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冥王星

冥王星(めいおうせい、134340 Pluto)は、太陽系外縁天体内のサブグループ(冥王星型天体)の代表例とされる、準惑星に区分される天体である。1930年にクライド・トンボーによって発見され、2006年までは太陽系第9惑星とされていた。離心率が大きな楕円形の軌道を持ち、黄道面から大きく傾いている。直径は2,370kmであり、地球の月よりも小さい。冥王星の最大の衛星カロンは直径が冥王星の半分以上あり、二重天体とみなされることもある。1930年、天文学者クライド・トンボーはローウェル天文台で第9惑星を探すプロジェクトに取り組んでいた。トンボーは、当時最新の技術であった天体写真を用い、空の同じ区域の写真を数週間の間隔を空けて2枚撮影して、その画像の間で動いている天体を探すという方法で捜索を行った。撮影した膨大な写真を丹念に精査した結果、トンボーは1930年2月18日に、同年1月23日と1月29日に撮影された写真乾板の間で動いていると思われる天体を見つけた。1月20日の写真も、質は悪かったが動きを確認するのには役立った。ローウェル天文台はさらに確証的な写真を得るよう努力したあと、発見の報を1930年3月13日にハーバード大学天文台へ電報で送った。後に冥王星の写真は1915年3月19日まで遡って見つかった。このような経緯から、発見日は一般に1930年2月18日とされているが、小惑星センターに登録された一覧上では発見日は同年1月23日とされている。冥王星が発見されるまでの歴史は、海王星の発見および天王星の存在と密接に結びついている。1840年代、ユルバン・ルヴェリエとジョン・クーチ・アダムズはニュートン力学を用いて、天王星の軌道における摂動の分析から、当時未発見の惑星だった海王星の位置を正確に予測した。摂動は他の惑星から重力で引かれることで起こるということが理論化され、ヨハン・ゴットフリート・ガレが海王星を1846年9月23日に発見した。天文学者たちは19世紀後半の海王星の観測から、天王星の軌道が海王星に乱されていたのと同じように、海王星の軌道もまた他の未発見の惑星(「惑星X」)によって乱されていると推測し始めた。1909年までに、ウィリアム・ヘンリー・ピッカリングとパーシヴァル・ローウェルは、そのような惑星が存在する可能性のある天球座標をいくつか提唱した。1911年5月には、インド人の天文学者ヴェンカテシュ・ケタカルによる、未発見の惑星の位置を予測した計算がフランス天文学協会の会報で公表された。パーシヴァル・ローウェルは冥王星の発見に関して重大な影響があった。1905年、ローウェル天文台(ローウェルが1894年に設立した)は、存在するかもしれない第9惑星を捜索する一大プロジェクトを開始した。プロジェクトはローウェルが1916年に死去するまで続けられた。ローウェルの死後、彼の遺産である天文台を巡るローウェルの妻との10年にも及ぶ法廷闘争によって、惑星Xの探索は1929年まで実施されなかった。1929年に当時の天文台長ヴェスト・スライファーがトンボーにこの仕事を預け、1930年の発見に至った。皮肉にも、捜索のきっかけとなった海王星の軌道の摂動の原因となるには、冥王星はあまりにも小さすぎた。19世紀に天文学者が観測した海王星の軌道の計算との食い違いは、海王星の質量の見積もりが正確でなかったためのものだった。いったんそれが分かると、冥王星が非常に暗く、望遠鏡で円盤状に見えないことから、冥王星はローウェルの考えた惑星Xであるという考えに疑問の目が向けられた。ローウェルは1915年に惑星Xの位置を予測しており、これは当時の冥王星の実際の位置にかなり近かった。しかし、アーネスト・ウィリアム・ブラウンはほとんど即座にこれは偶然の一致だと結論付け、この見方は今日でも支持されている。従って、冥王星がピッカリング、ローウェル、ケタカルの予測した領域の近くにあったことがただの偶然に過ぎないことを考慮すると、トンボーが冥王星を発見したことはさらに驚くべきことになる。発見された新天体を命名する権利は、ローウェル天文台と所長のスライファーにあった。名前の提案は世界中から殺到すると考えられ、トンボーは他の誰かに提案される前に早く新天体の名前を提案するようにスライファーをせきたてた。ローウェルの妻コンスタンスは、ゼウス (Zeus)、次いで「パーシヴァル」 (Percival)、さらに「コンスタンス」 (Constance) を提案したが、どれも支持は得られなかった。「 プルート」という名前を最初に提案したのは、イングランド、オックスフォード出身で当時11歳の少女ヴェネチア・バーニーである。天文学と同じぐらいローマ神話とギリシア神話にも興味があった彼女は、オックスフォード大学のボドレアン図書館で以前司書をしていた祖父ファルコナー・マダンとの会話の中で、ギリシア神話のハデスに対応するこの名前「」を選び、それを提案した。プルート(プルートー)とはローマ神話に登場する冥府の王である。マダンはこの提案をハーバート・ターナー教授に伝え、ターナーはこの提案をさらにアメリカにいた同僚に電報で送った。1930年3月24日、ローウェル天文台のメンバーにより、ミネルヴァ () 、クロノス () 、プルート () の3つの候補への投票が行われた。同じ名前の小惑星があることが指摘されるまではミネルヴァが最有力と思われたが、最終的にプルートが満場一致で選ばれ、正式に「」と命名された。「」の最初の二文字がパーシヴァル・ローウェル (Percival Lowell) のイニシャルであることもプルートに有利に働いた。この名前は1930年5月1日に公表された。日本語名の「冥王星」は、日本人の野尻抱影が提案した名称である。彼はこの名称を「幽王星」というもう1つの候補とともに雑誌科学画報の1930年10月号に紹介した。この名称は京都天文台ではすぐに採用されたが、東京天文台(現在の国立天文台)では英語のままの「プルートー」が用いられた(当時、東京天文台と京都天文台は異なる用語を用いていることがしばしばあった)。1933年には中国でも「冥王星」が採用され使われ始めたが、東京天文台が「冥王星」を採用したのは太平洋戦争中に外来語(カタカナ語)を禁止した1943年のことであった。現在では、中国語では日本語と同じ「()」が用いられ、漢字をほぼ廃止した朝鮮語では漢字で冥王星にあたる「()」を用いている。漢字を完全に廃止したベトナム語では、ヒンドゥー教や仏教で地獄の守護神とされる閻魔にちなんで、漢字で「閻王星」にあたる「」や、「閻王の星」にあたる「」などと呼ばれる。インドでも閻魔(ヤマ)に因み「()」と呼ばれる。冥王星の天文学におけるシンボル(惑星記号)はPとLのモノグラムであるである。これは、パーシヴァル・ローウェルのイニシャルをも表している。冥王星の惑星記号は発見当時複数提案された。天文学が採用した結果、上記の記号が大勢を占めるに至ったが、占星術においては別のシンボル ( ) を好んで使う流派もある。このシンボルは海王星のもの ( ) に似ているが、三叉の中央の尖った部分に円がある。1930年に発見されて以来、「太陽系の9番目の惑星であり、外惑星の一つである」とされてきた。しかし、1992年に冥王星以外の外縁天体が初めて発見されて以降、冥王星と似た大きさの外縁天体が続々と発見され始めた。その中でも2003年に撮影された写真の中から2005年に発見されたは冥王星よりわずかに大きいと考えられた。このような太陽系研究の進展により、太陽系の研究者の間などで冥王星を惑星とみなすことへの疑問の声が広まった。そして、発見から76年後の2006年8月に開かれた国際天文学連合 (IAU) 総会で、それまで明確でなかった惑星の定義を定めるとともに、「」(準惑星)という分類を新たに設けることが採択された。この結果、冥王星はケレス、(分類と同時にエリスと命名)などとともに準惑星に分類された。また、冥王星を外縁天体の「新しい下位分類のプロトタイプ」とすることも決定され、2008年6月にその分類の名称を「」とすることが確定した(日本学術会議では2007年4月9日の対外報告(第一報告)において「冥王星型天体」という日本語名称を推奨していた)。再分類された後、冥王星は小惑星の一覧に記載され、小惑星番号134340番が与えられた。これらの結果として冥王星は、「太陽系外縁天体として最初に発見されたもの」という位置づけとなった。→#惑星としての地位を巡る論争冥王星は、2015年7月14日にニュー・ホライズンズが最接近し、詳細な観測を行った。一部判明したデータはあるが、詳細は現在解析中である。冥王星の見かけの等級は14等級以下であり、従って観測には望遠鏡が必要となる。冥王星を容易に見るためには、望遠鏡の口径は約30cm以上が望ましい。非常に巨大な望遠鏡で観測しても、冥王星の角直径はわずか0.15″しかないため、恒星と同じように点状に見える。冥王星の色はごくわずかに黄色がかった明るい茶色である。カロンが発見されたことにより、冥王星は最初の推定よりもずっと小さいことが明らかになり、必然的に冥王星のアルベド(光を反射する度合い)の見積もりは上方修正されることとなった。現在の推定では、冥王星のアルベドは、かなり高いアルベドを持つ金星よりもわずかに低い程度だと考えられている。冥王星の距離が非常に遠く、望遠鏡の技術にも限界があるため、現在でも地球から冥王星の表面の詳細な写真を直接的に得るのは不可能である。探査機ニュー・ホライズンズの到着までは、ハッブル宇宙望遠鏡が撮影した画像から、表面の明暗や模様などがわずかに分かる程度であった。1985年から1990年にかけて、カロンによる冥王星の食(掩蔽)が地球から観測できる位置関係になったため、食の進行に伴う明るさの変化をコンピュータで処理することによって、地表の明るさの精密な分布地図が得られた。例えば、冥王星上で明るい点が食されると、暗い点が食されたときよりも全体の明るさは大きく変化する。この技術を用いて、冥王星 - カロン系全体の平均の明るさとその変化を時間とともに追っていくことができた。最終的に2015年のニュー・ホライズンズによる観測で詳細な地表が明らかになった。冥王星の直径と質量は発見後数十年間にわたって過大評価されていた。質量は地球に匹敵すると当初は考えられていたが、観測が精密になると大きく下方修正された。1978年に衛星のカロンが発見されたことにより、ケプラーの第3法則のニュートンの公式を適用して、冥王星 - カロン系の質量を確定することが可能になった。冥王星は太陽系内のどの惑星よりも小さく、圧倒的に質量が少ない。冥王星の質量は地球の月の0.2倍以下であり、冥王星より質量が大きい衛星が7つもある。その7つの衛星は、ガニメデ、タイタン、カリスト、イオ、月、エウロパ、トリトンである。元々、冥王星は水星よりは大きく火星よりは小さいと考えられていた。冥王星のアルベドが他の惑星に比べ高い上に、カロンのアルベドを冥王星のそれに加算してしまっていたことが原因の一つである(ハッブル宇宙望遠鏡の登場以前は、地上で冥王星とカロンを分離して観測できなかった)。実際には1つではなく2つの天体であると分かると、冥王星の大きさの見積もりは一気に小さくなった。その後カロンによる冥王星の掩蔽の観測から冥王星の直径を決定することができるようになり、補償光学を用いた望遠鏡での観測により形状を決めることもできた。冥王星は太陽系外縁天体の中では直径が最大である。2003年に発見された太陽系外縁天体のエリスは発見当時は冥王星よりも大きいとされていたがことがあったが、現在考えられている直径では冥王星よりも小さい。2015年7月14日、NASAは探査機ニュー・ホライズンズによる測定で、冥王星の直径を2370km、衛星カロンの直径を1208kmと発表した。冥王星ははっきりとした濃い大気は持っていない。太陽に近づくと、主に窒素、メタン、一酸化炭素の希薄な気体が冥王星を包み、表面にある固体の窒素や一酸化炭素の氷との間で平衡状態になる。冥王星が遠日点へと公転していき太陽から離れると、大気の大部分は凝固し、地表へと降下する。冥王星が再び太陽へ近づいていくと、冥王星の固体表面の温度が上昇し、固体窒素が昇華して気体となる。これが反温室効果をもたらす。この昇華する窒素は、人間の皮膚から蒸発する汗と同じように冷却効果を持つ。2006年にはサブミリ波干渉計を用いて、冥王星の表面温度が予想されていたよりも10ケルビン低いことが発見された。1985年の恒星の掩蔽(恒星食)の観測から、冥王星は大気を持っているということが分かった。この発見は1988年に起きた別の掩蔽の詳細な観測により確認され、著しく補強された。大気を持たない天体が恒星を掩蔽すると、恒星は瞬間的に消える。冥王星の場合、恒星は徐々に暗くなっていった。暗くなっていく割合から、冥王星の大気圧は、地球のおよそ70万分の1の0.15パスカルと分かった。2002年には、冥王星による別の恒星の掩蔽の観測と分析が、パリ天文台のブルーノ・シカルディ、マサチューセッツ工科大学 (MIT) のジム・エリオット、ウィリアムズ大学のジェイ・パサチョフが率いるチームによって行われた。冥王星が1988年よりも太陽から遠ざかっており、従って冥王星はより気温が下がり大気濃度も減少しているはずだったが、驚くべきことに大気圧は従来の2倍の0.3パスカルと推定された。21世紀初頭現在最有力な仮説は、冥王星の南極が1987年に120年ぶりに影から出たため、窒素が余分に極冠から昇華したという説である。過剰の窒素が大気から凝縮するには数十年がかかると考えられている。MITとウィリアムズ大学のエリオットとパサチョフのチームと、レスリー・ヤング率いるサウスウエスト研究所のチームは、2006年6月12日に起きた冥王星によるさらに別の恒星の掩蔽をオーストラリアから観測した。冥王星の光度曲線、ハッブル宇宙望遠鏡の観測を元に作成された表面の地図、赤外線スペクトルの周期的な変化などから明白に分かるように、冥王星の表面は異常に不均一である。冥王星の表面のうちカロンに向いた側はメタンの氷が多く、反対側は窒素と一酸化炭素の氷が多い。また、1999年、すばる望遠鏡は冥王星から固体のエタンに特徴的な吸収線をとらえることに成功した。 冥王星の軌道は、太陽系の惑星と比較するとかなり異常である。惑星は黄道面と呼ばれる仮想の平面にかなり近い面を公転しており、軌道の形は真円に近い。対照的に、冥王星の軌道は黄道面から大きく傾いており(17°以上)、離心率が大きい(歪んでいて真円から遠い)。軌道が傾いているため、冥王星の近日点は黄道面よりもかなり北側に(-8.0 AU)ある。離心率が大きいことから、冥王星の軌道の一部は海王星よりも太陽の近くに入り込んでいる。近日点の近くでは、冥王星は海王星よりも太陽に近くなる。直近でこの現象が起こったのは1979年2月7日から1999年2月11日までである。数学的な計算によると、この現象は前回は1735年7月11日から1749年9月15日まで続いた。同様の計算から、そのさらに前の回は1483年4月30日から1503年7月23日までだったことが分かっており、この期間の長さはほとんど1979年から1999年までの期間の長さと等しい。冥王星が海王星の内側に入り込む期間は、微妙な変化はあるものの、約13年間と約20年間のものが交互に訪れると考えられている。冥王星の軌道は海王星の軌道と3:2の軌道共鳴状態にある。海王星が冥王星に背後から近づくと、相互の重力によって互いにわずかに引かれ始め、トロヤ点を生じるような軌道上の同じ配列の間で相互作用する結果になる。軌道が歪んでいるため、3:2の比で軌道共鳴しているということは、海王星が常に冥王星と遠く離れたところにあることになり好都合である。冥王星が軌道を半周すると、冥王星は海王星に最も近づき、一見すると海王星が冥王星を捕獲しそうに見える。しかし冥王星は太陽からの重力的加速により速度を上げ、海王星の前方に留まり、冥王星の軌道の反対側で再び出会うまで前方に引かれる。1990年代以降、冥王星以外に太陽系外縁天体 (TNO) が多数見つかり、その一部は海王星と3:2の軌道共鳴状態にあった。このような軌道共鳴状態にあるTNOは冥王星にちなんで冥王星族と呼ばれている。冥王星の軌道は海王星の軌道と「交差している」と言われることがよくある。しかし実際は、冥王星の軌道の交点(軌道が黄道面と交差する点)は両方とも海王星の軌道の外側にあり、距離にして6.4AU(すなわち、地球と太陽の間の距離の6倍以上及び、太陽と木星間の距離以上)も離れている。その上、これらの天体は軌道共鳴状態にあるために、冥王星が2回公転する間に海王星は正確に3回公転する。このため、海王星と冥王星の軌道が最も近づいているところに海王星が達したとき、冥王星は軌道上ではるかに後ろにあり、代わって冥王星がその点に到達したときには、海王星は軌道上で50°以上も前方にあることになる。冥王星がもう1公転してこの点に到達した時には、海王星は軌道上で半周近く離れたところにある。その結果として、冥王星は軌道上のこの点では海王星の30AU以内には決して近づかないことになる。実際に海王星と冥王星が最も接近するのは、軌道上のほぼ反対側であり、冥王星が遠日点を通過して(前回の遠日点通過は1866年)から約30年後に海王星が冥王星に追いつく(海王星と冥王星の遠日点経度は似通っている)。距離が最小になったのは1896年6月のことで、18.9AUまで近づいた。言い換えると、冥王星は土星に最も近づいたときよりも海王星に近づくことは決してないということである。1936年、冥王星はトリトンとともに海王星の衛星として形成され、衛星同士の重力相互作用により海王星の引力圏から飛び出したものだという説が発表された。トリトンの逆行軌道と冥王星の起源を同時に説明しようと試みたものだったが、下方修正された冥王星の質量に基づく後の研究では、このメカニズムで現在の冥王星やトリトンの軌道を説明することは力学的に困難なことが示され、仮説は否定された。現在では冥王星やトリトンは太陽を取り囲む原始惑星系円盤で形成され、上記の説とは逆にトリトンが海王星に捕獲されたという考えが支持されている。エッジワース・カイパーベルトは全ての短周期彗星の供給源だと考えられており、冥王星も、他のエッジワース・カイパーベルト天体(外縁天体)のように、彗星に一般的な特徴を持っている。太陽風によって冥王星の表面の物質はゆっくりと宇宙空間に吹き飛ばされており、これは彗星の場合と同様である。もし冥王星を太陽の近くにおけば、彗星のように尾が発達するだろう。冥王星には5つの衛星が発見されている。1978年には最初の衛星カロンが天文学者ジェームズ・クリスティーによって発見された。カロンは冥王星の1/7の質量を持つ巨大な衛星で、冥王星-カロン系はしばしば二重天体と表現される。衛星の発見はカロンの後20年以上途絶えていたが、2005年に小さい2つの衛星ニクスとヒドラが、2011年にはより小さなケルベロスが、2012年にはさらに小さなステュクスが発見された。また、衛星ではないが、と呼ばれる準衛星を持つ。冥王星は質量が小さく地球からの距離が非常に遠いため、探査機を送るのは非常に難しい。ボイジャー1号は冥王星を訪れることもできたが、制御チームは代わりに土星の衛星タイタンへの接近飛行を選んだため、冥王星への接近飛行はできない軌道になった。ボイジャー2号は元々冥王星に接近するような軌道ではなかった。その後NASAはプルート・カイパー・エクスプレス () ミッションを計画していたが、経費の増大や打ち上げロケットの開発の遅れなどのため、2000年に中止された。初めて冥王星を訪れた探査機は、2006年1月19日に打ち上げられたNASAのニュー・ホライズンズである。探査機は木星の重力によりスイングバイを行い、2015年7月14日に冥王星に最接近した。冥王星の観測は最接近の5か月前から始まり、冥王星とすれ違い通り過ぎたあとは、冥王星と同じく太陽系外縁天体の1つであるへの軌道へ入った。ニュー・ホライズンズは、冥王星とその衛星カロンの全体的な地質と地形の特徴を明らかにし、表面の組成の地図を作成し、冥王星の薄い大気とそれが流出する割合を明らかにするための、画像撮影装置と無線科学調査ツール、さらに分光器とその他の実験装置を含んだ遠隔操作パッケージを使用した。ニュー・ホライズンズは冥王星とカロンの表面の写真撮影も行った。打ち上げられて間もない頃、ニクスとヒドラの脱出速度が比較的小さいため、外縁天体との衝突で薄い塵の環が生じている可能性が指摘され、もしニュー・ホライズンズが飛行中にこのような環の中を通過すれば、探査機に損傷を与えたり機能停止させるような微小隕石によるダメージを受ける可能性が高まるという懸念が示されていた。冥王星は他の8つの惑星と性質が違っており、以前は明確な惑星の定義が存在しなかったため、少なくとも最初の太陽系外縁天体 (TNO) である が発見された1992年以降、冥王星を公式に惑星と呼ぶべきかどうかを巡り常に様々な議論や論争がなされてきた。1990年代後半以降同様の天体がさらに次々と発見され、論争はますます激しくなっていった。冥王星は海王星までの8つの惑星と比較すると離心率や軌道傾斜角が大きいことから、発見された当初から「変わった惑星」だと考えられていた。発見されてからしばらくの間は地球と同じ程度からその数倍の質量を持つと推定されていたが、実際はそれよりはるかに小さいことが明らかになり、組成や予想される起源から、太陽系外縁天体ではないかという意見が有力になっていった。また、冥王星の表面を覆う氷は彗星が持っている氷と同じ成分であることから、冥王星は太陽系を形成したときの微惑星の集合体だと考えられるようになった。このような研究の進展から、冥王星を惑星とみなすことに疑問を抱く声が高まっていった。1990年代後半には、冥王星の惑星としての地位を見直す声がますます高まってきたが、国際天文学連合 (IAU) は冥王星を惑星から外すことには消極的だった。1998年には番号登録された小惑星の数が10,000個に迫ってきたことから、冥王星を小惑星に再分類し小惑星番号10000番を与えてはどうかという声が上がった。しかしIAUは1999年2月3日、冥王星を外縁天体のリストに加えることは考えているが、冥王星の立場を変更する動きは全くないとの声明を発表した。結局、小惑星番号10000番は普通の小惑星(ミリオストス)に与えられた。冥王星を発見したクライド・トンボーは、1997年1月に死去する直前まで冥王星を惑星のままにしておくべきだと主張し続けていた。1999年5月、ニューヨークのアメリカ自然史博物館で5人の専門家によるパネルディスカッションが開かれた。出席者のうち、デイヴィッド・レヴィとアラン・スターンは冥王星が惑星であり続けることを支持し、ブライアン・マースデンとマイケル・アハーンは惑星とカイパーベルト天体の両方に分類することを提案し、ジェーン・ルーは降格を主張した。当時、アメリカ自然史博物館ではローズ地球宇宙センターの建設とヘイデン・プラネタリウムの改築が行われており、それらが完成した後の展示内容を決めるに当たってこのパネルディスカッションが参考にされた。2000年2月、二つの施設は一般公開された。太陽系の仲間たちを紹介するコーナーでは、従来のように9個の惑星をただ内側から順番に並べるのではなく、小惑星や彗星なども含めて共通項を持つグループ(地球型惑星、小惑星帯、木星型惑星、カイパーベルト、オールトの雲)ごとに分けて展示していた。球形のプラネタリウム施設を取り巻く回廊に設けられた「宇宙のスケール」の10mの位置には4個の地球型惑星、その隣には4個の木星型惑星の模型があったが、冥王星(そして月や木星のガリレオ衛星など)の模型はなかった。この展示は当初メディアに大きく取り上げられることはなかったが、2001年1月にニューヨーク・タイムズが「冥王星が惑星じゃない? そんなのニューヨークだけだ」と題して1面で特集すると激しい論争が起きた。ヘイデン・プラネタリウム所長ニール・ドグラース・タイソンのもとには、賛否両論の多数の手紙やメールとともに、全米各地の教師たちが行った「冥王星は惑星かどうか」を考えさせる授業の結果報告や子供たちに書かせた作文(当初は「惑星だ」という意見が9対1で優勢だったが、年を追うごとに「惑星ではない」が増えていき、2006年の末には上記の比率が逆になっていたという)が届いた。望遠鏡の技術が進歩し続けたことにより、21世紀にはさらに多くの太陽系外縁天体が発見できるようになり、その中には以下のように冥王星の大きさに匹敵するものもあった。最後まで残った冥王星の特徴的な点は、巨大な衛星カロンと大気である。しかしこれらの特徴も、冥王星特有のものではないかもしれない。他にも多くの外縁天体が衛星を持っている。また、(エリス)のスペクトルからは表面の組成が冥王星と似ていることが示唆され、2005年9月には衛星も発見された(2006年9月にディスノミアと命名された)。外縁天体 (後のハウメア)は2つの衛星(ヒイアカ、ナマカ)を持ち、エリス、冥王星、(後のマケマケ)に次いで4番目に大きな外縁天体である。2006年8月14日からチェコのプラハで開かれた国際天文学連合 (IAU) 総会で、惑星の定義を決めるための議論が行われた。当初提出された定義案に従うならば、冥王星が惑星として残るのに加えて冥王星の衛星カロン、小惑星ケレス、(エリス)が惑星とみなされ、惑星は12個となる。しかし、天文学者などから強い反対の声が噴出し、原案は大幅な見直しを余儀なくされた。結局、8月24日に採択された議決において「惑星」、「」(準惑星)、「(太陽系小天体)」の3つのカテゴリが定義されることになった。IAUは上記の定義の元で、それまでの9つの惑星のうち冥王星は惑星としての条件の3つ目を満たさないとして、惑星の総数を8つとするとともに、冥王星を「」に再分類し、太陽系外縁天体内の新しいサブグループの典型例とみなすと決議した。サブグループの名称として提案されていた「」は否決された。さらに、2006年9月7日、小惑星センター (MPC) は冥王星を正式に小惑星の一覧に加え、小惑星番号134340番を割り振った。IAU総会直前までに登録されていた小惑星の総数は134,339個で、この日同時に登録された2,224個の中で最も早く発見されたものであったことからこの番号になったのである。1999年からの7年間で、登録された小惑星の数は10倍以上に増えていた。冥王星に10000番を割り当てる提案が却下されて以降、20000番のヴァルナや50000番のクワオアーのように、外縁天体の中にはキリのいい番号が割り当てられたものもあったが、冥王星には結局平凡な番号が割り当てられることになった。天文学会の中には、この再分類に対する抵抗もあった。NASAの冥王星探査機ニュー・ホライズンズの主任研究官アラン・スターンは、公然とIAUの決議を嘲笑し、「技術的な理由から、決議はお粗末なものだ」と述べた。スターンの主張は、地球、火星、木星、海王星は全て軌道を小惑星と共有しているため、新しい定義ではこれらの惑星も惑星ではなくなるというものであった。しかしこの発言は、これらの4惑星を含む、軌道付近の天体を排除している8つの惑星を「明らかに我々の太陽系は含んでいる」とする彼自身の文章と矛盾する。スターンらの行動に対しては、冥王星の「価値が下がった(ようなイメージが広まる)」ことによる冥王星探査計画への予算面での影響を恐れたからだという見方もある。マーク・サイクスは、1万人以上いるIAU会員のうち総会の出席者は2千人余り、最終日の議決に参加したのはわずか424人(賛成票が約9割という圧倒的多数ではあったが)だったことから、この決議は無効だという抗議の意見書を公表した。この意見書には304人の天文学者や惑星科学者が署名したが、その大半はアメリカ人だった。一方、IAUを支持した者もいる。エリスを発見した天文学者マイケル・ブラウンは、「この馬鹿げたサーカスのような手続き全体を通して、何とか正しい答えに巡り合った。長い時間がかかった。科学者は、たとえ強い感情が絡むときであっても、最終的には自らの誤りを正すのだ」と語った。一般大衆の間では、広範囲に及ぶメディア報道の中では受け取り方は様々であった。再分類を受け入れた者もいるが、IAUに冥王星の惑星復活を強く求めるインターネット上の請願によって決定を覆そうとした者もいる。カリフォルニア州議会下院(定数80名)には、IAUの「罪」の中でも特に「科学的に異端である説の主張」を非難する決議案が55名の議員により提出された。冥王星は世界各国の人々に、太陽系の9つ目の惑星として長い間親しまれてきた。特に、冥王星を発見したクライド・トンボーがアメリカ人であったことから、冥王星は1930年の発見以降長い間、アメリカ人が発見した唯一の惑星とされ、発見当初からアメリカ人の誇りと思われてきた。ディズニーのキャラクターとして親しまれているプルートは、冥王星が発見された年に誕生しており、冥王星(プルート)から名前が取られたと考えられている。このこともあり、多くのアメリカ人は冥王星に特別な愛着を抱いてきた。アメリカ人のこのような強い愛着が、冥王星の立場が疑われ始めてからも、長らく議論を混乱させる一因にもなった。2006年に結局冥王星が準惑星に変更されることが決まると、多くの人々が困惑し、特にアメリカ人からは失望や落胆、不満の声が強く聞かれた。カリフォルニア工科大学やジェット推進研究所などがあるパサデナでは、惑星に扮した8人の科学者が冥王星の入った棺と1,500人以上の会葬者を伴って街を練り歩いた。冥王星が惑星でなくなるきっかけを作ったのが、アメリカによる数々の華々しい天文学上の成果と、その結果出された「太陽系惑星12個案」だったことは皮肉である。クライド・トンボーが後半生を過ごしたニューメキシコ州では2007年に、彼が生まれたイリノイ州では2009年に、それぞれ冥王星の発見が報告された3月13日を「冥王星の日」と定め、「州の上空を通っている間は、冥王星は惑星として扱われる」ことを決議した。ただし、冥王星が天の北極に最も近付くのは2193年だが、その時点でも赤緯は約23.5度であり、ニューメキシコ州(北緯31.2 - 37度)やイリノイ州(北緯36.9 - 42.4度)の上空を通ることはない。1970年代初頭に打ち上げられた宇宙探査機パイオニア10号とパイオニア11号に搭載された金属板には、冥王星が惑星として描かれている。この金属板は、将来探査機が地球外知的生命体と遭遇した場合に、探査機がどこから来たかという情報を与えることを意図しており、太陽系の図も含まれていて、9つの惑星が描かれている。同じように、探査機ボイジャー1号とボイジャー2号(同様に1970年代打ち上げ)に搭載されている黄金のレコードに記録されたアナログ画像や1974年に送信されたアレシボ・メッセージでも、やはり冥王星は9番目の惑星とされている。原子番号92番、93番、94番の元素はウラン()、ネプツニウム()、プルトニウム()と名付けられており、これはそれぞれ天王星()、海王星()、冥王星()から取ったものである。日本語の「水金地火木土天海冥」や英語の「」などのように、9個の惑星の名前とその順番を語呂合わせで覚えることもよく行われていた。IAUの決議によって惑星が8個になった後、ナショナルジオグラフィック協会はケレスとエリスを含む11個の「惑星」を読み込んだ新しい語呂合わせを募集し、モンタナ州の4年生の少女による「」が優勝した。グスターヴ・ホルストによる組曲『惑星』は、冥王星発見以前の1914年から1916年にかけて作曲されており、当時未発見の冥王星は含まれていない。冥王星が発見されて以降、ホルストは新たに冥王星の曲を作ろうとしたが、健康上の理由などから挫折した。その後も他の人による補完の試みがあり、特に2000年にコリン・マシューズが作曲した「冥王星、再生する者」が有名である。ただしこの作品の追加には賛否両論がある。2006年のIAU総会の後、ジョナサン・コールトンは『』と題するカロンから冥王星へのラブソングをリリースした。ジェフ・モンダックとアレン・スタングルは『』で他の惑星たちの反応を歌った。冥王星は、「最も遠い惑星」とされたことから、太陽系の果ての象徴とされ、SFやスペースオペラなどに描かれることが多かった。冥王星が登場する作品には、『キャプテン・フューチャー』、『宇宙戦艦ヤマト』、『銀河鉄道999』、『キャプテンウルトラ』などがある。惑星ではない別のカテゴリの天体(の典型例)になったことは決して冥王星の存在価値を否定するものではなく、「さいはての惑星」から「かつて考えられていたよりも遥かに広いことが明らかになってきた太陽系の、新しい領域を代表する存在」になったことを意味している。しかし、発見から76年間も惑星として親しまれてきた上に、マスコミによるセンセーショナルな報道の影響もあって「冥王星が惑星でなくなった」ことに負のイメージを抱いてしまった人が非常に多いのも事実である。『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』といった作品で冥王星を舞台にした事で知られる漫画家の松本零士は、「理論的には正しいが、人々が持つ宇宙への夢に対する配慮に欠けた決定である」といった趣旨の発言をしていた。逆に、野尻抱影にちなんでペンネームをつけたというSF作家の野尻抱介は、「理性が最良の選択をしたということだろう。一抹の寂しさは感じるものの、科学は自分自身を書き換えることが出来ると世界に示せたことには意義がある」などと自らのウェブサイトでコメントした。日本学術会議は、2007年4月9日の対外報告(第一報告)において前年のIAU総会で決まった新たな分類の日本語名称を提言したが、「」についてはその定義にあいまいな部分があり、混乱を招く可能性があるとして、学校教育などの分野では当面は積極的な使用を推奨しないとしている。冥王星は古代には知られていなかったため七曜・九曜にも含まれないが、惑星として知られた時代に10大天体の1つとして数えられ、現在もそうするのが主流である。西洋占星術では、天蝎宮の支配星で、白羊宮の副支配星で、凶星である。極限、死、再生を示し、原子力、エネルギーをも示唆する。冥王星の分類変更の衝撃が天文学以外の分野にも波及した例として、占星術で首都移転を決めるほどの社会的影響力のあるミャンマーの占星術師の協会がこの決定を非難したことが挙げられることがある。しかし、西洋占星術関係者の一部からは「冥王星そのものが消えたわけではない」「新たな星(象徴)の再定義の発見である」などの意見も出ている。そもそも占星術における惑星の定義は天文学的な定義とは異なる(流派によっては小惑星を含むものすらある)ため、必ずしも分類変更によって大きな影響を受けるとは言えない。

出典:wikipedia

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