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安土城

安土城(あづちじょう)は、琵琶湖東岸の安土山(現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)にあった日本の城(山城)。城址は国の特別史跡で、琵琶湖国定公園第1種特別地域になっている。安土城建設前の安土山(目賀田山)には、当時明智光秀の配下で、近江守護佐々木氏(六角氏)に仕えた御家人格の目加田(目賀田)氏の居城であり、観音寺城の支城であった目加田(目賀田)城があった。信長に安土城建設のための用地提供を要請された42代目賀田摂津守貞政は代わりの領地と、現在の目賀田城とを引き換えに目賀田山を信長に明け渡した。安土城は、織田信長によって、現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。建造当時は郭が琵琶湖に接していた。地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。総奉行は丹羽長秀、普請奉行に木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一があたった。この城を築城した目的は、岐阜城よりも当時の日本の中央拠点であった京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。城郭の規模、容姿は、太田牛一や宣教師の記述にあるように天下布武(信長の天下統一事業)を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。1582年(天正10年)、家臣明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後まもなくして何らかの原因によって焼失し、その後廃城となり、現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧した宣教師ルイス・フロイスなどが残した記録によって、焼失前の様子をうかがい知ることができる。日本の城の歴史という観点からは、安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり初めて石垣に天守の上がる城となった、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団「穴太衆」はその後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった、という点でも重要である。城郭遺構は安土山の全体に分布しており、当時の建築物では仁王門と三重塔が、現在 城山の中腹に所在する摠見寺の境内に残っている。また二の丸には信長の霊廟が置かれている。滋賀県は1989年(平成元年)から20年にわたって安土城の発掘調査を実施した。南山麓から本丸へ続く大手道、通路に接して築造された伝羽柴秀吉邸や伝前田利家邸、天皇行幸を目的に建設したとみられる内裏の清涼殿を模った本丸御殿などの当時の状況が明らかとなり、併せて石段・石垣が修復工事された。調査は当初予定通り2008年(平成20年)度の予算をもって2009年に終了した。20年間で調査が実施されたのは史跡指定面積の約20%(17ヘクタール)にとどまったが滋賀県の財政事情から事業継続には至らず、全域の調査(50年から100年必要とされる)は将来にゆだねられることとなった。高層の木造建築を建てる場合、中央に心柱を立てるのが多くの日本建築の特徴だが、安土城天主の礎石は中央部の1つだけが欠けている(他の礎石は全て現存している)。発掘調査では、中央に礎石が抜けた跡はないことが確認され、またそこに空いていた穴からは、焼け落ちた天主の一部と思われる炭とともに、壺のかけらのような破片がいくつも出土した。発掘時の推測では、この穴の上にはかつて仏教の宝塔があり(天守指図からの推測)、穴には舎利容器である壺が入っていたものと推測されている。通常の天守は日常的な居住空間としては使用されなかったが、概要の通り信長はこの天守で生活していたと推測されており、そのための構造と思われる。こういった高層建築物を住居とした日本人は、信長が初とも言われている。天主台南西の百々橋口付近に摠見寺がある。持仏堂や戦死者を弔う小堂などを持った城は各地に見られるが、堂塔伽藍を備えた寺院が建てられているのは、後にも先にも安土城だけである。しかも単に城郭内にあるだけでなく、百々橋口道(南西の入口からの道)から城への通り道が境内になっており、この入口から入った者が城にたどり着くためには、必ず摠見寺の境内の中を通り抜けなければならない。『信長公記』の記述から、この百々橋口道は通常時に城に入ろうとする者が使用するための道だったと推測されている。秀吉は観音寺山と長命寺山の谷から大石を引き出すため人足を集めた。石引きの歌声が天地にこだまする有様は、「昼夜山も谷も動くばかり」(『信長公記』「安土御普請の事」に津田坊が運ぼうとしたと記述)だったという。なかでも「蛇石」という巨石は五間余(約10メートル)、推定三万貫(約112トン)あったが、しかし引き上げる途中で綱が切れ、横滑りした蛇石に150人余が挽き潰された。その後蛇石は安土山頂まで引き上げられたはずだが、現在までに幾度の発掘調査を経ても、未だ発見されていない。一般的に宗教心が薄いとされる信長であるが、天守内部の宝塔(推定)や絵画、摠見寺の存在など、安土城には宗教的要素が多く見られる。安土城の本丸御殿は、天皇を迎えるための施設だったという可能性が指摘されている。主な根拠として、現在の清涼殿は東向きに建てられているが、この本丸御殿は西向きに建てられている(東西を逆にすると徳川版と重なるのはこのため)。城内の道というものは敵の侵入を阻むためになるべく細く曲がりくねって作られるが、安土城には籠城用の井戸や武者走り・石落としといった設備は著しく少ない。また大手門からの道は幅6mと広く、約180mも直線が続く。こうした事から、安土城は軍事拠点としての機能より、政治的な機能を優先させて作られたものと思われている。本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議の後入城するなどと、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡山城築城のため、1585年(天正13年)をもって廃城されたと伝わっている。前述したように、安土城天主及びその周辺の本丸等の建造物は、山崎の戦いの後まもなくして焼失している。ただし、焼失したのは天主や本丸などであり、後に織田秀信が二の丸に入城したように、城としては十分に機能していた。焼失の原因についてはいくつかの説がある。林屋辰三郎は3の説を挙げており、熱田公も「山崎の戦後の混乱の中で略奪に入った野盗の類が放火した、とみるのが自然であろうか」としている。高柳光寿は2の信雄下手人説を採用しており、『秀吉事記』の記事は信雄がまだ大勢力を有していた時期に成立したものであることから、秀吉と信雄との関係を顧慮して秀満のせいに仕立てられたのではないかと考証している。なお、加越能文庫の「松雲公採集遺編類纂」中の文書に、天正6年5月に一度天主が倒壊したとの記述があるが、他の資料にはその記録がなく、真偽は不明である。調査整備20年計画が1989年から2009年まで行われた。天主のその具体的な姿については長年研究が続けられており、多数の研究者から復元案の発表が相次いでいる。基本的には同時代人の記述にかかる「信長公記」や「安土日記」に基づき、イエズス会宣教師の記述を加味するところまでは一致しているが、解釈をめぐっては意見が分かれており未だ決着を見ない。その姿は5重6階地下1階で最上階は金色、下階は朱色の八角堂となっており、内部は黒漆塗り、そして華麗な障壁画で飾られていたとされる。信長が権力を誇示するために狩野永徳に安土城を描かせた金箔の屏風がアレッサンドロ・ヴァリニャーノに贈られ、彼の離日に同行した天正遣欧使節によりヨーロッパに送られて教皇庁に保管されているとの記録がある。それは安土城の姿を知る決め手の一つと考えられ、現在に至るまで捜索が行われているが、未だに発見されていない。ポルトガル人イエズス会宣教師であるルイス・フロイスは著書『日本史』に、天主に関して次のように記している。信長の家臣であった太田牛一は、天正7年1月『安土日記』に村井貞勝による天主に関しての記述を次のように引用して記している。ほかに、バチカンへ送られた屏風に描かれたとする安土城天主の一部と見られている建物をフィリップス・バン・ウインゲがスケッチしたものが残っている。また、加賀藩大工に伝わる「天守指図」等があり、それを安土城天主の平面設計図であるとし、内部には階層を貫く吹き抜けが造られ、地階に仏塔があったなどとする復元案(内藤昌案など)もある。以下は、様々な証拠や証言、文書の記述などを参考に各学者・研究者などより出されている復元案の一部または想像図の概要である。

出典:wikipedia

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