LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

井伊直弼

井伊 直弼(いい なおすけ)は、幕末の譜代大名。近江彦根藩の第15代藩主(16代藩主、13代当主という数え方もある)。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。幼名は鉄之介(てつのすけ)、のち、鉄三郎(てつさぶろう)。諱は直弼(なおすけ)。雅号には、埋木舎(うもれぎのや)、柳王舎(やぎわのや)、柳和舎(やぎわのや)、緑舎、宗観(そうかん)、無根水(むねみ、旧字体:无根水)がある。大獄を行って以降は井伊の赤鬼(いいのあかおに)の渾名でも呼ばれた。文化12年(1815年)10月29日、第13代藩主(14代藩主、11代当主という数え方もある)・井伊直中の十四男として近江国犬上郡(現在の滋賀県彦根市金亀町)の彦根城の二の丸で生まれる。母は側室のお富。兄弟が多かった上に庶子であったこともあり、養子の口もなく、父の死後、三の丸尾末町の屋敷に移り、17歳から32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごした。この間、近江市場村の医師である三浦北庵の紹介で、長野主膳と師弟関係を結んで国学を学び、自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、埋木舎(うもれぎのや)と名付けた邸宅で世捨て人のように暮らした。この頃熱心に茶道(石州流)を学んでおり、茶人として大成する。そのほかにも和歌や鼓、禅、兵学、居合術を学ぶなど、聡明さを早くから示していた。ところが弘化3年(1846年)、第14代藩主で兄の直亮の世子であった井伊直元(直中の十一男、これも兄にあたる)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定する。嘉永3年(1850年)11月21日、直亮の死去を受け家督を継いで藩主となる。嘉永5年(1852年)、丹波亀山藩主松平信豪の次女・昌子(貞鏡院)を娶った。彦根藩時代は藩政改革を行い、名君と呼ばれた。また、江戸城では溜詰として、将軍継嗣問題と日米修好通商条約調印問題をめぐり存在感を示す。嘉永6年(1853年)、黒船来航に伴う江戸湾(東京湾)防備に活躍したが、老中首座の阿部正弘がアメリカの要求に対する対策を諮問してきた時には、「臨機応変に対応すべきで、積極的に交易すべきである」と開国を主張している(ただし、直弼はもともとは鎖国論者であり、彼の開国論を「政治的方便」とする説もある(後述))。阿部正弘は、幕政を従来の譜代大名中心から雄藩(徳川斉昭、松平慶永ら)との連携方式に移行させ、斉昭を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。斉昭はたびたび攘夷を強く唱えた。しかしこれは、溜詰の筆頭であり、また自ら開国派であった直弼としては許しがたいものであった。直弼ら溜詰諸侯と阿部正弘・徳川斉昭の対立は、日米和親条約の締結をめぐる江戸城西湖の間での討議で頂点に達した。このため斉昭は阿部に、開国・通商派の老中・松平乗全(直弼とは個人的に書簡をやり取りするほど親しかった)、松平忠固の2名の更迭を要求した。安政2年(1855年)8月4日、阿部はやむなく両名を老中から退けた。直弼は猛烈に抗議し、溜詰の意向を酌んだ者を速やかに老中に補充するよう阿部に迫った。阿部はこれまたやむなく溜詰の堀田正睦(開国派、下総佐倉藩主)を老中首座に起用し、対立はひとまず収束したが、これは乗全、忠固の罷免に対して直弼を筆頭とする溜詰諸侯が一矢報いた形といえる。安政4年(1857年)6月17日に阿部正弘が死去すると、堀田正睦は直ちに松平忠固を老中に再任し、幕政は溜詰の意向を反映した堀田・松平の連立幕閣を形成した。さらに直弼は第13代将軍・徳川家定の継嗣問題で紀伊藩主の徳川慶福を推挙し、一橋慶喜を推す一橋派の徳川斉昭との対立を深めた。松平忠固や水野忠央(紀州藩付家老、新宮藩主)ら南紀派の政治工作により、安政5年(1858年)4月23日、直弼は大老に就任した。大老就任の直接のきっかけは、4月21日、孝明天皇からの条約勅許獲得に失敗した堀田正睦が戻り、将軍徳川家定に復命した際、堀田は松平春嶽を大老に就けてこの先対処したいと家定に述べたところ、家定は「家柄からも人物からも大老は井伊直弼しかいない」と言ったため、急遽直弼を大老とするよう将軍周辺が動いた。4月22日には将軍側近の薬師寺元真が直弼邸を訪問し、大老就任を説得している。直弼は勅許なしの条約調印に反対であった。6月中旬、清でアロー号事件が休戦となったことをきっかけにハリスが神奈川沖まで軍艦でやってきて即時調印を要求し、それを受けて6月18日に行われた幕閣会議でも、直弼と若年寄本多忠徳のみが勅許を得てからの条約調印を主張した。急ぎ勅許を得る間、ハリスとの交渉を引き延ばすよう交渉するため、下田奉行の井上清直と目付の岩瀬忠震をハリスのもとに派遣したが、即刻の調印を目指していた井上・岩瀬は、やむを得ない場合は調印していいかと直弼に尋ねると、直弼は「その場合は致し方ないが、できるだけ引き延ばすように」と回答。これを受け、井上・岩瀬は調印の承諾を得たとみなして、ハリスのもとに行くとその日のうちに調印した。こうして、孝明天皇の勅許を得られぬまま、6月19日にポーハタン号上でハリスとの間に日米修好通商条約が調印される。これが違勅調印であるとして、一橋派から攻撃を受ける。家定の継嗣問題では同月25日に徳川慶福を後継に決定し、慶福は名を徳川家茂と改めて同年12月1日、征夷大将軍(第14代)の宣下を受けた。直弼の対応に憤った水戸藩士らが朝廷に働きかけた結果、孝明天皇は、安政5年8月8日、戊午の密勅を幕府の他、水戸藩にも下して幕府政治を非難した。これは、幕府の立場から見ると、江戸時代の幕藩体制を無視した行為であり、社会秩序の崩壊につながる行為である。前代未聞の朝廷の政治関与に対して、幕府は厳しい態度で取り調べを進める。長野主膳からの報告により、直弼は戊午の密勅の首謀者を梅田雲浜と断じ、京都所司代酒井忠義に捕縛させ、安政の大獄の端緒を開いた。直弼はまた、無勅許調印の責任を自派のはずの堀田正睦、松平忠固に着せて両名を閣外に逐いやった。代わって太田資始、間部詮勝、松平乗全の3名を老中に起用し、尊皇攘夷派が活動する騒擾の世中にあって、強権をもって治安を回復しようとした。さらに、水戸藩に密勅の返納を命じる一方、間部詮勝を京に派遣し、密勅に関与した人物の摘発を命じる中で、武力による倒幕など反体制的な行為の計画が露見したことから、多数の志士(橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎など)や公卿・皇族(中川宮朝彦親王)らを捕縛し厳しい取り調べを行った。また、無断で江戸城に登城した一橋派の一橋慶喜、徳川斉昭、松平慶永らを処罰し、直弼の意に背いてハリスと条約調印した岩瀬忠震や川路聖謨、水野忠徳、永井尚志らを左遷した。そして、閣内でも直弼の方針に反対した老中・久世広周、寺社奉行・板倉勝静らを免職にした。更に太田資始、間部詮勝の両老中も罷免し孤立を深めた。こうした政治は、尊王攘夷派など反対勢力の怨嗟を受けた。安政6年(1859年)12月、直弼は若年寄の安藤信正を水戸藩主・徳川慶篤の下に派遣し、戊午の密勅の返納を催促した。この催促は数度にわたって続けられ、遂に慶篤は父の斉昭と相談の上、勅を幕府に返納することにした。ところが水戸藩の士民(特に過激派)が激昂して勅の返納を阻止あるいは朝廷に直接返納すべきとして混乱する。安政7年(1860年)1月15日、直弼は安藤信正を老中に昇進させ、この日に登城した慶篤に対して重ねて勅の返納を催促した。そして1月25日を期限として、もし遅延したら違勅の罪を斉昭に問い、水戸藩を改易するとまで述べたという。これが水戸藩の藩士を憤激させるのに決定的となり、2月に水戸藩を脱藩した高橋多一郎や関鉄之介らによって直弼襲撃の謀議が繰り返された。水戸藩脱藩浪士らの不穏な動きは幕府も関知はしており、2月下旬にはかつて水戸藩邸に上使として赴いたことがある松平信発が直弼を外桜田邸に訪ね、脱藩者による襲撃の恐れがあるため、大老を辞職して彦根に帰り、政情が落ち着いてから出仕すべきと勧めた。また辞職・帰国が嫌ならば従士を増やして万一に備えるように述べるも、直弼は受け入れなかった。3月3日5ツ半(午前9時)、直弼を乗せた駕籠は雪の中を、外桜田の藩邸を出て江戸城に向かった。供廻りの徒士、足軽、草履取りなど60余名の行列が桜田門外の杵築藩邸の門前を通り過ぎようとしていた時、関鉄之介を中心とする水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士の有村次左衛門の計18名による襲撃を受けた。最初に短銃で撃たれて重傷を負った直弼は駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠を守ろうとした者も刺客に切り伏せられた。刺客は駕籠に何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねた。享年46(満44歳没)。この事件を桜田門外の変と呼ぶ。この日、彦根藩側役の宇津木左近は、直弼の駕籠を見送った後、机上に開封された書状を発見した。それには、水戸脱藩の浪士らが襲撃を企てている旨の警告が記されており、宇津木が護衛を増派しようとしたとき、凶報がもたらされた。墓所は井伊家の菩提寺である豪徳寺(東京都世田谷区)。また茨城県水戸市所在の妙雲寺には直弼の慰霊碑が建てられている。また、当時彦根藩の飛び地領であった下野国佐野(現在の栃木県佐野市)の天応寺でも祀られている。直弼が襲われた場所でその血が染みこんだ土をその家臣たちは俵に詰めて彦根に運び、天寧寺(彦根市)に納め、後世そこに供養塔を建てた。混乱を恐れた幕府によって暗殺は秘密裡とされ、表向きには直弼は負傷によりしばらく休養とされた。そのため墓所に記された没日も実際の3月3日とは異なり、表向きは3月28日を命日としている。直弼は3月晦日に大老職を正式に免じられ、閏3月晦日にその死を公表された。跡を次男・井伊直憲が継いだが、これも3月10日に幕府に嫡子とする旨を届けながら4月28日に至ってようやく家督相続を許されるほどであった。なお、文久2年、文久の改革で反直弼派であった一橋派が政権をとると、彼らは直弼の政治を咎め、文久2年(1862年)11月20日、幕命により彦根藩は10万石減封されている。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。