株式会社毎日放送(まいにちほうそう、英称 : Mainichi Broadcasting System, Inc.、略称 : MBS)は、近畿広域圏を放送対象地域とする特定地上基幹放送事業者である。中波放送(AM放送)とテレビジョン放送の兼営局(ラテ兼営局)で、ラジオ放送はJRNおよびNRNとのクロスネット局、テレビ放送はJNN系列の準キー局である。ラジオ放送についてはMBSラジオを、テレビ放送についてはMBSテレビを参照。本社の社屋では、1990年9月1日のグランドオープン以来、1階の大半を「アトリウム」(オープンスペース)としてテレビ・ラジオ番組の生中継・収録や各種イベントに利用。「MBSグッズショップ」(旧名称は「エムぞうの店」→「ネビュラ」)やタリーズコーヒーの支店も入居していた。2階では、オープン当初、「ギャラクシーホール」という名称でコンサートホールの機能を持たせていた。現在は、「ギャラクシースタジオ(2014年4月の本社グランドオープンと同時に「Cスタジオ」と名称変更)」として、テレビの生放送番組や公開収録・イベントに用いている。2010年7月、本社北側に免震構造の地上15階地下1階の新館(完成に伴い「B館」と呼称)を建設することを発表。大阪市から「企業・大学等立地促進助成制度」を適用されたことを受けて、2011年4月に着工した後に、2013年9月4日に竣工した。「B館」は、MBSテレビのチャンネル番号(4)とMBSラジオの周波数(1179)にちなんで、2014年4月4日午前11時7分9秒にグランドオープン。MBSラジオでは、『MBSグランドオープンスペシャル 上泉雄一のええなぁ!公開生放送』(月-金曜にレギュラー放送中の生ワイド番組『上泉雄一のええなぁ!』がベースの記念特別番組)の中でその瞬間を伝えた。「B館」には、中継基地、「MBSスタジオ in USJ」(後述)から機能を移転させたテレビ番組用の2つのスタジオ、オフィス、ヘリポート、高さ約36m(地上からの高さ約117m)の電波用鉄塔などを設置。従来からの本社屋(「B館」の竣工を機に「M館」と呼称)とは、2・12・13階に設けた渡り廊下で接続する。2015年4月20日に主調整室(マスター)を「B館」に新設したマスターに更新した。毎日放送では、「B館」の運用を開始する2014年4月4日から、特別番組の放送や視聴者も参加できる記念イベント(「1万人のテープカット」「チャリウッド2014」など)を開催。「M館」(本社屋)の1階では、タリーズコーヒーのスペースを移動させたうえで、跡地に「らいよんデイリーストア」(ヤマザキデイリーストアに「MBSグッズショップ」の機能を統合させたコンビニエンスストア)を開店した。また、「M館」のエントランス(「ギャラクシーホール」を運用していた時期に活用)および「アトリウム」を、「ちゃやまちプラザ」(放送上の通称は「ちゃプラステージ」)にリニューアル。旧エントランスを「ちゃやまちプラザ Live Space」、旧「アトリウム」を「ちゃやまちプラザ Lobby Space」として、番組の生中継・公開収録やイベントなどで定期的に活用する。「ちゃやまちプラザ Live Space」については、『MBSグランドオープンスペシャル 上泉雄一のええなぁ!公開生放送』から、番組での使用を開始した。ちなみに、「M館」「B館」という呼称は、毎日放送の略称である「MBS」に由来している。ただし、「B館」の運用開始時点で、正式に「S館」という呼称を付けた施設・社屋は実在しない。現在は、ベルリン(ドイツ)と上海(中国)に設置。いずれも、当社の活動拠点にとどまらず、JNNの国外支局(放送上の名義は「JNN〜支局」)としても機能している。かつては、マニラ(フィリピン)にも支局(放送上の名義は「JNNマニラ支局」)を置いていた。企業・団体は当時の名称。出典:2015年3月31日時点。テレビ東京ホールディングスと広島ホームテレビの株式を所有しているのは、いわゆる「腸捻転」の名残である。テレビユー福島については、2005年のマスメディア集中排除原則に基づく総務省の点検の結果、キー局のTBSが制限を超えて直接保有していた分の一部を引き取ったものである。なお毎日放送自体は各局に対する株式の保有比率が極めて低く、10%を超えて保有している局がFM802しかなかったため、行政指導を受けなかった。上記にはないが、岡山放送(フジテレビ系列=関西テレビも株保有)や瀬戸内海放送などかつて腸捻転時代にNETテレビ系列(現在のテレビ朝日ネットワーク)だったテレビ局にもわずかながら資本関係が残っている。第二次世界大戦終結から間もない1947年(昭和22年)、GHQが「放送基本法」と「電波三法」(放送法・電波法・電波監理委員会設置法)の立法措置を指令し、1950年(昭和25年)6月に施行された。これを契機に「民間放送」の設立が日本各地で相次ぎ、施行前の1950年4月21日、民間放送会社16社に予備免許が下りた。そのうちの一つ、新日本放送株式会社(しんにっぽんほうそう、略称 NJB、英称 New Japan Broadcasting System,Inc.)は、関西政・財界の支援の下、毎日新聞社と京阪神急行電鉄(現:阪急阪神ホールディングス)と日本電気(NEC)を中心に設立された。実際に創立の中心となったのは、毎日新聞社を依願退職した高橋信三であった。高橋は民間放送の将来性と必要性を説き、毎日新聞時代に培った個人のコネクションをフルに利用して出資者や番組スポンサーを募集。設立途中で出遅れた朝日新聞社の机上案に過ぎなかった朝日放送との合併工作という横槍を頑として撥ね付け、現在でもその録音が残る朝日側との激しい公聴会のやりとりの末、漸く新日本放送の開局に漕ぎ着けた。京阪神急行電鉄の資本が入っていた関係で、開局当初は系列企業であった阪急百貨店(現・うめだ本店)屋上に本社・スタジオを構えており、スタジオで行われる公開録音の観覧者のために、百貨店の休業日に関係なく利用できるエレベーターが設置されていたという。1951年(昭和26年)7月8日、22時00分 - 22時30分、日本の民間放送として初めて試験電波を発射。電波管理局(「監理局」ではない)の指示により「NJB」と「JOOR」というアナウンス、レコード音楽のみ。7月12日、26日にも実施。1951年(昭和26年)8月15日、サービス放送開始。12時00分、14時00分、16時00分、18時00分、20時00分から各1時間放送。試験放送は民間放送で最も早く開始したものの、本放送の開始は1951年(昭和26年)9月1日正午と中部日本放送(CBC)より5時間半遅れているため、単独ではCBCが日本初の民間放送として扱われる。ただし日付上同日の開局であるために、両者併記されることもある。1990年(平成2年)9月1日、大阪市北区茶屋町に15階建ての新社屋ビル(新本社・新放送センター)が完成。堂島にあった営業など本社機能と、千里丘放送センターにあった報道局などの部署、千里丘で制作されていたテレビ・ラジオ番組の一部を除いて茶屋町の新社屋に移転した。新社屋ビルは、大阪市と阪急電鉄が茶屋町地区の再開発計画の一環として、阪急百貨店の流通センターの跡地に建てられたもので、上部部分は「M」の文字を象った形をしている。「毎日」をイメージした造型だとの文献も散見されているが、当時この空域でNTTの電波が送信されていたため、建物の高さ制限があり、このデザインとなったのはそのためでもある。在阪テレビジョン放送局の中でも、人通りが多い場所にある。本社前は、平日では通勤者の通り道にもなっている。近隣には、梅田芸術劇場が入居する「ちゃやまちアプローズ」、阪急電鉄本社ビル、梅田ロフト、NU茶屋町などの業務・商業施設が立ち並び、阪急神戸・宝塚・京都各線の梅田駅 - 中津駅間およびJR京都線大阪駅 - 新大阪駅間を走行する列車の車内から現社屋ビルを確認可能である。9月1日からテレビは2日間、ラジオは5日間にわたって、開局40周年・新社屋放送開始記念の特別番組を制作・放送した。2014年4月4日午前11時7分9秒に、本館の北側に2つのテレビスタジオを設けた新館が運用を開始したのに伴い、本館は「M館」、新館は「B館」の名称が付けられた。B館はUSJスタジオや千里丘にあった中継車車庫を集約した地上15階・地下1階の建物で、免震構造が施されている。M館1階のフロアはB館建築により大幅な改修工事が行われ、「ちゃやまちプラザ」の名称で一般にも利用できる施設を開設。その内、在阪放送局の社屋内では初めての試みとして、コンビニエンスストアのデイリーヤマザキとMBSグッズショップが一体化した「らいよんデイリーストア」が出店。近年のインターネットやスマートフォンなどの普及により、日本の放送業界全体にも変化が見え始め、2008年のフジ・メディア・ホールディングス(旧フジテレビジョンから商号変更)を皮切りに認定放送持株会社への移行が全国各地で進んでいる。そんな中、毎日放送も2016年7月28日に認定放送持株会社に移行することを発表した。同日付で持株会社の分割準備会社として「毎日放送分割準備株式会社」を設立し、2017年4月1日に現法人の株式会社毎日放送は「株式会社MBSメディアホールディングス」に商号を変更し、放送免許・放送事業などの現業全般は、毎日放送分割準備会社から商号を変更する予定の「(新)株式会社毎日放送」が継承する予定。日本の放送持株会社移行は、在京キー局以外では中部日本放送(CBC)、RKB毎日ホールディングスに次いで3社目となり、全国で8番目で、JNN系列局では4番目、在阪準キー局では初となる。なお、TBSやCBCが行ったラジオ・テレビの分社化は行わず、RKBと同様にテレビ・ラジオの兼営は継続される。毎日放送では、新日本放送時代に発行した1冊も入れて、以下の5冊を発行している(2016年7月時点)。在阪テレビ局各局はそれぞれ独自の名物マスコットキャラクターを輩出しているが(大阪市内の土産店でこれらのキャラクターグッズ類も売られているほど)、毎日放送も例外ではない。初代マスコットキャラクター。毎日放送本社の形を模したキャラクターであり、番組関連商品を売る店の名前も「エムぞうの店」と呼ばれ「ネビュラ・エムぞうの店」を経て現在は「ネビュラ」。下記ぷいぷいさん登場以降も、毎日放送玄関でウルトラマンの立像などの陰に隠れつつ「エムぞうの店」の看板として活躍していたが、いつしか消えた。『ちちんぷいぷい』のイメージキャラクターだったが、一時局全体のマスコットキャラクターも兼ねていた。当時、同局のキャッチフレーズも「ちちんぷいぷいMBS」だった。社屋玄関にはぷいぷいさんのバルーン(初代)も設置された。仲間にひーさん、わんわん、くもくもとりさん、げじーと、『せやねん!』のイメージキャラクターのせやねんちゃんとちゃうやろちゃんがいる。社屋玄関にぷいぷいさんとらいよんチャンのバルーンも掲げられており『あん!』放送時には、あん!ちゃんのバルーンが掲げられていた。ぷいぷいさんのバルーンは、現在のもので2代目で初代に比べて、やや小ぶりになった。台風が近畿地方に接近・上陸し一定以上の強風になった際、防災上の観点から空気を抜いて「避難」することもある。なお、空気を抜き折り畳んだぷいぷいさんバルーンの大きさは軽トラックに積める程度である。また、らいよんチャンバルーンは初代は裸の姿だったが、2代目はTシャツ姿の物になった。毎週木曜日に放送されている『はれときどきうた』で登場するキャラクター。レトルトカレーやDVDが発売されている。最初に記載した西暦年号は新日本放送・毎日放送への入社年◎:新日本放送の開局を機に第1期アナウンサーとして1951年に入社○:アナウンサー室長・アナウンスセンター長を歴任▲:在職中にスポーツアナウンサーとして活動■:TTB所属の契約アナウンサーとして在職●:アナウンサーとして入社後にアナウンサー室(アナウンスセンター)以外の部署へ異動2016年度から報道局とスポーツ局に新設。『VOICE』や『ちちんぷいぷい』で、定期的にニュース解説を担当する。アナウンサー出身の主な記者(経験者)や、解説委員は前述。ラジオ報道部からは、毎日放送の東京支社に、国会担当として記者を常時駐在させている。毎日放送の現行ロゴ使用開始後、旧ロゴは徐々に使用を中止され、生駒送信所(テレビ)や一部中継局ではすでにロゴ変更作業が完了された。今後も子会社のロゴが変更され、旧ロゴは淘汰される見通しである(すでに社の封筒やベリカードなどではロゴの変更が行われた)。その一方で本社社屋(M館)の壁面にある旧ロゴはその後もしばらく残っていたが、2013年9月の新館(B館)の完成と同時に取り外された。新館には、毎日放送の現行ロゴが取り付けられている。会見等で使われるマイクも変更されている。毎日放送とTBSは同じ毎日新聞社系の企業で関係性が深く、ラジオにおいては開局当初からネットワークを組んでいる。テレビにおいても開局時からネットワークを組むつもりだったが、諸事情によって日本教育テレビ(NETテレビ、現:テレビ朝日)と組まざるを得なくなり、1975年(昭和50年)3月まではANN系列となっていた。1975年(昭和50年)3月31日に朝日放送との間でネットチェンジが行われ、以後はJNN系列となっている。鎌田正明は『週刊現代』にて全国ネットレベルの特ダネがTBSに横取りされてしまったことを証言している。鎌田は地球温暖化の原因とされるフロンガスの問題にいち早く着目したものの、TBSに召し上げられてしまい、同局に抗議したものの、同局のデスクは「お前らは素材を上げていればいいんだよ!!」と言い放ったという。また、MBSの番組に多数出演している明石家さんまは、関西テレビ『さんまのまんま』にて『(他の在阪局におけるキー局との不仲ぶりを挙げながら)TBSとMBSの関係が特に酷い』と漏らしている。毎日放送はテレビ放送開始以来、上方笑芸を大事にする姿勢に徹し、ローカル・西日本ブロックネット枠では数々の人気番組(『よしもと新喜劇』シリーズ」『素人名人会』『オールザッツ漫才』)を世に送り出している。その反面、「関西では江戸笑芸は受け入れられないだろう」との考えから江戸笑芸番組の放送を抑制する方針に徹している。その典型的な例として、腸捻転時代の1963年(昭和38年)6月、NETテレビが製作した江戸笑芸番組『大正テレビ寄席』が開始され、毎日放送でもネット受けを行ったが、関東と比べて視聴率が振るわず、これを知った高橋ら当時の毎日放送首脳陣は「やはり、我々の考えは正しかった」と判断し、同年10月の改編で『大正テレビ寄席』が水曜12時台の30分枠から日曜正午の45分枠へ移動したのを契機にネットを打ち切った。この枠では既にあった『サモン日曜お笑い劇場・吉本新喜劇』がNETテレビにもネットされていたが、スポンサーの大正製薬はそのままで企画ネット番組として毎日放送のみ放送を継続、事実上差し替えた。結果視聴率が伸びネットチェンジまで日曜の正午から午後2時台の視聴率が安泰となるが、この事が放送界きっての江戸笑芸啓蒙主義者として知られる永六輔の逆鱗にふれた。ただ、永は毎日放送とは直ちに絶縁とはならず、その後も毎日放送制作ながら江戸笑芸も一部扱っていたテレビ番組『芸能わらいえて 目で見る百年史』(当初の半年間はNETテレビへ、その後は東京12チャンネルにネット)や選抜高校野球中継の客席リポート等への出演を継続し、ラジオ番組にも出演していたが、その後関係を緩やかに縮小し、2011年9月3日(TBSラジオ・CBCラジオ。MBSラジオは9月11日)放送のTBSラジオ・MBSラジオ・CBCラジオ開局60周年記念ラジオ番組『永六輔・つボイノリオ・浜村淳の御三家ラジオ』(TBSラジオ主管の3社共同制作)までMBSラジオが関与する番組への出演がなかった。TBSラジオ制作の『永六輔の誰かとどこかで』の番組本編は、関西ではかつてラジオ大阪で放送されていたが、ラジオ大阪が放送を打ち切った後のMBSラジオ・ABCラジオへのネット引継ぎは、永の意向や自社制作番組などの編成の兼ね合いもあり実現せず、MBSラジオでは2013年9月の同番組終了までスポンサーの桃屋のCMのみがネットされていた。『大正テレビ寄席』打ち切りから8年後の1971年(昭和46年)12月、毎日放送は同じくNETテレビが制作した深夜の帯番組『23時ショー』のネット受けを、「低俗である」として打ち切ることを突然発表した。打ち切りの理由は、お色気関係の話題を興味本位でとらえていたこの番組の姿勢を、当時の社長だった高橋信三が否定したためといわれた。このことは朝日放送(ABC)や関西テレビ(KTV)などにも影響し、他の在阪局による、在京キー局発のお色気番組のネット受け打ち切りが相次いだ。この一件は「地方局のキー局に対する反乱」ととらえられ大いに話題となった。なお『23時ショー』の関西地方向けネットは、のちに1972年(昭和47年)10月から、近畿放送テレビジョンとサンテレビジョンへの番販でマイクロネットされ、実質的に再開されている(23時ショー#ネット局参照)。1963年(昭和38年)11月のジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件の模様を、アメリカ合衆国・ニューヨークに当時駐在していた毎日放送社員で元同局アナウンサーの前田治郎(まえだ じろう)が克明に情報を伝えていた。当初、日本初の海外衛星中継(宇宙中継)実験として、ケネディ大統領のスピーチを放送することになっていたが、その最中に遊説していたテキサス州・ダラスでのパレード中に暗殺されたことを受けて、急遽前田がその状況を克明に放送。前田は初めに「この日米間宇宙生中継という輝かしい試みに、悲しいニュースをお伝えしなければなりません」とあいさつし、民間放送社員の立場でありながら、その実況リポートがNHKの放送でもそのまま生中継される前代未聞のケースとなった(この件に関しては、毎日放送の開局50周年記念特別番組をはじめ、NHKの番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』や当時のキー局・テレビ朝日(事件当時はNETテレビ)の開局50周年記念特別番組『“ニュースの記憶”〜あの頃あの時あなたは…報道50年映像全史〜』に詳しい)。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。