堀井 雄二(ほりい ゆうじ、1954年1月6日 - )は、兵庫県洲本市出身のゲームデザイナー、作家、アーマープロジェクト代表取締役。早稲田大学第一文学部卒業。『ドラゴンクエストシリーズ』の生みの親である。愛称は「ゆうてい(ゆう帝)」。実家は淡路島で堀井ガラス店というガラス屋を営んでいる。幼少時は弁護士志望だったが、中学時代に漫画家志望に転換。兵庫県立洲本高等学校時代は漫研に所属していたが、水泳部、ブラスバンド部(サックス担当)、さらに生物部、茶道部を掛け持ちしていた。この頃は、本気で漫画家になるつもりだったという。夜更かしが多くなり、遅刻の常習犯になった。自宅から学校まで自転車で5分くらいの距離だったにもかかわらず、高校2年の成績表を見ると出席日数210日のうち、197日遅刻しているほどだった。高校3年の夏休みに永井豪の仕事場にアシスタント入りを志願しようと原稿を持って行くが断られ、「とりあえず大学にでも行くか」と受験勉強を始めた。早稲田を受けた理由は、漫画家志望で文学部が妥当だが歴史が出来ないため、得意科目であった数学が受験科目にあるためと後に語っている1972年に早稲田大学第一文学部に入学。早稲田大学漫画研究会に入部し、同世代に国友やすゆきやえびなみつる、大川清介がいる。その後、同年11月に起こった事件(川口大三郎殺害事件)により、大学がロックアウトにより1年間休校になった。堀井は「身分は学生なのに、授業に出なくてもいい。この環境は、高校を出たばかりの少年を呆けさせるのに十分だった」と語っている。1974年頃にある出版社から「早稲田の漫研の事を書いてほしい」というオファーを受け、1975年に漫研の仲間(えびなみつるや柳澤健二)らとともに2冊の書籍を執筆したのをきっかけにフリーライターとして活動を始める。さくまあきら(当時立教大学の漫研に所属していた)とはこの頃からの知り合いである。また冒険グループ名義で書いた『いたずら魔』はテレビ業界に注目され、一時期放送作家的なこともしていたという。1976年にバイク事故で内臓破裂の重傷を負い、3ヶ月の入院後、帰郷し療養生活を送る。また、この間に半年休学した。1978年に早稲田大学を卒業。生活が十分成り立っていたという理由でフリーライターとして活動を再開する。この頃、さくまの紹介で『週刊少年ジャンプ』の編集者鳥嶋和彦と知り合いゲーム仲間になり、毎晩遊びまわっていたという。1980年から『月刊アウト』(みのり書房)で読者投稿コーナーの一つを担当。1981年から小池一夫の劇画村塾で第三期生として学ぶ。この頃、資料整理のためにパソコンの導入を図ったが、パソコンゲームにはまり、のちに自作をはじめる。1982年から『月刊アウト』で担当の読者投稿コーナーを「ゆう坊のでたとこまかせ」にリニューアルし、人気を博す。同年、鳥嶋からエニックスの第1回ゲーム・ホビープログラムコンテストの取材を依頼されたのを機に、自らもPC-6001で自作した『ラブマッチテニス』を応募し、入選プログラム賞を取る。コンテストの授賞式で森田和郎や中村光一と知り合う。1983年にパソコンのアドベンチャーゲーム『ポートピア連続殺人事件』を手がけ、ゲーム界に名を知られるようになる。この年、エニックスは堀井雄二や中村光一らを、アメリカで開催されたアップル関連の見本市「アップルフェスト」に派遣している。1985年から『週刊少年ジャンプ』で「ファミコン神拳」というコーナーを、ゆう帝というペンネームで、1986年からは『ログイン』でゲームに関するエッセイの連載を持つ。また、1985年にさくまが中心となって創刊された新人漫画家発掘誌『マンガハウス』に編集者として関わった。1986年に「ファミコン初の正統派RPG」である『ドラゴンクエスト』を発表。同作品はシリーズ化され、1988年に発売された第3作『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』は社会現象と呼ばれるほどの人気を獲得。日本においてゲームマニアがパソコンでするジャンルというイメージが付いていたRPGが家庭用ゲーム機の主要ジャンルになるという劇的なパラダイムシフトを起こした。また、『III』のヒットはゲームクリエイターという職業が注目されるきっかけ、あるいは過去の人物の再評価のきっかけを作り、堀井は『III』のヒットを機に職業をフリーライターからゲームクリエイターに改めた。2008年9月24日、ふるさと納税の制度を利用して洲本市に950万円を寄付している。2010年9月に行なわれた東京ゲームショウ2010の「日本ゲーム大賞」にて「経済産業大臣賞」を受賞した。
出典:wikipedia
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