大橋 巨泉(おおはし きょせん、1934年(昭和9年)3月22日 - 2016年(平成28年)7月12日)は、日本のタレント(テレビ番組司会者、ラジオパーソナリティ)、放送作家、エッセイスト、評論家(競馬評論家、音楽評論家、時事評論家)、馬主、政治家(参議院議員)、実業家・芸能プロモーター(オーケープロダクション=旧:大橋巨泉事務所創業者・元取締役会長兼エグゼグティブタレント、オーケーギフトショップグループ取締役社長)。オーケーエンタープライズ所属。本名:大橋 克巳(おおはし かつみ)。芸名の「巨泉」は元々は自身の俳号である。多くの芸能人や関係者が「巨泉」「巨泉さん」と呼び、「大橋(さん)」と呼ばれることは皆無に近い。MBS・TBS『世界まるごとHOWマッチ』では「巨ちゃん」と呼ばれたことがある。また、フジテレビ『クイズ!ヘキサゴンII』にゲスト出演した際には「キョンキョン」と呼ばれたこともある。東京府東京市本所区(現:東京都墨田区)両国生まれ。千葉県に育つ。祖父は江戸切子の名人・大橋徳松(岐阜県出身)。実家は両国でカメラの部品製造・小売を生業とする「大橋商店」を経営していた。同じく実家がカメラ屋の萩本欽一とは店同士取引があり、幼い萩本と巨泉はその当時からの知り合いである。巨泉の実家製作のカメラ「ロールライト」の現存する2機は萩本とすぎやまこういちが所有している、とも語っていた。本所区立江東尋常小学校(現・墨田区立両国小学校)を経て、1943年7月から千葉県山武郡横芝町に疎開、横芝国民学校4年に編入。敗戦直後、横芝の自宅で叔父が所有するジャズレコードを見つけアメリカへの憧れが強くなる。1946年、千葉県立成東中学校 (旧制)に入学。1947年、東京両国に引き揚げる。アメリカへ行くには英語の習得が必要と考え、当時朝鮮戦争の特需もあり、家業のカメラ商売に役立つと親を説得しアテネフランセ英語科で英語を学ぶ。日本大学第一中学校・高等学校を卒業し、ジャーナリストになってアメリカへ行こうと早稲田大学政治経済学部新聞学科(後に廃科)へ進学するも中退。大学生の頃はほとんど勉強をせず、テストではカンニングをしていたという。大学卒業を諦めた理由は、当時の大学は1年次から2年次にかけて教養課程があり、人文科学系や社会科学系に加えて自然科学系科目も必修だったのだが、苦手な理数系科目での単位取得が望めなかったためである。後に「早稲田大学を中退したタレントは出世する」という伝説のはしりとなった。早稲田大学の学生時代から当時ブームだったモダンジャズ、コンサートの司会者として活躍していた。なお、早稲田大学在学中に俳人としての活動もしており、「巨泉」という芸名はこの時期に付けた俳号で、戦前の郷土玩具画家である川崎巨泉とは関係ない。アイデアが泉のように湧き出るようにと、最初「大泉」を考えたが、それでは、名字も名前も大がつくので、大の巨人ファンということから大を巨に変えて「巨泉」となった。2年後輩の寺山修司と出会った時に「こいつにはかなわん」と思って俳句の道から足を洗ったという。また1956年頃には、主にラジオ・テレビの音楽番組評論をする時のペンネームとして「池間 仙也」の名前も使っていた。最初の妻マーサ三宅と結婚後、中野区野方へ住まいを移し、実家の大橋商店に勤め始めるも「自分にはサラリーマン生活は無理」とすぐに辞める。ジャズ喫茶に出入りするうち、ジャズ評論家・放送作家からテレビ司会者に進出、弁舌家のマルチタレントとして人気を得る。この方面では、やはり放送作家出身の前田武彦と人気を二分し、この2人で日本テレビ『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』の司会を務めた。放送作家としてテレビの裏側にいた巨泉が、テレビ出演という表舞台に進出するきっかけになったのは『11PM』の開始だった。新番組の感想をディレクターに尋ねられた巨泉は「麻雀、競馬、ゴルフ、釣りなどの遊びを取り上げてみたら」と提案した。当時はテレビにとってギャンブルはまだタブーだった時代にもかかわらず巨泉の提案は受け入れられた。しかし、そのコーナーの進行役を務める適任者が見当たらなかったため、ディレクターは巨泉自身に出演をもちかけ、コーナー司会者として起用された。その後、番組全体の司会者であった小島正雄の急逝もあり、巨泉がメイン司会を務めることになった。1960年代から1980年代にかけ、テレビデビューとなった日本テレビ『11PM』や、TBS『クイズダービー』、MBS・TBS『世界まるごとHOWマッチ』などの司会で名を馳せる。「野球は巨人、司会は巨泉」のキャッチフレーズ通り、競馬や野球、麻雀の評論でも活動し、ニッポン放送『大橋巨泉の責任プロデュース 日曜競馬ニッポン』のメインパーソナリティーも務めた。その後、1990年3月に「56歳になったし、身を引いて司会業は長くやるものではない!」とTBS『ギミア・ぶれいく』以外のテレビ・ラジオのすべてのレギュラー番組を降板し、メディア業界から「セミリタイア」(後述)した。特に『クイズダービー』内で巨泉は女性出演者に対して、よく下の名前で呼んでいた。例として、長年の「4枠」レギュラーだった竹下景子には「けいこちゃん」、2枠レギュラーだった山崎浩子には「ひろこ」など。ただし、山崎の後の2枠レギュラーだった井森美幸に対しては、「みゆき」よりも上の苗字の「イモリ」で呼ぶことが多かった。また2015年5月に放送された「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」内の、クイズダービー復活版(巨泉の生前最後の同番組特番司会)でも、当時既に61歳となっていた竹下に対して「けいこちゃん」と呼んでいた。番組共演者にニックネームを付けるのを得意としていた。『クイズダービー』では、黒鉄ヒロシには「裏切りたぬき」、篠沢秀夫には「教授」、はらたいらには「宇宙人」、竹下景子には「三択の女王」、常連ゲストの松崎しげるには「クイズの帝王」とそれぞれ付けた。また『世界まるごとHOWマッチ』では、石坂浩二には「兵ちゃん」(本名の武藤兵吉に因む)、ケント・ギルバートには「ネギルバート」(「値切る」と「ギルバート」の語呂合わせ)、チャック・ウィルソンには「ケチャック」(「ケチ」と「チャック」の語呂合わせ)とそれぞれ付けた。このようによく出演者にニックネームを付けて呼ぶというやり方は、前田武彦に倣ったものであった。また「11PM」ではお色気だけでなく硬派の社会ネタ「巨泉の考えるシリーズ」が月曜日を中心に行われており、当時のプロデューサーがたまたまアメリカ合衆国での福祉取材中に見た「レイバー・デイ・テレソン」をヒントに、「考えるシリーズ」内で行われた「世界の福祉」を取り上げた番組からの派生企画として「24時間テレビ 「愛は地球を救う」」に発展。日テレ開局25周年記念の目玉企画として行われた記念すべき第1回放送(1978年8月26日-8月27日)で、萩本欽一、ピンク・レディーらとともに総合司会を担当している。1973年、カナダのバンクーバーに日本人観光客が日本語で買い物できる土産物店「オーケーギフトショップ」を開店し実業家に転進。その後、バンフとナイアガラ、オーストラリアのゴールドコーストとケアンズ、ニュージーランドのオークランドとクライストチャーチ(2011年にクイーンズタウンへ移転)にも店舗を開店し、幾多の倒産の危機を乗り越え、7店舗まで事業を拡大した。湾岸戦争、アメリカ同時多発テロ事件、クライストチャーチ地震などの影響があったものの、同店舗のみ取り扱う限定商品の販売、大手旅行代理店とのタイアップ(来店粗品や割引が効くクーポン券の配布)、日本語の通じる店員が常駐するなどの面で評判が良く商売は軌道に乗っている。オーケーギフトショップは、カナダ以外にもニュージーランドとオーストラリアに進出している。これはカナダとは季節が逆の南半球に出店することで、観光客が激減する冬季の売上を補う必要があったためだという。一方で、隣国アメリカには地元からの強い要望があったにもかかわらず出店していない。巨泉はその理由として「アメリカは銃犯罪などの治安がものすごく悪化していたため、自分の店の中でお客様、従業員に銃口が向けられるのをひどく恐れたためである」と述べている。なお、「オーケー」の名は大橋巨泉および創設以来の協力者の名前からとられており、日本のスーパーマーケット「OKストア」とは関係がない。競馬評論家としても積極的に活動していた。「プロの調教師が出してくる以上、八分以上の出来」にあるとして、出走各馬の調教を見ないで予想したことから、書斎派の筆頭格であった。サンケイスポーツや、1980年代後半まで「巨泉でバッチリ」のタイトルで競馬エイトの競馬予想のコーナーで執筆していたほか、『中央競馬ダイジェスト』(フジテレビ系・土曜深夜放送分)や『日曜競馬ニッポン』(ニッポン放送)に出演していた。また、巨泉は当時、競馬ファンに最も影響力を持つ論客としても知られていた。ファン目線での評論が多く、しばしば競馬界全体を批判することもあった。その最たる例は第1回ジャパンカップにヨーロッパの馬を招待しなかったことに対して、「何故、イギリスやフランスなどヨーロッパ先進国から呼ばないのか?」と日本中央競馬会(JRA)の機関誌『優駿』やサンケイスポーツで批判したことである。「府中の千八、展開要らず」、「競馬は所詮いい加減なもの」いう競馬格言は、巨泉が作ったものとされている。血統と展開と騎手で推理し、しばしば長距離の逃げ馬を的中させていた(トーヨーアサヒが勝った1973年のダイヤモンドステークスなど)。谷岡一郎が「本命2000円、対抗1000円、穴・大穴・枠流し500円」で巨泉の予想と結果をGIレースのみ計算した結果、戻って来る金は賭け金の80.83%であった(谷岡一郎『ツキの法則』)。これでは負け越しだが、競馬の控除率が25%前後であることから、平均してそれ以上の戻りがあった巨泉の予想を優れたものと結論づけている。また中央競馬の馬主でもあり(本名の大橋克巳、オーケー商事名義)、1973年には所有馬ロックプリンスが東京優駿(日本ダービー)に出走している(27頭中11着)。「タケシツービート」という名前の馬も所有していた。シンボリ牧場オーナーだった和田共弘、騎手・調教師だった野平祐二と親交が深く、スピードシンボリが海外遠征した際には、ロンシャン競馬場(フランス・パリ)へ両者と行動を共にした。また、ダービーに出走する競走馬を登録するために馬主が支払う登録料の増額を実現させたのも巨泉である。かつて登録料の上限が1万円だった頃、「1万円だったらまあいいや、みたいなダメもと出走が出て来てレベルが下がる」と苦言を呈し、レースのレベルを高め、本当に勝ちたい馬だけが出走できるように仕向けて競馬法の改正、登録料増額につなげた。1988年に競馬評論から引退した。引退のきっかけとなったのは、1988年の天皇賞(秋)の「オグリキャップとタマモクロスの一騎討ちムードの状況で、登録料が1万円と安いから勝負になりそうもない馬が何頭も出てきている」といった内容を巨泉が当日のラジオの中継で話したことが発端であった。それに対し、同競走にレジェンドテイオーを出走させていた美浦の田村駿仁調教師(当時。後に勇退)が『週刊競馬通信』(競馬通信社)に「大橋巨泉氏に物申す」と題する抗議文を送付し掲載された。それに対し巨泉がサンケイスポーツのコラムで反論し、さらに田村が反論するという論争にまで発展した。そうしたやりとりの中で巨泉は競馬サークルの閉鎖性やぬるま湯体質に失望し、サンケイスポーツ紙上にて休筆を宣言。やがて競馬評論家をセミリタイアするに至った。セミリタイア後、2006年に『keiba01』(ケイバゼロワン、2006年12月20日発行)誌上において約20年ぶりに競馬をテーマに「シンザンとスピードシンボリ」と題するコラムを執筆した。2009年の著書『やめたら』では、三連単馬券について言及し、「三連単はギャンブラーの射幸心を煽る」と反対、否定的な考えを示した。また「マフィアのボスは三連単は買わない」とも言及した。また、三連複馬券や、馬単馬券についても同様に反対、否定的な見解を示した。ディープインパクトの引退が発表された際、ファン、記者などのマスコミとも「来年も走ってほしかった」という意見が多勢だった中、巨泉はただ一人「あんな小さい体で来年も現役だの、海外遠征だの冗談じゃないよ!!」と陣営の引退の判断を支持した。その他、藤田伸二騎手の著書「騎手の一分」の感想を週刊現代の自身のコーナー「今週の遺言」(2013年7月8日発売号)で述べたりもしていた。「セミリタイア」は巨泉が出演中の『ギミア・ぶれいく』以外の全番組を降板する際の記者会見で使った表現で、完全に芸能界・放送界と縁を切る「リタイア」ではないことを強調したものである。なお巨泉は50歳には「セミリタイア」をする人生設計を描いていたが、各方面からの慰留、また49歳の時に司会を始めた『世界まるごとHOWマッチ』に本人の意向で起用した石坂浩二やビートたけしとの絡みが楽しかったこともあり、56歳まで仕事を継続した。その後「セミリタイア」は、早くから蓄財しておき仕事が好調の内に辞め、悠々自適に過ごしながら余裕のある時に仕事もする、という意味合いの言葉として定着しているが、これに勿論巨泉の、絶頂にも係わらず仕事をすっぱりと終わらせたことと、以後の生活スタイルが源泉である(なお、同じような形で芸能活動の一線からのリタイアをした司会者としては上岡龍太郎や芳村真理らがいる。いずれも巨泉と同じく司会者の大御所として絶頂を極めていた50代でリタイアを宣言している)。2001年に、当時民主党幹事長・菅直人が出馬を依頼。これを受け、最大野党民主党から第19回参議院議員選挙の比例代表候補として立候補した。当時、既に外国暮らしをしていて「選挙運動のために帰国するつもりはない。党の方で選挙運動をして、私を当選させておいてくれ。」と言っていたが、さすがに反発が強く、帰国して選挙運動をして、党内第1位で当選(小泉フィーバーで自民党圧勝)。当選後すぐにアメリカ同時多発テロ事件が起き、これをきっかけに安全保障問題をめぐっての当時民主党代表・鳩山由紀夫ら当時の党執行部との考えの違いが鮮明になる。アメリカ同時多発テロ事件を非難する国会決議には、「アメリカを支持する」との文言を理由に民主党でただ1人反対。また、インド洋への自衛隊派遣に伴う事後承認にも反対するなど、短期間でいわゆる「造反」を連発した。また、8月6日の民主党両院総会では、巨泉は鳩山に「社会主義インターナショナルに加盟しセンターレフト(中道左派)の党としての性格を鮮明にせよ」と迫ったが、鳩山から「民主党のコンセンサスではない」と却下されている。こうした党との意見の違いによりわずか6か月で辞職。これに伴い、ツルネン・マルテイが繰り上げ当選した。辞職の弁では「日本の民主党がこれほどまでに反民主的な集団とは思わなかった」と述べた。辞職会見の時には、旧社会党系の民主党議員や社会民主党の女性議員が「巨泉さん辞めないでください!」と辞職する巨泉を止めようと説得する場面があった(この時は、福島瑞穂や辻元清美などの議員もいた)。この時巨泉は「僕は辞めると言ってはいないんです。辞めたのです」と説得する女性議員に向かって述べた。比例代表で当選した議員がその党の路線への不満を理由に辞職することについて各方面から批判された。当時官房長官の福田康夫は会見で「職場放棄だ」と批判した。後に巨泉が語ったところによると、中村敦夫らが結成したみどりの会議への移籍を一時真剣に考えたという(みどりの会議は選挙時に存在しなかったため、比例選出の議員でも移籍は可能だった)。また、当時党内で巨泉と意見が近く、鳩山らの執行部とも度々対立していた横路孝弘・赤松広隆・生方幸夫ら横路グループがもしも離党、新党結成へと踏み切っていたなら共に参加しただろうとも述べている。議員辞職後は、民主党を強く批判するスタンスを取っていたが、その後再び民主党に歩み寄る姿勢を見せ、民主党政権の誕生を望んでいるような発言もしていた時期もあった(後に民主党は政権を握ることになった)。ただし、一方で民主党が保守に寄り過ぎているという認識は同じで、民主党が自民党化することに警鐘を鳴らしている。そのため、2009年第45回衆議院議員総選挙では、民主党の“勝ち過ぎ”を警戒し、社会主義的な理念を持つ政党が一定の影響力を持つことが必要として、比例区では社民党か日本共産党に投票するよう勧めている。11月から翌年4月までオーストラリアとニュージーランドに、6月から9月までカナダに滞在し、経営するギフトショップの管理の傍ら、ゴルフを楽しむなどの生活を送っている。この太陽の動きに合わせ居住地を移動する生活形式をひまわり生活と呼んでいる。日本に帰国するのは5月と9月から10月末までの約3ヶ月間だけで、この期間はバラエティ番組にゲスト出演している。外国がとても好きなようだが、以前、TBS『ベストタイム』に出演した折、寿司を食べてビールを飲んでご満悦の様子で「日本人でよかった」とコメントした。海外移住先をハワイではなくカナダ、オーストラリア、ニュージーランドにした理由について、井原高忠がハワイに移住したがハワイは物価が高く、ゴルフ場料金も高いため老後の移住先として不適格と判断したため。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの順で永住権(永住資格)を取得している。「バラエティは生放送じゃなきゃ駄目。今の番組はすぐにスタッフの意向でハサミを入れる(カットする)から、出演者の面白さが全部切り取られている」「映画は監督のもの、テレビはホストのもの」が口癖。なお、本人も日本に帰ってきた際、オファーがあれば収録番組にも出演するが、実際自身が視聴する番組は生放送の番組だけだという。メジャーリーグベースボール(MLB)評論家としても知られ、日本のMLB通タレントでもあり、メジャー30球団の選手名鑑を発売する程精通している。また、アメリカンフットボールにも造詣が深く、参議院選挙出馬前は、NHK BS1でNFL中継の解説を担当したこともある。サンフランシスコ・フォーティナイナーズのファンを公言していた。2005年5月9日、『笑っていいとも!』「テレフォンショッキング」に出演。2009年2月12日、同年4月にオーケープロダクションが設立40周年になるのを期に、オーケープロダクションがイーストの完全子会社となり、それと同時に巨泉自身もオーケープロダクションの取締役会長を退任した。2013年10月13日、次女の豊田チカと共に横浜ジャズプロムナードに出演。2005年5月、胃癌を患っていたことが判り、6月に摘出手術を行った。2013年11月、中咽頭癌を発症し摘出手術を受ける。2014年11月、肺と食道の間にある「縦隔」のリンパ節に腫瘍が見つかり、放射線治療を受ける。2015年5月18日、肺癌の手術を受け、右肺の約3分の1を摘出。2015年10月14日、縦隔のリンパ節に2か所発見された腫瘍の除去手術を受ける。手術から5日後の10月19日にはゲストとして『徹子の部屋』の収録を行った(11月2日放送分)。2015年11月3日、腸閉塞の疑いで入院。13日にいったん退院した後、27日に再び入院、30日に開腹手術を受けた。軽い腸閉塞で、がんの転移もなく、手術は成功した。12月9日に退院。21日放送のTBSラジオ『六輔七転八倒九十分』へのゲスト出演が予定されていたが、リンパ節除去手術の影響で声がかすれることから出演を見送った。その後、2016年2月4日放送分の『徹子の部屋』に永六輔とともにゲスト出演している。2016年2月には左鼻腔内に新たな癌が見つかり、外科手術を避け、抗がん剤および放射線による治療を行った。その後も闘病しながら活動を続けていたが、体力の低下を感じて2016年3月27日に入院、4月5日に一旦退院して在宅介護に切りかえたものの、在宅介護の医療機関によるモルヒネ系鎮痛剤の誤投与により極端な体力減退に陥って4月11日に都内の病院に緊急入院し、5月下旬には集中治療室に入っていた。週刊現代で連載していたコラムも6月27日発行号掲載分で容態悪化を説明し「気力も体力もない」と連載を終了 。2016年7月12日午後9時29分、急性呼吸不全のため、入院先の千葉県の病院で死去した。。法名は、「巨泉院釈克導」(きょせんいんしゃくこくどう)。通夜と葬儀は親族のみで済ませ、9月5日に「大橋巨泉を偲ぶ会」を開催された。2月に『徹子の部屋』で共演した親友・永六輔は7月7日に他界。公表されたのは巨泉の死の前日の11日であった。巨泉の訃報に際し急遽7月20日放送の『徹子の部屋』では、2月4日放送の永六輔と出演した放送分を放送した。巨泉の訃報を受け、芸能界では追悼のコメントが多く寄せられた。『クイズダービー』のレギュラー解答者として巨泉と共演した篠沢秀夫は「巨泉さんは大物で真の天才です」、竹下景子は「私のコンサートや舞台、ドラマにもよくダメ出ししてくれた」とそれぞれコメントした。また『世界まるごとHOWマッチ』で共演した石坂浩二は「たくさんの巨泉さんの姿と言葉が頭の中を巡っています」とコメントし、ビートたけしは「長嶋(茂雄)さんと王(貞治)さんがジャイアンツの全盛期だとしたら、テレビの全盛期は大橋巨泉じゃないかって」と7月23日放送の『新・情報7days ニュースキャスター』で語った。お別れの会は2016年9月5日に「大橋巨泉さんを偲ぶ会」と題して東京都港区のグランドプリンスホテル新高輪で営まれた。偲ぶ会には黒柳徹子、王貞治、石坂浩二、ビートたけし、タモリ、関口宏、竹下景子、小倉智昭、菅直人ら芸能・スポーツ・政財界から約600人が参列し、弔辞は黒柳、王、関口が読み上げた。偲ぶ会が行われた会場には、「思い出コーナー」と題した、巨泉が司会を務めた看板番組『クイズダービー』と『世界まるごとHOWマッチ』の番組セットが復刻展示された。1956年にはジャズ歌手のマーサ三宅と結婚。2女をもうけたが、1964年に離婚。1969年、14歳年下で当時アイドルであった浅野順子(デビュー当初の芸名および本名(当時)は、浅野寿々子)と結婚(巨泉は2度目で浅野は初婚)。巨泉35歳、浅野21歳での結婚は“少女誘拐”とマスメディアに騒がれた。ジャズ歌手の大橋美加(長女)とチカ・シンガー(次女)は、マーサ三宅との間の娘。浅野順子との間には子はいない。タレントの大谷瑠奈は孫(美加の娘)である。なお、彼女を含めて5人の孫がいる。姪には大橋ひろみがおり、フジテレビ『クイズ!知ッテレQ』のレポーター、日本テレビ『クイズ笑って許して!』の2枠解答者として出演した他、1984年秋には伯父の巨泉と「CFカード」のCMにも出演した。また、実弟の大橋哲也はオーケープロダクションの社長を務めた(現在は同社相談役)。1960年代後半から1970年代初めにかけては、多くのレギュラーを抱えていたが、OKギフトショップを開業した頃から、主要なものを除き司会番組をセーブするようになった。巨泉は歌手ではないものの、レコードを出すなど音楽活動は行っていた。主に競馬関連のコラムをスポーツ新聞各紙の中央競馬面に執筆していた。勝負服は緑、白一本輪、赤袖。当初は本名の大橋克巳名義、1987年頃からオーケー商事名義を使用した。所有馬には音楽関係の名前を付けることが多かった。晩年は中央競馬所属の所有馬はいなかった。
出典:wikipedia
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