三宅島(みやけじま)は、伊豆諸島の島。雄山(おやま)を中心としてしばしば激しく噴火をすることで知られ、火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されている。また、日本の気象庁によって火山活動度ランクAの活火山、常時観測対象火山に指定されている。島の全域が富士箱根伊豆国立公園となっており、行政区画は島全体が東京都三宅村に属する。東京の南海上175km、伊豆大島の南57kmに位置する。直径8kmのほぼ円形をした島。伊豆-小笠原海嶺の上にあり、第四紀更新世の後期(約1万 - 15万年前)になってこの付近の海底で噴火が始まり、島が形成されたと考えられている。島は雄山を最高峰とする水深300 - 400mの海底からそびえるひとつの火山体で、玄武岩質の成層火山である。頂上部に直径約3.5kmの桑木平カルデラと、その内側に3,000年前の八丁平噴火(噴出量0.37 DRE km)の際に直径約1.6kmの八丁平カルデラが形成された。雄山はその中央火口丘であったが、2000年の噴火によって新たに直径約1.6kmのカルデラが形成され八丁平カルデラは消滅している。玄武岩質マグマ起源の溶岩は粘性が低いため溶岩流となり、過去何度か流下している。1983年には溶岩流が阿古地区の集落の約7割を焼失させた。このほか、山腹には割れ目噴火も発生しており、線上に並ぶスコリア丘や、海岸付近ではマグマが海水と接して発生するマグマ水蒸気爆発による爆裂火口地形(マール)がいくつも見られる。大路(たいろ)池がある古澪(ふるみお)、新澪(しんみお)池跡、三宅高校のある八重間などもマールの例である。新しい溶岩が海岸に達しなかった場所は切り立った海食崖が続いている。1983年の測量では最高点の標高は814mだったが、2000年に始まった噴火によって、火口が500m以上陥没し、現在の最高点の標高は775.1mとなっている。2007年には日本の地質百選に選定された。島名の由来はいくつかある。事代主命(ことしろぬしのみこと)が三宅島に来て、付近の島々を治めたという伝説から宮家島といった説、8世紀に多治比真人三宅麿が流されたことから三宅島とした説、火山が噴火することから御焼島に由来する説などがある。江戸時代は流刑地で、江島生島事件の役者生島新五郎などの墓がある。噴火活動が盛んで、1085年(応徳2年)以降、1154年(久寿元年)、1469年(文明元年)、1535年(天文4年)、1595年(文禄4年)、1643年(寛永20年)、1712年(正徳2年)、1763年(宝暦13年)、1811年(文化8年)、1835年(天保6年)、1874年(明治7年)、1940年(昭和15年)、1962年(昭和37年)、1983年(昭和58年)、2000年(平成12年)に噴火の記録がある。最近500年間では、平均50年の間隔で13回の噴火が起き、明治時代以降だけでも5回を数える。その中でも三宅島の火山活動で特に語られるのは直近の2回、1983年、2000年である。1983年に発生した噴火では、10月3日12:00(以下JST)頃から、阿古地区などの島の南部で小さな地震が感じられるようになり、13:58に北部の三宅島測候所で火山性地震を観測。そして、15:23頃に南西山腹に生じた割れ目から噴火した。噴火が始まったのは七島展望台と二男山の間にある斜面と考えられている。噴火開始から20分後には、小火口の列が南北に延びていった。割れ目火口から列をなして高さ100m以上に吹き出た溶岩は、主に火口西方にある阿古方面、南西にある錆ヶ浜方面、南南西の粟辺方面の3つに分かれて流れ、阿古方面に流れた溶岩流は約1.7km/hで流下し、18:00頃には民家を焼き、阿古地区の一部を飲み込んだ。なお、粟辺方面に流れた溶岩流は、17:56に海に到達したことが確認されている。一方、16:17に新澪池の北西で大噴煙が上がり、16:38には最初のマグマ水蒸気爆発が発生。17:10頃には島の南端、新鼻付近で爆発が発生し、17:22には隣の御蔵島から新澪池の西方で火柱が目撃されている。その後、19:17に新澪池北西から西方にかけて激しい爆発が発生し、21:40には新鼻およびその東側で最も激しい水蒸気爆発が発生。翌4日未明にかけて爆発や噴火が相次いだ。これらの一連の火山活動によって、周辺に大量の岩塊や東方の坪田方面に火山礫や火山灰が降下した。溶岩の流出は4日の早朝にはほぼ止まった。住宅の埋没・焼失は約400棟。山林耕地等に被害が出たが、幸いにも人的な被害はなかった。国土地理院の測定によると、噴出物の総量は、溶岩流が5 - 7×10m³、火山灰等が6×10m³、計2,000万tであった。噴火前後に、計101回の有感地震が発生し、そのうちの最大は3日22:33に発生したM6.2の地震で、三宅高校では震度5を観測した。2000年に発生した噴火では、6月26日18:30過ぎに群発地震が始まり、19:33に気象庁が噴火の恐れが高いとして「緊急火山情報」を出し、翌27日朝までに坪田・三池・阿古・伊ヶ谷地区の住民が島の北部に避難。そして、9:00頃に島の西方約1kmの海上で海底噴火が発生した。その後、三宅島西方海域で群発地震が発生し、震源域は時間とともに西北西に移動。そして、7月1日16:00過ぎ、神津島付近でM6.4の地震が発生し、神津島では震度6弱を観測した。一旦火山活動は沈静化するものの、7月4日から再び活発化。7月8日18:43に雄山で水蒸気爆発が発生。灰色の噴煙が島の東側に流れ、赤色の火山灰が降下した。噴火そのものは小規模だったものの、翌9日朝になって、山頂部に直径約800mの巨大な陥没火口ができていることが判明(雄山の山頂部がそのまま陥没していた)。約2,500年ぶりとなるカルデラ形成となった。カルデラは直径・深さともに成長していき、14日・15日と水蒸気爆発を起こして島内に大量の火山灰を降下させた。8月10日早朝6:30頃に山頂の陥没口から噴火が発生。噴煙は上空6,000m以上に達した。その後、18日・29日に大規模な噴火があり、18日の噴火の噴煙は上空15,000mに達し、火山弾が住宅地にも落下。29日の噴火では低温の火砕流様の噴煙が海まで達し、雨による泥流が頻発した(この時住民が数名飲み込まれたが、低温だったことが幸いして死傷者は出なかった。また、この時火砕流の中からインターネットの掲示板に状況を書き込んだ女性が一部で話題となった)。これらの火山弾の被害や「火砕流発生」の報道などが全島避難という決断を後押しした。小規模な噴火はその後も断続的に発生する。この間の噴出物の総量は約1,100万m³と推定されており、御蔵島だけでなく100km以上離れている八丈島でも降灰が確認されている。この噴火は、世界でも類を見ないほど大量の火山ガスが放出されているところにも大きな特徴がある。8月中旬から三宅島から離れた関東地方でも刺激臭がするという報告が入り、9月に入ってからは徐々に二酸化硫黄の放出が増加。1日あたり5万トンにも達した。その後は放出量が減少していくものの、2010年現在においても数千トンもの放出が続いている。なお、日本において、人為的に発生する二酸化硫黄の量が、1日あたり約3,000トンとされている。2000年の噴火によって、2000年9月2日から全島民が島外へ避難した。2005年2月1日15:00に避難指示が解除された。しかし、雄山中腹にあった公共牧野は数mの火山灰が積もったままで、2011年に山頂周辺を除いて立ち入りと居住の制限は解除された。4年5ヶ月におよぶ避難生活によって、東京や伊豆諸島の他の島に生活基盤を移した人々も多かったが、2010年現在、約3,000名が帰島している。住民基本台帳によると、2007年1月時点での人口は約3,800人。噴火期間中、NHKは2004年度分の1,280世帯、2,303万4,000円分のNHK受信料を免除した。2005年5月1日から観光客の受け入れが再開され、2006年3月には今上天皇、美智子皇后が島民を慰労するために訪れた。2015年2月1日、帰島10周年を迎えた。2015年2月時点では、村の条例によって山頂周辺が立入り禁止区域に指定されている。2000年の噴火による火山ガスや噴火による泥流によって、周辺海域を含めた島の広範囲が影響を受けており、環境が激変している。かつては200種以上の野鳥がおり、「バードアイランド」と呼ばれ、バードウォッチングの愛好者が良く訪れていた。火山活動が比較的緩やかになったことで、これらの野鳥も回復しつつあるという。なお、ツグミ科のアカコッコは固有種で、「アカコッコ館」があり、島の象徴になっている。ジャック・モイヤーが魅了された三宅島周辺海域は、魚類などが豊富で、様々な地形を有することから、スキューバダイビングが楽しめる場所でもあり、首都圏から多くのダイバーが訪れる。島周辺には多くのダイビングポイントがあり、約600種類以上海水魚が生息している。また、約90種類のサンゴが生息する北限域である。「長太郎池」は天然の閉鎖性磯場で、ハゼやタカノハダイからウツボ、ガンガゼ、ヤドカリ、ヒトデなど、さまざまな海洋生物が容易に観察することができることから、家族連れなどにも人気がある。一方、火山活動の影響が少なかった海域では数年間人間の活動が無かったことから、イセエビなどが豊富に棲む良い環境になっている。避難生活が始まる前は漁業(くさや・テングサが有名)・農業(明日葉が有名)のほか、豊かな自然を生かした観光業が盛んであった。避難解除後も漁業生産については復活が著しい。観光業については数年間島が閉鎖状態にあったこともあり好漁場として釣り客が多数来島している。また、頻繁に起こる噴火活動が作り上げた独特な地形を目的に、地質学者や火山学者が多く訪れる。一般観光では時期によって来島する客層が大きく異なり、釣り(10月〜5月)、ダイビング(5月〜11月)、バードウォッチング(2月〜6月)、海水浴(7月〜9月)、キャンプ(5月〜11月)、その他、が客層別のピーク月となっている。釣り、バードウォッチング、スキューバダイビング、ドルフィンスイム、ジオトレッキング、サイクリング、ボルダリング・クライミング。島内には「大久保浜」「錆ヶ浜」「三池浜」「大船戸」「長太郎池」などの海水浴場があり、それぞれ無料シャワー・トイレが整備されている(長太郎池を除く)。2013年7月1日より山頂付近立入り禁止指定区域を除き、ガスマスクの携行は原則不要。島内、三宅島空港には調布飛行場から、新中央航空の飛行機便が1日3往復就航している。また、三宅島ヘリポートには東邦航空株式会社が運行するヘリコプター、東京愛らんどシャトルが毎日就航している(大島→青ヶ島間)。本島の南約18kmには、御蔵島がある。人口300人ほどと小規模な離島であることから、物資や交通などの生活の多くを三宅島に依存してきた。御蔵島村営(のち伊豆諸島開発)の連絡船えびね丸の基地が置かれた阿古地区には御蔵島会館が置かれ、御蔵関係の人々の利便を図ってきた。御蔵島の子供たちは島内の中学校を卒業した後、三宅島内、御蔵会館の寮で生活をしながら三宅島の高校に通うなど、両島は極めて密接な関係にあった。また三宅島の商店や建設業者にとっては、競合相手の少ない御蔵島は重要なマーケットであり、漁業者にも地元の漁師が少ない御蔵島周辺海域は絶好の漁場であった。1993年以降、御蔵島でのイルカウォッチングがテレビや新聞で取り上げられ、全国的に有名になると、三宅島の人々も続々参入し、三宅島の観光の一つの柱になりつつあった。交通の便や収容量、イルカウォッチングに使う漁船の大きさで優位に立つ三宅島側に対し、御蔵島側は商用利用と自然保護の間で慣れない舵取りを迫られた。しかし、2000年の噴火で状況は一変する。三宅島との連絡船を始めとする既存の交通体系を失った御蔵島へ、代替として東京からの船便が大幅増便され、やがて毎日就航にまでに拡大された。この間に宿泊施設を拡充させた御蔵島は、東京都と共同でエコ・ツーリズムの推進を打ち出し、イルカなど動植物の保護と観光を一体化する政策を実現させ、御蔵島の名前を全国区に押し上げることに成功する。こうした施策の成功で、三宅島の島民帰島後も御蔵島への船便はそのまま維持された。船便の御蔵島就航継続に加え、三宅島と東京を結ぶ航空便の利便性が一時大幅に低下したため、三宅島は御蔵島への物資・交通の中、継地という役割を大きく失うこととなった。現在は三宅村と御蔵島村とがイルカウォッチングに関する協定を結び、両島が協定ルールに基づきイルカウォッチングを行っている。なお行政面は噴火の前・後ともに一貫して変わっておらず、都の出先機関は御蔵島も含め三宅支庁であり、御蔵島駐在所は三宅島警察署の管轄である。また建設業の主力も引き続き三宅資本である。2000年に発生した火山の噴火による災害の復興策として、主に観光客誘致などを目的としてイギリスのマン島で行われているマン島TTレースを参考に、当時東京都知事であった石原慎太郎がオートバイ(二輪車)レースの開催を提唱し、2007年11月16日から11月18日にチャレンジ三宅島モーターサイクルフェスティバルが開催された。当初の石原元知事の構想では、島を一周する全長約30kmの都道212号線で公道レースを実施し、しかし、火山ガスの噴出が続く島での開催には安全面からの不安が指摘され、日本の主要オートバイメーカーが軒並み協賛を見送るなどの結果、当初の構想からは規模が縮小し、これは当時の石原都政への批判材料ともなった。結局、レーシング・マシンの走行は、阿古地区の2.5km周回コースでの時速70kmの速度制限付きとなった。なお、パレードやラリーでは島全周が、公式レースであるドラッグレースでは閉鎖中の飛行場が使われた。開催当時も火山ガスが噴出する地域があるなど、観光客誘致の起爆剤となるかどうかは未知数とされているが、第2回が2008年10月17日から10月19日に、第3回が2009年10月24日、10月25日に開催された。第4回に当たる2010年は『WERIDE 三宅島』(ウィーライドみやけじま)と命名され、11月6日と11月7日の2日間で行われた。この回は山腹中央に設置されたオフロードコースで行われたエンデューロレースなどが実施されたが、島を一周するパレードやラリーは行われなかった。現地を視察した石原元知事はこのエンデューロレースを成功と強調し、参加者からの肯定的な意見も寄せられているが、三宅島の復興や観光振興への寄与という目的の達成度はまだ不明確で、海外の有名レーサーの参加による国際的なレースの開催も実現されないままである。
出典:wikipedia
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