織が内務省の統括下にある市町村役場とその指導下にあった町内会や部落会に依存しなければ事実上運動ができない限界を逆手にとって、次第に内務官僚の意向が重視されるようになり、1938年7月29日には内政会議(首相・蔵相・内相・文相で構成)に精神運動にたいする企画と指導の権限を与えることが決定した。これによって正式に精神運動は内務省主導で推進されることになった。内務省は精神運動の地方組織として、道府県庁内に精神運動の主務課(総動員課・総動員事務局・地方課・事変課・時局課など)を新設し、町村分会の設置と分会による隣保組織(部落会、五人組、十人組、隣保組)の指導などの実践網の整備に乗り出した。これらの実践網の整備は、表面的には精神運動中央連盟が実施する形をとっていたが、実際には内務官僚と警察官の主導によって推進されており、のちの大政翼賛運動における内務省の指導力の強さの源泉となるものだった。1938年7月30日、産業報国運動の中央指導機関として産業報国連盟が発足するが、指導力不足によって機能せず、政府は1939年4月28日に内務・厚生両次官通牒「産業報国連合会設置に関する件」を全国の知事あてに発し、道府県知事(東京は警視総監)を会長とする道府県連合会と、その下に警察署管区を単位とする支部連合会を結成することを指示した。これによって中央機関である産報連盟と企業単位産報をつなぐ組織が完成したが、これによって内務省は産報運動の指導権を掌握することになった。日本の敗戦後、内務省は陸海軍の解体・廃止に伴う治安情勢の悪化に対応するために、警察力の増強と、特高警察の拡充を行うつもりでいた。1945年8月24日、政府は「警察力整備拡充要綱」を閣議決定し、陸海軍と憲兵の解体によって、治安維持の全責任を内務省・警察が担うことを決めた。1.警察官数を現在の定員(9万2713人)の2倍にする。2.騒擾事件・集団的暴動・天災などに対処するため、集団的機動力をもつ「警備隊」(2万人を常設し、必要あるときは4万人を一般警察官によって編成する)を設置する。陸海軍と憲兵なき後、現在の警察の装備では鎮圧が困難なので、軽機関銃・自動短銃・小銃・自動貸車・無線機などの武器や器材を整備して、「武装警察隊」を設置する。3.海軍なき後の領海内警備のために、水上警察を強化(1万人)する。以上3つがその計画であり、警察を軍隊の代わりにすることを意図していた。1945年9月7日、内務省は陸軍省・海軍省と協議し、復員軍人を警察官に吸収する計画を立てた。警備隊・武装警察隊・水上警察の上級幹部として、陸軍大学校・海軍大学校出身者と、優秀な憲兵将校を2000人採用し、警部補には陸軍士官学校・海軍兵学校出身者を充てることがその内容であった。特高警察については大拡充が予定されており、「昭和21年度警察予算概算要求書」には、特高警察の拡充・強化のために、1900万円が要求されていた。内容は、1.視察内偵の強化(共産主義運動、右翼その他の尖鋭分子、連合国進駐地域における不穏策動の防止)、2.労働争議、小作争議の防止・取締り、3.朝鮮人関係、4.情報機能の整備、5.港湾警備、6.列車移動警察、7.教養訓練(特高講習、特高資料の作成)の計7点である。政府・内務省は、警察力の武装化と特高警察の拡充・強化によって、敗戦による未曽有の社会的悪条件の下にある民心の動揺を未然に防止し、不穏な策動を徹底的に防止することを狙っていた。1945年10月5日、政府はGHQに上記の警察力拡充計画の許可を求めたが、GHQはこれを拒否している。1945年10月4日、GHQは特別高等警察や政府による検閲(日本における検閲を参照)、いわゆる国家神道の廃止を指示、さらに内務省のもとでの中央集権的な警察機構の解体・細分化を求めた。また、警保局や地方局を中心に公職追放の対象となる官僚が続出した。1947年5月3日に施行された日本国憲法は第8章を地方自治として定め、それまで内務官僚が就任していた都道府県知事は公選となるなど、地方行政の大きな転換がなされた。同年末、GHQの指令により内務省は廃止され、74年余に及ぶ歴史に幕を閉じることとなった。内務省最後の日、内務省が解体され廃止されることに非常に憤慨していた内務官僚の後藤田正晴は、「内務省を復活させなければ死ぬに死ねない」と言ったとされるが、後藤田本人は否定している。ただし、後藤田の6年後輩で、警察庁でコンビを組んでいた渡部正郎が、前述の発言は後藤田のものだと証言している。内務省廃止の式典の最後に中堅・若手の内務官僚が集まり「必ず将来、内務省を復活させます」と、内務省の先輩に誓って解散したという秘話が伝えられている。ほか、内務省廃止の日に最後の別れの酒宴が開かれた席上で、居残り組(総理庁官房自治課)の中心である鈴木俊一が内務省の先輩達に対して、「私があとに残って、必ず内務省を元通り復活させてみせます」と誓ったとされている。かつて内務省が担っていた業務は多岐に渡るが、現在では主に以下の省庁がそれぞれ所掌する。今日、これらの省庁の中でも、総務省・警察庁・国土交通省・厚生労働省を指して、「旧内務省系官庁」と呼ぶことが多い。事務担当の内閣官房副長官、宮内庁長官には、これらの官庁出身者であることが考慮される。内務省の解体・廃止によって旧内務官僚たちは、上記の旧内務省系官庁に分散することになったが、内務省の復活を企てるさまざまな案が浮上した1960年代初頭まで、旧内務省系官庁が人事などで相互に助け合う事例が度々見られた。例えば、内務省の解体・廃止後の1948年に内事局の官房自治課長を務めていた小林與三次が、GHQから公職追放の対象としてにらまれた際に、旧内務省国土局の後身である建設省に一時的に「退避」している。GHQによる占領統治が終るまでの間、小林は建設省の文書課長という枢要なポストを務めており、その後、1952年8月に自治庁行政部長として返り咲いている。総理府官房自治課と地方財政委員会が統合されて1949年に地方自治庁が設立されると、旧内務省地方局系の自治官僚は、旧内務省警保局系の国家地方警察本部のキャリア官僚の採用を事実上代行してサポートしていた。内務省の解体・廃止後、国家地方警察と自治体警察に細分化された日本の警察機構は権威がガタ落ちし、学生からの人気が急落していたからである。そのため、東京大学法学部の出身者は皆無というありさまであった。国家地方警察本部はその対策として、地方自治庁から東京大学法学部出身のキャリア官僚を採用し、まもなく国家地方警察本部に配置換えをすることでキャリア官僚を補っていた。この慣習は、1954年の警察庁の設立により警察機構の再中央集権化が達成され、警察官僚の権威と人気が回復し、自前で優秀な学生を確保できるようになるまで続いた。旧内務省系官庁間の人事異動は局長レベルでは珍しくなったが、それは現在も続いている。1936年6月当時。(出典:『内務省史』第1巻、大霞会編、1971年)1947年当時。(出典:『各庁職員抄録』印刷局、『戦後自治史Ⅷ(内務省の解体)』自治大学校)※出典:『内務省史』第1巻、大霞会編、1971年
出典:wikipedia
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