『クイズダービー』(英称:"Quiz Derby")は、毎週土曜日の19:30 - 20:00(JST)にTBS系列で放送されていた、ロート製薬一社提供のクイズ番組・ゲーム番組である。初回は1976年1月3日、最終回は1992年12月19日で、全862回放送された。出場者が解答者の中から正解すると思う解答者1人に自分の持ち点を賭け、得点を増やしていく競馬方式の番組である。言い換えると、誰が正解するかを予想する番組である。元々この枠では、大橋巨泉の司会で、同じくロート製薬の一社提供番組だった『お笑い頭の体操』が1968年2月から1975年12月まで放送されていたが、リニューアルされる事になり、この時に巨泉の競馬好きから、かつて巨泉がカナダで見たクイズ解答者を馬に見立て賭けを行い高得点を競う競馬形式のクイズ番組『』を模倣した番組が企画された(詳細はルールの変遷を参照)。その『セレブリティ・ステークス』は巨泉の話によれば「非常に短命で、1年も続かなかった」というが、この番組はルールはもとより、司会者と解答者とのやりとり、ギャンブルのスリルを味わえることがうけて人気番組になった。なお、巨泉が自らの趣味を番組の内容に反映させた例としては、毎日放送(MBS)の『世界まるごとHOWマッチ』(1983年〜1990年)でゴルフのルールが取り入れられていたこと等がある。最高視聴率は1979年6月30日に記録した40.8%(関東地区)で、ビデオリサーチ調べのクイズ・ゲーム部門ではNHK総合テレビ『クイズ面白ゼミナール』が記録した42.2%に次ぐ高視聴率であり、民放に限れば第1位の視聴率である。また、クイズ番組では初めて視聴率40%以上を記録した番組でもある。CMなどを除いた番組放送時間は24分であったが、収録は25分までで、「撮って出し」の手法が使われた。巨泉から2代目司会者を引き継いだ徳光和夫によれば、「巨泉は番組収録を毎回35分程度で終えていた」とのことであった。収録は隔週月曜日に現在のTBS社屋の近くにあったTBSホールで行われていた。出場にあたってはハガキではなく、封書に2人の写真と簡単な自己紹介文を添えてTBSテレビ宛に応募する事が条件で、その旨を記したテロップが1問目あるいは6問目(音楽問題)のシンキングタイムBGMを流している最中か、巨泉時代のエンディングCM明けにも表示されていた。クイズ番組としては珍しく、TBSの音声多重放送開始当初である1978年11月25日放送分よりステレオ放送となった。また、1990年以降はクリアビジョン放送もされていた。本放送終了後、以下のように復活特番は5回行われた。詳細は復活特番を参照。2005年1月3日からCS放送のTBSチャンネルで再放送されている。本放送と同じく音多ステレオで放送されている。また、ロート製薬の初代オープニングキャッチも併せて放送されている。2005年1月はランダムで放送されたが、2月以降は第589回(1987年5月9日放送分)から順番に放送。2010年2月22日まで第831回(1992年4月25日放送分)まで放送されていたが、同年3月1日よりひかりTVでもTBSチャンネルの配信が始まった関係で第784回(1991年4月27日放送分)から再度放送される。その後同年5月31日に第842回(1992年7月11日放送分)から再びランダムで放送されている。2010年8月2日の第860回(最終回の2回前。1992年12月5日放送分)を以って再放送は終了し、翌週8月9日の第310回(1982年1月2日放送分)から事実上2巡目の再放送が行われている。2012年10月27日より「TBSチャンネル2」にて地上波の本放送と同じ時間帯である毎週土曜19時30分から放送されていたが数か月後に昼12時30分に変更。2013年7月6日に第734回(巨泉勇退)放送後、翌週より第685回を再度放送している。なお、一部の放送回が事情により放送されない場合もある。番組の基本的なシステムやルールの考案者は、初代司会者だった大橋巨泉である。ロート製薬のオープニングキャッチで番組が開始し、2本程度のCMを経て、「巨泉の、クイズダービー!」(最初期は「大橋巨泉の……」だった)の掛け声の後、発馬機のゲートが開く音とともにオープニングファンファーレが流れ、同時に番組セットのすべての電飾が点灯して本番が始まった。毎回3チーム(初期は4人の個人戦)の出場者と、5人(初期は6人)の解答者が出演した。出場者チームは番組に応募して採用された一般視聴者(放送日によって芸能人や各界の有名人が出演する場合もある)2人組で、「おじいちゃんと孫娘」「新入社員」など週替わりのテーマが決められていた。出場者チームは各問題に対して正答しそうな解答者を1人指名し、持ち点(3000点からスタート)の範囲内から100点単位で賭けていく。解答者には問題の解答力に応じた倍率が設定されており、指名した解答者が正解した場合には賭け点と解答者の倍率を掛けた得点が加算され、不正解だと賭け点分のみ減算された。ただし、解答者が全員不正解の場合には、その問題での賭け点はすべて返された。実際の競馬でいうと、出場者は「賭け手」、解答者は「競走馬あるいは騎手」、出場者の持ち点は「馬券」、解答者の倍率は「オッズ」、解答者のシンキングタイムは「競走」、解答者の正解は「一着ゴールイン」、出場者の得点獲得は「的中」、全員不正解は「競走不成立による全返還」に見立てたものである。通常は8問(初期は11問⇒10問:6人制・9問:5人制)出題され、1・3・5・8問目が一般問題、2・4・7問目が3択問題、6問目は音楽問題(巨泉は「作詞の問題」と呼んでいた。まれに歌詞当てではなく、流れた音楽に因んだ問題が出題されたこともある)というのが基本である(まれに1問目で音楽問題や3択、2問目で一般問題が出題された)。最終問題の直前になるとチャイムが鳴った。この際、巨泉は「最後の問題です。よーく聞いて下さいね」と大抵言っていた。問題表示は、出題者が読み上げの最中にテレビ画面の下半分に水色のボードに手書きの黒い文字で表示されていたが、末期の解答者変動制になってからはテロップ表示となった(2回の復刻盤では水色ボードの黒い文字の手書き)。出題は一般常識や時事関連、著名人のエピソード・名言、時代を反映したエピソード、事件簿、アメリカンジョーク、駄洒落などの珍問・奇問の問題が中心で、知識より勘やユーモアを問う問題が比較的多かった。基本的には出場者のテーマに沿った問題が出題されることが多い(第602回「武道ギャル大会」で1問目、6問目に関連問題が出題された)。問題を解く鍵として問題中にヒントが隠されており、そこから答えを連想することができた。音楽問題で歌詞当ての場合、巨泉の裁量で意味が合っていれば大抵正解にしていたが(まれに予め巨泉から「歌詞通りでなければ正解とは致しません」と発言することもあった)、一般問題と同様に問題のフレーズの周りの歌詞にヒントがあり、そこから予想していた。初期の頃は「アダムとイブの住んでいる所は何の園?」(答え:エデンの園)や「山口百恵、森昌子、桜田淳子の中で、一番お姉さんなのは?」(答え:桜田淳子)や道路標識の問題など、知識系の問題がほとんどだった。ただし、中期以降も有名人の顔のホクロの位置の問題や、「メダカブスとはどんなブス?」(答え:メダカがすくい上げにくい魚であることとかけて「救いようがないブス」)や、「五円玉に描かれている稲穂以外の物は?」(答え:歯車)や、「(この漢字の)『鬚』は顔のどの部分に生えるヒゲ?」(答え:あごの下)など、まれに知識系が出る場合もあった。中には出場者のタレントに関するエピソード問題や、普通の辞書には載っていないユニークな漢字の出題もあった。出場者に関係する問題については、解答に入る前に巨泉から出場者に対して「○○さん(みなさん)は黙っていてくださいね!」と注意があった。基本的な倍率の付け方は、通常問題は1倍から10倍まで。3択問題は1倍から7倍まで(初期は1倍から5倍までだった。難易度によっては4倍が最高になる場合や、全員に3倍が付けられる場合もあった)。最後の問題(合図として出題前に約2秒のチャイムが鳴る)では、設定された倍率がさらに2倍になった。番組の初期は、司会の巨泉と、レギュラーオッズマンの藤村俊二と、ゲストオッズマン(ゲスト解答者と親しい人。例・ゲスト解答者が植木等の時、ゲストオッズマンはハナ肇だった)の3人で解答者の倍率を決めていた。これは、解答者の正解不正解を、競馬の予想マーク(◎○△×)で予想するもので、3人全員がマークを付けない状態では「10倍」であり、マークの種類と個数に応じて倍率が下がっていった。ただし、どのマークでどれだけ下がるかの規則性は、番組内では明らかにされなかった。なお、競馬の予想マークは倍率の下に表示していた。その後、解答者が6人から5人に減らされた際に、予想マークや倍率を下げるルールが廃止され、巨泉が単独で倍率を決める方法に改められたが、「最高倍率は10倍(最終問題は20倍)」というルールはそのまま継続された。巨泉はこのリニューアルについてのちに「複雑すぎて視聴者に受け入れられず、視聴率が取れなかった。それなら思いっきり単純にしようと思って、オッズマン制をやめた」と語っている。要するに、競馬を全く知らない視聴者にも解りやすくするためでもあった。倍率は、概ね1枠・2枠・5枠には5〜10倍(3択問題では最大7倍だが、徳光時代ではゲスト解答者(ダニエル・カール、藤田朋子、松田聖子、加藤博一、久本雅美、赤井英和)に8倍が、更に瀬川瑛子に9倍が付いたことがある)、3枠と4枠には2・3・4倍(いずれも最終問題はさらに2倍)が表示されていたが、まれに「1倍」がついたこともある。「1倍」の設定は正解率の高いはらたいらが多かったが 、その他の解答者でも専門・得意分野にちなんだ問題では「1倍」が設定されたことがあった。また番組初期から中期にかけてはごくまれに、はらに「5倍」、竹下にも5〜10倍(例:竹下が誕生する以前の時代での問題が出題された場合など)という高倍率が設定され、最終問題で彼らに「10倍」が出たこともある。徳光への司会交代後の中期からは倍率が毎週ほぼ固定制になり、問題内容に応じた個々の倍率判断が全くなされなくなった(例えば、第809回、1991年10月26日放送分の1問目の主婦向けの問題に普段通りはらに2倍、竹下に3倍が付いたり、第791回、1991年6月15日放送分の山田邦子の「邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド編)」の歌詞問題に、世代的にかなり有利と思われる井森に9倍が付くなど。ちなみにその問題に井森は正解した)。また時々つけられていた「1倍」という倍率もつけられることが少なくなっていった。倍率発表の際の司会者の決まり文句としては、以下のものがあった。本番組での的中時の配当は、配当が先に決まっているブックメーカー方式で行われており、持ち点を賭けた時点では持ち点が減らないルールになっている(逆に、掛け金をプールして配当を定めるのがパリミュチュエル方式で、中央競馬、競輪など日本における公営競技で採用されている)。例えば3,000点を持っているチームが、3倍の解答者に500点を賭けて正解した場合の持ち点は「3,000+500×3=3,000+1,500=4,500」点となる。不正解の場合は「3,000-500=2,500」点(倍率は関係ない)となる。前述した「1倍」という倍率が存在したのはこのためである(1倍でも正解すれば点数が入る)。「全員不正解」という事態は、番組当初においては想定されておらず、初めて生じたときには、通常通り「不正解者に賭けた」事として減点されたが、その翌週より「そもそも誰が正解しているかを当てるゲームであり、全員不正解というのは根本的にゲームが成立していない状態である」という見解(実際の競馬でいうところの「競走不成立」となった状態と同じ)に統一され、「全員不正解の場合、賭け点はすべて返す」というルールが追加された。そのため、誰にも賭けられていない解答者が単独で正解した際(全チーム掛け金没収となる)に、巨泉がその解答者に「余計なことをしないで下さい!」などとこぼすのがお約束となっていた(特に高倍率傾向にあった1・2・5枠解答者に対して)。解答者の解答中(シンキングタイム)には、スティーブン・フォスターの「草競馬」をヘ長調にアレンジした曲が流された。番組初期はエレクトーン系だったが、後のステレオ放送化を機にフルートの音色に近いものに変わり、最終回まで継承された。クイズの解答は、テーブルに設置されているロールペーパー式の解答用紙にマジックペンで書き、それを天井のカメラで撮ってモニターに映しており、文字は白抜きで表示された。また新しい紙は、解答者から見て左側にあるボタンを押すと出て来る。そのため、モニターが開いている時(答えを開ける前の「クイズダービー」表示でない時)、解答用紙の所に手を置いたり顔が入ったりするとモニターに手や後頭部が映る、書いた解答が横にスクロールする所が見られる事もあった。「草競馬」のBGMが流れる時に巨泉が再び出題内容を発言するが、それから数秒後は解答の修正も認められていた。最初の解答を抹消し答えを変更したり、複数の解答を羅列した後最終的な答えを○で囲んだりする事が可能であった。特にかつて2枠レギュラー・山崎浩子は時間ギリギリまで最終解答を悩む事が多く、巨泉に「浩子!早く一つだけにしなさい!」と注意される事が度々あった。司会者の「せーの、ドン!」(番組開始当初は「ハイ!」だった。その後「○○さん、ドン!」などもあった)の掛け声とともに、解答者の頭上にあるモニターに解答が表示される。正解の場合は、正解した解答者のモニターの背景色が青から赤に変わり、倍率表周りのランプが点灯回転した。さらに賭けられた解答者に対しては、ファンファーレ(番組開始当初は馬の鳴き声だった)が鳴らされ、的中した出場者の得点表周りのランプも点灯回転した。3組のいずれからも賭けられなかった解答者が正解の場合、ファンファーレはなく、観客の拍手のみ。不正解の場合は、モニターの背景色は青のまま。解答の開け方には、順番に開ける場合と一斉に開ける場合とがあり、順番も以下に示すように、場合によってまちまちだった。CMは解答発表の後に挿入されており、CMに入る際には「その前にこちらを」というCM予告が入れられた。最終的に獲得した点数がそのまま1点=1円で賞金となった。最終問題に関係なく持ち点が10万点に達したか超過した場合、または0点になって失格となった場合、そのチームのみその時点でゲーム終了となり、次の問題以降は参加できなくなる。『クイズダービーベスト500』では10万点という点数をクイズダービーの合格点と定義している。持ち点が10万点に達するか、10万点を超えた場合、賞金は10万円となり、10万円を超えた分は「TBSカンガルー募金」(のちの「TBS未来への生命募金」)に寄贈された。これは製薬会社団体の紳士協定により、懸賞賞金が10万円までと定められていたためであるとの説があるが、景品表示法に基づく規制により、当時では10万円が懸賞賞金の上限であったためである。1チームでも10万点獲得チームが現れると、エンディング曲のコーダ部がファンファーレとして鳴るとともに、出場者席の背後にある電飾および得点表周りの電飾が点灯し、天井に吊るされたくす玉が割られ、大量の紙吹雪と極細の紙テープの固まり2束が降り注ぐ中、男性には白、女性には赤のダービーハットがアシスタントによってかぶせられた。くす玉割りは毎日放送『アップダウンクイズ』の末期と同様、スタッフの機械操作で行われていた。なお、字幕スーパーは一切出なかった。10万点獲得は最終問題で「最後の賭け」の結果達成するパターンが大半だったが、前述した通り、まれに最終問題に至る前に10万点獲得に至ったチームも現れた。例えば、1987年11月7日放送分(JNN系列局入社内定者大会)で、7問目時点で56000点持っていたMBSチーム(加藤康裕、岩城潤子)が6倍の山崎に16000点賭けたところ正解し、152,000点を獲得。1988年4月9日放送(TBS新番組対抗大会)では5問目終了時点で持ち点を71,000点まで増やしていた「海岸物語 昔みたいに…」チーム(奥田瑛二、麻生祐未)が、6問目で3倍の竹下に20,000点賭けたところ、正解したため、持ち点が131,000点となった。また、第7問目までに全チームがあわや10万点獲得に至るまでなろうとしていたことがあった。巨泉は最終問題前で10万点に到達するチームを「あがり」と言っていた。レギュラー回での最高点は1987年6月6日に放送された骨董品を扱う店の店員を集めた大会での古物商チームでの819,000点であった(エピソード参照)。大抵の回は10万点に達するチームが出たが、全チーム0点または逆に全チーム10万点となったケースも年に数回あった。また、全チーム10万点の時は「パーフェクト」と言っていた。最終問題であっても、確実に賞金を持ち帰るために、正解率の高い(倍率の低い)解答者(主にはらや竹下)に賭けて10万点に達しなかったチームもあれば、正解率の低い(倍率の高い)解答者(主に篠沢)に全額を賭けずに少し点数を残したチーム、または正解率の高い(倍率の低い)解答者(主にはらや竹下)に全額を賭けずに少し点数を残したチームもあった。中には計算違いをしたり、最終問題に至るまでに0点となり失格になったチームも存在した。最終問題の解答が発表されると、エンディング曲が流れる中で、司会の大橋巨泉が解答者を巡り、次いで賭け手3組をねぎらって「また来週」の台詞で本編は終了した。この後は、CM2本程度が流れてから、次回のゲストが予告され、「クイズダービー おわり」の画面が表示され、ロート製薬の提供クレジットが表示され、「提供は、ロート製薬でございました。」とアナウンスが入って、番組が終了した。なお、次番組予告が放送されていた期間は、ロート製薬の提供クレジットが表示された後に、「クイズダービー おわり」の画面が表示され、次番組予告が流れて番組が終了した。司会者席の上には、解答者全員の成績が「本日のレース結果」として表示された。正解の際は当該箇所の赤いランプ(●印)が点灯した。表示は開始当初の出題数である10問目まで対応していたが、9問→8問と出題数が減っていくにつれ9問目以降は特番を除き使用されなかった。5問目終了後のCM明けにこのボードで解答者の成績を確認していたが、その際巨泉は解答者の成績が良いと「今日はみなさん真っ赤ですねえ」、逆に悪いと「今日はどうしたんでしょうか、真っ黒ですよ」などと言っていた(不正解の所は何も照明が付かず黒いため)。解答者の成績が悪いながらも出場者の点数が高いと「今日の出場者は賭け方が上手いですねえ」、逆に解答者の成績が良いのに出場者の点数が低いと「今日の出場者はおかしいですねえ、皆こんなに真っ赤なのに?」などと言っていた。番組初期は3つに席が分かれており、左からゲストオッズマン、レギュラーオッズマンの藤村俊二、司会者の大橋巨泉が座っていた。また、解答成績は司会者席と6枠解答者席の間にボード形式で立てていた。名札の字体は渡辺真理と最終回司会の巨泉の分のみ定型丸文字で、それ以外は手書き。「本日のレース結果」の名札も1990年初頭に手書きから定型丸文字に変更されている。司会者席にも解答をチェックするモニターが横に1列並んで設置されており(解答者席のものと同様に画面が青・赤バック表示のもの)、視聴者にも解答の模様を公開するための黒バックのモニター(「ただいま解答中!」)が上3つ・下2つに並んで設置されていた。解答者席は実際の競馬で言うスタート地点(いわゆる「ゲート」)に見立てたものである。解答者の後方には解答モニター(通常は「クイズダービー」のタイトルロゴが表示されるが、番組改編期の特番では「春(秋)の豪華版スペシャルクイズまるごと大集合」と出ていた)が設けてあり、通常時は青バック、正解の場合はそれが赤バックとなり、不正解の場合は青バックのままであった。当初は解答モニターを棚に飾る状態でのせていたが、解答席が6席から5席に変更された際、番組セットの壁でモニター画面の部分以外をすべてふさいだ。解答者席の正面には倍率(オッズ)が電光表示され、賭けられた解答者の席では、賭けたチーム名が書かれたポールが自動的に立った。正解すると電飾が点滅した。解答者席の両側にはコンパニオンの出入口が配されており、出場者の10万点獲得時と、問題に関係した図表や物品を解答者に見せる際に使われた。コンパニオンはエンドクレジットに名前が出るが、どちらのケースもない場合は姿を見せなかった。名札の字体は司会者変更以前は全て手書きで、それ以降は5枠のゲストのみ定型丸文字に変更されていたが、91年のスタジオセット変更に合わせてレギュラー解答者の分も変更された。出場者席のテーブルにはパネル形式で、上にその問題の賭け点、下に現在の獲得点数がそれぞれ表示される。得点表示はソラリー式(反転フラップ式で、俗に言う「パタパタ」。縦横方向は違うものの、『アップダウンクイズ』の賞金表示板と同じ仕組み)で、賭けた解答者が不正解の際には動作音が響いていた。1988年の『お正月だよクイズダービー』にて、優勝チームがトータル100万点を超過し表示不可能になり、巨泉がADの記したカンペを持参しての結果発表となって以来、特番のセットでは得点盤が6桁から7桁表示になっている。解答者指名の際には、手元にある解答者名が書かれたネームプレートをポールに差し込む(初期は丸いプレートに電光表示で解答者の枠番を表示させていた)。番組開始当初は出場者が賭け点入力もしていたが、のちにスタッフに一任された。賭けた解答者が正解すると、出場者席のテーブルの電飾が点滅した(後方の電飾は点滅しない)。ネームプレートの字体は手書きだったが、1990年初頭に定型丸文字に変更されている。1976年1月3日(第1回)の番組開始から1987年9月19日(第607回)放送分まで使われていた後方の電飾は、欧米の多くの競馬場(近年は日本でも)に採用されている競走馬の蹄をイメージしたゴール板を模したものである。出場者席の配色は左から赤・黄・緑であった。ただし番組開始当初は色分けされておらず、後方の電飾はすべて黄色で、くす玉もなかった。名札の字体は司会者変更からしばらくして手書きから定型丸文字に変更されている。『クイズまるごと大集合』や『お正月特番』では、赤・黄・緑のほかにもう1つ青枠が登場した。解答者席にある賭けたチーム名のポールは、自動的に立つのは3チーム分(赤・黄・緑)しかないため、青枠分は出場チーム名が書かれたネームプレートを賭けられた解答者自らが答えを記入する前に手動で差し込んでいた。最末期の『お正月特番』では出場者席が6枠あり、上下に3枠ずつ配置していた。フリップに解答者名と賭け点を記入して徳光の「ホールドアップ」という掛け声に合わせてフリップをホルダーに差し込んでいた。なお、解答者席のポールはすべて自動的に立てられた。出場者席の上にはロート製薬の当時の主力製品(パンシロンG、キャシロン、新パンシロン、ロートAZ胃腸薬、パンシロン新胃腸薬、V・ロートクール、なみだロート、新V・ロート、新V・ロートプラス、ロートZi:、メンソレータムなど)の看板が掲げられていた。これらの製品名看板は、TBSチャンネルでの再放送でもそのまま表示されており、番組冒頭にはその旨の断りのテロップが出る。出題者は問題の読み上げのみ担当し、賞品等を紹介する事は一切なかった。男性一発逆転枠。2枠よりは正解率は高め。徳光時代初期までは主に作家・大学教授等の文化人が入る枠であった。徳光時代の中期から後期はタレントが座り末期では山崎浩子、井森美幸が座る事もあった。女性大穴枠。長山藍子まではベテラン女優枠であったが、宮崎美子から若手女優・タレント枠に転向。不定期時は田中義剛などの男性陣が座ることもあった。男性本命枠。漫画家枠だが、レギュラーで座ったのは黒鉄ヒロシとはらたいらの二人だけだった。週替わり制になってからもはらは最終回も含め不定期で出演している。但し不定期時ははらの欠席時、本来4枠レギュラーの竹下景子が座ることもあった。女性対抗枠。当初は女子大生枠。不定期時は田中、ジェームス三木、円広志などの男性陣が4枠に座ることもあった。初期の解答者枠は6つあり、6枠がゲスト枠だった。ガッツの降板後に整理されて1枠減り、ゲスト枠が5枠に改められた。1988年2月27日までの記録。ただし、小沢・松崎・稲川・和田については最終回時点での記録。それぞれ、最高記録のみ。代理出演は除く。ゲスト枠である5枠はのぞく。本放送時は通常は30分の放送だったが、正月に1時間のスペシャルが計5回別枠で放送された。
88年、89年分では、スペシャルルールとして3チームを1ブロックとして予選を行い、クイズ終了の時点で持ち点の一番多かったチームが決勝へ駒を進め、最終的に決勝で一番多く得点を取ったチームが優勝だった。優勝、2位、3位のチームにはそれぞれ賞品が贈呈されただけでなく、解答者の中で珍解答を見せた1人に「珍答賞」が贈られた回もあった。タカラ(現・タカラトミー)により当番組のボードゲーム化が行われている。※系列は放送当時のもの。以下の放送回は放送ライブラリーで視聴可能である。
出典:wikipedia
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