宇喜多氏(うきたうじ、うきたし)は、備前国の戦国大名。本来は、地形に由来する「浮田」姓と思われるが、嫡流は「宇喜多」(宇喜田)、庶流は「浮田」を称した。通り字は代々「家」(いえ)の後、「秀」(ひで)を用いている。代々相伝の幼名は、宇喜多興家から宇喜多秀家の子・宇喜多秀規まで「八郎」が継承されている。家紋は剣片喰(剣酢漿草)、他に雨竜や亀など。近世では五七の桐や五三の桐を用いている。旗紋は兒文字と考えられているが、剣片喰や唐太鼓も散見され、兒文字は他の武将の旗紋の可能性もある。宇喜多氏の出自について確実なことは不詳であり、多くの戦国大名同様に諸説がある。一般には出自に諸説有る備前三宅氏の後裔とされるが、宇喜多氏自身は百済王族子孫や平氏を名乗っていた。なお、宇喜多姓自体は、鎌倉期の『吾妻鏡』や南北朝期の『太平記』等にもその名は確認できず、室町時代において『西大寺文書』に記載された「宇喜多五郎右衛門入道宝昌」とあるのが文献で確認できる初出であることから、守護・地頭といった鎌倉時代以降の統治機構に元々は組み入れられていなかった人々により、室町時代に成立した比較的新しい苗字であると考えられている。以下に、最近の極少数説も含めて概説する。従来から広く一般に敷衍している通説で、「兒」を旗紋とする百済の3人の王子が備前の島(現在の児島半島)に漂着し、その旗紋から漂着した島を児島と呼びならわし、後に三宅を姓とし、鎌倉期には佐々木氏に仕え、その一流が宇喜多(浮田)を名乗ったとするもので、本姓を三宅氏(三宅連:新羅王族子孫)とする。この説は、『宇喜多和泉能家入道常玖画像賛』(『宇喜多能家画賛』)の記載に基づくものである。宇喜多氏自身が称した出自であることから、地元岡山県に於いても古くから広く受け容れられ、20世紀末以降に入って出版された岡山県史・岡山市史・倉敷市史など地元自治体が編纂した歴史書などでも、この説を採っている。備前岡山藩士・土肥経平が安永年間にまとめた備前軍記では、『宇喜多能家画賛』の全文や宇喜多氏の出自についての諸説を紹介した上で、宇喜多氏の出自を備前三宅氏と結論付け、この備前三宅氏について「(宇喜多能家画賛とは異なり)新羅王族の子孫とするものもあるが、古代朝鮮王族の子孫が備前児島の東21カ村を指す三宅郷という地名から三宅連の姓を賜り、後の三宅氏となった」との説を紹介している。なお、備前三宅氏については、備前に置かれていた古代大和王権の直轄地である屯倉に由来するとの説も古くからある。浮田(宇喜多)姓に相当する地名は、古くに遡っても備前児島には存在せず、地名ではなく地形等に由来する姓であるものと思われるが、岡山県編纂の『岡山県史』では宇喜多氏が本拠とした備前豊原荘一体にはもともと備前児島に由来する三宅氏が分布していたことから、宇喜多氏が本姓三宅氏で三宅氏の支流であることに矛盾はないとする。ただし、児島郡に三宅郷という郷名や三宅連という人名は見られず、三家郷と三家連の誤りと思われるうえ、三宅連は新羅の王族であるアメノヒボコの子孫であり、宇喜多氏が称する百済王族子孫との整合性に大きな矛盾が生じる。一方で、上記の通説とは逆に、宇喜多氏が備前児島半島の三宅氏の先祖であるとする説もある。百済王族の子を宿した姫が備前児島宇藤木に上陸し、備前児島唐琴に居住。この姫が「日の本の人の心は情けなし、我もろこしの人をこそ恋へ」という歌を詠んで助けられた話が都に伝わり、藤原北家閑院流三条家の宇喜多中将(宇喜多少将とも)へ嫁いで宇喜多氏となり、その系譜を汲む東郷太郎・加茂次郎・西郷三郎(稗田三郎)の三家を祖として三宅氏の家の元祖とするものである。一説に、東郷太郎は百済王族の子、加茂次郎と西郷三郎は三条の中将と百済の姫の子とされ、藤原北家閑院流三条家の血を引くとする系図が多数を占める。具体的には三条実親の玄孫にあたる参議・三条実古の子公頼(加茂次郎)が、山城国大荒木村宇喜多又は、山城国大荒木田宇喜多社領から備前国東郷に下向、公頼の子・実宗(東郷藤内、土佐守)の時水沢姓が分かれ、実宗の子・信宗(宇喜多十朗)が宇喜多姓を称し(赤松家家臣浮田四郎敏宗の養子となったともいう)、信宗の子宗家(宇喜多修理進三郎、土佐守)が文明二年(1470年)上道郡西大寺に居住したとする。他の説として、宇喜多氏を児島高徳の後裔とし、高徳を宇多源氏佐々木氏の一族、あるいは後鳥羽天皇の皇子・冷泉宮頼仁親王の子孫とする説もある。また、能家自身は平姓を意味する「平左衛門尉」と称した記録があり、宇喜多氏自身の称する本姓にも揺らぎがあったようである。室町時代中期の宇喜多久家の頃から宇喜多氏の動向が比較的明らかとなってくる。久家の子宇喜多能家は16世紀初頭に備前の守護代浦上氏に仕え、守護赤松氏に対する下克上に功績を立てた。その能家の孫が備前を領する戦国大名に宇喜多を押し上げた直家である。能家の死後は一時雌伏を余儀なくされるが、その孫直家は浦上氏に出仕して台頭する。直家は縁戚をも含めた備前の豪族を暗殺などの手段により次々と滅ぼし、主家浦上氏を圧迫するまでに成長する。美作に進出した備中の三村家親に対しても、正攻法を避け、鉄砲による暗殺に成功(1566年)。三村氏とは数度に亘り干戈を交えるも、ついには備前に進行した三村軍を撃退した。これは明善寺合戦と呼ばれ、直家の生涯で唯一正攻法で難敵に当たったものといわれる。その後、安芸の毛利氏と結び、浦上氏や備中の三村氏に対抗。浦上氏と結び織田氏の誘いを受けた三村氏を毛利氏が滅ぼした後(1575年、備中兵乱)、毛利氏の余勢を借りて主家であった浦上氏を滅ぼした(1575年、詳細は天神山城の戦い参照)。東より押し寄せる織田氏に対し、初めは抵抗していた直家であったが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の誘降を受けて織田方に寝返った。毛利氏・織田氏の勢力争いに乗じて才覚を発揮し、ついには備前一国に飽き足らず備中の一部や播磨の一部・美作などにまで勢力を広げることに成功した。まさに下克上の人生であった。直家の子秀家は、天正9年(1581年)に父直家が死んだときまだ幼かったため秀吉に育てられ、本能寺の変後に政権を握った秀吉のもとで備前・美作と備中の一部を安堵されて岡山城57万石を領する大名になった。秀吉の晩年期には、秀家は五大老の一人となり、その絶頂期を迎える。朝鮮出兵においては主力として渡海している。しかし、秀吉死後の慶長4年(1599年)にお家騒動が起きて宇喜多氏は急速に衰退し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いには石田三成に同調して西軍の主力の一人となり、敗北して所領を没収された。秀家の従兄弟である詮家は、秀家と争って宇喜多家を離れて徳川家康に従った。詮家は関ヶ原の戦いで戦功をあげて石見国津和野に3万石(後に加増され、4万石)を与えられ、姓名を坂崎直盛と改めるが、元和2年(1616年)に改易された。これによって、大名としての宇喜多氏は完全に滅亡した(坂崎氏の一部の子孫は中村姓を名乗り、現在も続いている)。秀家は辛うじて助命されたが、子息等とともに八丈島に流されて50年間の配流生活を送り、明暦元年(1655年)11月20日にそこで没した。宇喜多家は八丈島で直系血族は浮田、傍系は喜田などを名乗り、他の流人とは区別されて「浮田流人」と呼ばれ、後に20家に分かれた。秀家正室(豪姫)の実家である加賀藩前田家からの隔年白米70俵と金子35両の援助は、明治維新後の明治2年(1869年)に赦免されるまで続いた。明治3年(1870年)、20家のうち浮田氏7家が八丈島を離れて東京板橋宿の加賀藩下屋敷跡に前田家より土地を与えられて移住した。明治6年(1873年(明治7年))、明治天皇から現在の浦安市に19,900坪の宅地を賜り、同時に前田家から金1,000両も贈られる。一説には大坂夏の陣の後、加賀藩前田家からその所領のうち10万石の分与による家名の再興を勧められるが、秀家本人の豊臣家への忠誠から徳川幕府に仕えるのを潔しとせず、辞退したとも言われる。安政の大獄で捕縛され、宇喜多秀家7世の孫で本性を「藤原」とする、京都の絵師の宇喜多一蕙(うきたいっけい)や、俳優の浮田左武郎(うきたさぶろう)も秀家の子孫と称していた。現在の宇喜多宗家の当主は、秀高から12代目の宇喜多秀臣(15代当主)とされており、岡山城築城400年式典の際に岡山県から招待され出席した。また2009年10月25日にも宇喜多堤築堤420周年記念事業における歴史学者による記念講演聴講のために早島町から招待され岡氏・花房氏・千原氏・金光氏の末裔とともに出席している。※一般に敷衍するものではない凡例:実線は実子、破線は養子、太字は当主宇喜多氏を主役に据える作品に次のようなものがある。
出典:wikipedia
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