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松浦武四郎

松浦 武四郎(まつうら たけしろう、文化15年2月6日(1818年3月12日) - 明治21年(1888年)2月10日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家、浮世絵師、好古家。名前の表記は竹四郎とも。諱は弘。雅号は北海道人(ほっかいどうじん)、多気志楼など多数。蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案した。文化15年(1818年)、伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて郷士・松浦桂介ととく子の四男として生まれる。松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ来たといわれている。別書では、代々百姓で、父・桂祐の次男として生まれたとしている。父親は庄屋を営んでおり、比較的恵まれた中、文化的な素養を身に付けたとされる。13歳から3年間、平松楽斎(漢学者・伊勢津藩士)のもとで学び、猪飼敬所、梁川星巌らと知己を得る。山本亡羊に本草学を学び、16歳から諸国をめぐった。天保9年(1838年)に平戸で僧となり文桂と名乗るが、故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり天涯孤独になったのを契機に、弘化元年(1844年)に還俗して蝦夷地探検に出発する。1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し、その探査は択捉島や樺太にまで及んだ。蝦夷では詩人の頼三樹三郎と旅することもあった。安政2年(1855年)に蝦夷御用御雇に抜擢され再び蝦夷地を踏査、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。明治2年(1869年)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名(当初は「北加伊道」)を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定した。翌明治3年(1870年)に開拓使を批判して職を辞し、従五位の官位も返上した。この間、北海道へは6度赴き、150冊の調査記録書を遺した。余生を著述に過ごしたが、死の前年まで全国歴遊はやめなかったという。天神(菅原道真)を篤く信仰し(天神信仰)、全国25の天満宮を巡り、鏡を奉納した。好古家としても知られ、縄文時代から近代までの国内外の古物を蒐集し、64歳のときには、自分を釈迦に見立て古物コレクションに囲まれた「武四郎涅槃図」を河鍋暁斎に描かせている。また、明治3年(1870年)には北海道人と号して、「千島一覧」という錦絵を描き、晩年の68歳より富岡鉄斎からの影響で奈良県大台ケ原に登り始め、自費で登山道の整備、小屋の建設などを行った。明治21年(1888年)、東京神田五軒町の自宅で脳溢血により死去。遺骨は染井霊園の1種ロ10号2側に埋葬されているほか、武四郎が最も好きだったという西大台・ナゴヤ谷に明治22年(1889年)に建てられた「松浦武四郎碑」に分骨されてもいる。なお、生地の三重県松阪市小野江町には、生家のほか、武四郎の遺した資料を保管する「松浦武四郎記念館」がある(平成6年(1994年)開館)。また、公益財団法人静嘉堂文庫には、武四郎が収集した古物資料約900点が保存されている。武四郎が1886年に五軒町の自宅の片隅に造った一畳敷の書斎が、国際基督教大学の敷地内にある実業家・山田敬亮(日本産業重役などを務めた)の別荘「泰山荘」の茶室に移築されている(国の登録文化財「泰山荘高風居」)。武四郎が記した目録『木片勧進』によると、法隆寺、熊野本宮、春日大社、久能山稲荷神社、伊勢神宮外宮、東福寺仏殿といった全国の社寺の白鳳時代から江戸時代後期に渡る古材を譲り受けて組み上げたもので、武四郎は「死んだら一畳敷を解体してだびに付してほしい」と遺言したが、死後、徳川頼倫の南葵文庫に移築、その後代々木上原の徳川家別邸「静和園」の茶室「高風居(気高い人の住まいの意で、武四郎を称えて命名)」に移され、さらに三鷹の山田敬亮別荘に移築され、戦時中に同別荘地を買い取った中島飛行機が戦後に大学用地として売却したことから同大学キャンパス内に保存されることになった。学祭期間中のみ特別公開される。毎年2月最終日曜に、松浦武四郎記念館をメイン会場とした「武四郎まつり」が開催されている。

出典:wikipedia

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