阪和電気鉄道の車両(はんわでんきてつどうのしゃりょう)では、阪和電気鉄道(JR阪和線の前身)が製造した、あるいは他社より譲受した車両の概要とその経緯について記述する。同社は全線ノンストップの「超特急」や、国鉄直通列車「黒潮号」などの高速列車を運行した私鉄で、車両も高速運転に備えた特徴的なものが多かった。なお、1940年に南海鉄道が阪和電鉄を合併してから1944年に山手線(旧阪和電鉄線)を戦時買収により失うまでの間に製造した車両についても、関連性の深い本項で解説する。阪和形電車は、概ね3グループに大別される。これらの各グループは、1920年代末期 - 1930年代の関西私鉄において輩出された大型大出力高速電車群の代表的な実例と言える。このグループには、以下の各形式が該当する。※窓配置はd:乗務員扉、D:客用扉、D':手荷物扉、(1):戸袋窓、数字:窓数を示す。制御電動車はいずれも前後に運転台を備える両運転台式、制御車は和歌山寄りにのみ運転台を備える片運転台式として製造されている。外観は扉数以外は同一様式の19m全鋼製車、性能も基本的に同一で混用は当然に可能であり、回生制動機構を付加したモタ325 - 327以外は運用上も特に区別されていなかった。クテ700はロングシート車だが積載荷重上限3tの手荷物室(テ)を備えている。これらの乗り心地は同時代の国鉄電車よりも優れており、シートが深くかけ心地が良いなど乗客からの評判も良かったという。もっとも、その一方で運転台スペースが窮屈で、乗務員にとってはやや苦しい車両であったとの証言もある。南海山手線となった1941年 - 1942年に順次竣工したクタ3000・クタ7000形の両形式は、合併前の阪和が1939年から投入を計画して車両設計認可を申請、一部を発注していたものである。これらの内訳は以下の通り。これらは基本的にモタ300形・クタ750形と同一仕様のロングシート車ながら、窓の上下の補強帯板を外板の内側に隠したノーシル・ノーヘッダー構造で全溶接組み立て、しかも各窓の上部に優雅な曲線を取り入れ、さながら当時市場に流通していたベークライト製のラジオケースを思わせる、極めて個性的な平滑スタイルのボディを有している。このグループはラッシュ対策で客用扉の拡幅が実施され、更に運転台が全室式から片隅運転台となっており、クタ3000形は両運転台、クタ7000形は片運転台で設計されている。クタ3000形は、本来電動車のモタ3000形として計画・設計されたもので、戦時体制下では所要の電装部品の調達が困難であったために、やむなく全車が暫定的に制御車として竣工したものである。この内クタ3001, 3002は電装品調達完了を待って1941年12月18日付で車両設計変更認可申請を提出し、翌年5月5日付で認可を得、電装工事は同年7月21日付で竣工、モタ3000形3001, 3002となった。更にクタ3003 - 3007についても同様に電装品を揃えて1943年5月3日付で車両設計変更認可申請を提出し、同年6月21日付で認可を得た。しかし、揃えられた電装品も人員不足等で電装工事を保留している間に故障車の修理に順次流用されていった結果、国家買収をはさんで1944年5月16日付で電装工事が完了したのは、モタ3003・3004の2両に留まった。このため、残る3005 - 3007は非電装のままとされ、最終的にクハ25形25113 - 25115として旧クタ7000形と同一グループに編入されている。クタ3000・クタ7000は3001 - 3007と7001・7002が従来通り日本車輌製造で製造されたが、7003 - 7007は地元堺の帝国車輌、7008 - 7013は日立製作所笠戸工場で製造された。第1陣である3001・3002・7001・7002の4両以外は、鋼製の張り上げ屋根を止めて帆布張りで雨樋付きの一般的な屋根に変更され、一部内外装が簡略化されるなど戦時色の濃い仕上がりであった。クタ3000・クタ7000と別に、1942年にはクタ600形制御車が増備されている。概要は以下の通り。当初の形式は「モハ601形」なる南海式の形式称号で認可申請されており、電動車として計画されたものであったが実際には制御車として出場した。前面窓上にベンチレーターを装備した外見もやや大人しく、当時の南海本線用最新鋭車であるモハ2001形2017, 2018に準ずる設計であった。これは車両所要数確保が優先し、本来は南海本線用として製造割り当てを受けた車両を山手線に振り向けたことが原因である。それゆえ既に確保済みの部材流用等の便を図り、南海本線向け車両と共通仕様で設計されている。本形式は資材不足の状況下で電裝に必要な機器が揃わず、また先に製造が開始されていたクタ7000形のうち、日立製作所が担当した7008 - 7013が同社工場の水害被災で完成が遅れたため、急遽これに代わる制御車として阪和式の「クタ」の称号を冠した形式名で竣工している。制御車ながら電動車そのままの両運転台車体であったが、クタ3000形同様運転に必要な機器は和歌山向き運転台にのみ搭載され、実質は片運転台車であった。初期グループ車は窓が比較的小さく、全鋼製車ならではの深くリベットがびっしり打たれた鋼板屋根の重々しさと相まって、さながら装甲車両を思わせる物々しい外観を備えていた。もっとも、これらの窓のスチールサッシは全ての角にRが付けられており、やや深めでRの大きい屋根とその上に載せられた、スライダー部分が緩やかな円弧を描くヨーロッパ風のパンタグラフもあって、直線主体のエッジが立った造形で軽快かつ豪放磊落な印象の姉妹車である新京阪鉄道P-6形とは対照的に、重厚かつ落ち着いたヨーロッパ風の佇まいとなっていた。また、P-6形にはなかった装備として、連結時に展開する安全畳垣が新造時より装備されていたが、最後までこれを常用した大阪市100 - 600形と異なり、こちらは1934年に撤去されている。これに対し、増備車であるクタ3000・7000形では外板のノーシル・ノーヘッダー化と全溶接組み立て化が実現したものの、この時点に至ってもなお時代遅れな魚腹台枠を墨守している。これは重要部品である台枠の設計変更を実施した場合、認可が遅れる可能性が高く、戦時体制下の酷使に伴う故障続出で逼迫していた当時の阪和の車両事情に鑑み、増備スケジュールに悪影響が出るのを防ぐ目的で在来車の設計をそのまま流用したものであったと推測されている。それゆえ、各車の重量は電動車では47t - 48.56tの超重量級に達したが、平坦線主体の良好な線形と大出力で補われた。後発で型鋼通し台枠採用など、青山峠越えの関係で軽量化を重視した設計とされた参宮急行電鉄2200系が軽量化技術のノウハウ不足から、新造直後より強度不足や車体中央部の垂下に悩まされ続け、再三に渡って車体の補強工事を施工されたのに対し、阪和車は転変を重ねて平成初期まで残存したモヨ2両を含め、いずれも台枠の垂下を殆ど経験しないままに経歴を終えている。それに対し、南海合併後に車両不足を補うため緊急に計画・設計されたクタ600はよりシンプルかつ軽量な半鋼製車体・形鋼通し台枠仕様とされた。これは既述の通りその基本設計が南海線のモハ2017・2018などのそれに依拠しているためであるが、この設計には製造に必要な鋼材が節約されるという戦時体制下では無視できないメリットもあった。主要電装品は全て東洋電機製造による国産品である。制御器としては、東洋電機製造がライセンス契約を結んでいたイギリスのイングリッシュ・エレクトリック社(English Electric Co.:EE社)の「デッカー・システム(DICK KERR SYSTEM)」の系譜に連なる、精緻な電動カム軸式自動加速制御器が採用されている。モヨ全車とモタの前期形は主制御器としてES-504-Aを搭載していた。これは既存品で姉妹車である新京阪鉄道P-6形に先行採用され実績のあった機器である。これに対し、後期形のモタ300形325 - 330には主制御器として改良型のES-513-Aが搭載された。これは先行して1933年に製造された大阪市電気局(大阪市営地下鉄)100形用ES-512-Aをベースに力行時の弱め界磁機能を付加したもので、当然ながら制御シーケンスはES-504-Aと共通仕様で互換性があり、混用が可能であった。また、特に1935年に増備された325 - 327の3両には、東洋電機製造が国産化に成功した、直卷電動機の他励界磁制御による回生ブレーキ機能が付加されていた。これは高速運転の代償として、ブレーキシューや車輪の摩耗交換の頻度が極端に高かったことへの対策として実施されたものである。もっともこれは、戦後の電空同期ブレーキシステムとは異なり回生ブレーキはマスコン側で、空気ブレーキはブレーキ弁側で、それぞれ個別に操作する必要があって操作には熟練を要した。しかしその一方で、摩耗部品の延命に大きな効果があり、これらの回生制動搭載車は超特急および「黒潮」に重点投入された。以後、阪和は輸送需要増大に伴う変電所増強に際し、当時最新の水銀式整流器ではなく、旧式ではあるものの構造上余剰電力吸収が可能な特性を備える回転式変流器をあえて選択するなど、回生制動の本格採用へ向けての準備を実施している。このことから、この回生制動は当初期待された以上の効果があったものと推測されている。この回生制動段の指令は自車以外ではこれらと同時製作のクタ750形751、それに以後の増備車であるクタ3000形3001・3002およびクタ7000形7001・7002でのみ可能で、それ以外の車両との併結時は回生制動機能は停止されていた。主電動機であるTDK-529-Aは東洋電機製造の自社開発品で、狭軌線向け電車用吊り掛け式電動機としては当時日本最強クラスの200馬力級モーターの1つであった。これは姉妹車と言うべき新京阪P-6に搭載された標準軌用200馬力級モーターであるTDK-527-Aを基本として、ケースの軸方向寸法を狭軌用に縮小し、フラッシュオーバー対策として定格回転数を落とし、これに合わせて増加した磁気容量を確保するために、ヨークやケース、あるいは電機子などの直径を大きく再設計したものである。このためか阪和の車両の床下地上高は1.2mと他社車両よりかなり高く初代新幹線電車(0系)並で、国鉄買収後にクモハ43などの国鉄制式車と混結して運用された際にはその背の高さが目立った。なお、このTDK-529-Aのギア比は66:30で全界磁時の定格速度は58km/h、牽引力は3,800kgであった。初期の電動車は、幅が広く横型碍子を備え、スライダーシューの構造が特徴的な三菱電機P-900-Aパンタグラフを2基搭載しており、これもまた目立った特徴であった。このP-900-Aは、阪和以外ではこれらと同時期に川崎車両で製造された東京横浜電鉄・目黒蒲田電鉄モハ510形などの一部に集中的に採用されたのみで後続の同系モデルは一切存在しないという、極めて特殊な製品であった。モタ300形325以降は東洋電機製造TDK-C-2 2基搭載となり、更に328 - 330は当初より1基搭載で竣工している。325が竣工した頃には既に補修部品確保を目的に在来車の1パンタグラフ化が進められていたが、325 - 327についてはパンタグラフの離線によって回生制動が失効するのを避けるため、これらのみ2パンタグラフ仕様で製造された。前照灯および標識灯は小糸製作所製の当時の標準品であるが、中でも初期車の前照灯はウランガラスを使用した特殊なレンズを装着していた。また、標識灯は前面向かって左側の車掌台窓上中央に1灯取り付けが正位置であり、右側の運転台窓上右寄りに取り付けられた灯具は超特急などの優等列車を識別するためのいわゆる急行灯であった。この配置は屋根上に取り付けられたラッパ形の真鍮製タイフォンと共にオリジナルの阪和形電車の特徴である。台車は汽車製造会社(KS-20)、日本車輌製造(D-20・N-20)、帝國車輛工業(T-20)、日立製作所(H-20)となっており、初期製造グループが車体メーカーにかかわらず汽車KS-20を装着した以外は、原則的に車体製造メーカーが自社で製造した台車を装着して竣工している。いずれも汽車製造製KS-20の原図に従う、帯鋼リベット組立で軸距2500mmのボールドウィンAA形台車を模倣した、当時としては一般的なビルドアップ・イコライザー台車である。国有化後に全てをひとまとめにしてDT28として制式番号を与えられたという事実が示すとおり、全て同一設計と考えて差し支えない。KS-20の設計者は汽車製造会社の米田俊弌技師で、先行した新京阪P-6形用汽車製造A・B形台車の経験を元に狭軌用として改設計を施したものであり、大出力大直径の電動機を装架し、しかも1台あたり最大20tと大きな心皿荷重に耐える必要があったことから軸距が長く大柄で、この頃の電車用台車としては高速向けの設計であった。なお、試作台車では釣り合いバネは量産台車よりもかなり柔らかいものとしていたが、阪和電鉄からの指摘により釣り合いバネのたわみを小さくする様に設計変更されている。なお、日本車輌製造製台車はD-20・N-20と製造時期により2つの形式に区分されているが、これは南海合併後に製造された車両においては同社の慣習に従い、製造メーカーの頭文字と心皿荷重上限を組み合わせた社内呼称が使用されるようになったためであり、設計そのものには変更がない。阪和形電車の大きな特徴として、自動空気ブレーキに当初からアメリカ・ウエスティングハウス・エアブレーキ(WH)社の設計になるU-5自在弁(Universal Valve)を用いるAMUブレーキを採用し、長大編成対応としたことが注目される。1912年に開発されたこのブレーキ機構は、P弁以降のWH社製在来型自動空気ブレーキ各種に対する上位互換性を備え、当時のニューヨーク市地下鉄で当時世界最長の電車による10両編成を実現した実績があった。日本ではこの阪和の各車と新京阪鉄道P-6形の他、参宮急行電鉄デ2200・2227系、大阪電気軌道デボ1400系、大阪市営地下鉄100 - 600形など、長大編成あるいは高速運転を前提とした関西私鉄各社に幾つかの採用例がある。阪和の初期グループは輸入品の米国製部品を、後期グループはWH社の提携先である三菱造船製の国産品をそれぞれ装備して新造された。このブレーキシステムは電磁同期弁を追加してAMUEブレーキ化することにより、長大編成による高速運転時のブレーキ応答特性の改善も期待できたが、阪和形電車では電磁同期機能は最後まで付加されずに終わっている。当時の日本では、電車用自動ブレーキとしては廉価さと使い勝手の良さから同じWH社の前世代品に当たるM-2-A三動弁(Triple Valve)によるAMMブレーキやゼネラル・エレクトリック社(General Electric Co.)のJ三動弁によるAVRブレーキが普及していたが、これらの場合、弁の応答性能の問題から、4 - 5両編成程度が限度であった。これに対しU弁は精緻な機械機構によって6両編成以上の長大編成化と高速運転時の確実かつ迅速なブレーキ応答性能を実現したが、その複雑さと高価さ、そして何より保守の困難さのため、広く普及はしなかった。このため、ある程度の長大編成化への要求とコストダウンへの要求が強まった1920年代末に、M弁の軽易さとU弁の高性能を適度にバランスしたA動作弁が日本エヤーブレーキ(現・ナブテスコ)社の手によって開発・実用化され、日本ではこれ以降この弁を使用するAMAブレーキと、国鉄80系電車のAERブレーキを筆頭とするその派生形各種が、HSC/SMEE系電磁直通ブレーキの普及が始まった1950年代まで、日本における電車のブレーキ方式の主流となった。1938年に茨城県の筑波鉄道から譲受した木造客車4両で、1939年3月から就役し、当初は元空気溜め管の追加や制御線引き通しを実施しただけのサタ800形として竣工後、同年7月に和歌山向き運転台設置及び機器整備の上で改めて制御車のクタ800形801 - 804として竣工した。元々非電化であった筑波鉄道は、路線延長と電化を計画して1925年から1927年にかけ9両の木造客車を増備した。この客車2形式(ナハフ101形101 - 105、ナロハ201形201 - 204)は、当初から電車と同様の車体構造で製造されており、台車も電車用のTR14を装着していた。このため必要があれば電装品を搭載して電車に改造可能であった。製造は日本車輌である。しかし不況で路線延長は計画倒れとなり、また路線近傍の柿岡にある地磁気観測所での観測に直流電化が悪影響を与えるという理由で、電化計画も頓挫した。このため、新造された電車形客車は終始蒸気機関車に牽引されて運転された。その後、1937年に至って筑波鉄道は中型ガソリンカー3両を導入し、運行の合理化を図った。この結果余剰となって整理された電車形客車のナハフ102、ナロハ201・202・204が車輛統制会の仲介で阪和に譲渡され、電車に改造されることになった。他に相前後してナハフ101、ナロハ203は三河鉄道(のち名古屋鉄道三河線)に転じ、やはり電車化されている。車両不足になりつつあった時期とはいえ、当時の東海道本線に匹敵する高規格路線を擁しており、しかも破格の高水準な車両を運行していた阪和が、わざわざ前時代的な木造車を導入した背景には、日中戦争の長期化により都市部で軍需関連工場等への通勤客が急増していたことがあげられる。阪和は全通直後の1931年度には39両の旅客車でのべ9,848,195名の輸送実績があったが、これが1937年度には47両で21,345,182名、つまり車両数の20%増に対して乗客数が117%増と文字通りの激増を示しており、車両増備は急務であった。しかも、元来高頻度高速運転を実施し運用効率が高く設定されていたことや、保守陣も兼務で合理化や効率化が図られていたことが祟って、この時期には特に電動車の故障が続出しており、定期列車運行数ぎりぎり、つまり予備車無しの綱渡り状態での車両のやりくりを強いられていた。そこで同社は1938年以降30両の車両増備を計画し、鉄道省をはじめとする監督官庁に申請を実施したが、折り悪くこの時期阪和には国家買収や南海との合併問題が浮上していた。このため、その状況の推移を確認してから認可手続きが実施された結果、認可に平時の4倍 - 7倍強、時間にして9ヶ月から約1年半という、急を要する車両増備には致命的なロスタイムが発生してしまった。しかも、全車が全鋼製の大型大出力車である阪和の場合、上述の通り特注扱いのTDK-529Aをはじめ代替品調達手段の存在しない部品が電装品を中心に多く含まれ、戦時体制への移行で資材難が深刻化する中で、部品を揃えて電動車として竣工するまでには更に長い時間を要することとなった。この危機的な状況の打開策として国が行ったのが、地方の中小私鉄などで余剰になっていた車両を都市部の私鉄に斡旋する、という施策の適用であり、当初阪和には筑波鉄道の4両以外にも、鉄道省から雑形客車1両の払い下げが実施された。もっとも、こちらは高速運転に耐えられなかったらしく、一旦サタ850形851として認可申請を行い認可は得たものの、結局使用せずに富士山麓電気鉄道へ売却している。本形式はモヨ・モタと編成を組んで運転されたが、日本の木造電車でこれほど極端な高速走行路線に充当された例は、営業運転では希有であろう。なお、これら4両についても制御車化後に自動空気ブレーキとしてU-5弁使用のACUブレーキが搭載されているが、これは日本における木造車に対するU弁搭載の唯一の例であり、この事実から本形式は木造車でありながら他の制御車と区別無く、同一の運用に就いていたことが判る。ただし客用の自動扉の操作は手動扉の本形式からはできなかったため、本形式が列車の最後部になった場合は車掌は1両前の車両に乗務していた。阪和が製造した電気機関車2形式、荷物電車1形式は、いずれも個性の強い車両群であった。共に日本車輌製造製で東洋電機製造製の電装品を搭載した。なお、南海合併後に電気機関車1形式が新たに製造されている。モヨ・モタなどの大型電車群と並んで阪和電気鉄道を代表する本線貨物列車牽引機で、1930年に2両、翌1931年に1両が増備された。50t級、B-B軸配置で13m級箱型車体の、昭和初期の私鉄機関車としては大型な車両である。一般には戦後、国鉄が付番した形式称号である「ED38形」の名で広く知られている。なお南海合併後の戦時中にも1両の増備が行われたが、車体は1942年に完成したものの戦時で電装品手配が遅れ、竣工は国家買収後の1944年6月30日になった(買収後ながら車号は当座ロコ1004で出場した)。詳しくは、阪和電気鉄道ロコ1000形電気機関車の項目を参照のこと。30t・B-B軸配置の入換用小型凸型機関車で、1930年に1101号の1両のみ製造された。天王寺駅構内での国鉄との貨車授受作業に充当される車両で、駅構内の省線との連絡線にある33/1000勾配に備えて発電・回生ブレーキを装備している。全長約10m、コンパクトかつ機能的にまとまった好ましいデザインの小型機関車であり、妻面に乗降扉を設けたため、ボンネットが前後互い違いにオフセットしている。風変わりな点は、1500Vの高圧直流車でありながら、600V仕様の路面電車などと同様、直接制御方式を用いていた点である。通常ならばこのクラスの高圧では間接制御方式を用いるのが普通だけに特異であるが、これは使途が貨車授受と構内入換であり、タイトな構内配線と急勾配の連絡線という厳しい使用線区の条件から、間接制御器では不可避のノッチ操作に伴うレスポンス遅延を嫌ってあえて採用したものと推測される。この機関車の入替機としての性能は非常に優秀であり、戦後天王寺駅での貨車の授受が不要となって用途を失い、近江鉄道に譲渡されて以来、21世紀に至るまで同社で入換用として長く愛用され続けた。現在は車籍がないため本線走行はできないが、機械扱いとして残されている(駅構内・側線の移動は可能)。諸元1929年の開業時に日本車輌でモカ2001・2002の2両が作られた荷物電車で、13m級両運転台ボギーの有蓋電動貨車とでも言うべき存在である。側面に片寄せられた2枚の引き戸を備えた重々しい形態の車両で、小単位の貨物列車牽引にも用いられた。1943年に1151の1両のみ製造された、いわゆる東芝40t標準型と呼ばれるタイプの凸型車体の電気機関車である。翌1944年の国家買収時に南海が引き揚げた。詳細は南海ED5151形電気機関車を参照されたい。1944年の山手線国家買収時、南海鉄道は買収リストに掲載の無い山手線用予備機材を悉く引き上げた。本来南海本線に投入すべきものも含め、資材を最優先で山手線に投入していたことが原因であるが、ストックされていた予備の三菱P-900-Aパンタグラフなど、明らかに南海では不要な機材までもが撤収され、住之江検車区などに保管された。国鉄に買収された私鉄路線の在来電車は、多くが小型車・低出力車で、使用機器も標準的なものではないため国鉄では使いにくく、早期に廃車されるのが普通であった。しかしながら阪和形電車に関しては、全長以外、標準的な国鉄形電車を凌駕する大型・大出力車であり、かつ、車両数も70両以上が揃っていたために唯一例外扱いとなった。これらは阪和線からの転出を免れて国鉄籍を保ち、戦後しばらくも旧阪和時代からの形式称号を暫定的に名乗っていたが、1953年の称号改正で一旦、モハ2200ほか(制御車はクハ6200ほか)の私鉄買収車4ケタ称号を与えられた。その後、1959年には新性能電車の増加に伴う国鉄電車全体の全面的な形式称号の整理・改番で空いた20番台が割り当てられて「クモハ20・クハ25形」とされ、国鉄制式車と完全に同格の扱いとされた。なお、この形式称号は、この年に阪和超特急の速度記録を破った「こだま号」用国鉄特急形電車151系の旧形式称号と同じ番号帯が割り当てられたものであったが、本来は17m級鋼製電車への割り当てを想定した番号枠である。これには、20m車を標準としていた国鉄では、19m級の阪和型電車は17m車に準ずるものとして取り扱われていた背景がある。この間、制御装置やブレーキ、パンタグラフなどは開業以来の酷使で南海時代から引き続き故障が頻発したが、これに加えて国家買収時の南海による部品引き揚げ措置などの悪条件もあり、補修部品は不足した。また運用面から、新たに阪和線に転入してきた国鉄標準車との混結の必要性も生じており、当時阪和線を所轄した大阪鉄道局天王寺管理部(天鉄、のち天王寺鉄道管理局)は再三に渡りその窮状を、膨大な量の故障記録を付して国鉄本社に訴えていたほどであった。これらの問題を解消するため、1950年代以降、各機器の国鉄制式品への換装工事が順次実施され、以下のような交換措置によって、故障頻度の大幅な低下と国鉄標準車との混用による運用効率の向上が実現した。上述の国鉄制式車と同格の形式称号への「格上げ」も、この標準化工事の完了に伴って実施されたものであった。このうち、主制御器は一旦CS5へ換装された車両もその後CS10系へ変更しており、最終的にCS10・10Aで揃えられた。これは保守を担当する鳳電車区が阪和電鉄開業時のES-504-A以来、長年にわたって電動カム軸式制御器の保守を続けていてこの複雑な構造の制御器を熟知しており、特に初期には故障が多く他区では敬遠されがちであった新型のCS10系を抵抗無く受け入れたことと、CS5・10の混在はCS5搭載車の反応の遅れから加速時にCS10搭載車に負担をかけ、乗り心地のみならず保守面でも好ましくなかったことによるものである。これは以後、阪和線に70・72系といったCS10系制御器搭載車の投入が積極的に実施され、阪和形電車の淘汰に先駆けてCS5を搭載する43系電車の転出が早期に実施される一因となった。なお、主電動機については特に換装の必要が無く、また換装に適当な性能の制式電動機も存在しなかったため、オリジナルのTDK-529-A(端子電圧750V時定格出力150kW)がそのまま使用され続け、これにはMT900という国鉄形式が与えられた。また台車もオリジナルのKS-20・D-20・T-20・H-20・N-20がひとまとめにしてDT28と付番の上で引き続き用いられた。その後、ラッシュ対策としての2扉車の3扉化、両運転台車の片運転台化、スチールサッシの木枠化、客用扉のプレスドア化、狭かった運転台の奥行き拡大工事、運転台窓のHゴム固定化、通風器のグローブ形ベンチレーター化など同世代の国鉄制式電車に実施されたのとほぼ同等の内容で、改造工事が車体の内外に施された。更に塗色は最終的に朱色1号一色となり、往年の洗練されたスタイリッシュなフォルムは次第に崩されてゆき、最終的には見るも無惨な状態になった。だが、買収国電でここまで徹底した改修工事を施されて使い伸ばされた車両は他になく、国鉄当局の阪和形電車に対する評価の高さと、買収後の重用ぶりが窺えよう。一時制御車の一部について片町線での運用例もあったものの、国鉄制式車より大きな車体幅や自重などの要因もあって、阪和線以外の他線区への転用は難しく、全車がほぼ一貫して古巣の阪和線で運用され、1968年まで国鉄に在籍した。この内、1966年に除籍された元モヨ100形のクモハ20形2両は、1968年に客貨分離をもくろんで強力な電動車を求めていた松尾鉱業鉄道に払い下げられ、モハ201・202として国鉄花輪線から乗り入れるキハ52形気動車を牽引して急勾配を登坂するようになった。もっとも、公害対策による回収硫黄の普及で経営難に陥った松尾鉱山の倒産→閉山に伴う旅客営業休止(1969年)によってわずか1年で休車となり、しばらく車庫に置かれていたが、1971年には弘前電気鉄道合併に伴う車両体質改善のために適当な中古車両を探していた弘南鉄道に譲渡され、同社弘南線に移籍した。この時、弘南線の橋梁荷重制限と変電所容量の制約から出力ダウンと軽量化が求められ、同線在籍のモハ2250形(元富士身延鉄道)との間で台車交換を実施し、片運転台化の上でモハ2025・2026として就役した。これに伴いDT28(KS-20)を装着したモハ2250形2両は過剰出力のMT900を下ろしてクハへ改造され、下ろされたMT900は8台とも平賀車庫で解体処分されている。その後、これら最後の阪和形電車2両は弘南線で収容力の大きさを買われて主力車として重用され、1978年の弘南線への東急3600系の大量導入時に電装解除が実施されて制御車へ改造されたものの、1980年代末の東急7000系導入時まで現役として使用され、ここで60年に渡る波乱に満ちた車歴に終止符を打った。廃車後の処分は2両共解体で、これにより阪和電鉄・南海鉄道山手線由来の旅客車は全車消滅となっている。またクモハ20103は、廃車後暫く鷹取工場で保管され、その後構内入替車として使用されたが、数年間使用ののち解体された。木造車のクタ801 - 804は、阪和の南海合併後に南海本線に転属しており、国家買収の対象から外れた。戦後の短期間に電車不足による蒸気機関車牽引の列車運行が南海高野線で行われた際には、これらは再び客車代用の付随車サハ3801形として蒸気機関車に牽引された。南海合併後の詳細は南海サハ3801形(初代)を参照されたい。国鉄阪和線を中心に戦後も使用され、1960年に国鉄での使用を終えた。しかし大井川鉄道や秩父鉄道へ譲渡され、秩父鉄道では1981年まで使用されて休車の後廃車となった。現在、1両が三峰口駅付近に静態保存されている。詳しくは阪和電気鉄道ロコ1000形電気機関車の項目を参照のこと。ロコ1101は形式変更のないまま1950年廃車、1951年7月に近江鉄道に譲渡された。同社でも低速小型のため本線運用はほとんどなく、主として近江セメント彦根工場内入れ替え車として1986年まで用いられた。以後は近江鉄道彦根工場構内での入れ替え作業を行う程度であった。同車は構造上ATSの装備が困難であり、このため近江鉄道全線のATS完全化工事の完成した2000年以降は本線走行ができない状態となっている。その後2004年7月1日に除籍されたが、以後も彦根工場にて車籍無しの機械扱いとして入替に使用されている。モカ2000形は国鉄買収時は電気機関車扱いとされていたが、1947年に電車としての扱いに変更されている。1953年3月に阪和線鳳から宇部線の宇部電車区に転属、同年6月の称号改正でモニ3200形モニ3200・3201となったが、3200は1954年に国鉄豊川分工場の入れ替え車に転用された。3201が1958年、3200が1959年に廃車されている。
出典:wikipedia
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