名古屋高速道路(なごやこうそくどうろ )は、名古屋高速道路公社(なごやこうそくどうろこうしゃ)が維持・管理等を行なっている、名古屋市とその周辺地域にある路線長81.2kmの都市高速道路である。一般には略して名古屋高速と呼ばれ、新聞記事でもこの名称が使用されている。名高速(めいこうそく)と更に略される場合もある。1994年12月16日地域高規格道路の計画路線に指定された。名古屋高速は東西軸1路線、南北軸2路線に加え、南北軸2路線間を連絡する分岐線2本をその基本構成とする。それらの各路線末端部では、名古屋市とその周辺部を出入する高速道路または幹線道路と接続している。また、全ての路線は名古屋環状2号線と接続することで、放射道路と環状道路の連携が行われている。なお、2013年11月23日の4号東海線 六番北 - 木場間の供用開始により、名古屋高速道路は計画された81.2kmの建設を終了し、全線の供用を開始した。これによって名古屋高速道路公社は建設団体から維持、管理団体へ移行した。名古屋高速は首都高速や阪神高速と比較して運営開始が約15年遅れ、さらにその後の工期の遅延もあって物価の低い時期に建設する機会を逸したことで建設費用の高騰を招いた。そのうえ首都高速や阪神高速は公害問題がクローズアップされる以前に開通しているが、その後追いの形で事業化が決定した名古屋高速の場合は首都や阪神で顕在化した公害問題をまともに被ることになった。このため建設反対の住民運動が各地で沸き起こり、この流れが環境に配慮する道路構造の採用へと舵を切らせた。その結果、一部区間の道路構造を高架式からトンネル式に変更したことでさらなるコストアップを誘発した。また、首都や阪神では1964年のオリンピックや1970年の大阪万博など国家の威信をかけたイベントが開催されたことで交通インフラ建設推進の原動力ともなったことから都市高速についても十分にその恩恵を享受した。然るに名古屋の場合は1981年における国際オリンピック委員会の開催地選考で韓国に敗れたことでオリンピック招致に失敗し、成功すれば得られた筈の国家による資金投入も住民協力も得られずじまいとなり、都市高速建設遅延を挽回する機会を逸することになった。これらの不運が重なって、全線開業時点における名古屋高速道路公社の負債総額は約1兆7,000億円と膨大な金額にのぼり、これを完済するために通行料金は全国の都市高速の中では最高金額の770円で設定されている。もっとも、借金の返済期限を延長して通行料金の低価格据え置きを求める意見もあったが、公社としては延長した末に将来の金利変動や通行量減少に遭遇するリスクを勘案し、たとえ高額の通行料金収受による世間の批判に晒されてでも延長なしによる完済方針を堅持することとした。しかし、2012年に発生した笹子トンネル事故を契機に道路施設の老朽化対策として大規模改修の必要が生じ、これには2年分の料金収入に匹敵する多額の費用が見込まれることから通行料金の値上げを回避するために償還期間を延長するよう名古屋市と愛知県に同意を求め、了承された。この結果、有料期間は6年延長され2045年12月までとされた。償還期間終了後、名古屋高速道路は無料開放され、道路管理を公社から愛知県と名古屋市に移管することになっている。道路法上は名古屋市道または愛知県道である。先述した東西軸1路線と南北軸2路線、南北軸2路線間を繋ぐ分岐線2路線で構成され、これを案内のわかり易さから、以下の「路線呼称」と「ルートマーク(路線番号・記号)」で表記している。路線番号は都心環状線東片端JCT接続の1号を皮切りに時計回りで2→3→4→5→6と付番している。一般向けの案内とは異なる道路法および公社定款上の名称は以下の内容である。〈 〉内が公社定款上の名称である。道路法における名称には、名古屋市域内で路線が完結する場合は「名古屋市道」を冠し、市域外を通過する場合は「愛知県道」を冠する。路線区間は地名に替えて出入口またはJCTで表記した。車社会の到来が押し寄せた1950年代以降、経済発展と人口増加によって、100メートル道路に代表される広幅員道路を有する名古屋市内においても道路混雑が散見されるようになった。このことは中部圏の産業的な特性を考える場合、将来の道路状況に一抹の不安を与えるものであった。中部圏の産業構造は名古屋市を中心として、その周辺40km圏内に豊田、岡崎、半田、岐阜、四日市などの生産都市が林立し、それぞれが強い工業力を発揮している。そして名古屋市とは経済面の結びつきが強いことから、名古屋市と周辺都市を結ぶ交通需要もまた旺盛であり、今後の経済成長を考えた場合さらなる需要増が予測された。それは1950年代でこそまだ円滑な交通流動が行われているが、このままのペースで自動車交通が増大すれば、やがては交通混雑を招来して都市機能が麻痺状態に陥ることが懸念された。こうした状況下で1961年に建設省から名古屋圏の道路調査が愛知県と名古屋市に委託された。その結果、将来の道路混雑を予見して街路網を整備する必要を説き、併せて都市高速と環状道路を整備する必要性が示された。その後、諸々の構想、検討が加えられ、1965年6月までに整備計画の基本構想がまとめられた。この中では、一般街路の混雑緩和を図る目的から交通の質的分離が提案されたが、これは周辺都市と名古屋市を連絡する比較的長距離の交通需要と、市民の日常生活に密着する比較的短距離の質を異にする交通需要が同一平面街路で混在しては渋滞を誘発するためである。また、市外からの流出入交通すなわち走行距離の長い自動車にとって、都市特有の数多い交差点待機が及ぼす時間的、経済的影響は決して小さくないことから、市街地を高速度で走行するには連続立体構造を採用せざるを得ない。こうしたことから、市街の平面街路はあくまで市内相互間利用のみの短距離交通をあて、長距離の流出入交通については連続立体道路での高速連絡として、自動車専用道路に収容することが望ましいとされた。また、先行して計画されていた名古屋環状2号線と連絡する放射道路が整備されたとしても、将来予想される交通量から受け入れ容量の超過が予見されたことで、これらとは別路線の自動車専用の放射道路を建設し、質の分離とあわせて量への対応も行うことになった。このことから路線選定のコンセプトを都心と市街地周辺との連絡に置いた。そして選ばれた放射路線は交通が集中する6方向とされ、その全てに名古屋環状2号線が接続するものとされた。その6方向とは以下の内容である。1.東名高速道路(名古屋IC)2.国道41号(小牧方面)3.国道22号(一宮方面)4.東名阪自動車道(名古屋西JCT) 5.西知多産業道路(知多方面)6.名四国道(岡崎方面)この内、東名阪自動車道と東名高速を直結する東西1路線、国道41号と名四国道および国道22号と西知多産業道路を直結する南北2路線、そして、南北2路線間を連絡する分岐3路線で環状ルートを形成のうえ6放射道路間の連絡を図ることとした。この基本方針はその後一部が改廃されたが6放射とする原案は現路線に概ね踏襲されている。国会議員や地元財界人など有力者による国への働きかけは1967年から開始された。当時の法律では国、地方自治体、道路公団しか道路法で認可された道路の建設は許可していなかったが、愛知県や名古屋市としては厳しい地方財政ゆえ、国と地方の折半出資による公団方式を望んだ。このため県や市は首都高速道路公団や阪神高速道路公団に倣って新たな公団を誘致するべく国に働きかけを行い、認められれば名古屋高速道路公団として事業化される筈であった。しかし建設省は新たな公団を認めず、名古屋を始め北九州や広島を含めた都市高速に対しても地方道路公社を設立のうえ事業化する方針を固めるに至った。認めない理由として、急激な自動車の増加によって政府資金だけでは需要に追い付かないことから地方財政および民間資金(いわゆる銀行ローン)を投入することで道路整備を円滑に遂行させたいとの思惑が働いたことによる。特に名古屋の場合は鏡ヶ池線に絡む地元密着的な問題が絡んでおり、この時点で既に地域住民との対立が鮮明化していたことから地元のことは自治体に任せる方が早いとの算段もあった。また、本州四国連絡橋の建設に新公団を作るほかは新たな公団を設置しない考えもあったことから公団方式は否定される結果となった。この結果、1970年5月に法改正され地方道路公社法が設立された。法改正によって民間資金を導入した公社方式による建設が新たに認可されたことで、1970年9月には公社法適用第1号として名古屋高速道路公社が発足するに至った。当初計画では、1970年度から1979年度までの10年間で建設を終えることとされたが、折しもこの時期は高度経済成長のひずみとして水俣病や四日市ぜんそく等の公害問題が顕在化し、自動車交通においても騒音や大気汚染の問題が国民の関心を集める中で、名古屋高速では建設阻止に向けた住民運動が各地域で展開された。さらに1973年には住民運動が時の市議会を動かして都市高速道路関連予算の執行停止を招いた挙句、直後に実施された名古屋市長選挙では、都市高速建設推進派の現職杉戸清を破って、都市高速建設反対派から推薦された本山政雄が当選した。それまでの市政は自民党主体の保守政治であり、市民の目線よりも経済優先の政治であったことから市民生活を二の次にしたきらいがあった。このため公害等の問題が噴出することになり、本山を当選させた時代背景には、高度経済成長と開発優先の既存政治に嫌気がさした地域住民が市民本位の政治を強く求めたことによった。なお、市民目線の政治(革新政治とも呼ばれた)を求める流れは全国レベルで展開され、太平洋ベルトの主要都市の首長選挙は東京都の美濃部都知事を例として軒並み革新派が当選することになった。だが一度スタートを切った高速道路の建設を革新市政が止めることは不可能であった。市長就任後の本山は、建設反対の住民対応と、それに迎合して建設撤回になった場合は議会への説得と同意の必要、そしてこの時点で橋脚の一部が完成していたことから、その取り壊しとそれに要する費用の問題、およびそれまで注ぎ込んだ建設費の市による返済と建設業者への損害賠償など、複雑に絡み合った問題を前にして全く身動きが取れなかった。このため本山は、都市高速建設の方向性は既に決定済であることから、住民の理解と納得を得たうえで建設を推進する旨を表明し、予算凍結解除に向けて市議会の承認を得るべく反対住民の説得のために環境対策や補償を制定し、同年12月末には議会から解除を取りつけることに成功した。ただし、引き続き道路構造等、環境に係わる点については検討を加え、その間は建設を中止する旨を付け加えた。これと前後して本山は建設再開に向けて調査専門委員会に環境対策の検討を依頼、その結果提示された案が全面地下式の採用であり、これであれば、騒音、排気ガス、日照阻害、景観的配慮の全てが解決可能である。しかし、高架式に比べ地下式はコストが3倍かかるとされ、名古屋市の苦しい財政状況下では全区間での採用は叶わず、全体の30%にとどまることになった。それでも地方財政のポテンシャルをオーバーすることから、2本ある南北路線の内の1本(高速3号)を棚上げすることになった。こうして不完全ながら住民対応として環境対策のプランを立案して建設は再開と決まったが、この間の長すぎた停滞はオイルショックとも重なって石油価格の上昇を伴い、それは必然的に物価、ひいては建設費の増大となって跳ね返ることになった。なお、時代の経過とともに建設費がいかに上昇したかは次の例で表される。1972年の大高線建設開始当初は1km換算の工事費が70億円、それが30年後の2003年には200億円(いずれも高架構造での比較)と約3倍に跳ね上がっている。また、1972年に比べ、その5年後には2倍の工事費でなければ落札されなくなるなど、1970年代に限って見ても物価は凄まじい勢いで上昇したのであり、後年、市長引退間際の本山が新聞社のインタビューで、自分の判断の遅れによって建設費の増大を招いたことを認め、都市高速は効果を考えて早急に整備すべきであることを述べている。本山市政における停滞を受けて1985年に市長に就任したのが西尾武喜であった。立候補以前から都市高速問題が自身の政治活動の最大の懸案事項であることを理解していた西尾は、立候補に先立って支持政党に道路問題で自分を援護してくれるのか確認を取っている。そして都市高速早期整備を公約に掲げる西尾にお墨付きを与えた各政党は、「早期整備」の意味が、建設停滞と公社経営の悪化を召致させかねない半地下、地下構造から再度高架構造への回帰を示唆することを暗黙のうちに了解した。そして就任直後から地域住民による猛烈な建設反対運動を押しのけて高架式に再変更のうえ都心環状線と1号楠線の全線供用に漕ぎ着け、2号東山線の留保区間の解除と高速3号の建設に道筋を与えた。本山市政では遅々として進まなかった建設速度が1980年代後半以降急激に向上したのは、西尾の政治手腕もさることながら、市民の都市高速に対する意識の変化があった。それは本山が初当選した時代と異なり、公害対策よりも経済指向が強くなったことから一部の地域住民を例外とする他は大した反対もなく、各政党間の協調とも相まって事業を推し進めやすいという事情もあった。総括すれば、名古屋高速の建設の歴史は公害対策と地域住民の説得の歴史でもあり、この廻間で建設が滞ったこともあって当初1979年度までに全線供用とする計画は最終的に2013年11月までずれ込むことになった。そして公団方式ならまだしも、地方自治体と民間資金をメインに構成される公社方式としての建設、運営であることから厳しい地方財政の制約もあって、多額の資金を要する環境対策重視の道路構造は経費節減のために破棄せざるを得ない状況となった。こうして計画は二転三転したことから、さらなる工事の遅延を招いた。そして年毎に物価は上昇を続け、西尾市政で建設速度が向上するも適切な建設のタイミングを完全に逸したことから、結果的に公社は莫大な借金を背負うことになった。ただし、反対住民との対話を通して首都や阪神ではさほど顧みられなかった環境対策は充実することになり、さらに副次的な効果として基幹バスのバスレーン設置および水害対策や一般道路の整備などが実施され、地域住民の利便性に資することになった。現在の路線呼称と番号は1995年における都心環状線全線開業を契機として制定されたものであるが、以下の年表ではそれ以前のものであっても便宜的に現在の基準で表記している。なお、都心環状線全線開業以前の呼称と番号は次の通りである。1号万場線(現5号万場線)、1号白川・東山線(現2号東山線)、2号大高線(現3号大高線)、2号楠線(現1号楠線)。最高速度は尾北線が80km/hの他は、ほとんどが40-60km/h制限となっている。なお、2号東山線の吹上西、吹上東 - 高針JCT間の半地下、トンネル部は、排気ガスによる視認性の低下や車両火災によるリスクを回避の観点から50km/h規制である。名二環を境に名古屋線(内側)と尾北線(外側)の2つの料金圏に分かれ、それぞれ均一料金制である(一部に特定料金区間あり)。2004年10月1日以降はすべての料金所でETCが利用可能となった。均一料金制を採用しているのは、料金区分が簡素であることから料金徴収の時間節約および本線流出時の料金徴収がないため(尾北線を除く)大量の都市交通を滞りなく円滑に処理できるからである。さらに、利用距離が長いほど割安となることから、長距離交通(市内外との流出入交通)の高速道路への利用を促し、短距離交通との質的分離を促進させ一般道路の混雑を和らげる意味を持っている。その一方で尾北線を別料金体系としているのは2つの意図によっている。1つ目は尾北線の利用特性として、尾北線のみの短区間利用者が尾北線全体の約半数と高い比率を占めることから、短区間利用者の金銭的負担を軽減するためである。2つ目は小牧、一宮方面から三重県方面に抜ける通過交通を名二環へ受け流し、都心部へ余計な交通を入れないためである(つまり渋滞回避につながる)。それは尾北線と名二環を相互利用した場合の料金(360円+510円=870円)を、尾北線と名古屋線を直通した場合(360円+770円=1,130円)よりも割安にすることで、通過交通の名二環利用を促す狙いがある。なお、名古屋線が名二環よりも割高に設定されているのはこうした事情からである。なお、均一料金制は不公平感があることから、公社としては首都高速で採用された利用距離に応じた料金制度を名古屋高速でも導入するか否かの検証を実施することになった。その結果として、既に実施中のETC末端特定区間割引(詳細は下記参照)を拡大、末端部と1つ目の出口(570円)に加え、新たに2つ目の出口間で670円を設定し、これに正規の770円を加えた3段階式料金体系としてETC搭載車限定で2014年7月1日から1年間限定で社会実験を行った。元を正せば、均一料金制を採用する要因の一つが係員による料金収受業務の円滑化に資することであったため、ETCの利用率が9割となった現在では均一料金制度にこだわる必然性が薄まり、公社としてもこれを距離制度再考の機会と捉え、今後は実験結果を踏まえて制度の在り方を煮詰めるとしている。料金収受は均一料金制であることから入口徴収、出口はフリーである(尾北線の一部に出口徴収あり)。集約料金所を除いて基本的に2レーン配列で、ETC専用レーンと一般レーンで構成される。以前はETCと一般の混在レーンが存在したが、それを悪用してETC車と見せかけて料金所を突破する不正通行が相次いだことから、現在では原則的に混在レーンは廃止されている。2014年4月1日改定どの割引も料金所をETC無線通信によって通行することが条件である(公社側の事由により無線通行ができない場合を除き、ETCカードを係員に手渡して精算した場合には適用されない。)。日・時間帯の条件がある割引は、料金圏ごとにその料金所の通過時刻で判断し、それらの割引の重複適用はしない(割引額が最も大きいものを適用)。割引額に10円未満の端数が生じる場合、端数は切り捨てとなる。普通車/大型車以上の割引を適用した後の料金に対し、 マイレージサービス又はコーポレートカード割引が重複適用される。
出典:wikipedia
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