高座郡(こうざぐん)は、神奈川県(相模国)に所属する郡。以下の1町を含む。相模川(馬入川)と境川に挟まれた地域からなる。南北に伸びる相模平野の中心地域で、相模野台地の大部分を占め、南部は湘南砂丘地帯になる。中世末までは現相模原市津久井町三井および城山町北部(中沢、川尻ほか)も当郡に属していたが、江戸時代初期に愛甲郡北部と合わせて津久井県とされた(明治3年に津久井郡と改称)。かつて高座郡に属していた地域は現在以下の市となっている。古くは「たかくらぐん」とも読んだ。675年、『日本書紀』に相模国に関する最初の記録として「高倉郡」の名が見える。713年(和銅6年)の郡名変更命により、高座郡が定着したとされるが、のちに『和名抄』で「太加久良」と記されていることから、高座と書いて「たかくら」と呼んだ時代が続いたと考えられる。海老名市で発掘された国分寺跡から、国府が置かれていた可能性がある。また、茅ヶ崎市にある神奈川県立茅ヶ崎北陵高等学校が、古代高座郡の郡衙跡と推定されている。寒川町には相模国一宮の寒川神社が鎮座する。津久井郡(現:相模原市緑区)のうち、旧城山町の相模川東岸と旧津久井町三井にあたる地域(上川尻村、下川尻村、上中沢村、下中沢村、三井村)はもともと高座郡の領域であったとされる。南西部の相模川下流左岸の沖積平野や目久尻川、引地川、境川沿いの低地、南部の台地末端の谷戸は早くから開発が進み水田として利用された。国分寺や国府の所在が推定される現在の海老名周辺には条里制の遺構が見られる。これに対して当郡中央部から北部に広がる台地上は平坦ではあるが水を得ることが難しいために開発が進まず、「相模野」と呼ばれる原野となっていた。平安時代後期、南部の大庭御厨や東部の渋谷荘などの荘園が成立し(いずれも現藤沢市を中心とする)、有力武士である大庭氏、渋谷氏の本拠となった。また、北部は隣接する武蔵国多摩郡を本拠とする武士団である横山党の勢力範囲に属し、粟飯原(相原)、小山、矢部、淵辺(淵野辺)、田名など当郡北部に分布する地名(いずれも現相模原市)を名字とする武士が現れている。鎌倉時代には時衆教団の活動拠点となり、当麻(たいま。現相模原市)に無量光寺が開かれ、藤沢に開かれた清浄光院(のち清浄光寺。遊行寺とも。鎌倉郡側に位置する)と同教団の本山の地位を争った。戦国時代は小田原の後北条氏の支配下にあり、「東郡」と称した。1590年(天正18年)の後北条氏滅亡後は徳川家康の支配下に入る。江戸近傍に位置する当郡は、南部の東海道沿いのをはじめとして多くの村が幕府領(天領)とされたほか、旗本領や藩領の飛び地も多く設けられ、郡全体が一円的に支配されることはなかった。時代が下るにつれて複数の旗本や藩の相給とされる村が増え、幕末の段階では幕府単独あるいは旗本・大名1家のみの支配とされた村はわずかしかなく、その支配は極めて錯綜していた。江戸時代中期以降、周辺農村の入会地として利用されていた相模野台地上における新田開発が進められ、清兵衛新田(相模原市)などの新田が成立した。郡内の幕府領は韮山代官の支配下に置かれていたが、1858年(安政5年)に安政五カ国条約が締結され、翌1859年(安政6年)に神奈川奉行が設けられると、条約の定める外国人遊歩区域である「神奈川十里四方」に属する当郡における外国人に関する事務は神奈川奉行が扱うこととされた。「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。●は村内に寺社領が、○は寺社除地(領主から年貢免除の特権を与えられた土地)が存在。幕府領は代官・江川太郎左衛門支配所(韮山代官所)が管轄した。(2町110村)
出典:wikipedia
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