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浜田光夫

浜田 光夫(はまだ みつお、本名・浜田 斌、1943年10月1日 - )は、東京都出身の俳優。株式会社スタート所属。東京都新宿区(旧・牛込区)白銀町に生まれる。父は生後1ヶ月のときに結核で死去、母の手ひとつで育てられる。生まれた当初つけられた名前は「斌(あきら)」であったが、後に肉親の縁に薄い名であるとして「光曠」と名づけられた。そのため、戸籍名は「斌」のままである(1963年当時)。小学生のときに、兄弟のいない息子を気遣った母親から“話し相手に”とバイオリンを与えられ、当時通っていたバイオリン塾の生徒が出演していた音楽映画『ここに泉あり』にその生徒のうちの一人として出演している。習いたての生徒がバイオリンを弾くシーンで、わざと下手な真似をして弾くというのがよく飲み込めなかったという。その腕前は『父と娘の歌』、『日本フィルハーモニー物語 炎の第五楽章』で見ることができる。そして、百貨店の劇場にて公演『青い鳥』を見て興味を持ち楽屋を訪問すると、明日から来なさいと言われたことがきっかけで劇団東童に入団。1955年に劇団民藝の若杉光夫監督に見いだされ、『石合戦』に主役の少年で出演し、周囲からもその力量を認められる。『石合戦』に出演する少し前に、バイオリン塾でレッスン中に見事なおならをしてしまい先生から「バイオリンより良い音が出たね」と言われそれまでのレッスンと月謝が無駄だったと非常なショックを受け、以後は演劇に力をいれはじめるきっかけとなった。中学3年生のときに劇団四季の『永遠の処女』(演出・浅利慶太)、NHKの民藝ユニット作品『メリイクリスマス』(演出・若杉光夫)にも重要な役で出演する。玉川学園高等部在学中の1960年、若杉監督の勧めで『ガラスの中の少女』のオーディションを受け、吉永小百合と初共演する。その後、日活に入社し本格デビュー。1961年に『この若さある限り』より、若杉監督から『光夫』の名前をもらい芸名を浜田光夫と改める。数多くの日活映画に出演する。吉永小百合のほか、和泉雅子、田代みどり、松原智恵子、松尾嘉代、太田雅子(現・梶芽衣子)など若手女優陣らとも共演する。従来のアクション路線がマンネリ化していた日活にとって、浜田・吉永コンビの純愛路線は多くのファンの支持を集め爆発的人気となった。特に10代、20代の若者層の支持は高く、日本大学芸術学部に入学後も主演作を次々と発表した。浜田の目は、その美しさから“バンビの目”と称された。浦山桐郎監督の『キューポラのある街』(1962年キネマ旬報ベスト・テン日本映画第2位)、純愛路線の決定版である中平康監督の『泥だらけの純情』、またベストセラーを映画化し興行的に大ヒットした『愛と死をみつめて』(1964年日本映画興業成績第2位)など話題作に次々出演し、吉永小百合と共にトップスターとしての地位を確立する。また当時の人気作家であった石坂洋次郎や三島由紀夫など文芸小説の映画化作品が次々と創られた。浜田・吉永コンビの映画作品は最盛期に1ヶ月に1本のペースで封切られ、二人は1年で顔を合わせない日は数日だったという忙しさであった。吉永とのコンビ映画は44作品にのぼる。吉永をはじめとする青春映画以外に社会派映画などにも出演した。浦山桐郎監督の第二作『非行少女』に出演。和泉雅子とコンビを組んだ。『キューポラのある街』と同様に高い評価を得、モスクワ国際映画祭金メダル賞を獲得。その他『大人と子供のあいの子だい』、『煙の王様』、『サムライの子』など当時の社会情勢をテーマにした映画に出演した。1966年7月25日、名古屋市内のサパークラブで仕事終わりに役者仲間と飲んでいると、酔った客が役者仲間に絡み出し、突然、空き瓶で役者仲間を襲撃した。そして隣にいた浜田の右目に空き瓶のガラスの破片が直撃、傷口からドロッとした透明な液体が流れ出た。痛覚が麻痺するほど衝撃を受け、右目が全く見えなくなってしまった。ガラス片が黒目を直撃した上、レンズ部分の水晶体に到達し、眼球破裂水晶体を保護する「房水」が流出していた。黒目を0.3mm間隔で32鍼縫い上げる眼球縫合手術が行われた。失明の恐怖に耐えながら8時間、奇跡的に失明は免れた。このアクシデントを受け、当初吉永とのコンビで出演予定であった『愛と死の記録』は急遽、渡哲也が代演する事となった。失明を免れ、手術で視力は取り戻したものの黒目に白い傷跡が残ってしまった。その傷跡を隠すために、サングラスをかけ仕事を再開した浜田だったが、後遺症でライトの前では目を開けているのさえ困難。翌年、日活オールスターが友情出演した『君は恋人』で復帰するが、右目負傷の影響からその後は眼を保護するためにスモークやハーフトーンのサングラスが必需品となった。こうしてイメージチェンジを余儀なくされ、『涙の季節』『一度は行きたい女風呂』でのコミカルな役柄など、次第に従来とは異なるバイプレーヤー的な俳優へと転向する。この時期、浜田の支えとなったのは、妻である青園宴だった。失明騒動の直後に浜田と出会い、苦難の時期を支えてきた。青園の励ましを受け、目の完治を諦めず4度もの手術を決行。暴行事件から7年、ついに目は完治した。日活映画の主題歌、挿入歌を中心に、テイチクレコードから数多くのレコードを発売。中でも1963年に発売した三条江梨子とのデュエット「草笛を吹こうよ」がヒットした。1967年には東芝レコードから映画復帰作主題歌「君は恋人」を発売している。日本映画の衰退とともに日活を退社し石原プロに移籍。またテレビドラマにも進出。1970年、テレビドラマ『お荷物小荷物』(朝日放送製作、TBS系)で、小言屋だが肝心な時には頼りない5人兄弟の次男・滝沢義を演じ、コミカルな演技で新境地を開拓した。同作の脚本だった佐々木守と意気投合し、この後、岡崎友紀主演の“18歳シリーズ”や特撮ヒーロー番組『アイアンキング』など、1970年代前半に佐々木が執筆または関係したテレビドラマの常連的存在となっている。その後は悪役からバラエティ番組、情報番組のコメンテーターもこなすバイプレーヤーとして多くの舞台、テレビ、講演など幅広く活躍している。代表的な作品として1980年の映画『天平の甍』、2004年の映画『1リットルの涙』など。2012年9月18日発売の「女性自身(2012年10月2日号)」に恭美子夫人の手記が掲載された。浜田は日活時代から日常的に飲酒を欠かさない生活だったが、年齢と共に飲酒量が増え、酔って身体に傷を作ってくることも少なくなくなった。この頃には足取りもおぼつかなくなり、声も「漏れるような声」に変化するなどの状態に陥っていたという。2010年1月に胃の裏側や背中の激痛を訴え緊急入院。急性膵炎の診断を受け一命を取り留めたことをきっかけに、その後アルコール依存症の専門病院に入院。更生プログラムを経て、1か月ほどで退院した。その後は夫婦二人三脚で生活改善に努めていることを明らかにしている。2012年10月18日、Amebaブログ内に自身のオフィシャルブログ「青春日和」を開設。2016年、第25回日本映画批評家大賞・実写部門 ゴールデン・グローリー賞を受賞。1972年、ハワイで結婚。妻は宝塚歌劇団に在籍した宝塚歌劇団52期生の元タカラジェンヌで、宝塚歌劇団卒業生の青園宴(本名・浜田恭美子)。娘が二人いる。長女は2005年2月13日、玉川学園の同窓生だったひばりプロダクション社長・加藤和也と結婚。浜田と加藤は舅と婿の関係となった。同級生には円谷英二の3男・円谷粲や後に『アイアンキング』の主題歌を担当する子門真人がいた。テレビに出演するようになってからは『お荷物小荷物』で初めて手応えを感じ、脚本を手がけた佐々木守を敬愛するようになった。『アイアンキング』への出演は、佐々木が脚本を手掛けることから即断したという。浜田が佐々木のことを認識したのは『お荷物小荷物』からだが、それ以前に映画『非行少女』で佐々木から方言指導を受けていた。

出典:wikipedia

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