三河線(みかわせん)は、愛知県豊田市の猿投駅から愛知県碧南市の碧南駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。名古屋本線の知立駅から南北に分岐する支線で、名鉄路線の中では名古屋本線に次ぐ路線距離を持つ。路線の前身は三河鉄道で当初は全線が一体となって運行されていたが、1950年代に知立駅の配線がスイッチバック形状に変更されてからは同駅を境に運用が分断され、以来猿投方面の山地へ向かう北側を山線(やません)、碧南方面の海に近い南側を海線(うみせん)と通称するようになった。2016年3月に導入された駅ナンバリングもこの慣例に合わせて山線、海線とで別々の記号が付与されている。三河線ではスプリングポイントが使われており、島式ホームとなっている一部の駅では右側通行ですれ違う。これは構内踏切の配置関係から左側通行より安全であることに加え、かつてタブレット閉塞を実施していた時の名残で、右側通行の方が通過列車の通票交換が容易であったためである。運賃計算区分はC(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.25倍)。すべての駅でmanacaなどの交通系ICカード全国相互利用サービス対応カードが使用できる。『鉄道要覧』による起点は猿投駅だが、列車運行および旅客案内、列車番号の設定においては、碧南駅から知立駅および知立駅から猿投駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。また、三河線は歴史的経緯(後述)により、距離を示すキロポストが3つに分かれている(矢印の方向にキロ数が増える)。全線が東海地震の防災対策強化地域に含まれており、東海地震に関する警戒宣言が発令された場合、列車の運行が休止されることになっている。山線区間は自動車産業が盛んな愛知県豊田市の真ん中を貫いている。同市の玄関駅は豊田市駅で、一駅北の梅坪駅から名古屋の中心へ向かう豊田線(名古屋市内は名古屋市営地下鉄鶴舞線と相互乗り入れ)が分岐している。三河八橋駅付近と豊田市駅 - 越戸駅駅間は高架線であり、豊田市駅 - 梅坪駅間は豊田線の列車も走るため複線になっている。越戸駅から猿投駅までは、林の中を抜けていくようなローカル色の濃い区間である。2001年に線区の合理化を進めるべく、いち早くワンマン運転を開始した。1973年までは上挙母駅から挙母線が分岐していた。山線の有人駅は知立駅、若林駅(朝のみ駅員配置。それ以外は駅集中管理システムにより無人)土橋駅、豊田市駅、猿投駅の5駅である。乗客の流れは、知立駅からの名古屋本線、あるいは豊田市駅・梅坪駅から豊田線を経て、名古屋などとの往来が主体となるが、豊田市内の自動車関連工場への通勤利用による流れも見られる。近年になって利用者が増加したため、従来の2両編成に替わって4両編成での運行が増加している。海線は三州瓦で知られる高浜市を経て衣浦臨海工業地域東岸の碧南市に至る路線で、三河鉄道が最初に開業した区間でもある。近年は東海旅客鉄道(JR東海)によるダイヤ拡充で東海道本線の利便性が向上し、接続する刈谷駅でJR線に乗り換えて名古屋へ向かう乗客が増えている。そのため知立駅経由(名古屋本線直通)で名古屋へ向かう利用客が減少したため、名古屋方面への直通電車を取り止めた。海線区間のうち高架駅は刈谷市駅のみで、三河高浜駅と刈谷駅が橋上駅になっている。知立駅 - 重原駅間、刈谷駅 - 刈谷市駅間が複線化されているが、区間が短いため列車のすれ違いはほとんどない。ワンマン運転は2006年に導入されたが、山線側で採用されたホームへのセンサー取り付けは行われていない。ただし、車両は山線の車両と共通運用である。海線の有人駅は知立駅、刈谷駅、碧南中央駅の3駅である(高浜市の代表駅である三河高浜駅や終点の碧南駅は無人駅)。乗客の流れは、知立駅からの名古屋本線、あるいは刈谷駅からJRの東海道本線を経て、名古屋などとの往来が主体となっている。2004年4月1日には両端区間(西中金駅 - 猿投駅間、碧南駅 - 吉良吉田駅間)が廃止された。これらの区間は閑散区間で、西中金駅 - 猿投駅間は1985年から、碧南駅 - 吉良吉田駅間は1990年から合理化のため電気運転を廃止し、小型のディーゼルカーであるレールバスによる運転に切り替えていた。しかし両区間の乗客の減少は続き、名鉄は2000年に末端区間の廃止届を同年秋に提出することを表明した。沿線自治体による年間2億円の赤字補填で鉄道の延命が図られたものの、このまま赤字補填を続けても、近い将来、三河旭駅 - 中畑駅間の矢作川橋梁の架け替えに莫大な費用が掛かるとの懸念から、一部自治体が存続を断念する表明をしたことで海線側の廃止が決まり、山線側も追随する結果となった。廃止前の運行本数は一部時間帯を除いて毎時1本程度の設定で、全列車ワンマン運転であった。多客期には増結が行われ、最大で3両(キハ10形の場合。キハ20形・キハ30形では2両)での運転も見られた。廃止後、山線廃止区間(西中金駅 - 猿投駅間)には豊田市から委託された名鉄東部交通・豊栄交通によるさなげ足助バス(現・とよたおいでんバス さなげ足助線)が運行を始めた。四郷駅 - 猿投駅 - 西中金 - 香嵐渓 - 足助 - 百年草を結んでいる。一方、海線廃止区間(碧南駅 - 吉良吉田駅間)では代替バスとしてふれんどバスが運行を開始。碧南 - 吉良吉田 - 吉良高校前間を運行している。海線廃止区間はほぼ三河湾に沿って走っていたが、碧南市内区間(碧南駅 - 三河旭駅間)は市街地を3分の2周する大きなΩカーブとなっていた。これは海水浴場の最寄り駅として玉津浦駅の設置を決めた後、同駅北東部に位置する棚尾町などの誘致運動に対応したためといわれる(詳細は三河旭駅#歴史を参照)。また、三河楠駅 - 寺津駅間にある寺津高架橋は、三河南部から中部国際空港へのアクセス道路となる県道衣浦岡崎線への踏切設置を避けるためにおよそ21億円の費用で建設されたもので、1998年に供用を開始して間もなく名鉄は区間廃止を表明したため、わずかな期間しか利用されない高架橋工事への批判が噴出した。廃線から11年が経過した2015年9月現在、山線廃止区間は山間部ゆえに放置されたレールが落ち葉に埋もれるなど自然に還りつつある部分もあるが、地元自治体の活動(後述)により枝下駅や三河広瀬駅が広場として一部整備された他は駅舎・ホーム・レール・鉄橋(矢作川橋梁など)はほとんど撤去されずに廃線当時のままの姿が残っている(踏切部分は撤去)。同区間では廃止後、地元では廃線跡と未成区間の用地を活用し、遊歩道兼サイクリングロードとして猿投から足助までを結ぶ「でんしゃみち」構想が計画され、計画の一環として自治会による廃線跡の整備やボランティアによる路盤の手入れが行われている。しかし「でんしゃみち」構想自体は豊田市の都市計画(第7次豊田市総合計画)に盛り込まれておらず、具体化には至っていない。一方、海線廃止区間は前述の矢作川橋梁を含むレールや鉄橋などがほとんど撤去され、駅も三河一色駅のように駅舎が解体されたり、中畑駅のように駅そのものが更地化されるなど、往時の面影を偲ばせるものは少なくなっている。跡地の対応は自治体によって異なるが、碧南市では三河旭駅までのΩカーブ区間(名鉄跡地緑地)を「碧南レールパーク」として公園緑地化する事業を進めている。山線の終点は西中金駅であったが、三河鉄道が当初足助まで延伸する計画を立てていた。しかし、世界恐慌の影響や用地買収の難航などが足助付近の建設に支障し、路盤のほとんどの完成を見た時には太平洋戦争の開戦に見舞われた。敷設されるはずだったレールは南方戦線に供出されてしまい、ついに電車が走ることのなかったかつての路盤は現在、細い市道となっている。足助には紅葉の名所として知られる香嵐渓があり、毎年秋のシーズンになると三河線に並行する国道153号(飯田街道)が激しい渋滞を起こすため未成線になってしまったことが悔やまれているが、通年利用者数が期待できず、採算性の面から実現は乏しかったとする見方もある。また、三河鉄道の子会社である新三河鉄道が取得していた八事(名古屋市) - 挙母間の鉄道敷設免許は、会社の合併によって三河鉄道、名鉄へと引き継がれ、紆余曲折を経て名鉄豊田線として開業した。データは各区間の廃止時点のもの。1910年11月に刈谷出身の代議士三浦逸平や刈谷の有力者大野介蔵、太田平右衛門、高野松次郎らと大阪の才賀電機商会の才賀藤吉ら計31人が発起人となって、大浜(現在の碧南市)から高浜を結び、刈谷駅で東海道線に接続し碧海郡役所のある知立を結ぶ碧海軽便鉄道(軌間762mm 動力蒸気)を申請した。1911年7月に免許が下付されたが、同年8月に知立 - 挙母(豊田市)の敷設免許が下付された才賀が発起人総代の知挙軽便鉄道(軌間762mm 動力蒸気)と合同することになり、1912年5月に創立総会を開き社長は地元の武山勘七が就任。社名を三河鉄道とすること、軌間を762mmから1067mmにすることを決議した。1913年1月刈谷から大浜港までの工事に着手したが、不況により株式の払込が不調であり、また株主から経営者に対する不満から武山勘七は社長を辞任。久保扶桑にかわった。ようやく1914年2月に刈谷新駅 - 大浜港駅間、1915年10月刈谷新駅 - 知立駅間と旧碧海軽便鉄道の区間が開業した。ただその間社内では1914年9月に久保が死去、さらに事業不振の責任をとって役員全員が辞任するという事態が生じていた。困った株主達は神谷伝兵衛に社長の就任を要請し1916年4月になり神谷は社長となった。開業時は大浜港(現在の碧南)、新川町、高浜港、吉浜、小垣江、刈谷町(現在の刈谷市)、刈谷新(現在の刈谷)の各駅と北新川の停留所が置かれ、14.5kmの区間を所要時間1時間以上かけて運転されていた。神谷は1916年11月に臨時株主総会を開き猿投越戸まで路線を延長すること、資本金を125万円にすることを提議し決議を得た。そして自ら沿線町村をまわり株の引受を依頼し応募は順調にすすんだ。路線は1920年7月から順次開通し1922年1月に越戸駅まで開通した。開通してまもなく財政を立て直した神谷は4月に死去した。しばらくの間社長は空席状態が続き、専務に東京渡辺銀行の渡辺勝三郎がついた。1924年2月には増資して資本金を525万円とすることにして北は足助町、南は蒲郡町への延長と既設線の電化を決定した。1926年11月になり2代目神谷伝兵衛が社長に、専務には電気鉄道経営の専門家として伊那電気鉄道社長の伊原五郎兵衛がついた。1926年9月に神谷駅(後の松木島駅)まで延長され、1928年には吉良吉田駅まで開通した。開通時に神谷駅と呼ばれた松木島駅は、神谷伝兵衛の出身地で、その功績をたたえて駅名を神谷とした。一方、1927年に岡崎電気軌道を合併して岡崎進出を果たし、資本金は625万円となっていたが、この時期の三河鉄道は路線延長や電化による設備投資により多額の債務を抱えており、くわえて不況に見舞われることになり経営は苦境に立っていた。このため三河鉄道は愛知電気鉄道(愛電)との合併を画策し、東邦電力に斡旋を依頼した。1930年4月に合併契約書の調印にこぎつけたが、愛電の経理担当者が三河鉄道が粉飾決算をして利益を計上していることを発見したため大問題となり、愛電は合併契約破棄を宣言した。窮地に立った神谷らは私財提供による粉飾決算の是正を申出たが愛電の藍川清成はこれを拒否。1931年6月の株主総会で合併取消を決議してしまった。この粉飾決算のなかには三河鉄道が出資している新三河鉄道への融資金の流用があった。1929年に新三河鉄道は日本興業銀行より40万円の融資を受けたがうち20万円を三河鉄道が流用していた。その後10万円は返済したが10万円は返済不能となってしまい、このため1931年に興銀から派遣された半田貢、鈴木均平が取締役となり三河鉄道は銀行管理となってしまう。1934年7月には1/4減資を断行資本金468万7500円となる。三河線は知立駅でスイッチバックする線形となっているが、現在の知立駅は3代目で、三河知立駅が初代および2代目知立駅(「B知立」)に当たる(詳細は東知立駅を参照)。名古屋本線の知立駅(旧・愛電新知立駅。後の2代目知立駅の「A知立」)は三河線との交差地点上にあり、三河線の駅とは連絡橋で結ばれていた。1959年4月1日に現在の知立駅が開業し、それまでの知立駅は名古屋本線のもの(A知立)が東知立駅、三河線のもの(B知立)が三河知立駅に改称された。同時に新しい知立駅への新線が開通し、現在の線形となった。貨物列車のため従来の線路も残されたが、貨物列車廃止後は廃線となり、今でも複雑に入り組んだ連絡線の廃線跡がかなり残っている。山線では沿線の豊田市に本社を置くトヨタ自動車が、名古屋駅前の高層ビルミッドランドスクエアに営業部門を集結させたことや、沿線にある同社の工場へ通勤する上での電車利用を推進する方針を打ち出したことで、さらなる輸送人員増加が期待できることから、名鉄は2006年度からの新3カ年経営計画で、名鉄空港線とともに「高架化、複線化、高速化など、需要に応じた投資を多角的に行う」と明示し、知立駅から豊田市駅までの複線化計画についても本格的に検討を開始した。すでに豊田市は、複線化用地取得費用の面で及び腰だった名鉄側の姿勢を見た上で、独自に区画整理事業、立体交差事業を進め、あらかじめ複線化対応での高架化を計画するなど、「後は複線の線路を敷設するだけ」という積極行動に出た。第一段階として、2006年7月頃から三河八橋駅付近の高架化工事に着手し、2009年12月12日に三河八橋駅周辺1.6kmの高架化事業が完了した。さらに隣の若林駅周辺2.3kmの高架化計画についても2006年度から調査が進められており、2011年度の都市計画決定を目指して調整が行われている。また、2010年3月27日に橋上化が完了した土橋駅においては、将来的に知立方面の増線(2面4線化)が可能な構造へと改良された。一方、知立駅連続立体交差事業についても、既に仮駅整備に向けた工事や一部の周辺整備事業が開始されているが、すべての完成予定は2023年度と、工事の進行が当初計画と比べて大幅に遅れている。また知立市の計画では、既に重原駅まで部分複線化されている海線側の高架化工事は複線対応で行う予定であるが、現在も単線である山線側については、一連の連続立体交差事業により知立駅と同時に高架化される予定の三河知立駅までが複線化対応で、三河知立駅から三河八橋駅手前までの区間は、単線のままの高架化計画となっている。これは一つの事業としての費用を低く抑えるために、現時点で名鉄側との確約が取れていない複線化を、先行して行わないという消極的判断によるものである。この点、豊田市の対応とは対照的であり、自治体の財政の差を見せつけられた結果となっている。また、知立市が行う一連の連続立体交差事業の事業費をさらに圧縮するため、三河知立駅の高架化計画をとりやめ、高架区間から外れた知立市山町、同市牛田町地内に駅そのものを移転させ、地上駅とする案も出されている。海線では1967年9月に沿線自治体4市により名鉄三河線複線化促進期成同盟会が結成されて以来、1976年の知立駅 - 重原駅間、1980年の刈谷市駅高架化に伴う刈谷駅 - 刈谷市駅間の複線化がなされたものの、翌1981年に碧南中央駅の移設開業では1面1線の駅構造となり、複線化対応は見送られた。1984年に貨物営業が廃止されると各駅構内の整理が進み、間もなく吉浜駅、高浜港駅も棒線化された。鉄道から車へのシフト、またJR東海道線のダイヤ拡充に伴い、名鉄本線直通の効果が見いだせない海線には、複線化促進の兆しが見えていない。そんな中、2002年に河川改修に伴う小垣江駅周辺の工事では、刈谷市駅寄りにおよそ300mの複線区間が完成した。なお、重原駅 - 刈谷駅間は全線に渡って複線分の用地は確保されており、JR東海道本線をまたぐ橋梁も複線分用意されている。現在使用している線路は後に設置されたものである。今でも名鉄三河線複線化促進期成同盟会は活動を行っているが、名鉄側は東部支配人と部長などが参加し、毎回、要望と意見交換で終わっている。知立駅で運転系統が分かれているが、運用上の都合で山線 - 海線の直通列車も存在する。知立駅では名古屋本線の快速特急・特急と接続する。2011年12月17日改正現在のダイヤでは全列車が知立駅を起終点としており、名古屋本線への直通列車は1本もない。現在は全て普通列車による運行となっているが、かつては海線、山線ともに本線直通特急が運転されていた(詳細は三河線特急を参照)。山線区間では深夜時間帯を除き15分間隔で線内折返し列車が運行されている。この区間には駅集中管理システムが導入されており、2001年10月1日改正からワンマン運転が実施されている。知立駅、豊田市駅、猿投駅を除く各駅にはホームに赤外線センサーが据え付けられ、列車発車直後の列車接触を検出するようになっている。山線の最長編成は地下鉄直通用の6両編成を除くと4両である(ただし、猿投駅に留置線がある関係で車両検査や疎開留置で山線全線に渡り6両編成の回送が運転されることがある)。日中と休日は2両編成が中心だが、ラッシュ時など利用客が多い時間帯は4両編成の運転となる。梅坪 - 豊田市間には豊田線・名古屋市営地下鉄鶴舞線・犬山線直通列車が運行される。これとの接続を図るため、知立行きの列車は、豊田市駅にて5分から7分ほど停車する。このほか、豊田線運用車両の出庫を兼ねて土橋発豊田市行きが早朝に2本設定されている。なお、豊田スタジアムでのイベント開催時など、臨時に列車を増発する際には線内の交換設備をすべて使用して毎時6本(約10分間隔)の運転となる。1993年7月29日には豊田市で開催されたイベントへの参加者輸送のため、豊田市駅まで本線から直通の快速急行が運転された(6000系などを使用)。海線区間においても15分間隔の線内折返し運行となっている(2015年2月28日のダイヤ改正により若干間隔がずれている)。山線と同じく日中と土休日ダイヤでは2両編成運行が中心となるが、ラッシュ時は4両編成に増強される。海線にも全線で2005年より駅集中管理システムが導入されたことにより、2006年4月29日改正からワンマン運転が開始された。山線で採用されているホームセンサー方式は採用されず、小牧線で採用された小型液晶モニター支援によるワンマン運転となっている。この区間の最長編成は山線と同じく4両である。現在のダイヤでは交換設備をほぼすべて使用しているため、これ以上の増発は困難である。2005年1月29日改正以前は多数の名古屋本線直通列車が走っていたが、同改正で数本を残して廃止された。同改正で残された直通列車のうち、三河線終着便は2006年4月29日改正で消滅し、三河線発着便も2008年12月27日改正で廃止された。廃止区間の西中金 - 猿投間、碧南 - 吉良吉田間は、廃止時点でレールバスを使用しての区間内折り返しワンマン運転で、60分間隔の運行であった。また出入庫の関係上知立までの直通列車も存在していた。平日朝のみ三河平坂駅での折り返しや列車交換も行われていた。ここでは基本的に2001年以降の車両について記述する。海線における平日午後の1往復と山線の梅坪 - 豊田市間に乗り入れる豊田線の電車をのぞき、基本的にワンマン運転対応車で運転され、車内放送は自動放送によって行われている。ワンマン運転対応の車両はホームセンサー対応で、自動放送装置のほかにホーム監視のためのモニター、運転席の放送用マイク、デッドマン装置などを装備するが、都市型ワンマンのため、整理券発行機や運賃箱などは設置されていない。また、全編成とも先頭車は前面貫通型となっている。ワンマン対応の車両である6000系は間合いで名古屋本線など他の路線でも運用されている。なお、山線の沿線でイベントが開催されて列車の増発が行われた場合には通常の三河線用のワンマン車両だけでは足りなくなるため、通常は当路線での定期運用のない3500・3700系、3300系、5000系、6500系などが入線することがある。ただし三河線では猿投 - 土橋間をのぞき3500・3700系・3300系などのVVVF車の入線は基本的に行っていない。また、ワンマン化される以前は前出の6500系や3500系のほか、1800系や5700・5300系なども主に本線との直通列車で定期運用があったほか、1990年代半ばまでは7300系や3730系などの旧性能車による定期運用も存在した(こちらの方は晩年は線内運用が主体であった)。このほか、7000系もかつては臨時特急で猿投まで乗り入れた。団体列車のみではあるが、8800系や1000系も乗り入れたことがある。非電化区間が廃止されるまではレールバスキハ20・30形も間合い運用(猿投検車区での給油のため)で電化区間を走っていた。電化区間ではレールバスはワンマン運転をしていなかった。愛知県の統計によれば2004年度(平成16年度)の輸送人員は、26,999,000人(一日平均73,969人)、乗車密度は15,283人であった。廃止前の廃止区間(西中金 - 猿投・碧南 - 吉良吉田)を含めた輸送人員は、2002年度(平成14年度)は一日平均72,424人、2003年度(平成15年度)の一日平均74,200人と、全線の約3分の1にあたる25kmもの区間が廃止されたにもかかわらずほとんど変わっていない。なお、猿投駅、豊田市駅、刈谷駅、刈谷市駅等の利用者数はここ数年は上昇傾向にある。全駅愛知県に所在。上り方向(猿投→碧南)に記述。運行されている列車は普通列車のみ。全駅に停車。他線との直通列車も三河線内ではすべて普通列車として運行。足助駅 - 追分駅 - 中切駅 - 野口駅 - 東中金駅 - 西中金駅
出典:wikipedia
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