名寄本線(なよろほんせん)は、日本国有鉄道(国鉄)、北海道旅客鉄道(JR北海道)が運営していた鉄道路線(地方交通線)。北海道名寄市の名寄駅で宗谷本線から分岐し、上川郡下川町・紋別郡西興部村・同郡興部町・紋別市などを経て紋別郡遠軽町の遠軽駅で石北本線に接続する本線と、紋別郡上湧別町の中湧別駅で本線から分岐し同郡湧別町の湧別駅に至る支線から成り立っていた。国鉄再建法の施行により第2次特定地方交通線に指定され、JR北海道に承継されて2年余り後の1989年5月1日に廃止された。なお、廃止された特定地方交通線の中では唯一、「本線」を名乗っていた。廃止時廃止直前の1989年3月11日改正時点では普通列車のみの運転であったが、一部の列車は、一部の駅を通過して運転していた。また、旭川に直通する列車は、宗谷本線内では快速として運転していた(関連記事を参照。これは札幌駅まで直通していた急行「紋別」の後身であった )。全線通しの列車が多く遠軽に向かうほど本数が増え、1-3時間に1本程度運転されていた。1989年3月11日改正時点の各区間の運転本数は以下の通り。湧別-中湧別間は、1986年3月3日改正時点では夕方の上り列車が湧別発中湧別行きであるほかは湧網線(1987年3月20日廃止)と直通運転していたが、1986年11月1日改正で中湧別発着列車は遠軽方面との直通運転になった。遠軽駅の上り始発は4時台、紋別駅基準で下り最終は22時台で、遠軽駅において札幌発着の石北本線の夜行列車(1986年3月3日改正時点では急行「大雪」3・4号、1989年3月11日改正時点では急行「大雪」)と接続していた。名寄本線は、北海道鉄道敷設法に規定する「天塩国奈与呂ヨリ北見国網走ニ至ル鉄道」の一部であり、道央とオホーツク海沿岸方面を結ぶ幹線鉄道として建設されたものである。湧別軽便線(ゆうべつけいべんせん)の延長として、1915年に野付牛(現在の北見駅)方面(下生田原、現在の石北本線安国駅)から社名淵(後の開盛)へ延長された路線を発端とする。国有鉄道の軽便線は、軽便規格とはいいながら他路線と同じ軌間1067mmで建設されたが、湧別軽便線だけは、軌間762mmであった。翌年(1916年)には、軌間1067mmに改軌されたが、私鉄買収線を別にすれば国有鉄道が軌間762mmで建設した唯一の例である。この年、社名淵 - 下湧別(後の湧別)間が軌間1067mmで延伸開業し全通。1922年に軽便鉄道法の廃止により湧別線(ゆうべつせん)と改称された。一方、名寄 - 中湧別間は難所であった石北峠・北見峠を避けて、名寄方は名寄西線(なよろさいせん)、中湧別方は名寄東線(なよろとうせん)として両側から建設が進められ、1919年から1921年にかけて名寄線(なよろせん)として全線が開通した。1923年に支線(渚滑線)の開業に伴って名寄本線と改称している。1932年に北見峠を克服して石北線(当時の名称。1961年に石北本線と改称)が全通すると湧別線は遠軽を境に分割され、遠軽 - 下湧別間は名寄本線に、遠軽 - 野付牛間は石北線に編入された。同時に、名寄本線は幹線鉄道としての役目を石北線に譲ることとなった。1980年に国鉄再建法が成立すると、第2次特定地方交通線に指定されたが、冬季の代替輸送に問題があるとして天北線・池北線・標津線(長大3線)と共に一時、廃止承認が保留された。しかし、結局1985年に問題が無くなったとして追加廃止承認された。国鉄分割民営化後、比較的乗降客数が多かった名寄駅 - 下川駅と紋別駅 - 遠軽駅間を第三セクター化して部分存続させる案が浮上したが、。結局、鉄道としての存続は断念され、1989年4月30日の旅客営業を以って全線廃止となった。接続路線の事業者名・駅の所在地は、名寄本線廃止時点のもの。名寄本線廃止以前に廃止された路線は、その路線の廃止時点のもの。全駅北海道に所在。※()内は実キロ。営業キロの設定はされていなかった。
出典:wikipedia
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