恵帝(けいてい)は、前漢の第2代皇帝。諱は劉盈(りゅう えい)。生年は紀元前210年、紀元前213年の2説がある。劉邦が任侠時代に生まれた嫡出子である。その時に、呂雉が田の草取りをしていたところ、老人が通りかかり、劉盈と母の呂雉と姉の魯元公主の人相を見て、「いずれ高貴な人になるだろう」と劉邦に告げた。劉邦挙兵後は母と共に沛県で留守を守っていた。楚漢戦争が激化し、彭城の戦いで劉邦が大敗して、母や祖父が項籍の軍勢に捕らわれた際に、魯元公主と共に難を逃れて劉邦と再会する。だが馬車で親子ともども逃げる際、追手に怯えて馬車を軽くしようとした劉邦に魯元公主とともに馬車から突き落とされるが、夏侯嬰により救われた。その直後に王太子に立てられ、関中で父の留守を守った。父・劉邦が皇帝に即位すると皇太子に立てられるが、高祖と異なり温和な性格が高祖の不興を買った。そして、高祖のお気に入りであった戚氏の子の劉如意を皇太子にしようとするために、劉盈はたびたび皇太子の地位を廃されそうになったが、生母・呂雉を初めとする呂氏一族や張良などの支援で皇太子の地位を確保した。高祖崩御後に皇帝に即位するが、政治は皇太后となった呂雉が専横した。呂雉は後継者を巡る政争で、恵帝の有力な政敵であった趙王劉如意やその生母の戚氏らを復讐として殺害している。呂雉の残虐な行為に衝撃を受けた恵帝は政務を放棄し、酒色にふけった。その乱れた生活のために23歳(26歳などの諸説あり)で崩御した。恵帝はその性格から高祖の不興を買い、さらに呂雉の横暴・残虐な行為を阻止することができなかったことから、惰弱な人物として評価をされることが多い。他方、自身の廃嫡問題が表面化した際には多くの重臣の支持を獲得し、また劉邦が親征すると、その留守を預かり任務を全うしているという一面も有する。呂雉による劉如意暗殺の企てを事前に知ると、自ら寝食を共にして劉如意の身を守ろうとし、また恵帝より上座を得た庶長子の劉肥に対して呂雉が毒杯を与えようとした際には、その毒杯を自身が手に取って救う(呂雉が慌てて毒杯をこぼし未遂となった)など、惰弱と言うより良い意味で温和な一面も史書に残されている。また、『漢書』恵帝紀によれば、始皇帝の時代から続いていた焚書を中断させたのは、秦を打ち倒した高祖ではなく、恵帝である。
出典:wikipedia
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