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九条政基

九条 政基(くじょう まさもと、文安2年5月7日(1445年6月12日) - 永正13年4月4日(1516年5月5日))は、室町時代末期から戦国時代初期の公家。関白・九条満家の子。従一位・関白・左大臣・准三宮。慈眼院と号す。長禄3年(1459年)に15歳で元服し、従四位下右少将として出仕する。翌年の寛正元年(1460年)正月、従三位に叙せられ、同年6月権中納言に任ぜられる。寛正2年権大納言に任じ、同3年従二位に叙せられる。当時、九条家の家督は異母兄とみられる政忠が継承していたが、この頃に両者の間で九条家の家督を巡る争いが生じた。この際、政基の母方の伯父である唐橋在治が政基擁立のために奔走したが、政忠はこれを憎んで在治の暗殺をも計画した。だが、これが将軍足利義政の耳にまで届き、結果的に寛正6年(1465年)に政忠は隠居を余儀なくされ、政基が九条家の家督を継いだ。在治は九条家の執事(家礼)として九条家の家政を掌握し、後に従二位権中納言にまで昇った。応仁2年(1468年)24歳で正二位右大臣となり、文明7年(1475年)左大臣になり、同8年に32歳で従一位関白となる。同11年、35歳で関白を辞退し、同14年には息子の尚経に家督を譲った。延徳3年(1491年)47歳で准三宮の宣下を受ける。応仁元年(1467年)の応仁の乱勃発時に公家社会の中枢にいた政基は、期せずしてその後の公家階級の没落の生き証人の一人となっていた。乱中は近江の坂本に避難していたが、公事用途200貫文を家司の唐橋在治の子(すなわち母方の従兄弟)である唐橋在数に立て替えてもらい、その借銭の棒引きの条件として、文明4年、残り少ない家領のなかから和泉国日根荘(ひねのしょう)入山田(いりやまだ)村の年貢を息子尚経の代まで在数に引き渡す約定となった。このように九条家の財政が破綻状態にあったことに加え、延徳元年(1489年)に在治が死去すると、自らが直接九条家の家政を執ろうとする政基と、父の地位を継いで九条家家政を握ろうとする在数の対立に発展した。このころ、在数が日根荘からの段銭徴収に失敗した穴埋めのため日根荘を抵当として根来寺から融資を受けた。その返済が滞ったことから、根来寺は抵当権の実行をはかり、九条家は財政上きわめて重要な所領を喪失する危機に直面することになった。この責任を、両者は押し付け合うこととなる。政基からすれば「九条家から在数に委任した荘園を運用している在数が、運用のために自身で勝手に作った借金」であるが、在数からすれば「九条家からの金銭調達要求のために、自身が委任されている“九条家の日根荘”から得ようとした収入が足りなかったため、日根荘を担保に他所から借りた。困窮する九条家の財政を何とかするために必要だった借金」、根来寺にとっては「九条家の家司が九条家運営の資金を調達するために、九条家の日根荘を担保に作った借金であり、返済目処が立たないなら日根荘を渡すべし」となる。明応5年(1496年)正月7日、在数は九条邸に押しかけて、政基・尚経父子に談判をした。これに腹を立てた政基父子はついに在数を殺害した。在数は、家司として九条家に仕えてはいるが、もともと公卿に昇りうる家格を有する堂上家の当主である。すでに殿上人として天皇に直接仕える身であり、大学頭・大内記の官職に任じられていた。加害者も被害者も天皇に仕える貴族というこの殺人事件に、公家社会は対応に苦慮することになる。在数と同じ菅原氏の東坊城和長は、主だった菅原氏の公家たちを集めて政基父子弾劾の準備を始めた。一方、事件に乗じて13日に大内記の後任となることに成功する。24日に北野の長者(菅原氏の氏長者)である高辻長直を筆頭に、東坊城和長・高辻章長・五条為学が連名で政基父子を告発する申状を提出し、これを受けて勅使白川忠富・中御門宣胤が九条邸に派遣され事情聴取が行われた。審議の末、2月5日に裁判、同25日に判決を下すことになった。2月5日、伝奏勧修寺教秀・奉行庭田重経・官務大宮時元・局務押小路師富、そして特に召された白川忠富・甘露寺親長らによって後土御門天皇臨席のもとで審理が行われた(なお、慣例により当事者が召されることはない)。大宮時元は摂関家処罰の先例として治承の政変の松殿基房の例を挙げたものの、今回の件の先例となる例ではないとした。最終的に甘露寺親長より事件の主導的立場にいた息子の尚経のみを解官とする処分の意見が述べられ、裁判を指揮する勧修寺教秀も同調したものの、現職の関白である近衛尚通に合意を得てから裁決することとなった。ところが、これを聞いた三条西実隆が「摂家准后与家礼侍臣対揚之御沙汰、頗朝儀之軽忽歟」(『実隆公記』明応5年2月5日条)と摂関家と他の一般の公家を同格に扱うこと自体が朝廷の秩序の乱れになるとして非難し、尚通も同意に消極的な態度を示した。また、政基は裁判直後に、在数の生前の不義怠慢の有様を松木宗綱・白川忠富・徳大寺実淳・中御門宣胤らに書簡で伝え、自らの立場の弁明に努め「摂籙」を覆そうとする在数は朝敵であり、自分は朝廷を救ったものであると主張し、いわば開き直りの姿勢を見せた。このため、25日の判決は延期され、結局は太政大臣一条冬良の意見を採用し、閏2月3日政基父子を勅勘に処し出仕を停止することに決定した。また九条家は家礼を持つことを禁じられた。明応7年12月21日、政基は尚経とともに勅勘が解かれたのを契機に剃髪した。当時、戦国時代初期の戦乱の最中で朝廷の権威は危機に晒されていた。その中で公家社会は家格に基づく身分秩序を徹底させ、武家社会のような下克上を引き起こす要素を徹底して排除する保守的な態度を採ることで、公家社会の安定化・組織防衛を図った。もっとも、処分は軽微だったがその影響は少なくなく、赦免後も中御門宣胤のように九条家への不信・嫌悪から交際を断ったり、関係を離れていく公家がおり、九条家は他の摂家に比べて地位を低下させることになる。九条家を擁護した公家たちも、在数の子の在名の取立てを求め、唐橋家の存続を図るなど、当時の貴族社会に唐橋家への同情と、九条家の求心力・影響力の低下がみられる。文亀元年(1501年)3月から永正元年(1504年)12月の間、守護方に横領されつつあった家領日根荘に下り、荘園の直務支配に従事した。そのとき記した直務支配した際の記録『政基公旅引付』は当時の地方の様子を知る貴重な史料である。同時期に慈眼院に滞在し、『慈眼院日記』(宮内庁蔵)を執筆した。永正2年10月には山城国小塩荘にも下向しているが、この時には宿直に来た九条家被官人が国方勢のために殺害される有様だった。また、管領細川政元の要請に応じて末子澄之を政元の養子にした。永正13年4月4日死去。享年72。法号を慈眼院といい、墓は東福寺山内九条家墓所にある。

出典:wikipedia

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